金曜日, 7月 27, 2007

いくつかの思想からなる5行詩

思想の前提
・非常にしばしば転置を起こしてしまう感覚として、
行動が悪であるというものがあるが、
行い自体に善悪があるのではない:
善の定義は
それが「あり方」の問題であることを指し示しており、
善の定義は具体的行動を規定しえない。

・善の思想は世俗的道徳とは独立した概念であり、
世俗的道徳を完全に満たす善は存在しない。
この意味において、
いかなる人間にも恒常的かつ永続的な善は宿っていない。

・外的な社会の保持には我々は情報と模倣が必要である。
重要なことは外的模倣をしないことではなく、
外的模倣と内的(心的)模倣を混同しないことである。

・真の未知=現在は真の未知であるがゆえに
本来知覚できず、
恐怖は常に既知のものからのみ生じる。


・思想の正しさは
外的世界のいかなる既知の現象にも
その基礎を求めていないときにのみ生じる。

木曜日, 7月 26, 2007

アニマと世間話をする

あくまで比喩として人の命は地球より重いといい、
しかし地球にはたくさんの人が住んでいるのだから
この比喩はどこまで受け止めるべきだろうかと
ふと思うことがあります。

似たような例で、
人間はこの宇宙で取るに足らない存在だといい、
しかしこれを言っているのはあくまで人であるので、
宇宙と人間存在の大小は価値観に拠ったもので、
わたしとあなたは等質であるというのが
適切かな、と感じることがあります。

たくさんの海を見て自分の心の中に海が描かれるように、
たくさんの人間を見て心の中に人間が描かれます。
心理学の言葉でアニマと呼ぶ自分の女性面があって、
時折それを意識することがあります。

そのような心は誰にでもあるのだ、と本にはあり、
しかし心理は主観に基づく個人固有の持ち物であるので
「誰にでも」の客観的観察を前提とした言葉に
なかなか確証をもたせることができません。

女性面があるからといって、
服が着たいわけでも化粧がしたいわけでもありません。
現実の女性の方がよほど綺麗だと感じるからです。

だからといって女性のように遇されたいわけでもありません。
それ自体は良いや悪いではない中性的な現象なのですが、
たくさんの女性がそう思うらしいと書いてある本によるところの
「女性が喜ぶ」ような事柄に興味があるわけでもないのです。

それで日記を書きながら自分のアニマは何がしたいのかと見つめていくと、
どうやらさまざまな感情の交叉を意識する必要なしに
ただ世間話がしたいのではないかとふと思いつきました。

性差を意識することなく話す友達はいますが、
それでもその立場はやはり男性と女性の担当を分けていて、
男性同士、女性同士で話するような
心理状態の基盤の共有を伴う会話にはなりません。
そしてそれは実現できない願いであることに気がつきます。

男性と友達であってもそのアニマが満たされるわけではなく、
女性と友達であってもそのアニマは見出されることはなく、
ただ時折わたしが私以外に友達のいないアニマを訪ねては
月の浮かぶ湖のほとりで
とりとめのない会話をするように思うのです。

火曜日, 7月 24, 2007

読むなら古い本を薦めます

夏なら毎日食べてもいいと思っているものは
そうめんと厚揚げです。
どちらもしょうが、ねぎ、みょうがと
薬味を効かせて楽しみます。

タイムマシンに乗る方法があります。

一本の木について注目すれば
それは時間の経過がわかるのですが、
たくさんの「木というもの」について注目すると
それはある時間幅の中では普遍的として取り扱える
対象になっていきます。

時代を表現するには言語、非言語を含めた
何らかの「情報」が必要です。
そしてその表現の一つが言葉であり、
本はその言葉を残すために作られます。

科学の世界ではその分野の創世記とともに
それに関わりを持ったいくつかの人物の名前と
世に発表した研究論文という「ことば」が紹介されます。

その分野を作った論文なのだから
さぞかし難しいだろう、というのがわたしの予想だったのですが、
なぜか一番初めに書かれた論文が
一番読みやすく平易に記述されているように感じます。

