土曜日, 8月 12, 2006

一人になって読む本

たとえアマゾン奥地への探検でなくても、
何年も週刊誌を読まなかった自分が
思い切って「週刊文春」を買ってみたのは
かなり大冒険です。

よりによって「週刊文春」である理由は、
通勤電車の吊り広告にびっしりと載せられた
「他人の醜聞」にいつも腹を立てていたからです。
芸能界、皇室、政治、風潮など
話題のねたはいくらでもありそうです。

そこまで悪く書けるんだったら
どこまで徹底的にやっている覚悟なのか
試してやろうじゃないか、と決心し
買って読んでみました。

実際には吊り広告は「張子の虎」で、
日本人らしく良心的な記事も載せながら
署名記事でさえない「マイルドな書き口」の文書が
わずか数ページ並んでいるだけでした。

ジャーナリズムがワイドショーが、と騒いだところで
徹底的な追及のレベルが低く、
西洋のタブロイド誌のように
これでもかと醜聞を煽るようなことはありませんでした。

醜聞以外にも地味で良心的な読み物があって、
それらのタイトルを前面に持ってきた吊り広告を作ったら
違う雑誌になるんだろうな、とさえ思うほどです。
今度タイトルを並び替えてみようかと思います。

久しぶりに良書を見つけました。

鴻上尚史「孤独と不安のレッスン」です。
もちろん共感する部分も多く、
さらに著者自身がきちんと不安について語っていることが
何よりの慰めになると思います。

自分で考え、自分に身についた思想だけが
どんな場所でも通用するたった一つの「拠り所」です。

たった一人でいること、そのときに考えていること、
誰でも不安と孤独には向き合わなければならないこと、
それを優しい書き口で教えてくれます。

しばらく持ち歩く本になりそうです。

ちなみにわたしは
「曲は比較的ゆっくり、明るめで
しかし歌詞が悲しい歌」がとても好きです。
悲しさが惨めさではなく歌で美しく表現されるからでしょうか。
または世界には悲しいことがある、ということを
忘れず、しかし優しく諭してくれるからでしょうか。
それとも悲しいときにやってくるものが「絶望」ではなくて
穏やかな喪失感や緩やかな感情の高まりになりうることを
示唆してくれるからでしょうか。
何度聞いても暗い気分にはならず、
むしろリラックスできます。
前向きで明るく前進的、もちろん自分には
そういう日もありますが、それは「他人向け」の自分であって、
自分本体には人と抱えることが困難な悩みがあります。

木曜日, 8月 10, 2006

問いかけを「忘れていなければならない」問い

自分の読んだ本の「内容」が理解できる段階と、
いくつかの本の内容を比較できる段階は
違うものです。

哲学あたりの本、
ショーペンハウエル「幸福について」、
ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」、
カント「純粋理性批判」、
大乗仏教、坐座仏教なんかを読んで
現在までに思った共通認識は、

「なぜ生きているかという問いだけは
可能な限り忘れていなければならない」

というものでした。

カントはそれが
「生きることには理由と意味を持たない」という言葉で、
ヴィトゲンシュタインは
「生の問題の解決は、問題自体の消滅によって為される」という言葉で、
大乗仏教は
「生きているそのものこそが生きる理由である」という言葉で、
坐座仏教は
「現在にのみ集中した自分のみが全てである」という言葉で
それぞれ共通した思想を語っています。

私たちは数式を解く際に確かめられた公式を使って
便利に生きています。
もちろんその公式が正しいかどうかを自分で考えることが
一度は必要ですが、
証明がすめば後は安心して使うことができます。

命がけで哲学研究というものをした
過去たくさんの人の「公式」を使わせてもらうことにして、
この問いを可能な限り忘れることにしようと思います。

火曜日, 8月 08, 2006

魔女の血、絵描きの血

久しぶりにメカ設計始めました。

時々頭の中が矛盾だらけになります。
客観的にみれば何も変わっていないようで、
実は1秒1秒をやり過ごすのがやっとであるほど
存在とか意味とかに強く囚われていることがあります。
それが解けていくと、
落ち着いた自分を取り戻すことができます。

「魔女の宅急便」を買って観ました。
飛ぶこととそれに自信を持っていること以外取り柄がなくて、
でも飛べることだけを頼りに街へ出る
13才の女の子の話です。

素直な田舎で育ち、疑うことを知らず、
正しいと思った方向へまっすぐ進みますが、
最初はなぜか世間と歯車が合いません。

孫を想うおばあちゃんの「にしんのパイ」に心から共鳴し、
壊れた電気オーブンの代わりに薪のオーブンを提案し、
パーティーに遅れそうになり、大嵐の中で届けたのに、
受け取った孫は「あたしこのパイ嫌いなのよね」と
冷たく返事をされてしまいます。

一生懸命やってきたことは何だったのだろう、
そう迷う気持ちが魔法の力を弱め、
ある日たった一つの「飛べる」自信さえなくしてしまいます。

なにも取り柄がなくなってしまった自分を
絵描きの女の子が訪ねます。
自分の中にある「力」は不確かなもので、
そんなときはどうするの?と問う小さな魔女に
「じたばたするしかない、
それでだめならしばらく諦めるしかない」と告げます。

絵描きも決して悟っているわけではないし、
苦しまなくなったわけではないのです。
ただ何度も壁にぶつかり、
その度に問い直した結果なのだと思います。

この映画が特に好きなのは、
「世間から見るとありふれたものかもしれないけれど、
自分に備えられた、好きで大切な何かを
生きる糧にする」ことが
描かれているからかもしれません。

与えられた仕事をひたすらこなし、
評価基準が比較的明確である段階から、
自分が発想して環境を作っていく段階へと
時間が経てば全ての人が移行するように
この世界はできているのです。

そのときに社会の瞬間的な流れに沿うのか、
それとも沿って行かないのか、
答えのない判断を絶え間なく続けなければなりません。

先達がいるところは楽です。
でもそこに自分だけの場所はありません。
生きる辛さは分からない辛さと同じで、
人は一生かかっても全てを知ることはできず、
しかし自分を知りたいという声を
ごまかすことがなかったものだけが
至ることのできる感覚や意識があると思います。

世界に対する感覚を鋭くし、
たくさんのことを知れば知るほど、
世界は矛盾だらけで混沌としていることも分かり、
自分も人も理不尽で不条理な存在であることも分かり、
そんな日は生きる意味が見出せず
気持ちが大雨になります。

しかしそれら全てを超えて
優しく受け入れたいと願う存在だと至りたい、
生きていること自体に意味があると思っていたい、
気持ちが晴れた日にはそう思います。

なんだかカップ麺が食べたくなってきました。

土曜日, 8月 05, 2006

お酒を規制する必要のある人と、むしろ勧める必要がある人について

お酒は健康を害するものである、
だから基本的に節制しなければならない、
こんな台詞ばかりが世に並びます。

さて、先進国の中で
実は日本はお酒の消費量が少ない国です。
http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/1970.html

大人のたしなみとして同列に挙げられるのは
酒とタバコです。
どうも表向きの声は「酒はできるだけ控えましょう」なのですが、
酒はタバコと違って重要な薬理作用があります。
http://www2.health.ne.jp/library/5000/w5000392.html

処方箋なしで買えるある意味で非常に強力な薬であり、
タバコはなくなっても酒はなくしてはいけないもののはずです。

依存になるかどうかは難しいのですが、
私には酒を「嫌いでも意識的に飲まなければならない人」が
少数ですがいると思っています。
思考回路が循環してしまう人の場合、
自分の思考回路だけでは発振してしまう人の場合は
発信を減衰させる役目として酒が有効です。

酒は判断力や明晰を鈍らせるから
車に乗るためにはもっとも向かないものですが、
思考回路が循環して苦しんでしまう人にとっては
これほどありがたいものはないはずです。

池谷祐二「進化しすぎた脳」の観点から言えば、
肉体労働から頭脳労働へと移行するに当たり、
複雑に構成された脳こそ不安定性は非常に高まります。

脳の負荷と能力は非常に高められているのならば、
それを何であれ安定に動作させなければなりません。

ブラックジャックの一節に、
一杯飲んで忘れましょう、というくだりがあるのですが、
もし辛いことや苦しいことが
たとえ一時でも心から忘れることができるなら、
逃げられない牢獄のような意識から開放されうるなら
それは必要なことかな、と思います。

私は酔ってうまく動けなくなる自分が好きではなく、
それで意識的に飲まないようにし続けてきたのですが、
私は実は定期的に「飲むこと」を要請されなければならない
タイプかも知れないと思いました。

酒を飲んで理性のたがが外れ、
我知らず何かをする人もいますが、
私の理性は酒を飲んで酔ったぐらいでは外れそうにもなく、
酔ったままでも意識を纏めて日記を書き続けられます。

