日曜日, 12月 31, 2006

神はカオスに、仏性は遺伝子に

どんなものも福袋になるようで、
ハム詰め合わせの福袋を見つけました。
ハムはいつ食べても好きで外れがないので
一つ買いました。

仏教聖典を読む以外特に何の入力も意識せず、
空いた時間は散歩をしてひたすら寝ていました。
思考というのは醸成するものらしく、
断片的だった記憶にまとまりが生まれます。

この本、左側に英訳が載っていて、
日本語の漢字ニュアンスがぴんと来ないときに
訳を読むと雰囲気がつかめることがあります。

さて、いくら「一切は空」だからと言っても
見えるもの全てが「あるようでないような」には
やはりなりません。
量子論的に言うと物とは「存在確率」の広がりの中にいるので
厳密には確かに「あるようでないような」ではあるのですが、
1kgの鉄が突然消えたりはしません。
ただ全てが線形方程式で記述されるわけではないので、
基礎方程式の形は明確であっても
それを現象として観察する際に非線形性による未来予測不能の状態や
統計的現象を一つの結果に置き直した場合の
「運」とでも呼びたくなるような確率過程があります。
この意味で確率は上げられますが絶対ではありません。

ひとの苦しみとは無明と貪愛、と書かれていて、
無明を解決する方法は物の理、因果を知ることとあります。
確かに物理が分からないままでは
教典も呪文のように曖昧な感触しかつかめないと感じるからです。
西洋の現代物理はそう言う意味で
再現性に「明るい」学問です。

物理、それらが全て明らかになったとしても残るのは
貪愛、もし言い換えるならば「死の恐れ」です。
生き物はその基本として死を遠ざけるようプログラムされているので
ひとも生き物である以上死の恐れを持ちます。
そしていくら物理が分かっても「死の恐れ」だけは
今のところ別途扱わなければなりません。

本の中では「仏性」が生じる、というくだりがあって、
この言葉は読み進んでいくと
現代では違う言葉に近くなっているような気がします。
仏はひとではなく、形がなく、普遍的に人の世にあり、
しかし普段は隠されていて、
ふとした折に人の心から発動するもの、というくだりで
最初は「物理」かと思ったのですが、
「仏がなくても物の理はある」というくだりからして、
「仏性」と訳されたものは「良心」と呼ぶものではないかと考えています。
貪愛を治めるものは仏性=良心の発露によるものだろうと
考えるのはどうでしょうか。

犬に生まれながら性格の硬軟があり、
それが遺伝子によって書かれた性質であるように、
良心の作用する理由は遺伝子に常に書かれていて、
捨てることはできず、その発動を待っているとすれば
だいぶ理解ができます。

ジャンヌ・ダルクが「神の名を勝手に語った」として
改革を為し始めた後に陥れられますが、
何に根拠を持って神を告げたのか、と問われたときのジャンヌは
「ただ神と良心に拠って」と答えた、というくだりを
伝記で読みました。
死の恐れに打ち勝てるものがあるとするならば
何らかのよりどころが必要であり、
仏性とはそういう「発動」を求めるものであるように思います。

遺伝子の読み解きが始まって、
「仏性」に相当するコードの仕組みを見つけ出せるのか、
私にはまだ分かりませんが、
それを見つけ出した時「良心の発動」が
この人の世に救いをもたらすことを願っています。

瀬戸内晴美と瀬戸内寂聴

じっくりことことがよい煮物の鉄則、
という不文律のようなイメージを振り払って、
「実験的に」思い切って圧力鍋で
黒豆を炊いてみました。

煮方は黒豆を買った袋の裏に書いてあって、
水6カップ、砂糖150g、塩としょうゆが小さじ1/2をはかり、
水を沸かして砂糖と塩としょうゆをいれ、
沸いた中に黒豆を放り込み、
そのまま一晩おく、とありました。

袋の記述ではそのあと水を足しながら4時間煮込み、
さらに一晩おくようにとあったのですが、
そこまで待っていられないなと思い立ち
圧力鍋で沸騰後12分加圧して火を止めました。

豆がしわになるとか、ふっくら煮えないとかが
成功と失敗の基準点で、
豆はしわにならず、皮も破れず
つやよくふっくら仕上がりました。
来年から圧力鍋で黒豆を作ろうと自信がつきました。

瀬戸内晴美、とは瀬戸内寂聴さんが
仏門にはいられる前の作家名で、
「愛の倫理」という本を
18切符で神戸へ向かった時、
駅のガード下の本屋で手に入れました。

女性が働くことの難しさとともに、
結婚と離婚を経験し、道ならぬ恋をし、
様々な人の像を経験した中身が綴られています。

仏教の本の中に、
「迷いや過ちから仏の種が生まれる」というくだりがあって、
仏教では成功や失敗や善や悪と「決めてしまう」ことがなく、
縁起の不思議を説くその様は
強い迷いの中から自分の行いを元に身をもって一つ一つ確かめ、
道を求め続けた「晴美さん」だから
人の心に訴える優しさを持つ「寂聴さん」になれたのだろう、と
ふと得心したような気がしています。

