日曜日, 3月 25, 2007

ナショナリズムが意識されるとき

気分が昂ぶっていることがあって、
塩を2グラムぐらいとDHCのカルシウム/マグを10錠ぐらい、
加えてプロテインミルクを飲むと体が落ち着きます。
でたらめな処方のようですが、
半年くらい調べた結果です。

体が落ち着いたからといって
それで万事解決と言うことはまるでなくて、
問題として持っている意識は少しも変化していません。

テレビでスケートやスポーツ競技を見ると
国民の代表という視点が少なからずあって、
ナショナリズムについて無視できなくなることがあります。

各選手はそれぞれのベストを持って競技に臨んでいて、
しかし解説や観客は国同士の戦いのように表現することがあって、
そのたびに違和感を覚えます。

ニッポンが勝ったら嬉しい、ニッポンが負けたら悲しい、とは
言いたくない、と人に話すと、
それは変だ、この国の誇りと自覚はないのか、と
暗に聞かれているような雰囲気になることがあります。

ニッポンが勝てば奉り上げられ、
ニッポンが負ければ文句を言われるか無視される事態に当惑するのは、
評論するその人自身が努力した訳ではないのに、と
感じるからです。
自分の身の上について評価するのは妥当ですが、
自分と国を一体化した視点で話をするのは変だと思っています。

それでは何か、あなたはこの国がどうなってもいいと言うのか、と
聞かれるような事もあって、
しかしその視点は「仲間意識がないと不安が増える」という
半分無意識に根ざした感覚から問われていると感じます。
不安の解消のために仲間が必要だとは思わず、
純粋な喜びの共有のために仲間が必要だと思っていて、
不安から仲間を作るのであれば
それは束縛であって自由はありません。

個人はあくまで個人です。
国というものが個人の意識のベースに大きな影響を与えることはあっても、
個人と国が同一の視点になることはありません。

久しぶりに新聞を読むと、
中国では昨年暴動が11万件あったという記事が出ていて、
それで考えることになりました。

行動に訴えるなんて、と新聞の論調は言いたげなのですが、
暴動の中身はたとえば貧しい家の子が病院で手当をしてもらえなかったことに
地元住民が腹を立てたとか、
求めることに対して市民が立ち上がれる土壌があって、
また政府や法に対して国民は信じることを基本としないベースの思想があって、
その流れで見ると訴えを起こせることはある意味で必要なことです。
ただ意識の一番奥底に「不信」があるというのは
個人的には哀しい気がします。

中国の思想書にその影響はあるのかもしれなくて、
「この世界で信じられるのはわたしだけだ」と説いた本の一節を
よく目にします。
一生のうちで何度も国がひっくり返るような歴史では
どうしてもそうなってしまうのかもしれません。
ただそういう世界であっても、
ひと括りに国で人を判断するようなことはせず、
自分が出会う一人の人として向き合っていこうと思っています。

隣の国であり、漢字も文化も大量に輸入しているのに、
思想のベースがこれほど違っているのはなぜだろうと不思議に思います。

「個人」という区分を取り去ってしまおうと思ってから、
こういった思想について自我を持って誰かと話し合おうとする姿勢はなくなってしまい、
人が語る「主張」によく耳を傾け、
そういうこともありますよね、とよく理解しながら聞くようになって、
人の関係はなんだか円滑になったりするのかもしれませんが、
わたしが持っている思想はやはりどこか違っていて、
ずっと以前に一人でいなければならなかった頃のように
わたしは「目に見えない誰か」に自分の気持ちを話しかけています。
それで大抵の日は事足りるようになりましたが、
こういうことを存分に実在の誰かと語り合えたらどんなにかいいだろう、と
やはり思う日があるのです。

土曜日, 3月 24, 2007

右巻きと左巻きの正しさの主張

彼岸までの寒さ、彼岸までの暑さです。
ハッピーマンデー法案で天皇の行事に由来した
祝日は月曜日に移行しても、
春分の日と秋分の日は地球の動きで決まっている日で、
休みを勝手に動かせません。

日本人は「権利」を輸入しました。
それは主に明治から戦後にかけて行われ、
選挙権から始まり、自由権へと移行します。

権利を主張する、という行為は法で認められているのですが、
これを主張すると大抵「わがまま」だと言われます。

権利という言葉は人が「人の誰かから」与えられたものではなく、
人が「神から作られた」事を前提に、
一人の人に自動的に与えられている概念です。
個人という意識がなければ権利という意識はなく、
その意味で日本では「個人」であることを認めていない向きがあります。