それを引用したものはどれもひどく展開が省略されていたり
理論が発展して見た目が難しくなってしまったりして、
読んでいて面白いものは多くありません。

たとえば物語の感想について詳しく書かれた書物があって、
しかしいくら詳しく書いてあっても原典が持つ意味には届かない、
というものをよく見かけます。
「わたし」に関して記事にするほどの「変わったことがない」と
人はかなり思うようで、
それは確かに同じ「名前」のついた電車に乗って
同じ「名前」のついた場所の席に座り、
自らが考えることではないという仕事をしている、という認識では
それらは「決まっていること」だとみなされる傾向にあります。

あらゆるものが本来「同じ」にはなりえないのですが、
「人と同じことをしている」と感じることもまた
「わたしは特に面白いことをしていない」という連想に向かう
ひとつの理由付けとして使われることになります。

わたしたちは「同じ」であることにもう少しなじむ努力をする一方で、
「同じでない」ことを認めていかなければならないのかもしれません。
日本語が使えるからといって分かり合っているとは限らないし、
それなのにあなたとわたしには同じ重力の仕掛けが働いています。

昔から何度も読まれた本がある、といい、
しかしそれをわたしやあなた自身が読み始めるまで
それはどんなに名著だとよばれていても
本としての役割を果たさないものです。

月曜日, 7月 23, 2007

夏の料理にはよく火を通す

蒸し暑い日が続いています。

食べ物の日持ちをよくするために
「食べられる火の通し加減」よりももっと長く
煮るや焼くの時間を取ることで、
食べ物の日持ちをよくすることができます。
なんとなく中華料理のように
火を入れる時間が短い方が酵素やビタミンを失わずに
済むような気もするのですが、
長く火を入れた料理を食べると
不思議と体が落ち着くような気がします。

煮物というのは本来おいしさを保つために
火を止める時間加減のある料理なのですが、
作って食べるときには頻繁に火入れをし、
しかも煮過ぎてもあまり気に留めずに口にでき、
それが体に優しい食べ物になる理由なのかもしれません。

金曜日, 7月 20, 2007

短報

わたしは普段眼鏡をしていません。
しかし「日常生活する距離の視点」、
50cmぐらいのところの物を見るのがとても苦手です。

エスカレータの降りる場所を
足元を見ずに知ることができます。
視野角が広くなっているようなのですが、
そのせいで一日過ごすと眼がとても疲れます。

中島義道「悪について」を取り寄せています。

世間が決めた道徳が善だとは思っていません。
道徳の是非は時代によって変わるからです。
そして変わるものにしがみつくことはできないからです。

法が善だとも思っていません。
法は人が作り出したもので、利害の調整はできますが
それで社会に絶え間なく生じる「新たな問題」をカバーできてはいません。

わたしが感覚的に信じている善は
自分の都合よりも「それ」が優先できるかであって、
大事な人の定義であればわたしの都合よりも
その人を生かすことを優先することとなります。
それは「自己愛」を脇において考えることでもあります。

だからといってわたしは「善」という言葉が
ポジティブな意味ではまったく好んでいません。
「善」とは肯定的に存在するものではなく、
あらゆる付帯物を否定してなお打ち消せない、という方法でしか
確かめることができないものだと思うからです。

この感覚はおそらく道徳的な法に縛られて安心する人には
まったく厄介なものになります。
可能な限り法の枠の中にいようと努力はするのですが、
絶対に法の中にいるとは約束しないからです。

すべての人がそうである、とは決して言わないつもりですが、
多くの女性の「正しさ」は潜在的に「自己愛=わたしのため」を含んでいて、
わたしが求めるものとは少しだけ違う気がするのです。

わたしは自分のことを正しいとは言わないつもりです。
それが喜ばれることでもなければ好ましいものでもないことも、
まして正直やありのままでなかったことも認識しています。
過ごしている時間のほとんど全てが
自己愛に根ざしたものだとも思っています。
でもわたしは大切に向き合っているときに
「自己愛」から離れた選択をしたつもりです。