決して表からは聞こえない「必要な言葉」

せみが鳴いています。
アブラゼミの鳴き声は
なぜか暑さを増していく感じがします。

哲学書を読んでいてふと思ったことは、
「人間は何であるか」はとことん追及できても、
「人はなぜ生きる意味があるのか」は追求できない、
という一点でした。

「あなたはただ生きているだけで素晴らしく意味がある」
この言葉をとても必要としている人がいます。
もしかしたらその数はとても少ないのかもしれませんが、
それが満たされていれば自らは進んで譲り、
人にたくさんのものを喜んで与えることができるタイプの人です。

ところが、その声は現在の社会では厳重に隠蔽されています。
「あなたはただ生きているだけで素晴らしく意味がある」
とこれを自由に解釈されてしまうと、
奪い合いも殺し合いも何でも構わないのだ、と
非常に極端な発想を止めることができなくなるからです。

現に紀元前後の特に西洋世界というのは
戦いに明け暮れ、都市が成立しては崩壊する繰り返しを辿ったので、
ひとまず生命だけは確保できるようにと
道徳、風習、宗教が便宜的に
「社会的意義によって生きる意味」を持たせようとしました。
その台詞は
「社会的に尽くすことができなければ生きてはいけない」
という強い表現で表れます。

社会的意義がなければ人が存在できないとしたら、
それはなんと残酷な世界になることでしょうか。

何らかの期待にどうしても応えることができず、
それでも赦された者は、
社会的意義とは別に自分自身に意義を見出すチャンスがあり、
区別ができるのですが、
偶然が重なって様々な要請に応え続けることができてしまった者は
社会的意義がそのまま自分自身の意義になってしまう可能性が
非常に高く、
社会的意義がなければ自分が存在してはいけないという
極端で解きにくい錯覚に陥ってしまいます。
これは決して幸せなことではありません。

王監督ががんから2週間で復帰したといいます。
人間として王監督を見るならば、
2週間で社会復帰すれば体に無理が来るのは必至で、
どうしてもしばらく休ませなければならないと思います。
即座に現場復帰したからといって、
プレッシャーの中で自らを傷つけて欲しくはないのです。

正確に表現するならば、
社会性が不足していて、
宗教や道徳や社会性の規制による社会性の醸成と
尽くす活動をより推進することが必要な人もいれば、
社会性が過剰にあるために
自らを省みて自己犠牲への希求を和らげ、
自分自身を大切にしなければと許すことが必要な人もいます。

社会的システムの中では
後者が望まれているはずなのですが、
ところがその社会が「通常出している」メッセージは
主に多数存在する前者に向けたものであるため、
後者が社会の表向きのメッセージだけを正面から受け止めると
彼らにとっては社会に尽くし望まれていながら
皮肉にも非常に生きにくい世界になってしまいます。

日本社会が「社会性」側を極めて重視する構造であることは、
実はある意味で日本人が「強力な社会性」で縛らなければならないほど
ただ自由意思で生きている存在だろう、と
お互い思いあっているからかもしれません。
そしてその構造自体に苦しむ、「社会性がもともと強い人」が
かならず少数ですが存在するのです。

宗教も哲学も倫理性も法も社会的プロパガンダも、
ある人にとっては必要でありある人にとっては必要ありません。
実は普遍的に広める事自体に問題があり、
恐らく多くの人を救えますが少数の人は救えません。
しかしこのことを公に認めてしまうならば、
実はそれぞれの存在意義を強く揺らがせてしまうために、。
「ある人にとっては必要である人にとっては必要ない」という一言は
極めて強く隠蔽されます。
「良いことだから広めなれば」というのが
それらの存在意義の大前提になっているからです。

社会の表側からは聞こえない台詞であるとするならば、
優しいを善とするとかそういうことではなく、
社会性と自己犠牲を非常に強く持った人たち、
存在意義を見出そうとしている人に対して、
「あなたは生き、存在意義を探そうとしているだけで素晴らしく意味がある、
だからもっともっと一人の人間として自分自身を大切にして欲しい」
というメッセージを
わたしは社会の裏側から大きな声で発信します。

それは社会とは多数派の意思によって流れが決まるだけの存在であり、
多数派が良いわけでも悪いわけでもなく、
しかし生きやすい人と生きにくい人を必然的に作ってしまう、
そういう構造のものだからです。

自分がもし多数派になれないのであれば、
多数派に逆らうわけでもなく離れるわけでもなく、
少数派であることは認めてしまって、
社会的「中心」の教義は丸呑みにできないのだけれど、
折り合いをつけてうまく付き合っていけばいいのだろう、と
今は思います。

金曜日, 8月 04, 2006

ほのかに嫌いあうことを認めること

理系には理系の本ばかりが与えられ、
文系には文系の本ばかりが与えれる、
という枠を少しはみだして
哲学の本に触れる機会ができました。

読む本が難しいと思うかどうか、という点では
いろんな要素が作用します。
慣れ親しんだ用語が少ない本はつまづくし、
興味がない話題は頭に入らない、
それはまるで話の合う人と話の合わない人がいるように
ある意味自然なことです。

もう一歩話題が進んで、
”共感できる本は好きで共感できない本は嫌い、
でも嫌いな本でも役立つから置いておく”、
こういう経験はあります。
しかしここで「本」を「人」と置き換えた場合、
その中身が成立しないことがどうも頻繁にあります。

「村社会」という独特の表現があって、
和を保つことが生きることより優先される、という雰囲気は
人の移動が少ない社会で起きる
ありふれた現象なのだろうと感じます。

人は嫌い合う生き物である、
この表現を自然に出して受け入れられるかどうかは
多様性を認めるかどうかの試金石として作用します。

中島義道の本
「人を嫌いになるということ」の中に、
「ほのかに好き」があるなら
「ほのかに嫌い」もあっていいのではないか、
という表現に目が留まりました。

好きなものがあるからこそ嫌いなものがあり、
嫌いに段階があることを認めることができなければ、
仲間か仲間はずれかの極端な2極しか現れません。
自然と生じてしまった感情を単純に押さえ込んでしまえば、
「和をもって」という言葉は調整役にならないのです。

「嫌い」が「生命の危険」と分かちがたく結びついた場合、
「嫌いの表現」を抑圧することによって
「肉体的に生きてはいるが精神的に歪んだ世界」ができます。

村社会が健全であるためには、
極端な「和への束縛」は好ましくなく、
感情的には緩やかに繋がっていれば十分です。

しかし「人は嫌い合う生き物」ということを
何の補足もなく単純に野放しにし、
多様性を原理主義的に肯定してしまうと、
主観で見ることや違いを放っておくことが増えていく心配があります。

極端な例がアメリカで、
コミュニティの中ではやはり村社会らしいのですが、
表向きには成果主義が認められていて、
ある意味で出来ないものはできないままだったりして、
相互扶助の精神が成り立たない場面が現れます。

田原総一郎の番組では、
よく政治家に「では理想の国家像とは何ですか」と問う場面があって、
しばしば一緒に答えに詰まっていました。
ある人はスウェーデンだと言い、
ある人はスイスだと言い、
そういう人は
時代がマルクスの頃ならソ連だと言ったのでしょう。

対比して考えれば考えるほど、
どんな国家スタイルにも弱点があるのです。
ということは、理想の国家へと変容する果てしない試みとは
現実的にほとんど意味を成しません。
それは虹のふもとに宝物があると信じて
虹のふもとを目指す試みに似ています。

現在の国家にあまりに弱点があり、
その弱点は未来永劫消滅できないことをせめて正直に認め、
それを単純に排除するか忘れてしまうよう動くのではなく、
その弱点による被害が可能な限り押さえられるには
どんな対策があるだろうか、と
現実的な行動へと移すほうが有用です。

「人生において重要なのは
役立つことと適切であること」と言ったのは
イギリスの哲学者アラン・ド・ボトンで、
「日常使う全ての言葉を
市場でのやり取りに限定できたら」といったのは
モンテーニュです。

西洋でなぜ哲学が生まれたのか、
それは一神教的宗教がもたらした「精神の極端さ」の弊害を
宗教を排除することなくいかにして和らげるか、
そんな切実な願いがあったからなのかもしれません。

人間とは、極端では生きられない生き物のようです。

「多様性の拡張」

仙台へ行く新幹線やまびこは2階建てで、
少し景色が高く見えます。
会場裏手にはしっかり月日の経った公園があって、
木々に触れ不思議な落ち着きを感じました。

人間の多様性を認めなければならない、
こんな言葉が出始めたのはバブルが終わって
一極集中型の社会、
つまりみんなが同じものを求め、
それを集団として好ましい概念とし、
それが最大の利益を生む構造であった社会に
一つの区切りと変化がついてからのように思います。

それで街が大きくなったのですが、
いくら街が多様で文化がどうだとかいっても
生き物といえば所詮人間しかいません。

駅にあった広報誌に、
森を歩くことによって落ち着きを得られる感覚に関する研究が
始められたという記述がありました。

その公園を歩きながら、
寄り添う「生き物」は人でなくてもいいのではないか、と
ふと思いました。
最近の研究では、植物は頭脳がないけれど
「全体として」意思を持っていて、
水をあげてくれた人や葉をちぎった人を覚えているのだそうです。