日本人の意思決定の由来は
「集団で決めたこと」であって、
これは集団が「正しい判断をする」という前提に立っています。

集団での決定と法での決定は
いうなれば右巻きと左巻きの違いであって、
巻き方はどちらでもかまわないのですが、
巻く方向が一貫して同じであることが必要です。
集団での決定にせよ、法での決定にせよ、
人は間違うもので、
その認識があればよいと思っています。

水曜日, 3月 21, 2007

見送るもの

タンデム加速器の内部です。
役立つことより美しいことについて考えることがあって、
役立たなくても美しいものがあって、
でも役立ってなお美しいものがあります。

言葉遊びのように考えると、
役立たなくて美しいほうが純粋だと思う向きと、
美しいということ自体が何らかの役に立っていると思う向きがあって、
人は時に必死に無秩序の美を表現したがるのですが、
どうやっても美しいの中には何らかの「ルール」が内包されているようで、
それをおもしろく感じます。

新しい靴を買い、古い靴を捨てました。
靴はよく底がはがれてしまいます。

鴨志田穣さんが腎臓ガンで亡くなったとニュースで見ました。
漫画でよく見ていた人です。
四国出身の漫画家はなぜか独特な雰囲気がある気がして、
それは巡礼の風土のせいだと思っています。

ボスを亡くしてからもうすぐ2年になります。
老いる苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみは
人が代わってやることのできない苦しみだから、と
仏教の本は慰めを出してくれます。
確かにそれでいいのだろうと思いながら、
今生きる者に生き続けることを望むのはいけないことなのだろうかと
立ち止まって考えたくなります。

日曜日, 3月 18, 2007

塩分制限は治世のためか

フルーツというのはそのまま食べるものだと思っていて、
加工したものはそれほど食べないのですが、
マンゴーのドライフルーツは好きです。

夏になると調子が悪くなる、
この理由が分からず原因を探していました。
http://www.gssijapan.com/reflib/refs/604/SSE_88_Content.cfm?pid=38&CFID=5634596&CFTOKEN=74317812
塩分を控えめにして水分補給ばかりすると、
低ナトリウム血症になる人がいるというのです。
この症状は正常な人でも起こるもので、
副腎ホルモンに関連した症状としても現れます。

考えてみると塩分控えめな食事を続けていて
積極的に塩分を取ることを考えていませんでした。
低ナトリウム血症になると脳関門のブロックが崩れて
脳圧が上昇し、意識障害が出るというのです。

それで塩を相当多めにした食事を1週間続けてみたところ、
頭痛や意識の分離が嘘のようになくなり
ゆっくり眠れるようになりました。
http://homepage2.nifty.com/motoyama/salt.htm

なぜWHOも厚生省も「減塩」をやたらと推進するのだろう、と
不思議に思っていたところ、
古来中国の兵法では戦のときに兵に塩を増した食事を与えると
戦意高揚し、
戦が終わって塩抜きの食事にすると
荒れることもなく従順に指示に従う、という一節があって、
「健康のために」塩を抜くのではなく、
「治世のために」塩抜きを奨励しているような気がするのです。

塩が厄介者であるならば、
戦前に塩を国家の専売品になどしないはずです。

コンビニに寄って食べ物を調べてみたところ、
どれもこれもナトリウムが少なく、
その上で水を飲んでしまうとすぐにナトリウム不足になってしまいます。

塩が高血圧の原因であるという論拠は
塩分に高い感受性を持った人が腎機能低下を起こした際に
高血圧になるというだけで、
本態的高血圧と塩分の間には相関がありません。

これからは旅先に塩のタブレットを持って出かけ、
たくさんカレーを食べて過ごします。

A Perfect Gift

1979年の今日は日曜日で、
1979年に生まれた人は
同じ曜日の誕生日になります。
ちなみに同じ曜日になるのは
1979年、1984年、1990年、2001年、2007年で、
今年は5回目です。

金曜日, 3月 16, 2007

夜中の一こま

CHAGE&ASKA「男と女」が好きで、
最近youtubeで探して聴いています。

木曜日, 3月 15, 2007

最近聞く食育ということば

Bloggerのフォントサイズ設定画面が以前と変わっていて、
なんだ聞いてないじゃないか、とふと思ったのですが、
私に聞かなくても変わるものは変わるわけで、
脳はイレギュラーを処理しづらい装置のようです。

