火曜日, 2月 28, 2006

イルカに芸を

イルカには人と同じかそれ以上の知性がある、
だから芸を教える方法は知的なやり取りで行うのだろう、と
思っていました。

イルカには知性があってもそれに相当する感覚入力がありません。
皮膚は硬いし高周波しか聞き取れないのです。
表現は体が大きくて細かな作業ができません。

芸を教える、知的やり取りのみによらない方法としての
良い感覚入力はえさをあげることです。
本能に直結している分だけ分かりやすいのです。

もしかしたら人も同じなのかも知れず、
自分を把握でき、状況を細やかに観察できる感覚入力がない場合、
本能の統御によって導かなければならない状況もありえます。

人間という生き物が「人間」という社会的に認められることは
もしかしたらかなり難しく、
生物の成り立ちには何らかの理由があるという連想によれば
人間になれない人間がたくさんいる、とまことしやかに言われるのには
恐らく何らかの理由があるのです。

金曜日, 2月 24, 2006

甘くない酒、甘くない曲

我を忘れるという心地よさと、
自分と向かい合い手ごたえを感じる満足感があって、
それは甘い酒を飲んだときの陶酔感と
甘くない酒を飲んだときの覚醒感に似ています。

人生にはこの両面があって、
どちらにもこの世界に求められるだけの価値があります。

さわやかに飲めるウイスキーの水割りを除けば
最初から最後まで甘い酒ばかりを好んで飲んでいました。
口に入れたときの馴染みがやわらかくて心地良いのです。
しかしいつまでも飲んでいると何かがもやもやとして、
次第に割り切れない気分になってしまうことがあります。

それは一時の落ち着きが得られる場所が欲しくて
他愛のない話題で盛り上がってしまった場に顔を出して
最初は居心地のよさを感じながら、
十分さと退屈さがない交ぜになった感情になって
自分の形がなくなるほど埋もれてしまう前に離れてしまいたいのに
なかなか席を立てないでいる自分の割り切れなさに
とてもよく似ている気がするのです。

永遠や、恋や、あなたがいないと生きていけないとか、
それは言葉なのになぜ味と同じ「甘い」という表現をするのかと
ふと思います。
それは甘い酒と同じニュアンスを多分に含むからかと
考えていたりして、
でもきっとそれは今までたくさんの人が至った
ある感触でもあるのだろうなとも思います。

じゃあ最初から甘くない、
ドライなものばかりで良かったのかというと
それには一抹の疑問が残ります。
手ごたえや厳しさは生きる刺激ではありますが
豊かさや感情的な共感からはずいぶんと距離があります。

後ろ向きな側面を取り出せば
甘さの只中から抜け出せない怠惰、
苦さの只中で感じる消耗感があって、
どちらも万能ではありません。

年月が経つとなぜ甘くない酒が良くなるのだろうと
ずいぶん不思議に思っていました。
自分と向かい合うもう一人の自分ができていくからなのか、
それとも小さな刺激に慣れてしまったからなのか、
いくつかの理由が混在しているようです。

前向きな側面を取り出せば、
甘さの中に浸る優しさと陶酔感、
苦さの中で感じる瞬間の手ごたえや輝き、
それら全てはこだわりや偏りを多分に含んだ
アンビバレントを矛盾なく内包し、
全人間的で豊かな性質を獲得するために
十分すぎるほど経験したいものです。

社会という大きな入れ物を俯瞰するならば
甘さや苦さという要素はひとの個性差から生じる
マーブリングを施した絵のようになっていて、
それぞれの人が深く関わっていくことで
必要なときに甘さや苦さを得られるように
できているような印象を受けます。

