木曜日, 6月 30, 2005

おしゃべりなプログラム

雨が降りそうで降らない曇り空は
なんだかはっきりしなくて、
ぱっと降ってくれたら良いのに、と思います。
関東地方の涼しい梅雨が体に合っていて好きです。

printf("")という命令があって、
これはプログラムが画面に文字や数字を出すためのものです。
この命令、処理が重いのであまり好まれない、と書いてある
解説書を良く見かけますが、
とても便利な命令です。

計算コードを作るときには、
計算機が「今何を考えているか」を知りたくなるときがあります。
ダンプ=dumpと呼ばれる作業で、
最終的に得たい結果ではない
プロセス途中のある数字や分岐を画面やファイルに出力して、
うまく処理が進んでいるかを人間が確認します。

dump作業では、
「何をしゃべらせるか」を決めるのが大切です。
でたらめに処理の結果を全て出力せず、
特徴的な変数に絞ってチェックしないと、
たとえば100万回のループの結果は人間が読めないからです。

普通の計算機はおよそどんな変数でもdumpができますが、
実時間計算機の場合は、
dumpすることで遅延が生じて
処理結果が変わってしまうことがあります。

プログラムを作るときには、
できるだけ「おしゃべりな」プログラムを作るようにしています。
しばらく時間を空けてしまって久しぶりに使うときでも、
おしゃべりであれば思い出させてくれるからです。

水曜日, 6月 29, 2005

作用と反作用

目から入る情報の方が多いはずなのですが、
どうも耳で聞いたことのほうが
覚えやすいのだそうです。
会話は大事だと思う今日この頃です。

太極拳のようなゆっくりとした動きを見て、
なぜゆっくりとした動きがトレーニングになるのかと
ずっと前から考えていました。
陸上競技をしていた友達の話を聞くと、
筋力というのは全力の80%で10回反復を繰り返すとか、
とにかく力が入るトレーニングが必要だと言うのです。

わたしは体が固くて、
あまり屈伸ができないのですが、
曲げられないのは文字通り【固い】だけではなくて、
伸ばすべき筋肉にまで力が入るのを
止められないからではないかと
考えるようになりました。

純出力とは、
作用と反作用の差で表されていて、
どんなに作用が強くても
抵抗するものが大きければ外に出力されないものです。
そこでゆっくり体を動かすと、
力を入れてはいけないほうの筋肉は
抵抗しないように調節することができるような気がしています。

とかく気合と根性が大好きな日本人ですが、
物理屋はロジックで攻めてみたいと思います。

月曜日, 6月 27, 2005

人生を一単位

週末は恵比寿へ出かけました。
恵比寿には福岡にいるころ旅行で来たことがあって、
一人ビールを飲んだのを覚えています。

近頃、「実体化する」という言葉が好きで
自分のキーワードのようになっています。
今の意識を人に伝える、
理想を見つけて行動にしてみる、
そのことに今はよく集中しています。

ここ数日、家で朝を迎えていないせいで
ニュースも新聞も頭に入っていなくて、
ネットのニュースにもアクセスしていなくて、
今日世界で何が起こったかを知りません。
ところがいつもより心は穏やかです。

この意識になったのは外国に出張したときで、
3週間何のテレビも知らず、事件の話もしらない
自己評価では「世間ずれしている」状態のはずなのに、
特に困ったことが起こらなかったことに
端を発しています。

本当に大事な出来事と、そうでない出来事が
いつも幕の内弁当のようにバランスよく用意される朝晩のニュースを、
社会人になったらちゃんと見ないといけない、と
よく思っていました。

しかしニュースの中には
殺人事件とかが大きく取り上げられるわけで、
その事件は局所的に起こった「ある話」であって、
国家政策のような「自分に関係のある話」ではないのです。

政治に不満があれば、
毎日憤懣やるかたない思いを抱いて生活するよりも
数年に一度の選挙で
地元の代表者を良く調べて選びなおすほうが大事だし、

酒税のバランスが変わって困ったことになったら
安い酒を買うようにしてしまえば良いし、

フランスの核実験に文句をつけたかったら
輸入商品を買わないようにするか
新聞社に投書を殺到させれば良いし、

どこかの殺人事件が起こったら、
自分には気のおけない友人がいてくれて
よかったと感謝すればそれで十分だ、と
最近思っています。

ニュースは世界の「ある情報」を提供しますが、
「それを聞いたら行動に反映できる」とは限らないのです。
そして何かをしなければならないと思っているのに
自分には何もできないという無力感を蓄積する必要は
特にないんじゃないかと最近考えています。

