日曜日, 10月 30, 2005

プラス1の処世術

マウスの一つボタンがMac、
二つボタンがWindows、
三つボタンがUnixと決まっています。
わたしはWindowsをメインに使いますが、
最近右ボタンをできるだけ使わないようにしています。
なんとなく思考の邪魔になるかもしれないと思ったからです。

相反することについて時々考えます。
「お金は後からついてくる」と、
「先立つものがないと始まらない」は全く逆です。
そしてこれらの言葉を、適切な状況の説明にも
諦めの理由付けを求めるためにも使います。

いくら大農場が効率がいいからと言っても、
大平原を一人で耕していたら
いつまで経っても作物は実りません。
といっても自分ひとりがやっと食べる分しか耕さなければ
いつまで経っても楽にはなりません。

どうもそこには「適切な大きさ」というものが
決まって存在するように思います。
アプローチの方法はひとそれぞれですが、
少なくとも大農場での農法と
小農場での農法は全く違うはずです。

量子論は確かに全ての物理の基礎を成しますが、
高エネルギーでの場合と低エネルギーでの場合は
基礎となる考え方そのものが違います。
そして複雑怪奇な量子論は突然生まれたのではなく、
もう研究することが何もないだろうと言われるまで
古典力学が精査された後に生まれたものです。

大きな事を為したいときに、
がむしゃらに無理をするわけでもなく、
かといって臆病さから行動範囲を狭めるわけでもなく、
今できることから一歩だけ先へ努力してみる、
そういう歩み方が必要だと思います。
そして、一足飛びではなく一歩ずつというのが
なぜか結果的には一番早く目的地へたどり着ける感じがします。

ただ時々無理をすることにはいい意味があって、
今までの自分の「方向」を変えたり、
日常に余裕を持たせる効果があります。
それは一歩ずつの歩みではもしかしたら得られないことで、
諸行無常の考え方で言えば
自分が生まれ変わることに等しいのかもしれません。

金曜日, 10月 28, 2005

朝日の当たる道

気分のいい朝は散歩をします。
おととい芝の畑の前に車が停まっていて、
助手席にバイオリンを置いて眠っている
作業着姿の男性がいるのに気がつきました。
そこには何か「おはなし」がありそうで、
なんだかいい気分でした。

ちなみに誰もいない野原に出ると
一人で歌を歌います。
好きな曲を最後まで覚えているというのは
こういうときに便利です。

火曜日, 10月 25, 2005

徹夜は意外とできるもの

もう若くないから徹夜が辛くなった、と
誰かがまことしやかに言い出したのは
20代の前半でした。

この話、一部には正しさがあるような、
しかし全体は正しくないような言葉で、
しばらく考えます。

20代前半は妙に体力がないような気がします。
それは、体力とは別に、
精神的な構造変化が起こるからではないか、と
最近考えています。

斉須さんの本の中に、
平気で3日ぐらいぶっ続けで働くフランスの料理人が出てきて、
血が違うなあと驚いたという表現がありました。
それは単に「血」ではなくて、
人間は体を動かし続けることに
慣れることもできるのだという表れのような気がします。

テレビで見たニュースで、飲み歩いて徹夜した後で
そのまま仕事へ行く、という話を見て、
徹夜する中身が話したり歩いたり、といった
体を使った時間の使い方であれば
意外と徹夜は簡単にできそうな気がします。

徹夜のコツ、みたいなものについても
時々考えます。

一仕事の前に腹ごしらえ、というのは
全く正しくないような気がしています。
食べたら内臓が運動するのが忙しくなって
眠たくなってしまうからです。
徹夜の時間帯には
できるだけ消化が良くて胃腸に負担の少ない
果物とか飲み物を少しずつとって過ごすのが
よいのではないかと考えます。

逆に眠りたいときには、
たくさん食べればいいのです。
良くないことがおこった時にやけ食いするのは
もしかしたら眠りたい連想なのかもしれません。

日本人は苦行みたいなのが大好きなので、
徹夜と聞くとなんだか辛くてすごいイメージを持ちます。
しかし徹夜することにも上手な方法があるのであれば、
飲み歩いて仕事したって特に苦しくはありません。

加速器は試験中歩きっぱなしで
一見体力勝負な印象で辛そうですが、
実はその事のほうが徹夜は楽だろうとも思います。
頭脳労働だけで徹夜するのは本当に苦痛で、
だから作家はわざわざ旅に出て
体を動かしているのかもしれません。