全能の神のような完全性など持たない、
だから物事は豊かで複雑という
不可分な両面を背負います。

月曜日, 2月 20, 2006

運命について

メールは見たくない、
メールを見ると仕事が始まるから、と言ったのは
亡くなったボスで、
時に電話を非常に煩わしく思うわたしには
その気持ちが良く分かります。

本来メールは読むことと返信に時間の余裕があることが
一番の利点だったのですが、
10分以内に返事をしないといけないようなメールは
電話と同じです。

一人の時間が好きで、
一人を楽しめる人といるのを心地よく感じます。

数回しか経験がありませんが、
仕事で外国に一人で行くとほっとして心が落ち着くのは
誰にも手が届かない自分が
比較的簡単に手に入るからです。

運命という言葉を
自分の表現として使ったことがありません。
「それは運命だ」と人間という存在が話し
認めてしまうことはあまりに心許ないのです。

人間は自分の五感以上の感覚がありません。
世界の動きが手に取るようにも分かりません。
だからもし運命があったとしても、
本来それを知覚することができないのです。

運命という言葉を使わないのは、
それがしばしば自分に都合のいい解釈の理由付けとして
使われているからです。
自分に降りかかった苦難や悲しみを
これがわたしの運命なのかと問いはしても、
それをわたしの運命だと受け入れる人はごく稀だからです。

運命は思い込みとは違います。
世界はこのまま変わらないと感じることも、
世界は変えられるはずだと感じることも、
どちらも思いの中にあるもので
変わらないこと、変わることのどちらも運命ではありません。

だから人が今まで信じていなかったことが
ある事実の表出と一緒にがらりと認識を変えると、
今まで起こらなかったような現象になりますが、
人の意志の総和は社会の流れであって、
社会と自分との関係性は運命ではないのです。

しかしそれなら、と思います。
全てが世界のある一点から時間発展的に成り立ったのなら、
全ての現象を含めて運命と呼ぶ限りにおいては
納得ができるように思います。

わたしという存在が自由に表現することも、
また時に制約を感じることも、
運命を信じないことも、またその認識に変更を加えることも、
それら全てがある必然の元にある、
それがわたしなりの運命の解釈なのだと思います。

金曜日, 2月 17, 2006

たった一つだけ、アドバイスを残すなら

デジタル・デバイスが好きで、
デジタルカメラやPDAやタブレットを買ってみたのですが、
使いこなせるようになるまでに何年もかかっています。
呆れるほど物覚えが良くないです。

手引きというものがあって、
横断歩道の渡り方から税金の納め方、
パソコンソフトの使い方から大気圏突破に必要なエネルギーの求め方まで
実にたくさんあります。

人生の手引きをしようとするものもたくさんあって、
幸せになる方法から悩みの解決法、
果ては自分探しに至るまで
実に細かく示されています。

ところがいくら読んでも役に立つ気がしません。
パソコンソフトの使い方が分かったからといって
それを何に役立てればいいかはそれぞれが考えることです。

ほとんどのものは行動の前に動機を必要としますが、
動機よりも行動を求められることが次第に増えています。

動機という未知なものが人間の本性につながるものであれば、
たった一つ役に立つアドバイスは、
あなたがあなた自身の動機に忠実に従い、
自分の人生を生きなさい、
という一言で十分な気がします。
しかしこのアドバイスさえ必要ないのかもしれず、
アドバイスなんて何もないのかもしれません。

動機は欲望でも独りよがりでもありません。
人の意見に従いたければ従えばいいし、
違うと思えば違うと思っていいのです。
自らが自らの観察をして制御するなら、
自分に必要な人付き合いの量を選ぶでしょうし、
意識になくても助け合って生きることが行動に出るでしょう。

社会のシステムに従うかどうかより、
自らの動機が分からず、それに従えないということこそ
個人の生きる手ごたえにとって重大な問題なのです。

自らの動機には人を助けることで幸せを得るもの、
人と競争して切磋琢磨するもの、
自らの洞察によって思想を深めるもの、
人を幸せに率いることが自らの使命と定めるものなどが
動機という個人の特性として含まれています。

どんな強烈な外乱の中にあって、
どんなに人の意見を考慮して動いたとしても、
どうしても持ってしまっている特性だけは変わりようがない、
これがこの数年で一番強く意識されたことでした。

言葉にすればわずか数言で済んでしまうようなことですが、
それがわたしの本性だという実感があります。

この世はある一点から時間発展によって生じたとすれば、
その全てが必然の元にあるのであって、
わたしがどう生きたとしてもそれはわたしの「特別な自我」ではなく、
人間という容器と能力の範囲に収まるものであり、
大きく見れば世の必然にしかならないのです。

信じる宗教がなくても林檎は木から落ちるのであり、
どんなに頑張っても
この世の仕掛けというものを逸脱することはないのです。

制御が好きで

自分の好きなものとは、
それを続けても苦にならないものを言うようです。

制御の難解な点は
自分だけのルールを押し通すのではなく、
あるいくつかの定められたルールをまず理解することが
必要です。
しかし理解するだけに終わってはならず、
それを役に立つよう導く所までが仕事になります。