人は自分にできることしか実体化できず、
どんなに頑張っても自分の一歩先までしか
行動を拡張できません。

日本が揺れていて、エネルギーがあったと評されている
安保闘争の1970年でさえ、
大局的に見れば
都市に住む一部の若者が蜂起した話です。

徒党を組まなければ行動ではない、
もしそんな意識があったとしたら、
いつまでたっても人は集まらないような気がします。

最近の人には団結力がないと評されたとして、
それが本当であったとしても、
個人ができることを選択して行動すれば、
その結果は勝手に積分されて民意になっていくのです。

人間は世界のサイズに比べれば小さいので、
一人で世界の全てを知ることも、
世界の全てを救うこともできません。

地球の裏側の事件にまで神経を張り巡らせようとして
毎日心を痛め続けることも大切かもしれませんが、
目の前に流れている一つの曲を聴きながら
自分の思い出をそっと取り出してみることも
同じくらい大切なことだと今は思っています。

世紀末思想では
自分は明日にも死んでしまうのではないか、と
毎日思いながら本気で心配を募らせた時期もありました。
今でも明日はないかもしれない、と思い、
同時に明日はあるのかもしれない、とも思っています。

金曜日, 6月 24, 2005

本能に「従う」

かなり夜型の生活になっているようで、
夜中と明け方に起きています。
その代わり夕方6時ぐらいに一度眠ります。

時々本能というものについて考えます。
特に気になっているのは、
欲の中に本能は含まれるが、
本能の中に欲は含まれないだろう、という考え方です。

本能の説明で出会うのは、
例えば道徳や生物学、心理学などで、
人間には生まれながらにして持つ本能的な欲求がある、
例えば食べることとか眠ること、性に興味を持つことというくだりで、
この付近だけを読んでいると
本能=欲求のような気がしてきます。

しかしいろいろ調べていくと、
生き物は「その種が生き続けること」に忠実であることが
本能の意味であると思い至るようになって来ました。

たとえば、
食欲は欲求であるけれども、
野生の生き物は食べ過ぎたりしないのは
行動力がなくなれば生き残れないからだという認識であって、
食べ物が少ないから、という理由ではないと思うのです。

たとえば、
社会性や知性というのは高次の理性だと思われていますが、
社会性は種が生き残るための手段であって、
発明のようなものとは異なります。

種が生き残るための条件として、
種が進化して強くなるか、
環境を変化させて生き残りやすくするかを
選択している、と考えると、
恐竜は前者で人間は後者です。
少なくとも人間の体は特別な進化をしていません。
そして環境を変化させる能力を得ることこそが
進化の過程で選ばれた一形態なのかも知れず、
理性とはやはり本能の一部だと思っています。

欲とは人間が生きるために必要でないことさえも
目的化してしまった事まで含みうるので、
欲に従うことと、本能に従うことは
本質的に異なるように思います。

生きるために一生懸命考える、
これは本能に忠実に従っていることであると思っています。
そして難しい時代と言われている中で、
欲ではなく本能に従う必要が増えてくれば、
もっと人は自由な気分になれるかもしれません。

木曜日, 6月 23, 2005

グリコのおまけ

太陽の塔です。

「建築を語る」の本の中に出てくるもので、
最初は変なイメージだと思っていたのですが、
だんだん面白みがある印象に変わってきました。
大阪に行ったときには見てみたいなと思っています。

火曜日, 6月 21, 2005

Mr. Steak

出張先でレーザーが出力されたときに
夜9時からすごい勢いで作ったステーキです。


一人400gあります。
新鮮な夏野菜とマッシュルームのソースを添えました。
3人とも見事に完食でした。

いつからかわたしは「肉料理役」になっているようで、
といってもステーキを焼くだけなのですが、
それ以外の料理番が回ってきません。

日曜日, 6月 19, 2005

「動物」実験 後編

日本なのに「その家のカレー」というべきものが
各家庭あるいは各個人にあります。
わたしの「カレー」は
ゴールデンカレーの中辛で牛すじ肉を煮込んだものと
決まっています。

ゴールデンカレーはほとんどCMに出ない商品で、
これが一番という人を聞いたことがないのですが、
この間偶然ゴールデンカレー中辛好きの同志を見つけて
大変嬉しくなりました。