火曜日, 7月 17, 2007

祈りという高級言語

東京駅から博多駅まで新幹線のぞみで5時間ほどです。

行きはあなごめしか深川めし、

帰りはかしわめしをお薦めします。

わたしなりに科学の予想をすると、
意識の問題が解かれるその少し手前で
祈りの問題と意味が解かれるだろう、と
最近考えています。

祈りには言葉が必要です。
そして正確な意味での祈りでは
眼に見える物体の対象はありません。

言葉は伝達のための手段だといわれています。
心理学療法などでは意識の間に言葉を介在させて
意識への働きかけを求めます。

言葉は自己認識の手段だともいわれています。
話す対象へと言葉を投げかけることで
それが強化されていくのだといいます。

プラグマティズムの世界においては
「意思」を言葉で作ることになっていて、
自己暗示をかけるであるとか言われています。

計算機に指示を送るプログラム言語は
最初は0と1の数字をいくつか並べたものを
ひとつの「命令」に対応させたもので、
アセンブリ言語と呼ぶこともあります。
アセンブリ言語は非常に高速ですが、
膨大な命令群をアセンブリ言語だけで記述するのは
時間的制約から無理があります。

たとえば漢字を使いたい場合、すべての漢字を
メモリ上のアドレスを指定して表示させるのはほぼ不可能です。

そこで「アセンブリ言語のまとまり」をさらに抽象化したものを
新たに言語とし、これを高級言語と呼ぶことにしました。
こうすることによって、"Aを画面に表示する"というような命令文で
実際に画面にAを表示させることができます。
そこでは計算機的にどのようなデータの流れが存在するかは
見ることができません。

高級言語にはいくつかの欠点もあります。
逐次翻訳型とよばれる高級言語は
すぐに動きますが翻訳プログラムを常に通すために
できたプログラムはあまり速度が上がりません。
一方で先に翻訳してしまう高級言語は
速度は速いのですが翻訳にかなりの時間がかかります。

面白いのは、翻訳機の性能が変わると
同じ高級言語の同じ命令であっても
実行プログラムの速度と機能がまるで変わることです。

時折、祈るだけでは何も変わらない、という人がいます。
祈りは精神の純粋な活動に近いものであるため、
実存主義的な「眼に見える変化」になじまないのだと思います。
しかし祈りは「高級言語」に近い働きがあるのではないかと
最近考えています。

それは誰もが実行できることではないにせよ、
ヨガで代謝や心拍数を変化させたり、
強い意識が病気を治す力を高めることなどの実例から
現象論的に説明できます。
誰でもできないから証明できない、と言ってしまうのは
誰でもスノーボードで宙返りができないから
わたしは信じないというのに近い感じがしています。

人は祈りによってその具体的な方法を意識することなく、
その方法を実行する手段を身につけられるのかもしれません。
そして人が経験によってより適した翻訳機を持つことができれば
同じ願いであってもより叶いやすくなるように思います。
そしてそれ以上に、
祈りはわたしという枠を超えたところへ作用するような気がするのです。

祈りという行為がどのように実体に作用を及ぼすのか、
わたしは試してみようと思います。
現実には叶わないと考えられている願いを、
すべての人に幸せが訪れるよう願うことを、
祈りがどう叶えるのか調べてみたいのです。

木曜日, 7月 12, 2007

慰めと共にあることの意味

雨が降っています。
福岡に比べて関東の梅雨はあまり蒸し暑くないので
それほど気になりません。

わたしが思いめぐらす「ある種の悩み」は
かなりの部分が「ヨブ記」に語られているような気がします。
ヨブは敬虔に生きようとし、自らの罪を認めていて、
それなのになぜ世界はわたしを苦しめるのか、と
神に問いを投げかけます。

周りの人がこぞって悩む彼に性急な結論を与えようとして
理由付けをし幾多の言葉を投げかけますが、
彼は「人の語る言葉で説明などできない」から
「どうか神に問わせてくれ」と願います。

キリスト教を広めるものにとってはヨブ記の章は
「よい事を信じればかならず報われる」と解釈しますが、
これを現実に当てはめれば
そうではないことはよくわかっています。

わたしがヨブ記を読んで慰めを得るのは、
それが最後には救われるという打算的な約束があるからではなく、
同じ悩みと苦しみを感じた人が
以前からこの世界にはいる、ということを認識できるからで、
物語の中のヨブは一人荒野の嵐で立ちすくみますが、
これを読む私の心は彼と共にいて、
わたしが問いかけることと同じことを言葉にし、
ただ同じ苦しみを持つものだけが与えてくれる慰めを
得られるような気がするのです。