可愛くない顔

加速器試験はようやく終わりました。
最初にイメージした実験の理想的な姿に
だいぶ近づけたような気がします。

メールで大量に文書を書き、
何人もの人と会話をしながら仕事をする、という使い方をすると、
かなり精神的な体力が要ります。
人は人の中にいて生きていくものならば、
人付き合いが得意とか苦手とかいう感覚はあっても
必要なときに必要な人と情報をやり取りしなければなりません。

個人的なメールの中で使う顔文字の中で、
今まで一番多く使ってきた顔は笑顔の顔文字です。
自分がメールを送ることに対して
好ましい気持ちでいるということを表現したいのです。
もう一つは、他のいろいろな顔は
今ひとつ可愛げがない、と自分では思っていたところにもあります。

メールは会話のように言い直したり
説明を付け加えたりできないので
自分が笑顔でないメールを書いて
相手に良くない印象を与えるのではないかということが
内心すごく気になっているのです。

ところが、気分的には笑顔でない日というのも
実際にはあって、顔文字ながら
笑顔ばかりを使うことにたまに抵抗を感じることがあります。
同じ表情を続ければ顔だって引きつってしまいます。

笑顔でいなければいけないのだろうか、と
ふと思うことがあります。
「いつも笑顔で」とよく言われたとしても、
本当に毎日笑顔で過ごしているわけではありません。
人間は何にでも慣れてしまう生き物であるために、
笑顔にも慣れてしまう、というのは
笑顔だけではなく涙顔が豊かに出せる女優さんに
人気が出るというところでも良く分かります。

できるだけ笑顔、とか
ため息をついたら幸せが逃げる、とか思わずに、
できるだけ表現豊かでいようと思います。
自分が寝ぼけていてかっこ悪い顔をしていても
それはそれで自分の姿だったりするのです。

かっこ悪いに慣れる、ということが
どうしても心配だった時期があります。
一度かっこ悪いに慣れてしまうと、歯止めがきかなくなって
これ以上努力しようという気持ちを失うのではないかと
考えてしまうのです。

しかし人はどんなことにも慣れることができ、
一方で慣れるとどんなことにも退屈する生き物です。
退屈というのはなかなか面白い感情で、
新しい事を始めるのが楽しくなります。
毎日が新しいことばかりだと、
少しは落ち着きたくなるものです。

人からもらうメールの笑顔の顔文字は
いつ見ても飽きないものですが、
自分が書くメールの中にはたまには他の表情の顔文字も
少しずつ使ってみようかなと考えています。
ただの白と黒が作る「ある情報」なのに、
人は自分を表す方法をめぐらせているものです。

月曜日, 10月 24, 2005

制御不完全な脳

どんな環境であれ
新しい人に会うというのはいい刺激になるといいますが、
新しいものを受け入れるにはキャパシティーがあるようで、
会うには気持ちの体力が要ります。

土曜日に出た集まりの中で、
最近脳のことについてみんなの意識が高まっているのを
感じました。

社会の教科書では、
類人猿から進化するために脳が大きくなった、と
あるのですが、
生まれつき普通の人の1/10しか脳がない人でも
全く日常生活に支障がないことを知ってからというもの、
どうも脳が大きいことは進化の過程で
どこか間違った選択をしているのではないかと思いました。

哺乳類は体に対して
比較的大きな脳を持っていますが、
そのおかげで感情的な表現が行えます。
ただそういった表現は「種として生き残る」ためだけであれば
全く不要なのです。

社会性というものを獲得するのでさえも
これほど大きな脳が必要ないということは
蟻を見ていれば分かります。

制御工学の言葉で言えば、
自由度に対して可制御量と可観測量が十分用意されないと
システムの動きが不安定になることを
避けることができないとあります。

人の脳は体10個分以上を楽に動かせる、というのは
23人のビリーミリガンのような多重人格が
存在することでも良く分かります。

こういうことから考えると、
脳は体の全入力、全感覚を使っても
完全な制御ができない物体だということになります。
アインシュタインの言葉によると、
すべての人は目に見えない笛吹きの曲にあわせて
踊っている、という表現になります。

逆に言うと、脳は自分の体のあらゆるものを
自在に変えられるだけの十分な潜在能力があります。
志が表情に出るとか、
恋すると魅力的になる、というのは
脳に上手なスイッチさえ入れることができれば
本当はたやすいことなのだろうと思います。