さて後半です。

■5/8case1:試験的治療における医療の現場から
「脳低温療法」片岡喜由を読んでいると、
試験段階にある治療である低体温療法についての
記述がありました。
文中で、重篤症状に陥った患者の状態回復に
脳低温療法が有効である確証があり、
これを正式な保険適用医療にするために
治験を行わなければならないが、
治療が成果を上げていることを数値的に示すには、
「コントロール群」と呼ばれる、
治療のための手段以外の条件を等しくした群での
結果をあわせて測定しなければならない、というくだりがありました。
このとき、コントロール群には
重篤症状でありながら脳低温療法を「意図して行わない」ことになり、
最善を尽くすのが医療である趣旨に反するから
治験が成立しなくて苦労している、と続いていました。

有効な確証があるのなら
治験を例外的に免除できないか、と
考えるかもしれませんが、
脳低温療法にしても
「なぜうまく行くのか」「どれくらいうまく行くのか」を
定量的に記すことができない限り、
リスクを見積もりながら応用することができません。
試験段階で新しいことに挑戦しないのは失敗ですが、
応用段階で新しいことに挑戦するのは準備不足です。
情報を残す、ということは、
後の人がリスクを負わないよう責任と検証義務を負う事です。

■6/8case2:放射線安全において被爆者が果たした役割
現在医療や放射線物理で広く使われている
放射線の安全規定は、
原爆によって受けた放射線量をシミュレーションで検証し、
被爆した方の治療成績と照らし合わせて、
安全な被爆量の上限を定めています。
わたしたちは陰に陽にこれらの方々の恩恵と、
その現場でデータを集め続けた方の努力を受けているからこそ
大きな事故がなかなか再発しないのです。

「おかげさま」という言葉があって、
これは自分に良い影響を与えてくれたけれども
自分の意識に及んでいない方全てを指すと思っています。
そしておかげさまは現在生きている人だけでなく、
過去に結果を残してくれた人を含めていたいと思います。
そのうえで、現代の人間は
「後世の人間のために」何らかの結果を残さなければなりません。
安全に暮らし、罪に手を染めない行動に終始するだけでは
責任を果たしたことにはなりません。

■7/8人間と動物の優先度に差をつけるか
どのような宗教であっても、
人は生きていく過程で罪を負う、ということを
説明しています。
これは神の存在を証明することで説明するのではなく、
生きるために食べる、という具体的行動の中に
血を流して動物の命を頂く事に対する
厳粛な気持ちを持ちたくなる、ということなのだと思います。

この意味で、動物だから知性が低い、
人間だから高尚である、という意識を一度外して、
人も生き物であり、
生き物は生きること自体が目的化した存在である、
だから人間は生きるために他の存在を使わせてもらう、という
事実に正直に向き合うことができれば、
欲や美という「人間が定義したもの」から
距離を置くことができると考えます。

8/8結論:賛成と反対という2極を超えて
最後にこのテーマに対する
自分の結論を述べなければなりません。
動物実験は賛成か反対か、
どちらかを必ず選べと聞かれたら
わたしは賛成をとります。
動物でなく人自身で実験をするわけにはいかないからです。
それが、「生き物はその種が生き続けることを目的とする」ことに
忠実に従い、人という生き物が性質として持つ
社会性に沿うことだと考えるからです。

しかし賛成をしたからといって、
文字面だけ見て、どんどんやりなさいと
奨励しているわけではありません。
わたしたちは動物の命によって自らの命を
安心させていることに感謝しなければなりませんし、
自分たちが厳粛な気持ちをもって
生き物の命を使わせてもらう事実の重みとその痛みを
自らが進んで引き受けなければなりません。
それが「共感する」という性質を持った人間の意思に
矛盾しない方法だと思っています。

動物実験を行う部局には慰霊碑があり、
決まった時期にそれらの命に感謝を捧げます。
気持ちには形がないからこそ、
こういった目に見える表現も必要です。

そして科学という、
再現可能な事実のみを残していく
使命を負ったものは
捧げられた命から最大の結果を引き出すよう
努力しなければなりません。
その結果は世界に対する偏見や疑問から
自らを解放し、一人の人間として
この世界を見つめる手段を提供するでしょう。