人から見ると不連続で独創的なものというのは、
作る本人にとっては何らかの系譜に沿っているものじゃないかと
最近考えています。
何らかのきっかけがあって事態は生じるもので、
時に誇張して「神のひらめき」などと表現されるのですが、
本人にとってはある流れがあって、
独創とは思えない場合も多いのです。

謙虚であることは大切ですが、
だからといって自信まで失うことはないのです。

水曜日, 2月 15, 2006

変換装置を通過して

2日間、48時間試験が終わりました。
ほとんど朝夜の習慣ごとを抜いてしまったので
月曜が終わったばかりとさえ思う
浦島太郎の気分です。

気持ちの良い人は多分たくさんいます。
ただしその人が快く紹介されるとは限らない、ということを
ネットの記事を読んでいて思いました。

有名人はいろいろなものに紹介されます。
紹介というのは他人がその人について述べたことであって、
信憑性を上げるために取材を載せますが、
その内容は肯定的にも否定的にも「解釈」できます。

古いということに対する安定と退廃の2重定義、
新しいということに対するエネルギーと不安定の2重定義などは
いつの世でも飽きもせず繰り返される議題です。

ネット記事というのは紙面広告と若干違って、
同じ画面でそのまま自分のサイトや商品紹介、注文へと
誘導することができます。
類似のサービスは送料無料の葉書広告ですが、
これはポストに行く手間がかかります。

ネットで買い物をするかしないかより、
買い物の結果何ができたかが概ね重要なのは買う側で、
相手の都合が何であるかよりも
買い物をしてもらえたかが概ね重要なのは売る側です。

売ると買う、ただそれだけのことに
感情という大きなノイズが乗っています。

仕事のある側面が嫌いです。
何でもお金で判断してしまわれることがあるからです。
主に広告によって欲望を煽られています。
広く思想を伝えることも物を買って欲しいと訴えるのも
ともに広告の漢字的な意味です。

宗教観がない、ということは自由なようでいて、
固定概念を変えるための外力も失った状態になります。
包丁がないと料理ができないわけではありませんが、
手づかみばかりでは進歩もしないのです。

それぞれの時代にあった先鋭的で常識を逸脱した思想は、
固定概念を変える可能性があるために危険視されるか、
行き詰まりを変えるために歓迎されるかします。
少し時間がかかっても、次第に世に受け入れられ、
長く効果が出るような仕事をしたいと思います。

宣伝が嫌いなのは、
自分の欲求を操作しようと彼らが試みるからです。
煽られ、挑発されて手に入れたものは
自分の満足と共に心静かに持つことができず、
誰かにそれを見せたくなってしまいます。
長い文化を持った国は
そういう情けないことをしてはいけないと
自省しなければなりません。

ネット広告やバナーには転職関連の記事、
特に年収がどうだといかいうものが
常に目に飛び込んできて
なんだか目障りに感じます。

確かに年収というのは人が共通に持つ
出来事の側面なのですが、
それの大小を測るというのは
小学生が珍しい牛乳のふたの多少を測るのと同じです。

お金にも流行り廃りがある、と考えれば
「価値観の転換」という言葉には意味があります。
およそ共通と思われている物欲、金銭欲とは別に、
個人があり方を考えて意味を見出すことが
価値観を変えるという表現で表されているように思います。

お金というのは現場で使う際に便利ではありますが、
その概念のプロパーな取り扱いが非常に煩雑です。
簡単な面ばかりが強調され、
実体にある二つの側面が自体をややこしくしています。

めぐり巡ってこの話は、
あるものそのものが良いか悪いかに関わらず、
それを誰が伝えたかの方が受け手に重く意味をもつ、という
結論に至ります。

木曜日, 2月 09, 2006

メールは実体か否か

スケジュールが再び詰まり始めて
妙な緊張感が高まっています。

ほとんど信用していなかった装置の中に
FAXがあります。
紙が詰まったら読み取れないし、
いつ読まれるかも不明だからです。

FAXよりは電子メールは信用しやすいものでした。
当初は配信遅延が相当多かったのですが
現在は特に困ったことが起きません。

電子メールより携帯メールは信用できました。
相手の手元に届くし、
vodafone同士なら送られたことはちゃんと通知されるからです。

FAXを日常的に使い始めて、
送ったり受け取ったりするうちに
不思議と信用するようになりました。
エラーが出ることもあるのですが、
それでも「まあこんなものか」と気楽に感じるのです。