多くの人が遊園地やバーやデパートなどに足を向ける代わりに、
森へ足を運ぶような雰囲気ができれば、
喧騒と混沌で混乱する世界の歩みは
少しだけ食い止められるのではないか、と思います。

火曜日, 8月 01, 2006

新聞をやめてみました

久しぶりに少し頭痛がします。
ただ頭痛薬は胃が荒れるので控えています。

本を読む量が増えました。
本は確かにさまざまなことを教えてくれますが、
基本的には特別な人の特別な記録です。

大人がきちんと参考に読む本ってちょっと難しい気がします。
大偉人と呼ばれることはないだろう、
わたしを含めたたくさんの人たちが
世界のトップの話を読んで実行したとしても
必ず成功するわけではないからです。

本は時々便利で時々不便です。
一度読み慣れてしまうと、本にはなんとなく
任意性の高い世界があって、
何冊も読めば自分の味方になる台詞がどこかに載っています。
最近本の量が増えていたのですが、
本が時に逃げ場になってしまうことを知って、
しばらく読むのを控えてみようと思いました。

社会人になったら新聞を読む、
なんとなくそんな意識で新聞を始めましたが、
世界の裏の必要かどうかわからない情報まで手に入れて
心配の量が増えるのではどうも納得がいきません。
新聞を片付ける手間も相当なものなので、
定期購読をやめてみました。
情報源は違うものを探してみます。

朝のニュースも同じです。
情報が生ものなのは知っていますが、
ニュースは「毎日流す何かを探している」状態で、
流すべき情報が他のニュースに埋もれてしまったり
何もねたがないときにある事件の追及ばかり行われたりして
見る意味を感じません。

情報に鼻先をつかんで引きずり回される、
株の世界はまさにこんな状態です。
生き馬の目を抜くように生きるペースを上げなければ
成り立たない、
みんなはそんな世界が本当に欲しいのでしょうか?

株の短期投資は1/1000ぐらいしかうまく行かないと言います。
さまざまな使い方があるのは知っていますが、
それでも自分は儲かると思っているのでしょうか?

国政は国の基本で大切ですが、
みんなそろって小泉さんに届かぬ一人文句を言うくらいなら
自分の町の市長さんとか町長さんとかに
具体的な相談を持ちかけたほうが良いような気がします。

巷の雑誌が喧伝するように
聖人君子に名を連ねなくても、
どこかの会社の上役にまで上り詰めなくても構わない、
自分には自分の人生があって、
全ては自分の足元から始まる、
そんな風に思いたいのです。

月曜日, 7月 31, 2006

何をpainに選ぶか

どうやら梅雨明けしたらしい、という一報を聞きました。
この知らせ、さわやかな風の匂いで先に感じるのです。

CHAGE & ASKAの曲に
"NO PAIN NO GAIN"という曲があります。
何かを得るためには何らかの痛みが伴う、という意味は
漠然と分かっているのですが、
何を痛みに選ぶかは今ひとつ検討の余地があります。

日本人的発想ではpainを
忙しさ、苦労、辛さと解釈して
とにかく仕事を前に進める、という解釈になるでしょう。

しかし会社の中で自分が必要だと思うことを推し進めるときに
同意が得られずに感じる疎外感、だって
立派なpainだと思います。

できるだけ痛みは感じずに前へ進みたい、
それはきっと誰もが思うことです。

少し意味は違うのですが
win-winの関係、というものがあって、
これはお互いがよい関係でいるようなもので、
このときのpainはどこに発生するのだろう、と思います。

人との関係、財産、一見何も失わないようですが、
経験と引き換えに時間は失われていくもので、
それが過去の郷愁に繋がったりします。

永遠という概念、を手に入れようとするならば、
限りある命が終わった後に手に入るものかもしれませんね。

金曜日, 7月 21, 2006

役立つこと、適切なこと

透明のビニール傘は安物だというだけじゃなくて、
太陽の少ない雨の日には空の光が入る明るい傘で
そのことが気に入っています。

物にはさまざまな評価の基準がありますが、
哲学者アラン・ド・ボトンの言葉の中に
人生で重要なのは、役立つことと、適切なことというくだりがあり、
ふと立ち止まって考えます。

役立つことと適切なことが同時に含まれている、という解釈は
自分の心を調整するうえでとても重要なことのように思います。
必要か不必要かという判断よりも
役立つかそうでないかは個人らしい視点であり、
正しい、間違いという判断よりも
適切かそうでないかという判断はより人間らしい指標です。

がん治療に関する加速器の研究を始めましたが、
どこでもそうですが現場では目標が収束しないことがあります。
アメリカでは医学物理士が5000人もいて
技術スタッフが非常にたくさんいて
翻って日本には500人しかいないとかで、
さあ増員、という流れのようなのですが、
アメリカの医療は基本的にお金がかかり過ぎていて、
皆保険のない国なのに放射線治療費は大体日本の3倍で、
その制度の下で医療の質が保持されているのだそうです。

一方で皆保険で充実した医療が行き届いている日本では、
医療スタッフの数が極端に少なくてとても忙しいのに、
一方で薬剤による出費が非常に多く、
こういうところに日本らしいモノ社会の一端が
問題を現しています。

どちらの状態も、
役立ちはしているのですが何かの適切さを欠いています。

皆保険であるか、皆保険でないかは制度の問題で、
どちらにも欠点はあります。
それぞれの状態が生じる不適切な場面を
どのようにして改善していくかが重要です。

月曜日, 7月 10, 2006

「気楽」を正確にイメージする

久しぶりに良い休みになりました。

仕事場では真剣に取り組むもの、
という気持ちばかりが増えてしまって
気楽に楽しむということをほぼ完全に忘れていました。

求道精神、なるものがあって、
日本人は極まったことが大好きです。

さまざまなノウハウ本を読んでいても、
ただひたすらつらいことに立ち向かう、というくだりばかりで
行間が埋められています。

この原因はおそらく、
求人超過でバブル期に就職が楽にできた時代と違って、
難しい事柄をこなせないと、特殊技能がないといけないという認識から、
安易さに逃げず、少々の辛い事があっても我慢して乗り越え、
風雨に負けず花を咲かせましょう、
というメッセージが込められているように思います。

しかし根が真剣にものを考え、極めて忠実に実行する人にとって、
このメッセージが続きすぎるとバランスを崩します。

しかしここで、好ましくないとされる「安易さ」と
現在の社会に極めて必要な「気楽さ」は非常に似た概念であり、
正確に分離して取り出す必要があります。

少し真面目に考察してみようと思います。

どちらの言葉でも、
「なんとかなる」という表現が伴います。

(三省堂辞典)
安易
(名・形動)[文]ナリ
(1)困難がないこと。たやすいこと。また、そのさま。
「―な問題」
(2)特別な工夫や努力のないこと。深く考えないこと。また、そのさま。

気楽
(形動)[文]ナリ
(1)気兼ねや心配がなく、のんびりしているさま。
「隠居して―に暮らす」
(2)物事にこだわらず、のんきなさま。

辛い事がこれから続くからこそ、「気楽」の具体的方法を
強く意識して開放してやる必要がありそうです。

よく「人事を尽くして天命を待つ」ということわざがあって、
以前何かで読んだ本の中には
(天命を待つだけの状態にするまでには
これでもかというぐらい努力が必要である)
という言葉ばかりが載っていた記憶があります。

しかし努力して、すべてが報われるわけではない、というのは
水木しげる(水木さんの幸福論)にも載っています。
社会がルーチン化から解かれた以上、
尽くすべき人事が思いつかない時だって
多分にあるのです。

では努力しすぎて燃え尽きてしまう人、
現状を真剣に打破しなければならないと思っている人の
「心の固さ」を上手に受け止め、
柔らかくする方法はないのでしょうか?
この問いは人に向けたもの、というより、
かなりの部分で私に向けたものです。

一生懸命に念じている人は
何かを諦められないものです。
諦められない理由はいくつかあって、
ひとつはそれでなければならない、
そうでないと生きていけない、と思ってしまうことにあります。

これは、さまざまな作業や仕事のプロセスが
「忠実に履行される」ことを前提になっていて、
しかもそのプロセスが非常に長くなりつつあることにも
問題があります。
そういう思考様式ばかり取らされれば、
おのずとその思考様式が身についてしまいます。

仕事、という言葉の中に、
忠実で長いプロセスの実行、という側面と、
分からないことに試行錯誤する、という側面があって、
どちらの概念も強力に必要で
かつ渾然一体となって来ている、ということが
顕在化したのが現代社会のようです。

「天地人」という言葉があります。
すべてのことに、天命、地の利、人の努力が揃っていないと
物事は前へ進めない、という意味です。
とてもよいバランスの言葉だと思います。

地の利まではある程度検討の余地がありますが、
天命の流れ、運命の流れだけはどうにも変えようがないのです。

ひとしきり十分な努力をしたあとで、
「今はその時じゃないな」と思える、
自分を解放できることもまたとても必要です。

知識と手段は非常に強い力で、
何らかの解法を与えてくれることも非常に多いのですが、
それらは有力ではあるけれど万能ではなく、
分からないときこそ今の自分の決断の方向性を認め信じ、
思い切って天=この時の流れに委ねる勇気を強く持てることが
安易さに流れず「気を楽にする」有力な方法だと考えます。