教育に対して食育という言葉があって、
大人は子供にあれこれするのが好きなようですが、
当の大人は新幹線に乗って
朝から浴びるように酒を飲んでいたりして、
それで食育という言葉について考えることになりました。

昔から医食同源という言葉があって、
この「医」は「医者」ではなくて「医療」か「治療」、「医薬」です。
空気、水と並んで体に「入力する」ものです。

何を積極的に取り入れるか、という問いに対して、
あれかこれかと探してみるのですが、
どの食品もそれなりに健康効果があって、
そのままでは「まんべんなく食べなさい」という
回答にしかなりません。

個人が感覚として身につけるのは
味覚として好みである食べ物と、
そのときの体の調子がよくなる方へ
向かわせる食べ物が一致するようにしておくことではないかと
思っています。

甘いものが味覚として好きで食べることと、
体の血糖値が下がって甘いものを食べることは
現象として同じですが意味合いが異なります。
前者は嗜好品としての食べ物で、
後者は治療的な意味合いにも取れる食べ物になります。

話題の健康食品についても、
人によって効くか効かないかが異なります。
これは医薬品でも同じで、
効く薬と効かない薬があります。

自分では気付かない変化を見るために
病院の検査がありますが、
検査結果が変化を反映しないことがしばしばあり、
この場合「病院では治せないが調子が悪い」になってしまいます。
こういうものを「本態性なんとか」と命名していて、
一見分かったような名前であり、
治療法は分かっていません。

担当医の専門によっても得意な症状は異なるので
見つけてもらうまでに時間がかかります。

郷土料理についても時折考えます。

材料は主に土地のものでできていて、
どう調理するか、どんな味にしているかが
その土地に住むために必要な構成になっています。
野菜を漬物にするのは、
野菜を保存して長期間食べるだけではなく、
発酵によってアミノ酸を増し、
労働で不足しがちな塩分を補えるようになっています。
それが生きるために重要だったので、
ヨーロッパではスパイスを金と交換してでも手に入れようとしました。

カレーは暑いけれど果物などの少ない国で
新鮮な果実が手に入らない場合に
殺菌や消毒のためにもスパイスを使い、
体調に応じて体を温めたり冷やしたりする成分を使って
調合して作られる食べ物です。
食べ物が体をその土地に慣れる手助けをしてくれます。


日本人の食はうまさという面が強調されますが、
体調に応じて食材を食べ分けるという発想はあまりなく
バランスが取れていて毎日違うものをという感覚のほうが
重視されているように思います。

好き嫌いなく食べられるようにする目的は、
どんな土地の食べ物でも食べて生きていけるようにするためと
そのときの体に効く食べ物を
感覚のみで嫌って避けないようにするためだと思っていて、
「好き嫌いがないから立派」ではないと思っています。

協和発酵の宣伝を見ていると
動物は体調に関する本能的な習性を持っていて、
習いもしないのに泥を食べて消化をよくしたり、
体調が悪いときだけ薬草を選んで食べたりします。
アラン・ド・ボトン「哲学のなぐさめ」のなかに、
ヤギは千種の草の中から薬草のディタニを本能的に探し、
しかし人間はモグラの肝とか鳩の血なんてもの、
当てになるかどうか分からないものを治療に使う、という
モンテーニュの引用があります。

人は「自ら環境を変え、その世界に順応する」ための部分が大きく、
だから飛行機に乗れる世界になったら
誰もがあっさりと空を飛ぶことに慣れてしまうのですが、
「環境に順応する」ことは「習性をなくす」ことと等価であって、
それで人間は「生きるための方法」を体の中にほとんど持っておらず、
長い時間をかけて世界の中から探し出さなければなりません。

動物がある程度本能という別種の知識で満たされているとしたら、
人間はほとんど知恵を持たずに生まれていることになります。
めぐりめぐってこの話は、
食べ物を食べるときには
自分の体調と食べ物を食べた結果の体調について
よく実験して知っておくことが大切だという提案になります。