状態として何も変わっていないのに、
ないと思っているものは存在せず、
あると思うものが存在します。
幽霊は私にとってない存在ですが、
どこかの誰かにとっては実在です。

人のつながりはこのFAXに不思議と似ています。
あると思えばあり、
ないと思えばないのです。

水曜日, 2月 08, 2006

じゃあ、お金で買える物は何なのか

シュガーパウダーを振り掛けるように
粉雪が降りました。
コメントくれた方がいるのに
サーバーエラーで読めません。
良かったらもう一度コメント下さい。

マスターカードの
pricelessをキーワードにした宣伝があります。
具体的に買ったものの値段を挙げていって、
その結果何かpricelessなものへ至るという流れです。

自分の中の理解が未分離なので演繹してみます。

買うという行為はお金を自分が出し、
物かサービスか権利を自分が受け取ることです。

物に値段が付いている内訳は
開発費回収のため、宣伝に使った分のため、会社を大きくする分のためなど
複数の理由によっています。

値段に納得すれば買う、
この言葉は何に納得するかで異なります。
服であれば、自分に似合うという納得と、
値段が高いものを身につけているという納得、
作りの丁寧さや流行に合っているという納得などが混在していて、
人によってその重み付けが違います。

納得して欲しくても買えないことがあります。
お金が十分にあるというのは、この買えない壁を
取り除く意味を持っています。

買ったものには何らかの使い道があります。
服なら着るし、デザートなら3時に食べます。
何もしない「置物」も置いて見ています。
人に見せなくても、自分が持っているという意識があります。

買って持つ、という行為が
人によって意味合いを変えます。

物と対話するように何かを買ったり所有する人は
持っているだけで喜びを感じます。
そこに他人は必要とされません。
しかし人に見せるために何かを買ったり所有する人は、
持っているだけでは喜びを感じません。
そこに他人が必要になるのです。

自立と孤立、
この言葉を最近2冊の本で相次いで見つけました。
自立のためには対話する「もう一人の自分」が必要である、というくだりで、
物を擬人化することでも間接的にそれは得られます。
しかし物に依存してしまうと
一種の偶像崇拝になります。

じゃあ物があれば人間には迷惑がないかというと
それは別の問題です。
人を必要とする人が人を失うと嘆き悲しむように、
物を必要とする人が物を失うと同じように嘆きます。
物に傷が付いたり失われたりしてひどく怒り出す人は、
それを自分の分身か愛する誰かのように捉えているからです。

仏教の解説に「無権利の確認」というくだりがでてきます。
自分が持つもの、意のままにできるものは何一つないことを
改めて知りなさい、という意味なのだと考えています。

ここまで考えてみて、
個人として生きるということは可能であっても
人の中で生きるということは可能になるとは限りません。
社会性は人が獲得した本能で、
自分が社会的に意味があることを確認していたいものなのです。

社会的な意味を作り出すために、
人はいろいろなアプローチを考え出します。
見た目が美しいほうが受け入れられやすいという判断をすれば
着飾ったりすることに集中し、
人のために尽くすことが受け入れられやすいという判断をすれば
ボランティア活動や仕事に力を注ぎます。

ここでお金と仕事の接点が現れます。
社会的に受け入れられる仕事の評価や対価としてお金をもらう、
ということだけが単一概念として受け入れられていると、
仕事の評価の代わりにお金の多少を参照します。

参考程度にしているうちはいいのですが、
そのうち仕事の評価のほうがなおざりにされて
お金の多少だけが一人歩きし始めることが多くあります。

仕事の評価がお金の多少へ反映することも、
お金の多少が仕事の評価の反映であることも、
その双方向の流れがもともと絶対的ではないのです。

水木しげる「水木さんの幸福論」では、
「努力は報われず裏切られることがある」という一言で、
この双方向の流れが絶対的であるという概念を
固定しないよう説かれています。