自分のことが思い通りに動かせないという
現実的な問題は、スイッチを入れるのが
そもそも非常に難しいことにあります。
脳のスイッチを入れるために用意された入力端子が少ないのです。
身をもった経験が大事、ということが言われる理由は
もともと体を使って脳に送れる情報量が
脳が要求する1/10以下しかなくていつも不足していることで
説明がつきます。
「知りたい」という欲求を強く感じる人は
脳そのものが導く行動に従っていることになります。

考えすぎはよくない、とか言うのは
脳が暴走してしまったときに止める手段を持てなくなる、
ということに繋がっているのかもしれません。
そして時折聞かれる「愚直にやる」という表現は
実は脳の機能の一部を強制的に「使わない」ことで
自分の脳を制御できる状態へおく、ということの
表れと考えることもできます。

おはなしではありますが、創世記の一節には、
木の実を食べた瞬間から
自我と恥じらいというものが生じて
体を木の葉で覆うようになった、という箇所があって、
それが神が定めた罰の一部であるというならば、
この人間世界がいつまでも混沌としているのは
神が脳をいたずらに大きくしてしまったからと
思うのもまた納得のいく説明かなと思います。

水曜日, 10月 19, 2005

純粋にうまくなりたいと思う気持ち

雨の日はずいぶん暗くて、
しかし気持ちが落ち着きます。
雨上がりの空は美しい海の底を眺めるように澄み切っていて、
気持ちが洗われるような気がします。

もやもやした気分が生じたときに、
頭と心を洗ってさっぱりする確実な方法がないものとかと
時々思います。

野球用品メーカーの宣伝で
「もっとうまくなりたい」という一言を
いろんな少年が繰り返すCMが数年前にあって、
その宣伝がとても気に入ってました。
憧れから何かを始める気持ちというのは
無心に行動できる原動力になります。

行動が縛られることがあります。
自分ができることが大きくなっていくと、
誰かの行いと衝突してくるからです。
それで自分が行動することに対して
ある種の抵抗感を持つことになります。

自分がこんなことをしてみたい、と思ったときに
それが上手で、そのことで人を楽しませている人を目標にするというのは
良い方法だと思います。
上手になるということが自分の快い感情と結びつくからです。

仕事について最近はこんなことを思います。
仕事で成果を上げる過程も大変だとは思いますが、
その成果で人が幸せになっているところをイメージできないと
その仕事をする意味を失います。

自分よりも何かが上手な人を見ても、
どういうわけか競争心とか張り合う気持ちを持てません。
それが上手である人を見て満足し、
自分も少しでもそうなれたらいいなと思うところまでです。
切磋琢磨という表現をあまり受け入れられないので
あまり男性的ではないのかもしれません。

自分の年齢が上がってくると、
友達の活躍する場も大きくなってきて、
話すのがとても楽しくなります。
そこには自分がもう到達できない場所があって、
そういう場所にいてくれること自体が
良い目標になるのです。

幸せな気持ちというのは状態であって実体ではない、
だから日常の生活であればずっと幸せでいることはない代わりに、
ずっと不幸せでいることもないのです。

月曜日, 10月 17, 2005

人に表現し、人を集める練習

Windows Media Player9.0には
曲の再生速度を変化できる機能があります。
デジタルとは再現性に優れたメディアの記録法ですが、
毎度完璧なまでに同じ調子の曲を聞くと
どうも調子が悪くなってしまうようで、
いつも聞き慣れた曲を15%くらい遅くして聞いていると
とても気持ちが落ち着きます。
暇なときにお試しください。

毎度同じ調子が完璧に来るとどうにかなりそう、というのは
高校のときにピアノを教えてもらっていた
音楽の先生の話です。
MIDIを使って曲を直接弾いて録音する際に、
一瞬の狂いもないような指使いが求められて、
そのときにこの話を聞きました。

人の曲の中には、気持ちに由来した揺らぎがあります。
機械的完全な正確さではなく、
この揺らぎが必要であるというところに
人の面白みがあります。

完全なもの、完全なリズムを求めて
音楽を操る機械は頑張ってきたはずなのですが、
必要以上のところまで突き抜けてしまうと
やはり人は人を求めるのだなあ、と
人の進歩の限界点を見るような気分でもありました。

集まりの案内を出す係をしています。
出すこちらは一人か少数で、
返事があるあちらはたくさんの人がいます。

人が集まるところには理由があって、
その目的がはっきりしていると良いのですが、
あちらの人がたくさんになっていると
なかなかその目的がはっきりしなくなることもあります。