「無駄口はやめよ」とか「何にいらだってそんな答えをするのか」という。
わたしがあなたたちの立場にあったなら
そのようなことを言っただろうか。
あなたたちに対して多くの言葉を連ね
あなたたちに向かって頭を振り
口先で励まし唇を動かすことをやめなかっただろうか。

ヨブ記16章3-4

月曜日, 7月 09, 2007

increment, incruded

わたしとわたしたちの動機付けが
すべて何らかの「仮説」に基づいている、という言葉を作ったとして、
それを証明する方法は存在するだろうか、と
ふと思います。
なぜならば、「仮説に基づいている」という言葉自体が
「仮説」である域を超えないからです。
トートロジーのように聞こえるこれが
どうやらある種の普遍性を帯びていることに
ふと戸惑うことがあります。

ここで「仮説」に対する「実証」を考えるとき、
わたしたちは現在のところ「宇宙の始まり」に
実証の由来を求めるほかにありません。
宇宙が始まったことと、時間が進むことだけが
この世界の普遍的な出来事で、
この証明の前にはあらゆる寓話的仮説が排除されてしまいます。
そして宇宙の始まりは
わたしたちすべてがどう生きるかという問いに対して
まだ何らの「言語的」回答が示されていません。

「証明されていないもの」を「仮説」と呼ぶのであれば、
私たちは「仮説」の中で生きていることが「証明」されています。

ここで宇宙は「始まった」としましたが、
宇宙にある「起点」が存在するのか、それとも循環しているのか、
その点について論争が続いています。

わたしたちが何かを決めると行った時に必要なものは、
「絶対的真理」ではなく「仮説」です。
「絶対的真理ではない」理由は、
おそらくわたしたちが「人」に生まれているせいで、
宇宙の果てを観察することもできず
空も飛べないほどの限定された存在だからです。

わたしたちはさまざまな仮説を立てることができます-
神はいるとか、神はいないとか、
争いは続くとか、争いは終わるとか、
幸せはあるとか、幸せはないとか、
そしてすべては「仮説」であるとか、あらゆるものが「真理」であるとか。

しかしわたしが思うことは、
これらすべては「仮説」だろうな、ということです。

日曜日, 7月 08, 2007

Miscellaneous

食材選びに一段落して
新しい器を買いました。
器は大きさやデザインのほんの少しの差が効いてくるもので、
それは宝石をあしらったアクセサリーにも
共通したことが言えます。

日本人はよく「神を持たないこと」を誇っているようなところがあって、
神なんか持つから戦争なんて始めるのだ、と
時に言いたげな場面に時々出会います。
religionという言葉に当てはめた意味について
わたしは時に詰めなければならない考えがあるように思います。

平等院鳳凰堂ができたのは浄土に早く行きたいという
末法思想の影響があったといい、
歴史上人は時々神を見失っています。

神の指針が揺らぐことと
教義が揺らぐことはある意味で等価で、
須弥山を中心とした仏教の世界観が
「地球が丸い」ことを示したキリスト教と衝突したりして、
教義は言葉でできているためにこのような事が起こります。

いくらこのような書き方をしても、
「世に広まった」というときでさえ
必ずそうは思っていなかった人たちの生活があり、
「教義が議論になった」といっても排他的に生活をしなかった
人たちの営みがあったはずなのです。

水曜日, 7月 04, 2007

シャボン玉がストローを離れるその瞬間

空の鳥を良く見なさい。
種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。
だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。
あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか。
マタイによる福音書6章26節

火曜日, 7月 03, 2007

探し物は「安心」ですか、それとも「安全」ですか

埋めて戻す、を繰り返す道路工事があって、
たとえばそれは税金の無駄遣いだと言われることがあって、
しかし契約を纏めて収入が減ると嘆くのは土木の人で、
実際の多くの場面では雇用側ではなくそこから会社の経費を引かれて
支払われる労働者が困ることになって、
なぜか無駄遣いの結果益を得るはずの人のところで
収支のつじつまを合わせるようなことになる、
このシステムの醸成とそれにかかる危険の放置が
金融業や虚業の最も深い罪だと思っています。