お金を多く持つ人の中には、
たくさんの人のためになったと認められた結果の人と、
そうではない理由による人とが混在しています。
それでもお金を欲しい、お金があることを示したいと思う人は、
お金の多少によって「ためになった重要な人」と思われたいのだと
ふと思います。
これが「お金で買えると思っているもの」のある人たちの結論です。

VIP待遇って何のことだろうと思っていると
Very Important Peopleなのだそうで、
お金持ちな人と重要な人はイコールではないのに
呼び名がそうなっているのでは
認識が混在するのも無理はありません。

問題は、真に人に認められる満足というものが
実際にはお金では買えないということにあります。
建設的な提案には、自らが他人となって自らを認めるという
方法があります。

この省略形が「自己満足」であるようなのですが、
なぜか自己満足という響きは肯定的に用いられることが
少ないようです。
これは「自己中心」とか「利己的」と
混同されがちだからなのでしょうか。

他人からの承認が絶対的な価値を決めるものではない、
この意識が自らに自信を持たせるために必要なはずですが、
これを広めようとすると抵抗が起こります。
ブランド屋さんはその「普遍的に認められる存在」という意識で
命脈が繋がっている面があるためです。

小さく、あまり認知されてないものは信用を得るのが大変です。
特に日本人は誰も知らないものに
自らの判断で興味を示しにくい傾向があります。
おのずと結果ばかりが重視されるようになります。
一生懸命結果を出すと認められるようになるのですが、
今度は認められることを足がかりに事業を展開しようとします。

asahi.comのネット広告で
「松下だから安心です」というくだりがあったのですが、
実績は長いとしても
工場をあちこちで閉鎖し、賃金カットをして
ファンヒーターの修理に奔走している、
こういう現実はどんな会社にも起こりうるのですが、
しかし「松下だから」とはちょっと言い切りすぎてないかと不安になります。

人にも良い影響を与えるような自己満足とは
どうやって作ったらいいのでしょうか。

まず「人に良い影響」が何であるか考える必要があります。
一義的には言えないが抽象的解ですが、
生き物は生き続ける事がその目的であるとすると
長い目で見てその人の生活や行き方に満足が得られる、というのが
一般的に良いかと思います。

しかし生きているだけでは人間的に満たされないと考えた場合、
短い目で見て、結果が出ない時点であっても
その方向へ向かうこと自体に満足が得られる必要があります。

競争原理が人の限界能力を伸ばすと言いますが、
それは分かりやすく過ちやすい目標だと思っています。
競争は他人を使って満足する方法であって
自己満足ではないからです。

先生という職業を難しいと思うのは、
生徒を教えた結果、有名大学にいけたという数が
評価の対象になってしまう点にあります。

入学の時点で概ね進学欲のある人を選別するのですが、
本人たちが進学を望まないと途中で気が付いても
自らの評価が必要なために生徒に
大学を受けさせようとしてしまう先生が出てきてしまうことになります。

もっとも、それは畑作りが上手な人と同じようなもので、
できる人はできるし、
できない人はできないものだとも思います。

ここまで考えると、競争原理を発動したがる側というのは
人の行動を管理する側だということにも気がつきます。
なるほど競争原理というのは簡単な麻薬のようなもので、
数字で判断ができるため見た目に分かりやすく、
早く結果が必要な場合に誰でも使える思考です。

競争ではなくて人を動かすことは
管理側の人間にとってかなり負担になります。
やる気とかモチベーションと呼ばれるものを引き出すには
試行錯誤が必要になるし、
人徳とか信用というものを人の心に発生させるには
かなり時間がかかるからです。

見た目に分かりやすい、
これを絶対善としてはいけないという結論になります。
まるで偶像崇拝のアナロジーのようです。

管理側の人間が挑まなければならないことは、
競争原理を使わずに組織をつくり、
かつ非常に強力な競争原理の組織よりも
実りある結果を出して存続することです。

相手の組織に勝つのではなく、
競争原理という概念に勝たなければならないのです。

最近、社会に挑むという言葉は
人そのものに挑むのではなく、
既存概念やシステムに挑むという言葉であるように感じます。

研究を続けて思うのは、
分からないことが自然の何かである場合、
その仕掛けを理解するという戦いを挑みます。
たとえば鉄が溶ける温度が分かれば
温度域の設計によって強度を保つ目的が達成され、
建物の共振周波数が分かれば
地の神様にお祈りするよりは
地震によって建物が倒れるのを防ぐ確率が上げられます。