以上、動物実験に対する意見を終わります。

水曜日, 6月 15, 2005

「動物」実験

普段あまりテーマに沿った思考はしないので、
議論が広がりそうなテーマ「動物実験」について
考えを展開してみようと思います。

目次:
1/8「動物」でなければいいのか
2/8化粧は必要なのか
3/8動物「愛護」の立場から
4/8動物実験の必要性
5/8case1:試験的治療における医療の現場から
6/8case2:放射線安全において被爆者が果たした役割
7/8人間と動物の優先度に差をつけるか
8/8結論:賛成と反対という2極を超えて

■1/8「動物」でなければいいのか
動物実験反対の運動というのは、
主に都会の駅前などで展開されているものを目にします。
刺激性の実験のために角膜を観察されるウサギや、
毒性実験のために大量の医薬品を注入されるマウスなどの写真は
どれも目を背けたくなるものばかりです。

目を背けたくなる理由は、動物は人間と「同様の」
生体システムを持っているため、
刺激や痛みに対して反応する動作が
苦しそうに感じられるためです。

ベジタリアンという、動物食をしない人たちは
野菜を食べるか、ガンジーのようであれば
果物とミルク以外を口にしないと言います。
しかし野菜や果物の細胞は生きているわけで、
殺生をしていないかということにはなりません。
細胞で実験をしても、植物で実験をしても
生命を利用していることに変わりはありません。

「せめて動物での実験はやめておこう」という意識と、
「動物は明らかにかわいそうだからやめておこう」という意識は
分けられなければならないと思います。
「動物だから可愛い」というのはあくまで人間の主観です。

■2/8化粧は必要なのか
主題が「化粧品の動物実験」に限定されているので、
「化粧品はあくまで生存に必要ない嗜好品であって、
人間の都合のために生命を犠牲にしてはならない」という暗喩を
どう捉えるかどうかが論点のひとつになると考えます。

生存の意味には2種類あって、
人間という種で現在生まれているものが生き残る、というタイプと、
自分の遺伝子を後世に引き継ぐ、というタイプがあります。
社会的立場からの人間は前者として捉えますが、
生物的立場からは後者として捉えます。

女性が美しく飾りたいと思うのは
自分の種を残すのに理想の相手を捕まえたい
欲求に動かされている側面を持っており、
理不尽と呼ばれていても美しいものを
選別するシステムが機能し、
それに命をかけている人がいる以上、
化粧に対する欲求が失われることはないと思います。

■3/8動物「愛護」の立場から
可愛がる、という感覚は擬人的なもので、
動物なら何でも可愛いと心から言える人が
動物愛護というのは当を得るのですが、
マスコットのような動物だけを愛護することを
現実には指しているのではないかと思います。
クジラを保護しようという理由は、
クジラには高い知性があるからと答える人がいますが、
知性の定義は人間が定めたものであって、
学習能力は崇高さの指針でもなんでもありません。

■4/8動物実験の必要性
それでも動物で実験を行わなければならないのは、
試験管実験や非生物実験では
どうしても分からないことがあるからです。
人間でさえも治験という形の人体実験が
日々行われています。
そして人間そのもので医薬品テストができないと
決めてしまうからこそ、動物が援用されるのであって、
動物実験を廃止してしまうなら
健康にリスクの高い物質に囲まれ、
悲惨な結果が起こることを覚悟しなければなりません。

およそ全ての実験には二つの種類があり、
ひとつは「何かが起こる可能性」を調べること、
もうひとつは「何かが起こる確率」を調べることです。
ある薬品が毒物であると発見される段階が最初ですが、
その後は「毒であると分かっているもの」を意図的に試験体に与え
どの程度の影響があるのかを定量的に調べなければ
科学的に何かを解明したことにはなりません。
一般に動物実験で「無用に大量の動物が試験される」と
喧伝されるのはこの精度検証に使われる動物たちのことです。
また、役に立つが毒であることが分かった場合、
それを無毒化する方法を探しているうちに
新しい使い方が見つかることもあります。

続きは次回。

社会は厳しいと誰が決めた

いつも取り扱いに困る書類が出てきたので、
手動式シュレッダーなど買ってみました。


情報の取り扱いを今になって「情報化社会になった」と表現されるのですが、
人の歴史はその始まりからすべからく情報化社会です。
人間が自然に対する本能的な記憶を消してしまったのは、
狩猟時代から宇宙時代まで、劇的に変わりうる生活スタイルに
いつも「その世代が」生きている間に順応できるよう
固定観念を振り払ったからではないかと思っています。

