月曜日, 5月 12, 2008

使い古された問い

引っ越しして一か月が経ちました。

「人はなぜ老いるのか」を考えています。
それが生物的運命であるとか、DNAのテロメアが短くなるとか
そういうことではなく、
人は意識をそれぞれの体に固有に持たされているにも関わらず
なぜ老い病む苦しみを与えられなければならないのか、という問いです。

この世界は神の実験場でしかないとしたら
神とはずいぶん無慈悲な存在です。
ここで神を擬人化した表現を用いましたが、
人間は人間を超える知性について窺い知ることができないために
最上位の表現は人の行動になぞらえることになります。

証明していないものを信じることができないのが科学者の立場であれば、
実は自分の意識以外の「意識」が実在することを
直接的に証明する手段は現在までありません。
私が他人を「記憶と演算が可能な生物」とみなし、
そこに意識の仮定を置かないことも十分通用します。
これを「唯識」とか「クオリア」とか呼んだりしています。

「老人精神学」という本を取り寄せて読んでいます。
老人が「頑固になる」というのは世界的に共通な性質であるようで、
それには複数の理由が存在しますが、
外界からの刺激が脳に伝わりにくくなり、
代わりに自らの経験が刺激を補完するようになることで
本人は「正当に評価している」つもりであっても
外界への考慮がなされにくくなるのだ、と解説は続きます。

自らが愚かになっていく、ということを
自らわからなくなる日がくる、ということは
"無知は幸福なり"と直結すべきなのかどうか
わたしには判断ができません。

だからわたしはこう言い換えておきたいのです:
老人は自ら愚かになっていくのではなく、
神が人をわざわざ愚かにしていくのだろう、と。

老いの感覚は急激にやってくるものだ、と
さまざまな実験結果は伝えています。
人は人生のピークというものをどこかに持ち、
それが肉体的に成熟しているその時であるならば、
それを失うことは「奪われる」に等しい感覚です。

自らを飾るために必要であった色鮮やかな服が必要なくなり、
自らを支えるために必要であったたくさんの食物も必要なくなり、
世界の舞台には自らの居場所が減っていき、
そしてそれらは決して戻ることがなく、
そんな中で人はこの世界にどんな感情を持ちうるのだろう、と
考える日が続いています。

日本が悩みの最中にあるのは、
おそらく悩みの中にある人が多いせいで、
時のムードとはその時の人間の年齢の平均値で
ある程度決まったパターンがあるのではないかと思っています。

死は存在しない―それはこの世界が一体であるからですが、
しかし「意識」は生命に固有なのか、それとも人間に固有なのか、
または意識は非生物に固有なのか、と問われて、
しかし人間の意識はまさに「起きている時」にしか認識されず、
それゆえ永遠に眠る死は二度と意識が復活しないだろうという
予想をしてしまいます。

おそらく、かつても飽和した社会システムの中で
道徳性や友愛を振り棄てた時期が多数存在し、
そのたびに「改革」という名の断絶が発生してきました。
歴史が繰り返すのは、どんな社会システムを作ったところで
人が老い病むことが全く変化していないせいだ、とも言えます。