月曜日, 3月 12, 2007

写真について考える

音にあわせるゲームが好きで、

ゲーセンにある「太鼓の達人」がしたいです。
写真はAVFサイクロトロンの銅電極です。
記憶が問題なのではなくて、
記憶への執着が問題なのだ、ということがあって、
それで写真について時折考えます。
写真に人が写っていると、
その写真は人を思い出すきっかけになります。
椎名林檎の歌の中に、
写真になったらあたしが古くなるから、というくだりがあって、
なるほどなと思うことがあります。
友達にも写真は撮らない、
自分の目で見るんだ、という話があって、
それは必要なことだなと思います。
ただ写真は「文字」では表現できない情報を上手に残すことができて、
それ自体は情報の共有をするために便利です。
カメラの充電器が見つからなくなったのもきっかけになって、
この半年ほど写真を撮らずにいました。
別の機械の充電器が使えることがわかって、
久しぶりにシャッターを切りました。
写真は「あるものの記憶」でしょうか、
それとも「写真そのもの」でしょうか。

木曜日, 3月 08, 2007

脳は入力端子が足りない

今年の東京の開花予想日はわたしの誕生日です。
この日はたいてい卒業式の日でもあります。
4月1日まで別れと出会いの2週間です。

マリオネットは「あやつり人形」で、
なぜかこの言葉には好ましい印象が当てはまりません。
日本風に言うなら人形浄瑠璃でしょうか。

マリオネットの動きを出す仕掛けは
十字に組んだ木片に糸をつけて
人形の各部に結び付けたものです。

人形の各部が動くかどうかは
糸がそこに結びついているかどうかで決まります。
間接的には二つの糸の動きの差を利用して
結びついていない部分の動きを定めることができます。
この場合糸のない場所の動きと
糸のある場所の動きは連動し、
二つの場所を独立に定めることはできません。

制御理論のシステムへの適用の際に
その系が可観測、可制御であるか議論されることがあります。
可観測はその系の状態を完全に決めるための情報が
系に繋がれたモニタの出力値から決定できるかどうかの判別で、
可制御は観測量から求められた出力によって
系の運動を決定できるかどうかの判別です。

脳はもちろん入力と出力をもつ器官ですが、
一般に制御系を「出力」とみなすように、
脳は出力器官として見られます。
表情の発生、意思の発生、記憶の再生、行動の発生など、
外界、つまり物理的世界にとって
脳の出力は入力より重要視されます。

脳が専ら出力であるのはあくまで物理的現象に対してであり、
個人の「意識」にとって脳の一切の働きは入力となります。
そして脳は光を入力され、温度を入力され、
触覚を入力され、音を入力され、
その他さまざまなものを入力されます。

思い浮かぶこと、思考することは
脳の出力端子の一部を脳の入力端子につないだ状態です。

脳の出力能力側を試されることは頻繁にあって、
運動にせよ会話にせよ
それは脳の出力側の話です。

入力と出力を読み替えると
外界の反応を出力とすることを学習と呼んでいます。

脳は一般に体の自由度に対してサイズオーバーであり、
もし人に手が10本ついていたとしたら
脳のサイズ的にはそれを完璧に動かすことなど朝飯前です。
そして脳は体を動かすだけでは飽き足らず
物を作り、社会を構成して、
脳の限界まで大きなシステムを要求します。

脳が体に対してサイズオーバーであるということは
重要な意味を持っていて、
それは視点を反転させて
「脳」をマリオネットの人形側、
「体」をあやつり人形の糸と組み木側とした場合、
マリオネットには関節の可動部がやたらとついているのに
それに対応する糸が足りないことになります。
糸を使うだけではマリオネットはチェーンのように
形を定めることができず、
「何をやっても満たされない」という、
つまりいかなる外界の刺激によっても
脳は満足する状態へ制御できない場合があるという
誰もが経験する現象を発生します。

つまり、脳は体=外界をほぼ制御できますが
体=外界の刺激のみでは絶対に脳を制御できません。
もし制御できる可能性があるとしたら、
その方法は脳自身の一部を出力として
脳自身の入力と結びつけることだけです。

脳の働きにほぼ直接接触できるものは「シンボル」で、
これは顕在側の思考がシンボルを必要とすることと
深い関係があります。
本を読むことは知覚のようでいて、
実は脳自身がシンボル=文字を翻訳し脳に再入力することです。
曲を聴くことも全く同じで、
知覚を脳によってシンボル=音の流れ化します。
そして脳はあちこちが繋がっているので、
記憶はあらゆる連想と連動します。