小さい頃から、自分よりも年上の人たちは、
本当に口を揃えて「社会は厳しい」という言葉を話していました。
そしてわたしは、「だったら厳しくしなければいいのに」と
ずっと思い続けてきました。

人は共通のある目標に向かうときには
協力者として人を求めますが、
拮抗するような目標が与えられた場合は
挑戦者として人を排除します。

機械や電子頭脳がする仕事を人の数に直すと、
おそらく今の地球は6兆人分とかそれよりはるかに多い
労働力があります。
人が工場制手工業を思いついた時点で、
人の労働力が人数の一次に比例しないことに気がついています。

人は集まると、
あっという間に労働力が過剰になってしまうのです。
だから機械がなくても
巨大なギリシャ文明もエジプト文明も成立したのです。

そうすると、本当は
生きていくだけなら厳しくはないはずなんです。

自然淘汰のシステムはこれと別に機能します。
住む土地が変わっても、文化が変わっても、
生きていければ良いと決めてしまえばいいのに、
自分の文化や過去や、たくさんのものに
自分のよりどころを求めようとします。
「できるだけたくさん持とう」とするのです。

物を捨てるのが苦手だったわたしが
物を捨てられるようになったのは、
もう生産力は過剰であること、
簡単に生産力は過剰になることが身にしみて分かったからです。
捨てないと作っている人が困るのです。

競争はしない、自分はただ興味のためにやっているのだと
時々話をすると、
それはできる人が言うきれいごとだ、という返事が
時々返ってきます。
この言葉はある種の正しさを含んでいて、
それは自分が下手でもずっと続けられるだろうか、と自問するときに
もしかしたらやめてしまうかもしれない、と
どこかで感じるからです。

自分は勝つことが喜びではない、と
表現しなければならなかったのかもしれません。
めぐりめぐってこの話は、
社会は厳しくないようにしよう、という目標を立てたいなという
わたしの願いになります。

火曜日, 6月 14, 2005

受け入れられなかった

麺は蕎麦が好きなのですが、
うどんと蕎麦を売っている店ではうどんを食べます。
解凍を経るとこしが少ないそばは食感が変わってしまうので、
冷凍そばはまだまだ生めんに及ばないのです。

かといってうどんの生めんも
おいしいものに当たれば
実は冷凍とずいぶん食感が違うことに気がつきます。
小麦の香りもほんのりするのです。

危機的状況から奇跡の再建、という記事を
時々目にします。
奇跡という言葉が使われていますが、
最近はなんとなく奇跡ではないような気がしています。

レトリックのようですが、
危機に陥った組織を作るには、
まず、とにもかくにも人が集まって組織を作ることで、
作ること自体が大変です。
人が集まっていて、指令系統があって、
動きは鈍いけれどインフラがある、
つまりお金の面では足りないけれど、
その他の面ではたくさん持ちすぎてさえいるのです。

まず危機的状況からの回復をするには、
まず社員全員が[危機であり、自分が対処する]という
認識を受け入れる必要があります。
危機の兆候を感じられないために
気がついたら回らなくなってしまった、ということはあります。
主に「あの頃は」という気持ちがいつしか固定されてしまい、
現状が見えなくなってしまうのだと思っています。

外国の社長、新しいアイデア、組織の改変は
それが普遍的な力を持つことよりも
「皆が新しくなったことを受け入れた」ことが大切だと思います。
組織というのは縦割りだろうが横割りだろうが、
もともとどちらにも弊害はあるのです。

終身雇用がなくなって将来が不確定になった、
転職したら給料が下がった、ということは
自分にも起こりうる話だと思いますが、
それでどうにもならないと行き詰まりに思ってしまうのではなくて、
受け入れた上でなにか考えてみるということが
いつもできたら良いのになと思います。

何かを受け入れるというのは、
ずいぶん難しい話のようです。

ひとまず名前をつけておく

ステンレスを打ち出した食器を見ると
アジアのイメージが強くなります。

砂糖とクリームをたくさん入れてコーヒーを飲みます。

木の文化、磁器の文化があるのに
なぜ[ステンレス]が選択されたかというのが面白いところです。
ちなみに日本では、
金属食器といえばアルミです。

現場でどんなに当たり前だと思うことでもメモを取るのは、
将来の自分が他人のようになってしまうためで、
一人申し送りのような気分がします。

閉じた空間で生産的な仕事をするためには、
外の世界の情報が必要なのです。

土曜日, 6月 11, 2005

数学世界には地図がない

計算機シミュレーションの続きをしています。
計算をするときに、どうしても昔のパソコンの計算能力が気になって
大きくて計算量のあるコードは
できるだけサイズを小さくしようと
自分の中でプレッシャーがかかるのですが、
現代は10年前のの数十倍の能力があるパソコンになってしまっていて、
昔数週間かかった計算が1日で解けます。

