水曜日, 9月 20, 2006

既に物語は書き終わっている

夏が戻ったような日差しの色です。

以前見たイミダスのページ下コラム集の中に、
「名医という言葉がある限り、医学は科学ではない」
というくだりがありました。

人は自分に自由意志があることを
自分にとっての人間性の根幹として認めています。
「人の意志」が本当は自由ではなく、
物理的プロセスによって既に決められたもののはず、
それならこの世界の全てがどうなるかは
「分からない=決まっていない」のではなく、
人が知りえないだけでもう決まっているはずだと
昨日帰りの電車の中でふと思いました。

現代物理学が示したのは、
この世界には時間軸のある一点でビッグバンという「始まり」が生じ、
全ての現象はそこからの時間発展で起こっている、
という事実です。

高エネルギーの世界では時空のねじれがありますが、
人間が生きる時空では時間が元へは戻らず、
あらゆる現象は、瞬間ごとの厳密解は分からなくても
基礎となる物理法則の組み合わせで動いています。

人の理解が進み、現象論的空想が減り、
人の精神活動も生命も脳が化学的プロセスに従っていること、
そして化学的プロセスが物理法則に従っていることを
そのまま演繹すれば、
自分も人も、実は「今何を考え、次に何を考えるか」は
既に決まっているはずなのです。

人間はどこかでこの物理的世界と切り離された存在があると
勝手に思っていて、
だから「自分の人生を自分で決めて生きている」ことになっていて、
意志と現実は違うもの、
神様はリアルタイムに筋書きを書き換えるものだと思っていますが、
「意志」という何かさえもこの世界が作り出したものであり、
基本法則に一度も手を加えられていないのであれば、
全ての物語は「始まりの時」に書き終えられていて、
時間の流れに沿って現象=プロセスが進行しただけということに
なります。

たとえ神という存在を信じようと信じまいと、
人の心に生じる感情を含めた全ての出来事は
この世界の必然として生じていることは
物理学が証明していることになっています。

かつての全ての文明が滅んだことも、
世界中で戦争が止まないのも、
地球の裏側から食料が届くようになったのも、
そして人が地球上に非常に増えてしまったことも、
たとえば生きがいを持つ人と持たぬ人がいることさえも、
既に物語の中には描かれていた話です。

自分が自由意志で物語をずっと作っていき、
全て自分という存在が
全ての現象とは独立に判断している、としたら
それは未知の只中にずっと放り込まれたようなとても苦しい話なのです。
しかし自分が誰かに合い、さまざまな境遇にあうことさえ必然なら、
私の心がどう振舞うかもまた必然の元にあるはずで、
私に会う人が何を話し何を感じるかもまた必然の元にあります。

自分の体と心は常にある物理法則に従って動いている存在で、
自分が思いこんでいた「自由度」というものは自分にも他人にも一つもなく、
世の中の現象と解釈は時間発展的に必然として起こっているのであれば、
私があることも私が考えることも既に決まっていて、
私が何を為し何を知り、どこにいるかも本当はもう決まっていて、
迷うことが必然なら実際にはもう迷う必要がなく、
人の感情について難しく考えることはなくなります。

この考え、一見「自由度」がなくて不便なように思いますが、
実はその逆で、非常に安心できて意味のあるものです。

火曜日, 9月 19, 2006

都市生活的「自給率」の定義

弁当を詰めてみました。

料理を作ると不思議と心が落ち着きます。
自分が食べる=生きていくということを
自分でまかなえているという実感が
はっきり持てるからかもしれません。

実家には田んぼと畑がありました。
柿や栗やびわがなり、
いくつかの野菜は畑から採れたものでした。

あらゆるものを「買う」ということは、
物を手に入れる流れの中に自分ではない誰かが
仲介していることになります。
そして「買う」という行為に
自然とつながっていない心細さを感じることがあります。

もちろん自然というものがいつも優しいわけではありません。
台風がくるし、旱魃が起きるし、
夏もあれば冬もあります。
それらを安定化するために農業と科学が発展し、
以前より安定した生活ができるようになったのですが、
生きるために人の手を借りなければならないことが
次第に増えていきます。

都市生活者は自給率がゼロなのだろうかと
ふと思います。
農業用機械があるから農業がうまく行き、
よい肥料が作れるから農業がうまく行き、
よい医療があるからお百姓さんが健康に働くことができ、
そういうよい循環は間接的な自給率なのでしょうか。

どうか、自然の力が人に多くを与え続けてくれますように、と
今日も願います。

金曜日, 9月 15, 2006

座禅は目を「閉じない」

ハウスみかんは緑色のまま出されます。

小さい頃読んだ事典の中に、
眠っているほうが静かに座っているより
エネルギーを消費する、と書いてあり、
子供ながらに不思議に思っていました。

眠ることは決して脳を休めるわけではありません。
むしろ忙しく記憶の整理などをはじめます。
ダイナミクスとしては眠っているほうが変化が大きいのです。

最近、目を見開いた状態にせず、
軽く開けた状態にすると気分が楽になるような気がしています。
座禅は「目を閉じる」のではなく、
「うすらぼんやり開いている状態にする」のだそうです。

幸い目は良いのですが、
見えすぎるのも困り者だ、とふと思います。

水曜日, 9月 06, 2006

悲しみの遺伝子も大切に

カフェインは苦手ですが
お弁当と一緒に飲む熱い日本茶は好きです。

特に大きな問題もないのに
なんとなく気分が悲しめな日がかなりあります。
いつも笑顔、というのが
世間としては喜ばれるんだろうなと思いながら
なかなかそうもいきません。

平安時代は男も女も
喜びにつけ悲しみにつけ涙を流したといいます。
その後は無常観、諦念へとつながります。

戦後の復興があって、
笑顔でみんな乗り切ってきたかというと、
なぜか激動の時代を歯を食いしばって、という感じです。

たとえば犬は血種によって性格の傾向が
決まっているように、
体つきの違いと同じように
感情の持ち方は遺伝するような気がしています。

笑顔だと免疫が高まって長生きできる、
そんなニュースが流れていたりして、
じゃあ今日本のご長寿の方がみんな快活で笑顔な
人生を送ってきたか、というと
決してそうではないと思うのです。

良いか悪いかとは関係なく、
この国が持っている一番大きな感情は
悲しみである気がします。

これが大陸のほうへ向かうと、
一番大きな感情は「怒り」だったりして、
戦うことで生きているような感じです。

自分の中にふと生じる悲しみは
ずっと昔から受け継がれてきた
感情の続きなのかもしれない、と思い、
そういう悲しい自分をうまく表現できると
自然と心は休まってきます。

火曜日, 9月 05, 2006

既得権益という壁

理屈の上では問題ないように見えるシステムに
何らかの違和感を感じ続けていて、
それが「既得権益」というものであることに気づいたのは
今朝のことです。

程度の問題はありますが、
一度自分が手にした権利を守るために
他人を排除する、という行動を基本的に好みません。
全体として助けあって生きようとしない者を
人間として理解することは難しいと思います。

「労働貴族」という言葉があって、
縮小しようとする経済の中で
最も問題となる存在だと思っています。