たとえ虚業でも新しい健全なシステムの構築へと
エネルギーを振り分けられるのであればそれは建設的な仕事で、
わたしたちはそれぞれの職業で
なんらかの「ものづくり」をし続けることが
健全な循環の社会を作る鍵だと信じています。

シソーラスがあって、
それはよく似た言葉を集めて言い換えを促す辞書、という
側面を持ちます。
最近気になっている近い言葉は
satisfyとfulfillの違いで、
それに対する訳に何を当てはめるべきかと考えています。

satisfactionと書くとまず「満足」と出てきて、
一見それでよさそうなときもあるのですが、
満足という言葉はよりfulfilledに近い意味合いを持つような気がして、
それでsatisfactionは「安心」に近い意味を持つのだろうかと
ふと考えました。

調べたところ「充足」という言葉が出てきて、
これなら意味が近づく感じがします。

ではeaseなら「安心」に近づくかというと、
easeは「気を抜く」に近いニュアンスもあって、
安心という状態とはやや異なることに気がつきます。

和英辞典で安心を調べると平和を指す"peace"が出てきて、
peacefulはそれに近い意味合いかもしれないと思います。

reliefは確かに「安心」に近づきますが、
これは「何かからの開放」というニュアンスを含んでいて、
安心は不安と対極にあるものですが
不安から離れることが安心ではないと感じて、
これは安心の意味とはまた違うと思ってしまいます。

気になったのは安心の中にsecuredが入っていて、
今日の疑問はこの「外的・物理的に防備された」というsecuredで
「安心」が得られるのか、というところへと向かいます。

外的に求めるものが「安全」で、
内的に求めるものが「安心」だとすると、
わたしたちは求める方向として二つあることが分かります。
そして方向が異なるのであれば注意が必要で、
安心が欲しいときに安全を求めることは理に適っていないし、
その逆もまた理に適いません。

たとえばいくらドアに鍵をかけても、
それは家を安全に近づけるだけで安心はしません。
一方でいくら安心して橋を渡っていても
橋の点検を怠って強度不足であれば安全ではありません。

安全が安心に繋がるのか、という問いは
わたしは繋がらない、と答えるような気がします。
そして人は非常にしばしば「安全」と「安心」を混同しているような気がし、
また「安全」で「安心」が手に入るか、
「安心している」から「安全である」と思い込んでいるふしがあって、
それが極めて似通った概念であるからこそ
わたしたちは使い間違えるのです。

安全は安全に向かう道があり、
安心は安心に向かう道があります。
そしていついかなるときにも「安全」は担保されないかもしれませんが、
「安心」は求めることができるかもしれません。

月曜日, 7月 02, 2007

fearとseeについて

苦手な仕事に就いたと思うときがあって、
しかししばらくすると自分の得意な持ち場を
生かせる場面が現れることがあります。
この時得意である持ち場というのは
かつて苦手だったけれど我慢して身につけたというものが多くて、
それで「得意」と「不得意」は移り変わるものだと
気がつきます。

あらゆる言語は非常に厳密に言えば翻訳不能です。
それぞれの単語が指し示す意味の範囲が
厳密に同じであることはありえないからです。

それでも翻訳を試みる場合には
何らかの観点から切り取る、という作業を行うことになります。

単語は一つ一つが文化的な成り立ちを持っています。
日本人の間でさえ「その言葉が指す意味は何か」などと
形而学的疑問を投げかける人がいるぐらいなので
違う言葉にすればなおさら異なった意味になってしまいます。

しかしある人がある言語を
「文化的背景との深い関わりを持たずに」用いたとすれば、
実はその言葉は最初から限定された意味を持つことになり、
かなり正確な表現となる場合があります。

日本語ではそれが非常にしばしば行われていて、
新しい現象に対して外国語を借りてきては当てはめ、
その現象のみを指し示すように仕向けることがあります。
それで日本語のjargonには
気取ったようにと揶揄される外国語の単語が並び、
そして外国語の本来の意味に通じている人が見ると
何を言っているのか逆に分からなくなるという現象が発生します。

今読んでいる本のキーワードはfearとseeとtotality、fragmentationで、
全体や断片に相当する言葉は比較的意味範囲がオーバーラップできるのですが、
fearとseeはかなり込み入っていて、
それをどう訳そうかとかなり考えをめぐらせています。
よい表現があったら教えてください。