ニュースで、
日本人は数学が好きではないという調査結果を見ました。
わたしは研究をしながら、
でも数学は今ひとつ馴染みがありません。
原理的にわかりにくいだけではなく、
大まかに教えてくれないからだと最近考えています。

Mathematicaというパソコンソフトがあって、
これを使うと微分方程式だろうが超関数だろうが
論理的に計算してくれるのです。
これはどういうことかというと、
解き方には機械が分かるほど明確な[筋道]がある、
ということを示しています。

数学を解くときには、
頑張って演繹しなさい、というのが常で、
どうしてもパズル問題のようにしか教えられません。
それで困って教科書を開くと、
難解な定義から始まって読む気になりません。

知らない土地を歩くときに
必要となるのはひと目で分かる地図であって、
知らない土地の人口や民族の成り立ちはそのあとの話です。

知らない言葉を話したいときに
必要となるのは単語が書いた辞書であって、
文法とかはそのあとの話です。

日本の数学は
分かりやすく説明する努力に欠けていると思います。
[公式の証明]を易しくして欲しいのではなくて、
どうすれば答えが得られるかをいち早く知る方法です。
このためには複数の数学分野、
ラプラス変換やグリーン関数、複素関数の
おいしいところだけを横断的に集めて
それらの繋がりを示すことだと思っています。

そこで[微分方程式の地図]を作ってみました。
方程式の形を見たときに
分かっている解き方、便利な解法は
どの変換を経由するかを1ページに纏めています。
不完全ではありますが、
役立つ人がどこかにいるのではないかと思っています。
この地図を元に詳しい文献を当たれば、
たくさんの人が証明した定義にも行きつけます。

もし興味ある方はご連絡下さい。

水曜日, 6月 08, 2005

ジュラルミン色の世界

朝早く目が覚めて、
2杯分ぐらいのカレーを食べました。
夕方までそのまま仕事を続けています。

ロング・アイランド鉄道の電車は
全てジュラルミンの外装でした。

今度の移動はアメリカン航空だったのですが、
やはり機体はジュラルミン色でした。

BNL近くの駅です。

デジカメは日本製のものが世界中を席巻しています。

無駄なことはしない、という考え方で設計されたお陰で、
余計に白く塗装することがないのですが、
地金の色はちょっと冷たい感じがします。

鉄道では時々車内照明が消えます。
おそらくパンタグラフからの給電が時々途絶えているのですが、
誰も気にしません。
さらに鉄道なのに垂直方向に跳ねます。
線路のうねりとか高低差が調節されていないのです。

古い車体は左右にも共振し始めるので、
いつか脱線するんじゃないかと
気が気でなりませんでした。

ふと気がついたことですが、
ティッシュの取り出し口を覆っている
ミシン目は半分だけ開けて、
覆っていたふたの部分はティッシュの箱と
一体にして使っているのは
わたしだけでしょうか。

ふと気がついて、ふたの部分を全部外してみました。
すっきりしました。

呼吸を変えてから焦りがなく調子の良い1週間です。

2005年5月のカレンダーカードを持ち歩くことにしました。

1ヵ月31日全て何があったか思い出せるからです。

見かけで人を判断する

BNL近くのスーパーで買ってきた牛肉で
ステーキを2回作りました。
個人的には焼いてすぐ食べる焼肉が好きで、
近く行くチャンスがないかなと考えています。

たくさん荷物を増やしたくなかったので、
ジャケット一枚、Yシャツ4枚、
パンツ1本、スーツ1着を持って行きました。

シャツは白に細かいチェック、茶、黒、クリーム色でした。
面白かったのは、
着ているシャツの色によって
わたしの「見かけの国籍」が変化することでした。

白にチェックの場合、在米人、
茶と黒の場合、中国人、
クリーム色の場合、日本人
と思われることが多かったように思います。

人を見かけで判断してはいけない、とは
よく聞く台詞ですが、
言葉が互いに通じにくいアメリカでは
見かけ以上にすぐ人を判断する材料を得るのが
とても難しいため、
どうしても見た感じから直感を働かせるしかないようです。