このアナロジーを先ほどの話と重ねると、
自分が始めることは
社会は善だとか悪だとか単純すぎる切り分けに逃げることを
ひとまず保留し、
社会という組織に何が含まれるかを
まず実験的に理解するところから始め、
理解が得られた範囲で対策を考えれば良いと考えます。

社会契約論では、
人は生まれながらに社会に属するというのですが、
属していることとそれが理解できていることは
全く違う話です。
これは野球のルールと面白さが分からなくても
球場に行けば野球観戦ができる様に似ています。
周りが騒げば良い結果が起こったのだろうと感じ、
同調すると分からなくても騒げます。

自らの判断をすること、
それはルールが分かっているものに対してのみ行えることで、
そのルールを理解することは直接お金では買えません。
しかしお金を持っている人は
お金の影響で自分が理解したようなルールに
社会を変えられないかと試みることがあるでしょう。
意識は形ではないのでどちらにも変わり得ます。
それを「買えるもの」にするか、それとも「買えないもの」にするかは、
一人一人がお金に左右されやすいかどうかという傾向の総和として
現れてくるでしょう。
そしてルールが「買えないもの」であるよう保てれば、
人に行動を左右されない個人の自由も
またその中に保たれることでしょう。

水曜日, 2月 01, 2006

心の声

明け方まで印刷機を回しました。
寝不足で目も回りました。

意識というものを重要視とか特別視する、
特に現代はその傾向にあります。

意識が特別なのはなぜでしょうか。

意識によって自分と他人の区別をしています。
一切の行動表現をしなくても意識を変えることはできます。

腕が動くように意識は自在に操れると思い込んでいますが、
まんがのトレースがとても難しいように
意識の操作は簡単には行えません。

同じ表現が違う意味を表すことがあります。
横断歩道を手を上げて渡ることと
歩きながら手を上げてタクシーを呼び止めるしぐさは
同じ表現で違う意味です。
意味の違いは意識が行います。

意識を作る要素がいくつかあります。
未解明の超自然性を除けば、
哲学は思考のアプローチ、特に思考の繋ぎ方を変えるもので、
薬剤や栄養学は脳を含む体としての性能を変えるものです。
思考の変化は体の性能に影響し、またその逆もあるため、
システムのように連動した働きになります。

万物の動きが、人間には理解し把握できなくとも
厳密な法則の元に成り立っていることは間違いなさそうで、
人間も物体であるならある法則に従って動いていることになります。

ここで意識というのが全て物理反応の経歴で示される、
この前提を受け入れるなら、
自分が思っている自由という概念も、
その概念が何らかのきっかけ、本や行動によって変わることも、
目に映る現在の像もある法則によって自動的に成り立っていることが
疑いのないものになります。

頑なに旅行を嫌う人がいて、
たとえばその人を説得するとか、
それでも良いと放っておくのか、
その選択は自分という自由存在がしているようでいて、
実はその決定は物理法則が決めている、としたら
既に定められた法則の上をさまようしかない意識は
何を思えばいいのかと少し考えます。

自分の中のこの問いは最近考えが進んで、
物理法則が決めていたとしても、選択を判断する時点で
人間にはその作用素を全て理解できる能力がないため、
支配されているように「感じる」かどうかは感性に委ねられます。

ではこれで十分かというとそうではなくて、
物理法則が選んだ一形態が人間であると、
人間そのものに関してはある規則性があります。
食事をし、眠り、社会的行動をする特徴から
その「社会的まとまり」と意識との関係は
十分考察されべきテーマだろうと思います。

物理の法則は確かに存在している、
しかしそれがなぜかを知ることは人間である以上不可能であり、
人生に目的があると考えるとするならば
それは人間が生き物と呼ばれるシステムを持っているために
生存を第一目的にするためだろうと考えられます。

全てが物理法則の元にあっても社会学に意味がある、
この関係はたとえば素粒子物理学があっても
流体力学が存在する関係に等しく、
それは素粒子物理は流体力学を内包しますが、
流体力学はそれに固有の法則や性質が厳密にあり、
一見素粒子の成り立ちとは無関係に取り扱えるからです。

哲学というのも
ある限られた条件において定められる
応用=バリエーションのひとつであります。
それがいかに複雑で機能に富んでいるとしても、
それは基礎法則の境界条件に基づいた展開の複雑さを
解いているようなものです。