戦後経済が右肩上がりばかりというのは、
世界的に見ても異常な状態だったのです。
ある一定の安定状態に落ち着くためには、
景気と不景気が同じ強さで循環しなければなりません。
経済成長、ばかりが謳われますが、
世界がひとつになり、富の不均衡が急激に解消される中で
世界中が世界中を巻き込んだ循環経済へと移行するでしょう。
決して成長ばかりは望めない世界です。

そんな世界の中で「ハイリスク・ハイリターン」は非常に危険です。
日本人が生活に必要とするコストが非常に高いのであれば、
これは「ハイリスク」以外の何者でもありません。
儀式のようなお歳暮や義理チョコがなくなったのは
非常に喜ばしいことだと思っています。

人間が生きていくには、
好景気のときに生きられることではなく、
不景気のときにも生きられることのほうが重要です。
もちろん時には強さも必要なのですが、
強くなくてもそれなりに生きる安心が必要なのです。

好景気ばかりしか知らずに育った上の世代では、
環境のせいでもしかしたらそういった類の知恵が
十分に醸成されなかった可能性があります。
こういう世代に対してもし訴えかける必要があるとすれば、
富をきちんと分配しようという動きだと感じています。
そして不景気だからこそ
さまざまな「欲」-それはたとえ愛や希望や夢のようなものであっても-を
上手にコントロールできるようにならないといけません。

一生懸命な人にとっての「気楽」は、
人事の及ばない天の動きがあることを認め、
欲を小さくし、
勇気を持って不安を世の流れに積極的に預けることから始まるようです。
結論としては、
「気楽」は「無為」ではなく、
積極的な心の働きである、と感じました。

水曜日, 7月 05, 2006

幸せ感の原因

時差で少し眠れずにいます。

創造性を発揮して生きる、ということは、
そして「創造性」に込められた意味とは
どういうことかとふと考えました。

人と違っていなければ仕事にならない、
そしてその違いが人よりも優れていなければならない-
大量消費社会が終わった時に求められたのは
こんなことでした。
競争の苛烈感、のようなものは
すべての人が何らかのプロになることを要請する風潮から
来ている気がします。

自分がどれほど平凡であるかというのは
非常によく分かっていて、
平凡でも生きていく手段が欲しいと思っているのです。

現場の、会社の、人の輪のどこに行っても
「その場所でがんばる存在を」
「若い力でこれからを支えて」と矢のように聞きます。

経済規模が縮小する世界は、
激烈なまでの個性の表出と
単なる競争の世界になってしまうのでしょうか。

生きていくこと、それ自体が生き物の目的なら
人間は本来、「共生」ができればよいはずなのです。

本態的に恋愛は競争を含みます。
優れた人を選びとる、ということ自体が熾烈な競争であって、
選び選ばれるが相思相愛であっても
見かけ上競争に見えないだけです。
恋愛が与えるものは「究極の幸せ」ではないのです。
もちろん、個性によって選ぶ基準は違うのですが、
どういうわけかその基準は驚くほど画一化していて、
将来性があるとか包容力があるとかばかりです。

個性を好きになる、ということは
決して優れた面を好きになる、とか
何かを与えてくれる、ということとは関係ないものです。
個性とは本来的によいとか悪いとかでは表せないもので、
それがその人そのものなのです。
だから少し頼りなく、仕方がないところもあるけど
この人がいい、というような選び方は自発的で、
きっと幸せ感に通じるでしょう。

十分な幸せ感をもたらすもの、それは
「今の自分で十分である」という意識が満たされることでしょうか。
小さいころ、上手に本が読めるようになった、
それだけで褒められ幸せになった記憶は
きっと多くの人が持っていると思います。
背伸びせず、自分ができることで喜ばれる、
ということで得られる喜びが
これからの人の意識の根底を支えていく気がします。

使命感に突き動かされる心の良い若者が、
今非常に疲れています。

これからの社会に望まなければならないこと、
それは「24時間背伸びを強要されるような社会ではなく、
せめて人生の過程で平凡に休むことが十全に許された社会にしてほしい」
ということです。

お受験、投資、選別、私のため、我が家族のため、
これらはいかようでも結構ですが、
それが「個人」として生きようとする社会に
強烈な不安定性を持ち込んでいることを
もっともっと強く認識して欲しいと思います。

私ができること、それは
今いる、今あるものを「それでいいんだ」と認めてあげることであり、
それが今の自分に一番必要としているものです。

火曜日, 7月 04, 2006

風凪ぐ海に帆を上げて

小さいある日、ふと思ったことがあります。

「孤立、死への不安、悩み、
憎しみ、争い、奪いあい、殺しあい、
とめどもない精神破壊、環境破壊から、
個人や人類が生き延びるためにはどうしたらいいのか」、
これはずっと考え続けてきたテーマでもありました。
ただその答えが単なる「慣習」「宗教」ではないことも感じていました。

医療において、ようやく「精神」を超えた「Spilituality」が
意識されるようになって来ました。
嬉しい、楽しい、悲しいといった「精神」の面から発展し、
「生きる喜び、生き甲斐感、達成感」というものこそが
生きているうえでもっとも大切なものである、という思想です。
そして自然の力、絶対的なものの存在などを
受け入れていくことが自我を支える助けとなる、というものです。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C8%A5%E9%A5%F3%A5%B9%A5%D1%A1%BC%A5%BD%A5%CA%A5%EB%BF%B4%CD%FD%B3%D8?kid=48025

それを考え続けたのが宗教なのですが、
その体系は複雑なためどうしても解釈の誤りが生じていきます。
組織として成り立ったから正しい、ということは決してないのです。
その強烈なノイズの中からSpilitualityを読み取れるか、
それが悟りと呼ばれるものである気がします。

金曜日, 6月 30, 2006

見知らぬ街に落ち着くまで

観光地に向かって、綺麗な場所ばかりを見ていると
なぜか不安な気持ちになってしまいます。
人間がいる、と思えなくなってしまうのです。

人の姿をしたものは歩いているけれど、
知らない街は降り立った途端
何の問題もない街のように感じられて、
そしてガイドブックはその町の「とっておき」を見るだけで
時間を一杯に埋めてしまうので、
そんな良い面ばかりの街には
様々な感情を持ち込んだ自分の居場所がなく、
困った人や辛い人の居場所もまたないような気がしてきます。

人の住む街には
多かれ少なかれ何らかの問題を抱えていて、
いつもそれが見えていればいいというわけではないのですが、
人間が一片の曇りもないと無心に信じ切ってしまう世界より、
人にはこんな面もあるよね、と思えるほうが
不思議と安らぐのです。

見知らぬ街に落ち着くまで

観光地に向かって、綺麗な場所ばかりを見ていると
なぜか不安な気持ちになってしまいます。
人間がいる、と思えなくなってしまうのです。

人の姿をしたものは歩いているけれど、
知らない街は降り立った途端
何の問題もない街のように感じられて、
そしてガイドブックはその町の「とっておき」を見るだけで
時間を一杯に埋めてしまうので、
そんな良い面ばかりの街には
様々な感情を持ち込んだ自分の居場所がなく、
困った人や辛い人の居場所もまたないような気がしてきます。

人の住む街には
多かれ少なかれ何らかの問題を抱えていて、
いつもそれが見えていればいいというわけではないのですが、
人間が一片の曇りもないと無心に信じ切ってしまう世界より、
人にはこんな面もあるよね、と思えるほうが
不思議と安らぐのです。

火曜日, 6月 27, 2006

空

この世界を知りたいと思ったものに対し、
科学が変えてしまった点が一つあります。
核兵器の存在によって、
人がその意思の選択によってこの地球を壊せるような
可能性と印象を初めて持った、というものです。

この事実はあらゆる物事を見る時の印象を変えてしまいます。
どんな時でも人は自然の現象にひれ伏すだけの状態から、
人は吹き飛ばし形を変えてしまうというたとえわずかな一瞬でも
自然より優位に立つ事ができるのだと
感じてしまうからです。

もし自然の力の前にただ為す術がなければ、
我々はその力に対しての恐れや不安と共に、
それらを敬い、人間の小ささや不完全さに対して
もっと謙虚に、もっと穏やかに受け入れることも
できていたのだと思います。

しかし科学は人間が常に必要としている
「不完全な自己」に対する許しを少しずつ奪っていきます。
驚異的な能力を持ち、
不可能だと思われていたことを可能にした過去の英雄たちの名前が増え、
人のチームワークによって
自然の中の制御できないことが人の制御下に納められていきます。

たとえば地震や火事などの災害に対してさえも、
人、機械、物資のネットワークがしっかりしていれば
生き延びることができる、と思われています。
生き延びることができない理由は決して
「自然の力が大きくて
人にはどうしようもないという原因」からではなく、
「必要なことはわかっていたのに
人の不注意で対策を怠ったため」、
という原因とする見方が大勢を占めます。