人が集まっているものの一番大きなものは
市場になるのでしょうか。
不特定多数の人が混在して存在している、ある場所に
何かのアクションを起こしてあるリアクションを得ます。

表現は何のためにあるのか、表現は何なのか、なんて
素朴かどうかさえ分からない疑問を持ちます。

現代的に使われている「表現」とは
「勝ち抜くためのアピール」としてほとんど使われます。
宣伝、歌、さまざまな表現が
「何かに勝つために」準備され競われます。

表現が競争と同一視されてしまうのであれば、
心優しい人にとって「表現」は実にやっかいな代物になります。
表現が他人を排斥するものでしかなければ、
それを好む理由になれないからです。

競争原理を感じずに表現を学ぶ場というのは
一体どれだけあるのだろうとふと想像します。

岡本太郎の本を読んでいて思ったのは、
踊りや歌といった身体表現は
それ自体が生きるために存在するから美しいのだ、という
くだりを見て、とても納得しました。

競争が完全に不要だといっているのではないのです。
良いものが選ばれて世に広まることで
多くの人が生きやすい環境を得ることができるからです。

しかし表現の全てが競争である必要がない、
だから「競争とは無縁の表現」というものが
もっともっと広まらないといけないのではないだろうか、と
最近はこんなことを思っています。

営利目的ではないその集まりは
自由意志でできていて、どことも競争関係にありません。
肩書きや利益追求を外した表現ができます。
ところが最初に感じることは、
「集まりの案内を出して来なかったらどうしよう」と
思ってしまう感情とどう付き合うか、ということでした。

集まりには明確な目的がもともと存在しないので、
たくさん集まる必要さえ本当はないはずなのに、
「集まり=大盛況」であることが暗黙の了解になっています。

少し思うことは、
自分の行動を認めてもらいたい、というのは
誰しも思うことだな、ということです。
それで案内を出して断られたら、
親身にしている人の数が計られそうな気がして
一瞬怖気づいてしまうのです。

でも知り合ったばかりの人たちの中で
親身にしている人がそもそも多いはずなんかないので、
断られることもままあることではあります。
たくさんの人はそれぞれ複数の用事を抱えているので、
いつもうまく行くとも限りません。

そんなわけで、「断られることに慣れる練習」というのを
少しずつ始めてみよう、と思い始めた時期があります。
まずしなければならなかったことは、
断られることは悪いことであるという連想を解くことでした。
この連想が解けなければ、
断られるたびに自分の感情が傷ついてしまうからです。

たくさんの人が、
心をある意味で裸にして向き合っているのかなと最近思います。
それは科学のせいかもしれないなとも思います。
たった一つの真実がある世界、という観念自体が
心の逃げ場をなくすのかもしれないと感じるのです。

自分の意識が何もかも白日の元にさらされている、というのは
現実には錯覚です。
人はそのくらい分かり合うのが難しい生き物のはずなのです。

寒い日には厚着をすればいいのであって、
わざわざ裸になって乾布摩擦をするだけが能ではないはずです。
心も同じで、
深く痛んだときには時々温かい服を着せてやる必要があります。

漠然とみんなが思っていて、
しかしそれが表現になって出てこない、
それを見つけてちゃんと表現すると
ふと潜在的な緊張が解けることがあります。

表現が人を結び救うものである、
いつもそういうものであったらいいのにと
毎日思います。

火曜日, 10月 04, 2005

いまだにプリンタの類が信用できません

物理シミュレーションソフトにANSYSというのがあるのですが、
「アンシス」というチョコレートが出てたので
思わず買ってしまいました。

紙出力をあまり信頼できません。
目の前でよく詰まるのを見るからです。
詰まる原因はそれほど単純ではなくて、
部屋の湿度によって紙の状態が変わるとか
難しい要素も含みます。
だから雨の日はトラブルが増えたりします。

プリンタと同様にFAXも信頼できません。
相手のところが紙詰まりだったら読んでもらえないからです。
それでFAXを送った先には
一言電話をすることになります。

最近は電話だけの注文というのは受けてもらえなくて、
工業国際規格のISOに習おうとすると
ほとんど全ての作業を文書化することになります。
言った、言わないの揉め事は
水掛け論になる場合が多いものです。

たった一つのメディアで情報のやり取りが完結する、
ということ自体が
そもそもありえないことではないか、と最近思います。
それは人間を信用していないとかそういうことではなくて、
もともとそのようにできている、と考えるのがいいと思います。