哲学者、特に意識の絶対化が前提になった思想は
たとえば宗教です。
世界は球形だと科学が証明したとき、
仏教は世界を須弥山という山とお盆でできていると説いていて、
物理の受け入れ、仏教の実在性に相当な論議を呼んだそうです。

意識さえも基本則の展開であると認めるならば、
この時点で実は人格を持つ神の存在が間接的に否定されます。
ほとんど全ての宗教は「神の意思」に自分の自由意志を固定することを
要請するもので、神の存在が物理的に知覚されない以上、
その議論の展開はあくまで仮定が前提です。
素粒子物理でも実験によって証明されないうちは
さまざまな仮説が実験事実をうまく表現しており、
仮説はいくらたっても仮説のままです。
そして物理法則の展開が人間に「神」なるものの存在を思い付かせるわけで、
神が存在し人間がそれをあらゆる制約とは独立に、自由意志で発見した、
ということにはならないからです。

人間も物理諸法則にしたがって成り立つ「物体」である、
この意識がもっと正確に広まらないかな、とふと思います。
人間の目的性やロジックとしての悩みというものは
勝手に作った仮定と仮説の上で遊んでいるようなもので、
生き物として自動的に反応してしまうことはあっても
それが世界の全てではなく、
本来苦しむことではないからです。

長い助走区間

1枚、と英数字の1を出したいときに
なぜか"i"のキーをタイプしてしまいます。
"iti"と"1"の回路が干渉するのでしょうか。
それとも文字の形的に干渉するのでしょうか。

ライブドアの話、少し詳しく書いて見ようと思います。

ちょっとした論調として、
「彼は善か悪か」という雰囲気のものばかりですが、
個々の事象については冷静に見たものが良いものが多いです。
自分たちはさんざん通信簿という多面体的評価をされてきたのに、
人を二元論で片付けるのはバランスが悪すぎます。

彼が「古いしきたりを壊す」と言ったその姿勢には
建設的な意味も多く含みます。
カネボウの例にあるように
日本が封建的で閉鎖的な社会構造であることは確かで、
新規参入を拒み、既得権益を守るのに都合のいい
システムができています。

買収劇は少なからず既得権益の上にあぐらをかいていた人にとって
ポストを奪われるという戦慄を感じたものと考えます。
正しい競争原理は必ず必要で、
ソフトバンクやウィルコムが携帯に参入することで
市場原理に沿わないサービス料が改善した経緯と同じように、
最終的に消費者が良い選択をできるよう促されます。

そう考えると、
買収劇は競争原理というより
支配・被支配の関係に近い感じがしてきます。

お金で買えないものはない、このことは
多分バブル的な発想を持っているかなりの人は
当たり前のこととして思っているはずなのですが、
あまりに露骨なので表に出しません。
明言したことは社会的な追い風を得るには不利に働きます。

急成長しすぎたことにも問題があります。
球団買収などを手堅く行い、買収した企業で
実業方面によい成果を上げていけば
顔の見える会社になれた可能性があります。
実業方面に影響が残らないということは
経営が傾いた後で形になるものが残らないわけで、
形がないものは比較的早く忘れられます。

もし彼が社会システムを変えるつもりだったのなら、
支配関係ではなく競争関係として参入すればよかったのだと
考えます。
しかし彼は会社でお金を得る方面に集中しすぎたために
手段を選ぶのを忘れてしまったのかもしれません。

生意気だからつぶされるんだ、
だからみんなもおとなしく言うことを聞きなさい、が世論の結論だと
納得してはいけないのです。
正しいことをし、正しい競争をもって、
しかし会社が大きくなっても巨大企業同士のもたれあいや
談合状態で馴れ合いにならず、
既得権益に対してまっすぐ戦っていく、
そうあるならば社会の風が押してくれたかもしれません。

この国は正しい風を吹かせる力が少し弱くて、
追い風によって大きく育つのではなく
大きく育ったものにより強く追い風が吹く状態で、
そのことに歯がゆい思いをしている人たちがきっといます。

早上がり、早熟ばかりが目立ちもてはやされる空気ではなくて、
風雪に耐えきちんと花を咲かせる人たちをよりよしとするなら
もっとみんなが強くなれたという手ごたえがもてるでしょう。