これらのことは、人が意識の上で理解しておかないとならないこと、
以前に誰かが分からないことは明らかにしており、
「努力によって」知ることができたはずのことがあらゆることに用意され、
それらは選択を強要し判断の誤りは許されることが難しい、とされると
人は罪の意識から逃れられなくなってしまいます。

病気が悪霊からもたらされると信じられていた頃、
そしてそれらに対して為す術を何ら持たなかった頃、
たとえ病気から救う事ができなくても
人は自然の圧倒的な力をどこでも感じ信じることができたのです。

あらゆる症例に名前がつき、その原因、探し方と対策が明らかになると
「目の前の現象を見つけられない間違いを犯したから
治すことができなかったのだ」と責める可能性が生まれます。
一方で、その対策に多額の費用がかかる、ということになれば
治るかどうか分からない症例に対しては
一家が破産してもどこまでも有効な対策とされたものを行い続けなければ
誰かが見捨てた罪を負ってしまう、ということになってしまいます。

これほど極端でなくても
類似した問題はいくらでも存在し、
仕事の決定で誰が責任を負うかということが
常に無言と沈黙の中で議論の対象になります。
この責任の示す意味がこのままではあまりにも重く、
失敗すれば職を追われ死ななければならないようにさえ思われ、
不確定性と不完全さに対して
人が受け止められる量を超えてしまうように感じるのです。

生きていく上で、私から離れなかったものは
自分に対する罪の意識でした。

私には物心ついた頃から、
世界の裏側で絶え間なく起こっている戦争や貧困に対して
何の行動も起こせていない自分というものを感じ、
様々な幸せや喜びをこの世界で与えられ感じるたびに、
いつも罪の意識が伴いました。
ただ人としてできる限りの生き方をしよう、という目標は
この罪に対して完全な解決を与えないのです。

全ての人が生きる上で生じる辛さや苦しさから開放されて欲しい、
それは強い辛さや苦しさに打ちひしがれそうになってきた
自分が感じる何よりも強い欲求です。

自分にできることを増やし、たくさん与えられるよう努力することは
この問いに対するせめてもの抗いでもあり、
罪や自責の意識に対する償いの形でもありました。

しかし、それでも
全てのリクエストに応えることなどできず、
行動するほど反作用も生まれ、
自分に対する罪の意識の苦しさはいつまでも募るばかりでした。
そしてそれらの観念と無関係にまわっている様に見える他の人の世界-
芸術、楽しみ、自らの欲求の追求に対して
それを受け入れる方法がずっと分からずにいました。

日本は西洋的な哲学や思想の理由を持ち込まないまま
科学や法律の手腕だけを生活の中に取り入れましたが、
果たしてその状態は正常に続けられるのでしょうか?

私にはいずれ続けることができなくなるだろうと感じています。

興味や好奇心という人の心から発したものだけでは
科学の実際的で強力で反作用さえ持つ明示的な力とその結果を
正常な感覚を保ったまま受け入れられなくなる日が来ます。
そしてそれらから「離れて」生活することができれば
明示性を突きつける問題とは正面から向き合わずに済むはずですが、
一人で山にでも住まない限りその方法は選べません。

役立つから、という理由で科学を学ぶ者が増え、
その力と思想の一端に触れるものが増えれば、
必ず一度は私が突き当たった問題に触れるはずです。

人間を罪という概念から解放できるのは
人間が生み出した物の中にはではないのではないか、と思います。
私たちが「人間は取るに足らぬほど不完全で小さな存在だ」と感じられるものを
より身近に、より強く意識しなければならなくなっているのです。

宗教は「人に限界がある」という一つの指針を示します。
しかし宗教で語られる言葉は全て「人が作った」ものです。
そして言葉は人によって解釈が異なるものです。
一番の問題は「限界を超えた何か」に勝手に呼び名をつけ、
「人の限界」以外にも生きる方法にまで決まりを示してしまいます。
この決まりごとについて宗教は罪や死へと繋がる禁止を示し、
また「一つの神しか信じてはいけない」ということさえ言い切ってしまいます。

信じるもの同士が正しいと信じ切って争う背景には
常に人間の限界があるため、
争わないと決め、常に赦していることを根拠にして
我々が信じる宗教の解釈こそが唯一正しいと言う論理は
罪を救うためには何らの力も貸しません。
それなら「人間の限界を認め」「争わない」事を抱えているものなら
何の宗教だっていいのです。

人を全て平等に扱いたいのならば、
霊感を受けた特別な人などというものさえ一切作るべきではなく、
人間の力では「人間を超えた存在」について
どの誰であるかを特定することは本来できない、ということだけが
常に正しくあるものであって、
それが何であれ特定した瞬間に、
特定したという理由によって間違いになってしまうのです。

地球を壊せるようにさえなってしまった今、
宗教の力を使わずに
それを思い出させるものがまだこの地上にあるのでしょうか。
手付かずの自然、厳しく巨大な風景でさえも
人の手によって歪めることができてしまうなら、
残された場所は人の住む地、には既になく、
この空と天と、地球を離れた宇宙だろうと感じます。
幸いにしてこの宇宙全体は
地球のように探してまわることすらできないほど
大きくて未知であることが十分に、そして永遠に保証されています。

人も、人の浮世で起こる
喜び、悲しみ、怒り、慰め、過ち、誤解、悩み、苦しみ、そして死さえも
人として大切ではあるけれど
遠くから眺め返せば本当に取るに足らぬ一つの過程である、
まだそう本気で信じられるものが見える場所にあった、ということ、
その中で人としての不完全さ、無力さを認め赦してもらいたいと
今は強く信じていたいのです。

空はいつでも、どこからでも見ることができます。
どこか遠くへ行かなくても、
いつも無限に遠い物、手の届かない大きなものを
その体で感じることができるのです。

私はこれからいつも、時間の許す限り
空を眺めて暮らします。

火曜日, 6月 13, 2006

金ではなく鉄として

街の賑やかさが
時にカンフル剤のように感じることがあります。
カンフル剤は一時的に効くのですが、
次第に疎ましくなってしまいます。

テレビ番組というのは少し哀しいもので、
喋ってないといけなくて、賑わってないといけない、と
何かに要請されています。
どの番組も元気で溌剌で、
しかしどことなく無理があるのです。

中坊公平という弁護士の半生、
「金ではなく鉄として」を手に取ったのは、
とある漢方薬を出してくれる内科のロビーでした。
森永砒素ミルク事件を被害者の立場になって弁護した人です。

大きなことが為されると、何か人間まで特別なように
扱われてしまいがちなのですが、
取り柄や評価が欲しい年頃に行動では認めてもらえず、
自らを行動で明かすことができなかったのだと綴られています。
しかしそれでも認めてくれた家族や友人の特別な支え、
無償で与えられることを強く感じられた彼は
幾多の困難を自分なりの方法で一つずつ乗り越えていきます。

わたしのやり方は時に問題があります。
でもその人の人生に無償であげられるものがあればいいと
いつも思っています。
それらは時折「特別な何か」という枠で括られてしまい、
その関係が永続的になるよう少しずつ縛られていくことがあります。

無償で手渡すことが新たな欲を呼ぶ、というのであれば、
わたしは無償で与えることを控えなければならないのでしょうか。
それとも無償で与えていい大きさには限度があるのでしょうか。
そのときに残ったさまざまな関係は、
すべてgive & takeであったりするなら、
片手に自然、片手に人をつないでいた手の一方を、
人ではなく「かみさま」という何かに繋ぎ換えてもいいな、と
ふと思うのです。

火曜日, 6月 06, 2006

アイデンティティが自動的に失われる社会

39℃の熱が出ていて、
しかし意識は比較的はっきりしています。

どこにいても落ち着かないことがあります。
その原因が何であるか分からず、
熱っぽい頭でしばらく考えていました。

部屋中にあるものは、
主に「それと同形同機能のものがある」ものばかりです。
CDも、テレビも、本も、住んでる家も、
世界のどこかには完全なまでに見分けのつかない複製品があって、
自分だけの何かを象徴してくれているわけではありません。

この悩みは一度解決しようとしたことがあって、
その組み合わせの中に自分自身が見出される、
ということで纏めたかったのですが、
時折うまくいかなくなります。

労働力として役に立つならば、
自分でなくても構わない、という精神があったとすると、
個人のアイデンティティを保つのはさらに難しくなります。

デジタル化と工業化の問題についてふと思います。
なるほどそれらは人の生活に完全なまでに平等な恩恵を与えたのですが、
まったく意識されないところで自分を見失う機会が与えられています。

情報化はさまざまなケースの分類を可能にしました。
病気はほとんど名前が特定されるし、明日の天気は既知のもので、
人という要素は内臓と器官と骨格でできていて、
すべからく平等ということになっています。