もうひとつ、町を歩いていて思ったことは、
気難しそうな顔をした人が少ないことです。
快活そうな雰囲気を出していることが、
善良なアメリカ市民の証左であるという印象を受けました。
だから、ベンチなどで近くに座ったら、
必ず一言ぐらいは話しかけて笑顔を見せるのです。

人を見かけで判断してはいけない、
これは、大きな迷いの始まりかもしれません。

月曜日, 6月 06, 2005

写真日記

無事戻りました。

会場に展示したオレンジトーンのポスターです。


Best Westernの部屋はベッドが大きくて快適でした。


借りたレンタカーはヒュンダイのソナタでした。


ノックスビルの市街地の町並みです。


BNLに移動したコテージで、親日家の方に借りたという
炊飯ジャーです。


乾燥機は15分25セントでした。


マンハッタンにしょうゆラーメン屋さんがありました。


地震のない国らしい建物です。

金曜日, 6月 03, 2005

代理戦争

フッ素ガスの純度不足が原因だったようで、
F2レーザーは順調に稼動し始めました。
最終日目前で無事任務完了予定です。

私は時折、代理戦争の標的にされていると
感じることがあります。

以前報道のアルバイトをしていたときに、
ロシア語通訳の女性がメンバーでいたのですが、
妙にわたしに攻撃的で中傷的だったので、
一体何が気に入らないのだろうと思ったら、
よく話を聞くと私と同じ年頃の息子さんがいて、
可愛くて仕方がないのだということを聞きました。

その女性は母として、息子のイメージと同化し
わたしにライバル心を向けていたのだと思います。

年が離れている人というのは本来同じ土俵で戦う必要がないので
あまり衝突が起きないのですが、
同じプロジェクトの中に入れられると
年が離れていても衝突してしまうようです。

同じ枠組みの中に存在する難しさを思います。

のびのびとした環境だな、と思うときというのは、
上に制限がないときで、
ボスはすべからく努力して十分余裕のある能力を持っていて、
同じプロジェクトの中にいながら超然としている場合です。

人は状況によって発揮できる能力が変わります。
働きアリを使った実験では、
同じ巣の中に存在している
よく働いているアリと働いていないアリを二つの巣に分けたところ、
それぞれの巣で再びよく働くアリと働かないアリが現れた、という
結果が出ていて興味を持ちました。

この傾向が人間にも当てはまるとしたら、
よく会社で言われている
2:6:2の法則と言うのもうまく説明がつきます。

この結果はもう少し考察することができて、
ある集団ではお世話になっていても、
自分を違う集団に持っていけば役立てる存在になれる可能性が
非常に高くなる、ということです。
逆に、今の自分にどれだけ活動能力があっても、
集団が変わってしまえば全く力を発揮できない可能性もあります。

自分をいくつかの異なる集団に属させ、
その中で力を発揮できるチャンスを増やしていく、というのは
自分の自信を適切に維持するためにも好ましいことだと思います。

木曜日, 6月 02, 2005

本の背表紙

朝起きてどうも息苦しい、
酸素不足かと思って深呼吸を繰り返していたのですが、
どうも過換気気味なようで、
ゆっくりと浅い呼吸をすると楽になります。

本を借りずに買うようになってから、
よく本が読めるようになりました。
部屋の引越しのときになんとなく荷物が少なくて楽だと思ったら、
実は研究室に本棚二つ分の本とレポートが積んであったりして、
次回の引越し準備が来るとしたら
どれだけ時間がかかるだろうかと心配しています。

本を買ってもう一つ良かったことは、
背表紙を眺められることです。
毎日背表紙が見えるところで考え事をしていると、
自然と中身を思い出して手に取ることができます。

2年前に来たアメリカで、
この国では仕事をしないものはとことん仕事をしない、と
聞いていたのですが、
今回その現場を初めて目の当たりにしました。
この国に契約書が必要になる理由は、
日本で契約書を必要とする理由と違うと感じます。

日本とか、おそらくアジアで契約書を作る理由は、
cheat=特に金額や品質を騙すことに対する警戒のような意味合いが強いのですが、
アメリカで契約書を作る理由は、
engage=作業の遂行自体を保証する意味合いが強いことが分かります。

以心伝心なのか、WYSIWYGなのか、
どんな世界モデルを作っても
人間がそれを取り扱うという時点で問題が生じるのですが、
どちらにしてもgood natureな人と付き合いたいものです。