安らかさ、という言葉を元に、
迎える年をよく過ごせますよう
いつも願っています。

木曜日, 12月 28, 2006

過ちと誤り続けることと

友達の話では、武蔵野線は地理的特性からも線路状態からも
止まりやすいそうです。
ダイヤが遅れるたびに社内放送で
「お客様にはお急ぎのところ
大変ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
という台詞が流れます。

日本人は急いでいることが前提で、
それは何かに一生懸命であるポーズになっていて、
しかし本音では誰も忙しいことなど望んではおらず、
ところが世の中に対して文句を言うときは
「私達は一生懸命やっているのに」と言い、
そして件の車内放送が文句に対する返答になっている、
という不思議な構図です。

忙しいのは臨まないのに
忙しさの呪縛から逃れられない、という理由は、
精一杯を続けなければ生きていけないという
潜在意識があるからで、
その気持ちが自分の喜びも人の喜びも
受け入れられなくしてしまうようです。

何かがうまくなるためには
人が好んで失敗と呼ぶ、
試みたけれど思う結果に至らなかった、
という体験をしておかなければならない、という
ある種の絶対的な定理によく戸惑います。

うまく行く結果は
それ以前の失敗経験を種としてのみ導かれるものなのですが、
失敗と呼ばれるその体験の最中は、
こんなに辛いなら試みなければよかったと
心の底から思ってしまうからです。

だからといって真剣にならず
最初から成るようになるという気持ちで望んだのでは
何もつかめないままです。

人が失敗と呼ぶ「それ」は一体何なのだろう、と
今日も思いを巡らせます。

「過つは人、赦すは神」という英語の諺があって、
それはその通りだとふと思います。
ここで神と呼ぶものは人のようなものではなく、
この世全てと訳し直したほうが適当なものです。

「神」が「難しい」のは、
それがあまりにも強力で複雑な概念であるために、
正しいバランスの元で用いるためには
受け入れる人の側に相当の容量が必要になることです。

火曜日, 12月 26, 2006

昔は良かった、にまつわるあれこれ

わたしたちは昔に向かっても夢を見るようにできているのかもしれません。
中島義道の本の中で、「昔は良かった」と語る人を
「その印象は正確ではない」と言い放つ一節があって、
しかし「昔は良かった」と多くの人が
共感して言いたくなる理由はどこかにあるのです。

未来に対して夢を描く場合、
現在の物事と今まで得た情報から連想する想像で世界を作るので、
比較的構成要素が少ないのですが、
未来には過去にはない
「現実化する可能性」という特性があるため、
楽しみが大きいのです。

一方で過去は現実化する可能性は
既に失われているのですが、
たくさんの情報があるために
その過程を自分にとってなじみのよい形に
変えてしまうことはさほど難しくありません。

近いもの同士が一番うまくいかない、というのが
世の習いのようで、
過去と未来は遠く、
しかし触れられずにいるから自由な想像ができ、
現在は近く、
触れられるほどの距離にいるから状況が縛られています。

過去の記憶、未来の希望、
どれも癒しや安らぎになれるとよいなと願います。

月曜日, 12月 25, 2006

素粒子の思想

たとえば素粒子でもっとも小さなクォークという単位は
分割しても必ず対で生成して
決して単体では観測できないとか、
真空という場は何もない場ではなくエネルギーが非常に大きくて
そこでは非常に短時間の間に
高エネルギーの粒子が絶えず生成・消滅しているとか、
なんとなく相通じる思想のようで面白いのです。

死の恐れは超えられるか

固い床に寝ると
なぜか目覚めがよくありません。
ホットカーペットで寝ても
やはり目覚めがよくありません。
しかし固い床やホットカーペットで眠ると
次の日は眠さより辛さが勝るせいか
起きていられるような気がするから不思議です。

神戸に地震が起こった日、
消火活動を行おうとした消防隊員は
救命活動を求める人の渦に巻き込まれたといいます。
常時であれば叶えてあげられる行動ですが、
非常時には要求が処理能力を超えています。

消火活動をしていると、
瀕死の妻や子供や夫を病院まで連れて行ってくれと
人だかりができ、
振り払うと「人殺し」と罵られたといいます。

それらの声に応じて救命活動にあった者があったといいますが、
結果として消火活動が不十分であったために
火事による犠牲者が増えてしまったと記事は伝えています。

私の中の今までの問いは、
「ではどうすればよかったのか」と考えていたことで、
消防士の視点からこの話題を考えています。

では自分が傷を負った者の立場なら、と考えると
恐れはあるのですが、応じてくれなかった人を責めるところへは
向かわないだろうと思います。

しかし自分が傷を負った人を見守る立場なら、と考えると、
わたしは必死になって誰かに助けを求めたくなるだろう、
そして応じてくれないものを責めるかもしれないと
ふと思いました。

今までと今の私にとってとても辛いことは、
私自身の身の上が辛いことではなく、
私が見守る人の身の上が辛いことです。
なぜそうであるのかはよく分かりません。
そして私が大事に思う人、というのは
自分の身の上の都合よりも優先できるかどうか、という点で
明確な区切りがあります。