地図は世界中の地形を表してくれていて、
自分しか知らないことなんてまるで無きに等しく、
何もかもが「分かったような」気になっています。

分からないことを恐れながら、
しかし分からないことに挑むから自分らしさが現れるとしたら
この世界の「分からないこと」の二面性を思います。

分からないことに挑むこと、
それは恐ろしいことであり、
同時に誰のものでもない自分をつかむことです。

水曜日, 5月 31, 2006

職務質問

日常的に心に浮かぶことがあって、
思ったときに書き留めておかないと忘れることがあります。
忘れてしまった「あのこと」は
自分の頭の中でどうなっているのだろうと
ふと想像します。
釣り逃した湖の魚のように、
自分の無意識の中で泳いでいるのでしょうか。

一般的な性質として、
あるものの境界に近付くほど事態がややこしくなります。
ややこしくなる、とは考慮に含む事象が増える、というもので、
個人の存在に関わるもの、
俗に言うプライベートの部分が境界の限界です。

プライベートという日本語の言葉には
今現在は「普段は見せない秘密」というニュアンスを含みます。
公的なものと私的なものは、
公開と秘密とは異なるもののはずですが、
なぜか私的なものは秘密ということになってしまっています。

個人として思い考えることを私的として、
それに周りを見回して考えたことの影響を考慮したのが公的なら、
公的と私的の間には繋がりがあり、
情報の隔絶が起こっているわけではありませんし、
また公的と私的が反対要素であるわけでもありません。

秘密の取り扱いについてふと思います。
秘密が人を守り弱くするだけのものであれば、
守秘義務が課せられた法律家や医師はすべからく弱くなるはずですが、
実際はそうなっていません。

わたしの印象では、秘密という言葉のインパクトは
日本ではとりわけ大きいと感じることがありますが、
一方で一定の条件の下では見せてもらって当たり前だという概念も通っています。
ただ日常的に生じている秘密はいくらでもあって、
着替えている最中は席を外すことだって秘密のひとつですし、
美しいレストランで食事をしているときには
調理場の流しで皿洗いをしているところは見せないものです。

本当の秘密が守られるとは、
情報が鍵をかけて保管されることではなく、
これは公開したくないと宣言したことが
正当な事象として十全に認められなければなりません。
秘密の捉え方と個人の概念とは緊密な関係がありそうです。

秘密が当然として認められて初めて、
個人という概念も成立するように思います。
日本人は純粋で生でピュアなものが好きだと公言して憚りませんが、
本当の純粋さは非常に複雑な世界を経験して内包しているはずで、
単極で居続ける無知さを肯定するものではありません。

情報公開で何もかもガラス張りで、
日本の芸能人のようにどこまでも個人を失うのか、
それとも秘密結社や汚職や談合のように
すべてが闇の中に包まれるのか、
こういう極端なケースばかりの極端で稚拙な状態から進歩して、
公開と秘密のバランスをどこかで上手にとっているようなケースを
もう少し追求すべきだと思っています。

晒されるか閉ざされるか、という選択は
昼は摂氏150度、夜は零下数十度の月の表面のようで、
それでまともで美しい生命など育ちようがないのです。

火曜日, 5月 30, 2006

仮想質問

歩く機会が増えました。
道にはよく花が咲いていて、春の季節は目に快いものです。

テレビを時折見ていて、わたしなりに解釈に困る言葉があります。
「あなたは私が望むことを何もしてくれないじゃない。
私のことを大事に思っているの?」

この「大事に思う」という言葉、落ち着いて考えないと何かつかめないので
しばらく考えます。

望むことをしてくれるという行為が大事に思うことであるか、と考えると
そうではないだろうと思います。
何らかのサービスなら職業で受けることと同じで、
多少の抵抗はあっても大事に思うかとは別に行動があるものです。
同様に、大事に思うことの表現は煩わしく面倒なことを
自分の代わりに解決してくれることと等価だろうか、と考えると
そうでもないだろうと思います。

では、大事に思うことは
私と自分が同じことを望み好んで同じ場所にいることと等価だろうか、と考えると
そうでもないだろうと思います。
好みは個性を表しているものであって、強要はできないものです。

私のことを思っているのならこれをして欲しい、という台詞があって、
多分そんなもので思いの量を測られるのなら、
思うこと自体をやめるとふと思います。

自分がやりたいことが
人まで巻き込まなければならないと分かった場合、
やりたいこと自体を考え直すことがあります。
他人を目的達成の不可欠条件にすることは基本的にないし、
自分と他人の区別をつけない人を時に不思議に思います。

わたしが心から望むことは、
あるべきものがあるべきように保たれ、
たくさんの人の中で純粋に大切にしたりされたりして生きることだけで、
家族であれ組織であれ、
特定の何かだけを選び続けることは
どうしてもできないと思っています。
自分が選び出した少数の人だけが幸せであれば、
後の人たちへはただ幸せになっていたらいいねと願うだけで
地球の裏側がどうなっても特に気にしない、というような人に
自分がなりたいとは思えないし、
そういう人に心が惹かれるとも思えないのです。

わたしがいつも大事に思う人は、
自分の意思でたくさんの人に幸せを与えようとしている人で、
その人は特別にこちらを向いていなくてもいいし、
何かを与えてくれなくてもいいと思っています。

自分には何もくれないのに変じゃないか、と
思われるかもしれませんが、
自分の意思でたくさんの人に幸せを与えようとすることを
現実に見せてくれていることが一番満たされるのです。
何かが欲しいわけではなく、
なぜかとても与えたくなるような気持ちで近づきたいと思うのです。

どうしてと言われてもなにもうまい説明はできず、
ただわたしはそう思うだけだとしか言えませんが、
そう思うことはとても確かなのです。

火曜日, 5月 23, 2006

無心といけにえとばば抜きと

ちょっとおどろおどろしいタイトルですが、
言語化せず雰囲気でコミュニケーションし、
難しい仕事を負担する段になると
社会はこういう現象になります。
魔物なんていない、と科学はすっかり
社会システムを明らかにしてしまったように触れ回りますが、
とんでもない、とふと思いました。

魔物とはつまり、非言語で投射される人の心です。

月曜日, 5月 22, 2006

人間にとっての距離とは、精神的な近しさの度合いである

地図を見てびっくりするぐらい遠いなと思った道のりでも、
なぜか歩いてしまうと簡単に着いてしまいます。
これは歩かないことで距離の感覚が分からなくなっているせいで、
メンテナンスも必要です。

隣町でも行ったことがない場所は遠いものです。
「知らないこと」と「知らない場所」の概念は
まったく一致します。
どちらも、初めて通過する直前での想像では
途方もなく遠く長く感じるのです。

知らないこと、知らない場所へ行くためには
どんな人でも最初は勇気が必要です。
知らないことを何度も繰り返すうち、
「知らないこと」という一般的な事象に対して
どのような姿勢で向かえばいいかが分かってきます。

ふと冒険がしたくなって、でも躊躇して諦めてしまっても
特に自分を責めることはありません。
にわかに冒険に行きたいと動かずに息巻くぐらいなら、
行けない自分を認めてしばらく閉じこもっていれば、
退屈して出たくなるものです。

冒険が要請されることがあります。
仕事においては未知のものに挑むことで新しい市場を開くため、
対価を受け取って冒険をすることになります。
そのうち冒険が嫌いになってしまうこともあります。

未知の世界へは要請されていくものではありません。
自分が望んで冒険を挑んでも断念することさえあるのだから、
人に頼まれたぐらいの動機付けではエネルギーが足りなくなるのです。

冒険にだって練習が必要です。
チュートリアルのように分かっている場所を数回めぐって、
自分で探すべき項目を覚えていきます。
小さな冒険ができるようになれば、
大きな冒険をするチャンスも生まれます。

小さな場所での小さな失敗は、
大きな場所での大きな失敗を避けるために便利です。
失敗が悪のように決め付けてしまわず、
どのくらいの失敗までは起こりうることにするか、
それは物を作る人間にはいつも気にかかっていることであって、
この話題を問いかける、というのが
意識に対するひとつの試金石のようだと感じています。

金曜日, 5月 19, 2006

光っていると、輝いている、の違いについて

話題を思いつく時期は不連続に訪れるので、
そのときに書き留めておきます。

今朝道を歩いていると、
雨の中で明るく光る場所を見つけ、
そこに花があることに気付きました。
それは「輝いている」という表現がぴったりでした。

雨の日はたくさんあって、
花はそのときいつでも光っているのだから
輝いたという表現になったのは
その日の私の状態の違いに拠ることになります。

自分の気持ちの状態が良くないときは、
光を見ても輝いているという表現にはなりません。
蛍光灯は白い色で、夕日はオレンジ色というだけです。
白もオレンジも、絵の具のそれとさほど変わらないように
感じてしまうのです。
ところが輝いているなと思うときには、
光を放っていない物体でさえも不思議な輝きがあるように思われるのです。

日常が平板になった、という表現があって、
これは物が実際に絵を見ているような状態になることだとしたら、
輝いている、と輝いていない、の違いがはっきりします。
平板になったときは絵の具のようで、
いきいきとした時は立体的に感じるのです。
脳が疲れると2次元的処理、
活発だと3次元的処理になったりするのでしょうか。

光っている、ではなく輝いている、という言葉を使ったのは
実に何年ぶりかで、
それがどうしてなのかはあまり理由が分かりません。

木曜日, 5月 18, 2006

散文的日記

Although all the people have a lot of knowledge and wisdom,
some does not have a knowledge to share each other.