だから物としては紙とインクでできた破れかけの小説が
人に涙させることができるし、
ノイズの乗った古いラジオの曲が
人に過ぎた昔の記憶を呼び起こすことができます。

そしてこのシンボル化は知覚よりも圧倒的に強力で、
人の動き自体に影響を与えます。
ペンは文字というシンボル、剣は体による直接的な入力であるなら、
体が感じる死の存在さえ思想は乗り越えてしまう、
「ペンは剣より強い」という言葉はそれを端的に示しています。
この原理を応用しているから
法は「言葉」という形のないものであるにもかかわらず
社会を構成する要件となります。
自爆テロを起こす人が「死ぬと天界に花嫁が待つ」という思想を
信じている、これは脳と知覚のバランスを考えると
自然な話のように聞こえてしまいます。

この感覚をもうすこし延長すると、
たとえばおいしい食事でいつも満足できるのであれば
これは体の入力で脳を制御できる好ましいことかもしれません。

しかし人はその生きた時間に応じて
脳の能力が幾何級数的に増していき、
シンボルは時間に応じて重要さを増してしまい、
だから「何をやっても満たされない」は
強力になりすぎた脳の制御不能状態なのかもしれません。

いままでの話がおよそ合っているならば
その満たされない最中で思い出さなければならないことは、
「満たす何かを外界に求めて探しまわり、
満足する強度の強烈な入力を求める」ことではなく、
「わたし」という脳が「わたし」を制御することです。
そして「自分の最大の敵は自分」というありふれた台詞は
「わたし」という脳と「わたし」という脳の対立状態となります。

しかし「わたし」が「わたし」の敵なら、
わたしはわたしと争う必要は本当はないのです。
なぜなら、脳と体の力関係から連想するなら
脳がシンボルを振りかざして自身と争うことは、必ず体の反応になって、
この外界に争いをもたらすことになるからです。

水曜日, 3月 07, 2007

物理が問う悩み

電車の中で自分の記憶を思い出していると
ふと眠たくなり、目覚めたら降りる予定の品川駅でした。
4時半は雨が降っていて、
500円のビニールジャンプ傘をコンビニで買いました。

科学、といった場合、その実行力の源は
おもに物理と数学と実験の三重接点に存在しています。
実験に対して仮説を立て、
物理は数学の一部を使って「閉じた話」を作ります。

物理の困ったことは、何も実体として力を持つだけではなく、
正しく証明されると翻すことができない点にあります。

非線形微分方程式の議論から発展したカオス理論と
地球の大気のシミュレーションが結びつくと、
日本で蝶の羽ばたきがあるかないかで
アメリカの竜巻が発生するかどうかが変わる、という
「無限小の誤差は巨大なシステムに無視できない影響を与える」
というたとえに結びつきます。

この話、たとえが「蝶」にしてあるのにはおそらく理由があって、
ある連想をしないように誘導しているではないかと感じるのです。

「蝶」を「わたし」に置き換えると、
わたしがこの瞬間に東に向かうか西に向かうか、
ただその選択を変えるだけで
この世界には無視できない影響が発生し、
それはある場所で竜巻を発生させて誰かの生を失わせ、
ある場所では津波を食い止めて誰かの生を保存する、
ということになってしまいます。
わたしは「かたち」である限り、そして存在する限り
知らないある人の生を保ち、別のある人の生を奪う、
そういうことを繰り返していることになります。

生と死が人の通念でいう善と悪のままで固定されるなら、
わたしたちは一切の例外なく
自動的にみな賢者で、そしてみな罪びとです。
自らの選択によって、ただ存在するだけで人の生と死が決まり、
それを罪だと責められるのだとしたら、
もうわたしは「かたち」ではいたくないな、と考えることがあります。
しかし「かたち」であるわたしを手放したとしても、
わたしを構成するものはこの世界に拡散して、
ある日のある部分は誰かの飲み水になり、
またある日のある部分は銃弾の鉛になる、
それはまた誰かを喜ばせ、誰かを苦しめる、
だから「わたし」の「かたち」はいつまでたっても
善と悪の混在状態を離れることができません。

この思考の膠着状態から離れるには
宇宙の始まりに目を向ける必要があって、
超高温のビックバンの瞬間にはどんな生き物も存在せず、
また宇宙の時空はたった1つの不可分な点から発生していて、
従って本来善と悪に分離できるものは「この宇宙の中には存在しない」
という点で善と悪の分離を消すことができます。