仏教の最初には、死に至る過程は誰も助け合えない、
という内容を含んで書かれています。
教は死さえも、また愛着としてさえも執着してはならない、とあり、
確かにそうできれば心の安らかさは得られるのかも知れないのですが、
それはある日分かったような気がして安堵し、
しかしまたある日問題を引っ張り出しては悩みます。

発祥の地インドでも、それを伝えた中国でも、
一方はヒンズー教の台頭により、
もう一方は文化大革命時の訴追により
仏教はそれらの地から遠く離れてしまったと聞きます。
インドと中国に仏教活動を再建する努力をしているのは
実は日本のお坊さんなのだ、と聞いて
不思議な感じがしました。

それが何を伝えるのかは分からず、
それが広まったからといって善い解釈へと
みんなが向かえるようになるわけでもないのでしょうが、
以前誰かが解いてくれた問いというものは
素粒子物理学の基礎と同じように
脈々と語り継ぐ価値はあるなと認めています。

そして私と同じ思想を持つ特別な者が
私の姿を見せてくれたからこそそこに至れたので、
その不思議にとても感謝していますが、
一方でぬぐえない死の恐れを共有していたことを知っているので、
私自身のことのように心配しています。

水曜日, 12月 20, 2006

12/1に出会った一句

眠れず、ホテルの書机の引き出しを開け、
夜中に開いた仏教聖典に載っていた台詞で、
不思議と心が休まりました。

「例えば、蓮華[れんげ]が清らかな高原や陸地に生えず、
かえって汚い泥[どろ]の中に咲くように、
迷いを離れてさとりがあるのではなく、
誤った見方や迷いから仏の種が生まれる。」

「あらゆる危険をおかして海の底に降りなければ、
価[あたい]も知れないほどにすばらしい宝は得られないように、
迷いの泥海[どろうみ]の中に入らなければ、
さとりの宝を得ることはできない。
山のように大きな、我[が]への執着を持つ者であって、
はじめて道を求める心も起こし、さとりもついに生ずるであろう。」

今度1冊買おうと思います。

月曜日, 12月 18, 2006

たとえば、政治というものについて

普段お世話になっている人を呼び、
肉を2kg、野菜、きのこ、とほうとううどんを買って
豆乳しゃぶしゃぶにしました。
豆乳を入れるとあくが固まるので
スープが澄んでうどんもおいしく食べられます。

あっちを立てればこっちがたたない、というのが
どうも人の願いの原則のようで、
政治は何をやってもなぜか怒られています。
改革をすればついていけない人が困る、
保守的であれば腐敗や談合で困る人が出る、
とどんな路線に向かっても100%の結果が出ません。
ということは、選択する行為自体が罪になるのなら
人はみな罪を負うことにもなります。

税を上げれば今事業に困る人が出る、
でも上げなければもっと困る人が増える、
たとえばこういうことの繰り返しです。

ちなみに善と悪という概念は
結局のところ生と死を読み替えたもので、
自分が生きられるようになるものを善と呼び、
生きられないようにするものを悪と呼ぶのだろうと
ふと気がつきました。
だから「自己犠牲」を払う人は
「他人にとって生きる可能性が増える」から善だと
「自己犠牲を払ってもらった人」が呼ぶのです。

木曜日, 12月 07, 2006

優しい風に吹かれて

納豆に漬物、特に青菜を入れるのが好きです。
とてもよい食感と香りになります。

今必要なものが一体何なのかとふと考えます。
町の吊り広告は妙に偏っていて、
男性誌は欲望を前面に押し出したような内容で、
女性誌は愛されを前面に押し出したような内容で、
一体それで何が満たされるんだろう、と
ふと思ってしまうあたりに
自分は「強い」人ではないんだろうなと感じることがあります。

生きることの本質は生きることそのものであって、
欲があるから生きていけるのだとは思うのですが、
何を欲に選ぶかというところが実は任意性があって、
みんなが幸せになってほしいという願いが欲であると
昨今の時勢ではあまり欲が満たされていません。

幸せの定義は難しい、といいますが、
幸せなときには笑っていて、
死の恐れ、正確には死のイメージの恐れから
意識が遠ざかっているものです。

どうしたら心から笑えるだろう、と思うときに、
無心で助け合えたとき、という連想が浮かびます。
松本紳助の本にあった一節で、
友達とは助け合わないもの、というくだりがありますが、
もしそうであるとするなら
心から笑うための条件というのは
それぞれができるだけ助け合わないでいられること、
あるいは助けると助けられるを意識しないこと、となります。

ふと疑問に思うのは、
それなら溺れそうな時は一体誰に助けを求めればいいのだろう、
という点です。
ソーシャルワークが常に完全に機能していればいいのですが、
実際には荒いざるのように漏れがあります。

時々会う友達とは無心で笑えるのは、
それぞれの生活の実体部分が繋がっていないからで、
相互作用が生じる関係では
作用が強くなればなるほど
なかなか何もかも忘れて笑うというわけにはいかなくなります。

相互作用が非常に強く、しかも無心で笑える、というのが
ある種の理想で、
果たしてどんなロジックが頭にプログラムされれば
これが叶うのかと思いを巡らせています。