パソコンにソフトをインストールしている間は、
パソコンの潜在的能力が上がりますが仕事は為されていません。
ドイツの諺に「万書を読んだ愚か者」というのがあって、
本だけ読んで何も行動しなかった人のことを言います。

深く考えることと追求を深めずに行動することの
両面は、このような関係に良く似ているのではないかと思います。

日本的な基本精神として求道があり、
道を究めることが美徳とされています。
しかし究める道には原理的に終わりがありません。

求道のもつ問題点は、
周りの人より十分達者である、という外的要因によって
行動できるかどうかが変わってしまう状態に陥りやすいことです。
下手を見せたら「恥」ということになるからです。

それを懸命に逃れようとして、
僭越ながらとか若輩者ですからとか
さまざまなカウンターを用意することになります。

深く追求すること自体はとても重要なことです。
自分の進む軌道を変えるからです。
しかし軌道が変わっても進まなければ前へは動けません。

それはまるで地球を回る月のように、
月が周回し続けるためには、
軌道半径を大きくしたらより速く進む必要があるのと同じです。

深く考えることと、迷いを振り切ってたくさん行動することは
まったく違ったものではなく、相互補完された要素と感じます。

今日世界が終わってもいいという日もある

小さいキーボードは打ちにくい、と
ピッチの違うノートパソコンを触って思います。
DELLのキーボードはピッチが小さいのです。
固いキーボードも苦手です。
キーボードが柔らかいと不評なVAIO S[SZ]ですが、
個人的にはとても気に入っています。

今日はこんなことを思いました。

思いつける限り十全に満たされて、ふと
今日みたいな日は世界が終わってもいいなと思う瞬間が
たまにあります。
それは全てを為した事実から来るのではなく、
多分自分の状態が勝手にそうなるのですが、
死はある日にとって非常に怖いもので、
しかしある日にとっては怖くないものになっているはずです。

そういう日に痛みがなく生命が終わるものだとすれば
了解する人は割といるのではないかと考えます。

世界が相互作用するためには物質的なやり取りが必要ですが、
その一部を写像した脳の中はあらゆる情報が近接しています。
現実に嵐を起こすのは莫大なエネルギーシステムで、
簡単には嵐を作れませんが、
その写像である脳の中では
脳の中の地球一つを消してしまうほどの嵐、
つまり感情の急激な変動が比較的簡単に作れます。

多くの人が語るように、
一度問題を十分自分に覚えこませ、
良く打ち込んだ後であれば、「全く関係ないことをする」時に
価値ある発想は生まれると言います。
この「十分に」というところが大切で、
不十分ではいけませんが、
いつまでもしがみついてはいけない類のものです。

「全く関係ないこと」は
実世界の現象として関連を持たない、という意味ですが、
脳にとっては刺激が別の角度からやってくるだけです。
実世界では関係ない二つの事象は関係ないことのままで
それぞれが時間発展し続けるだけですが、
脳にとって入力された全ての事柄は単独は存在できず、
相互に作用を起こします。

脳が一部分興奮すると、
それが脳の全く関係ない箇所へと波及できるということは、
ある一つのことに自信が持てると、
様々なことに自信が持てるひとつの理由になります。

コーラの炭酸に刺激されて新発明を思いつく、
たとえばこんなことが本当に起こるので、
人はひらめきを呼ぶ何かを楽しみに待っています。

火曜日, 5月 16, 2006

自信を見せる、を仕事にする

昨夜と今朝は妙に調子がいいなと思っていたら、
物理的身体は行動した分だけ反動が来ます。

仕事に関するいろいろについて、
手技はいろいろな人から何度も学びました。
しかしなんとなく人と接しながら学ぶ回数が少なかったものがあって、
それは「どんなときも自信を見せること」かもしれないと
ふと思いました。

正直である、ということの捉え方というのは、
自分の心に従うことではあるのですが、
しかしそれは揺らいだ自分も含めて
何もかも見せてしまうことなのだろうか、と
考え直そうとしています。

喜びと悲しみに比較的強く連動して、
自信があると自信がないが今は存在しています。

静かな自信を見せることが
重要な仕事として認識できるのであれば、
ひとつ自分に課してみようと思います。

わたしは少ない休みでよく働くものでいたいのです。

赤ペンを標準に

駅の中にテナントが増えるようになりました。
月替わりのお菓子屋なんかもあります。
国営から企業に変わると自由度が増えます。

メモを取るペンの色、
何かによると赤、青、緑の3色ペンを使うように、とか
書いてあります。
ちなみに男性は赤い色が見えづらい人がいるのだそうです。

3色をノートに使うとどうも落ち着きません。
黒と一番合いそうなのが赤い色です。
それで自分のメモを赤い色で取ってみることにしました。
気分の緊張が和らいだ感じがします。
赤い色は危険な色と言われながら、
なぜ気分が落ち着くのか不思議に思います。

身に纏う色が赤では落ち着きませんが、
見る色として赤は安らいで良いと思います。

月曜日, 5月 15, 2006

どんな力であっても

最近の好きな数字は「2」です。
二つの視点が自分に必要なことがよく分かる気がするのです。
車も二つの動力がついているものを希望します。

およそ力と名づけられたものは
作用と反作用が生じます。
文字にしてしまうとたったこれだけのことなのですが、
案外反作用を考えないことが多いのです。

人が信じ頼ってしまう全てのもの-
それが神だったり法だったり鰯の頭だったりするのですが、
溺れて寄りかかった時点で反作用に負けてしまいます。

人と人が真に支えあうのであれば、
もたれあうことではなくて
まずそれぞれが一人で立っていなければと思います。

空を飛び、核で電気を作り、
高エネルギービームで癌さえ治してしまう時代、
人にとって向き合わなければならない最大の力は
人であるように思います。
もし自然の災いが人を結び立ち向かわせる重要な要素であったとしたら、
近代文明は災害によって命が奪われることを防いできましたが、
人を結束させるための手段もまた失ったといえます。

木曜日, 5月 11, 2006

丁寧語に含めるニュアンス

久しぶりに日記を書く気分になりました。
見てもらうというより、書くのは「ある日の自分」に
今の意識を届けるためだろうと最近思います。

人と話すとき、どんな言葉にしようか
時々考えます。
丁寧語、尊敬語、謙譲語などがあって、
常体を殆ど使ったことがありませんでした。

常体を使わない、あるいは使えない自分は、
多分時々人にどんな印象を与えるか心配になっているのだと思います。
それで少しずつ常体を言葉に取り入れることにしました。

これは一つの「心をあまり揺らさずに会話をする」練習かもしれないと
思っています。

一方で、丁寧語で会話するときにも
幅広いニュアンスを含めることがあるということに
意識が向き始めています。

「常体に近い」丁寧語というのがあって、
メールなどでは気持ち的に(+1)ぐらいのニュアンスが出せないかと 
ちょっとした努力をしています。

月曜日, 4月 24, 2006

環境のみ引越し

久しぶりに日記を書きます。

環境が変わって疲れてしまうのは多分頭です。
違うものが一瞬で通り過ぎれば忘れるのですが、
見るものが変わったまま戻らないと
人の記憶が変わらざるを得なくなるからです。

本当に慌しい3月と4月を過ごしました。
少しずつ様子は日記に残していきます。

日曜日, 4月 09, 2006

3行広告

Citibank、三井住友visa、クレディセゾンでは
クレジットカードに敬称をつけることができませんでした。
宣伝どおりの国際化を願います。

木曜日, 4月 06, 2006

大氾濫した時計群

デジタル装置は周波数を出す発振器が付いていて、
そのクロックで演算をします。
発振器とカウンタがあれば
あっという間に時計が作れるため、
ほとんど全てのデジタル装置に「時計機能」が付いています。

少し部屋を見渡すと、
携帯電話、パソコン、iPod、壁の時計、電気ポット、
炊飯ジャー、ビデオ、オーディオのアンプ、固定電話、
洗濯機、果てはエアコンのリモコンにまで時計が付いています。

捨てられないと思っているのか、
企業の販促やプレゼントにはやたらと時計があります。
駅などには時計が必要ですが、
それ以外の場所で時計が「必要とされる場所」は少ないはずです。

商談では約束の時間が大事、確かにそうなのですが、
商談の中身よりも時間が大事になっては本末転倒です。

時計は一見罪のない便利サービスのようですが、
時間が気になって仕方がない、という点で
潜在的には大きな問題だと感じています。
現代人が時間に追われている気がするのは
もしかしたら時計の存在にあるかもしれない、と思いました。

時計や時間のことを考えているとき、
それ以外のことを考えないのですから、
時計が気になる人ほど生産性が下がることになります。

外国に行った先では
ここまでたくさんの時計を見ることはありません。
レストランに行っても探さないと分からないほどです。
これが落ち着く元かもしれないと思ったのです。

それで不要な装置に関しては
腕時計以外の時計機能表示をOFFにしました。
もうすこし発展させると、
時計ではなくてアラームを使うといいかもしれません。
時間を確認することに意識を奪われなくて済むからです。