それでも善と悪、ひいては生と死を想うのは、
自分の中に確かな生きる喜びを知る時間が与えられ、
それがとてもすばらしいものであると確信していて、
生の中に喜びがあることと
すべての人が感じられたらどんなに素敵なことだろう、と
そんな思いを持つからです。

だからわたしはものである部分がわたしなのではなくて、
すべての人に生きた確信を見出せるよう願うこと、
この世界では表出も証明も不能な意思、それだけが
わたしの持ち物であってほしいと思っています。

月曜日, 3月 05, 2007

問うこと自体の問い

縁あって田沢湖に行きました。
スノーボードをウェアまで借りると
1日3500円です。
スノーボードは2回目です。

自分が目覚めている間に思うことはたくさんあって、
それは決して口にされることはなく、
それらは聞けばきれいなだけの言葉でできているわけでもなく、
朝6時過ぎに苦しい気持ちになり、
7時過ぎに心が静かになり、
眠たさに誘われ、今すぐわからない場所の事情を思い、
流れる景色の美しさにほっとしたり、
気持ちは昂ぶってひどく不埒な気分になったり、
私自身に何かを問うことがあったり、
言えなかったたくさんのことに謝り、
納得のいかないたくさんのことに怒り、
思いを形にできぬたくさんのことに悲しみ、
そういうことを繰り返しています。
思考の一部を他人が覗くことができたら
どう思うだろうか、と不思議に思います。

この中で、問いかけの時間はずいぶん長くて、
なぜだろう、と思うきっかけを探すのに
少しも苦労しません。

しかし、どうしていろんなものを問い続けようとするのか、
その現象自体を問うことは発想しなかったように思います。
それは掛け算の九九のように体の一部になっていて、
自動的に問いが始まるような感覚です。

「問い」と「答え」のセットのようなものがあって、
学校で習い始めるのはこの反復です。
小学校には「自分で考え」から始まる標語が掲げられていました。

「問い」は主に言葉でできているので、
問いを作る段階は慎重に行う必要があります。
たとえば、言葉で「人はなぜ空が飛べるのか」と問いを発した場合、
人は羽根がないので空は飛べず、
「なぜ」に対する答えがありません。

「問い」が多く使われる場面は、
「私を揺るがすもの」に直面したときです。
その揺るがすものに近づきたい場合それは「興味」となり、
それから遠ざかりたい場合それは「恐怖」となります。




金曜日, 3月 02, 2007

アンパンマン考

昼間あまりにも暖かかった上に寝不足が重なって、
午後は睡魔とともにありました。

アンパンマンとバイキンマンは懲りることなく
15分一本勝負をしています。

バイキンマンの「欲」は大きかったり小さかったりするのですが、
干し柿が欲しいとかお菓子が食べたいとか
わりと即物的な欲求が多いです。

ふきのとうくんというキャラクターがいて、
そのストーリーがやなせたかしらしい雰囲気だと思いながら
見ていました。

ふきのとうくんは心の世界がこの世界に影響を及ぼすキャラクターで、
心に暖かいものを思い浮かべると
魔法の力で世界を春に変えることができ、
心が冷たく寂しくなると
魔法の力は世界を冬に変えてしまいます。

バイキンマンは「冬で遊べるなら何でもかまわない」と
ふきのとうくんを追い詰めてつらい気持ちにさせ、
そして世界は春へと向かう時に逆らって雪だらけになります。

そしてアンパンマンは「みんなの春を取り戻す」ために
立ち上がるのですが、顔を凍らされてしまいます。

最近のサブキャラクターはこむすびまんだったりして、
バイキンマンと戦ったりするのですが、
ふきのとうくんは戦わずに逃げて、
魔法の力で空にアンパンマンSOSの絵を描き、
パン工場はそれに気付いて出動します。

「お菓子を欲しがる」とかいうのもりっぱな欲なのですが、
時の理に逆らってたくさんの人を困らせてしまう程の欲がある、
そしてそれをあるべき姿に戻す、
アンパンマンのいる意味はこういうものに求めたいなと
ふと思っています。

そしてふと思うのです-
不老不死や不老長寿や永遠の命への憧れは、
春を冬にするような試みとなんら違わないではないだろうか、と。

木曜日, 3月 01, 2007

日本は狭いですか、世界は狭いですか

隣町に咲く梅の花のつぼみの形さえろくに分からないのに、
この世界を狭いと言うのは錯覚だと思いませんか?