この作業が良い結果を生むのか面倒になるのか、
しばらく試してみます。

欠けていた何か、埋まる何か

ようやく新しい研究室のネットワークに繋がりました。
まださほど荷物を持ち込んでいないのですっきりしています。

3月末までの実験は目標どおりの結果が出ました。
肩の荷が下りた気がします。

前の研究所に来てから、
理解されないまま進まなければならないことが
とてもたくさんありました。
説明だけでは志を分かってもらえず、
結果を出さなければ理解されない、
それがただの外部の他人であれば落とし所もあるのですが、
自分に近い人であるほど分からないことからくる反発が大きく
難しい思いをしました。

分からないことはたくさんあっていいのですが、
分からなくてもいいと居直ってしまうことは問題です。

結果によって分かってもらえたことは
わたしが3年位前にイメージした姿であって、
現在のわたしはまた違うイメージを持っています。
それが理解されるのも時間がかかるものです。

一番良い方法は「まず反対されないこと」で、
賛同しなくてもいいから放っておいてくれたら上々です。

結果が出る前に自分の志を認めてくれた人が
とても大事だと思います。
どんな結果も志がないと求まらないからです。

今の研究所はまだつながりが薄い分
なんとなく放っておいてくれていて、
それがとても心地良く仕事が進む原動力になります。

水曜日, 3月 29, 2006

社会と呼ぶものは具体的には何か

黒い色が好きです。
小さい頃緑が好きで、
しかし洋服として緑は難しいのですが、
黒のアクセントとしてきれいだと最近思います。

社会と呼ぶ厳しかったり不正が多かったりと呼ばれるものについて
時々考えます。

社会と呼ぶ実態のひとつは
「集団心理」の存在だと言えます。
個人ではできないことが集団ではできる、
中心的な意見に共鳴し同調してしまう、
このことが人の集まりに対して
良い作用だったり悪い作用だったりします。
個人としての人間と社会的な人間との乖離が強まると
「社会は冷たい」と「個人」の人間が表現するのです。

社会通念、モラルなどの一切は
どんなに偉そうなことを言っても集団心理の形成です。
どのような社会モデルを形成しても、
それを取り扱うのが人間である限り
社会モデルの全てがすべての人に当てはまるわけではなく、
現実的な問題は生じます。

木曜日, 3月 23, 2006

新聞を読みなさい、と人生の気忙しさの相関について

個人的にとても気分を害してしまう状態の一つに
「ついでに」と「ちゃっかり」があります。
そういう付き合い方をされると一緒に行動できません。

この二つ、なぜ嫌なのかをずっと突き詰めて考えると、
頼むほうに良いことがあるけれど
「ついでだから特に難しくないでしょう」というアプローチで
親切心を無言のうちに強要されるからで、
一人前に頼む責任を自分で負っていないからです。

親切心は要請されて出すものではなく、
その人への感謝の発露として自然に現れるものです。
貯金のように預けたり引き出したりするものではありません。

味噌っかすのような情けない頼み方をせず、
自分の願いを「ついで」や「ちゃっかり」で済ませようとしないことが必要だと
良く感じます。
社会的に一人前に扱って欲しいと思うのであれば
自分が要求したという責任を自分で引き受けることです。

新聞を毎日良く読みなさい、
社会のことがよく分かるから、とは
いつでもどこでも良く聞いてきた話です。
新しい情報はかなりエラーが多くて、
取捨選択も深い洞察も為されない生のものです。

この言葉に含まれる「本当のような嘘の部分」を
正確に表現できないかと時々考えます。

同じ情報を伝えるなら新聞だけ読めばいいのか、と
以前考えたことがあります。
週刊誌とか機関紙とか単行本には
どんな意味があるのか不思議に思った時期があります。

思考に関する二つの極を挙げれば、
早く知らなければならないことと、
熟考しなければならないことに分けられます。

速報が役立つのはたとえば台風の話、交通事情の話など
行動そのものに影響が出るものです。
隠されていた悪事などもいち早く引き抜かれなければなりません。

熟考が必要なものの最も普遍的なテーマは
行動が長期にわたるもので、
突き詰めれば自分の生き方に関わるものです。

速報で株の情報を知らなければ損をする、
このシステムを受け入れるならば人生はせっかちになります。

芸能情報が速報で「なければならない」理由はありません。
興行なんかは十分な宣伝の元になされるもので、
準備に大きな時間がかかるからです。

世の中には、原理的に早く動かなければ存在できない
宿命にあるシステムがあります。
銀行は通貨の循環量が増えることで手数料が増えるため、
経済がどういう状態であっても「激しく変動する」ことを要請します。
この要請に実体経済が連動してしまうのです。
資金余裕がなく開業した会社は
収入と支出の量がともに大きい必要があればあるほど
維持するのが難しい会社になります。

最近は銀行もただ資金を貸すだけでは成り立たなくなって、
コンサルティングで手数料を取ろうという向きに変わりつつあって、
この改善は好ましいものだと感じます。
しかし今度はコンサルティング技術の秘匿が問題になります。
お金がなければ情報が得られないことになるのです。

情報を売っている産業は大きくは新聞やテレビのメディアで、
小さく見るとガイドツアーの添乗員さんや結婚相談所などもあります。
芸能雑誌に載る「スクープ記事」と言う表現は
時々当たりで時々外れています。
紙面には「賑わっている」ことが強要される傾向にあるため、
ねたに困ったときなどはどうでもいいことが一面にやってきます。

無一文から巨額の富をなした人を
「アメリカンドリーム」と呼んで、
商社の人なんかはこれを夢見る傾向にあります。
この「アメリカンドリーム」に含まれるニュアンスは
「非常に短い期間で」たくさんの額の「お金を得る」ことにあります。

20年位かかって十分裕福になる、でいいと思います。

こんな話を年上の人にすると、
「最近の人は競争心や向上心がない」と揶揄されることがかなりあります。
競争して富を奪い合うことが競争心ではなく、
ただ地位的に上り詰めることが向上心ではないはずです。

自分を高めるための努力に競争心は必要ない、というだけです。

向上心がない、と言う人たちのある種の本心は、
「誰かが頑張ってくれたらおこぼれで生活できるのに」という
コバンザメ的な卑しい発想を多分に含んでいます。
夢を持て、希望を持てと大きな会社の社長が謳う言葉には、
若者ががむしゃらに走ってくれれば
我々は左団扇で暮らせる、という意味を含有しています。

若者はもっと十分に賢くならなければならず、
これらの嘘を自発的に徹底的に見抜いていかなければなりません。
ファラオ王が何よりも知恵が欲しいと神に頼んだのは、
嘘は見抜けば破壊できることに気付いたからです。
情報の秘匿ではなく
知らないものにもっと生きる知恵を与えること、
そんな意思に基づく活動を広めて行きたいと思います。

金曜日, 3月 17, 2006

電波ぐらいの繋がり方

何か曲が聞きたい、しかし聞くと頭に響くというのは
最近のオーディオは猫も杓子も音質が良すぎることにあります。
カセットテープやラジオのFMで聞いていた頃は
ノイズも音のひずみもあったのですが、
もう少し何かほっとしたものです。

繋がることは絶対善ではないとふと思います。
継続サービスを謳うものは全て
繋がることの効用を説きますが、
それは拘束条件であって、使い方によっては
長屋の五人組のような不自由な思いをすることになります。

一般に、有線に比べて
無線は品質がよくありません。
受信条件があやふやだし、送れる情報量に限りがあります。
しかし無線は何かが自由です。
無線が不安定だから有線化するというのは
なんとなく何かに信じて寄りかかってしまう心の問題に
極めてよく似ています。

心と心は無線で繋がっているようなものです。
受信条件があやふやだし、送れる情報量に限りがあります。
この世のあらゆる手段をもって有線化しようとすると
心は自由ではなくなってしまいます。

自由で平等な社会があるとすれば、
それは心が自由でなければなりません。
確かに心は不安定なのですが、
不安定なのが嫌で自由を放棄するような姿勢は
そろそろ改めなければならないと思います。

水曜日, 3月 15, 2006

反復性に対する疑問提起

異動の春になると書類書きが増えます。
何枚もの書類に名前を書く疑問を感じることがあって、
その疑問は「不要なことを繰り返している」という感覚に
根ざしたものです。
現場を見て分かったことは、
書類というのは「情報を物体化して積み重ねる」という側面を
利用したものなので、
人間が手記という「一回性のもので」書いていく必要があります。
印字というのは誰でもできてしまうものなので
便利だけど危険でもあるのです。

この例は分かりやすく、
もう少し分かりにくい例もあります。
テレビは録画せず電波を受信したときの映像が好きという
彼の言葉にどこか納得しています。
では歌手が全国公演をしていて
何度も何度も歌う歌が一回性かどうかは
その場の人間の状況によります。

聞いている側にとって一回性であり、
歌う側にとっては反復なのです。

反復性にはふと疑問が起こります。
空気感まで再現できるほどのオーディオまで出てきて、
自分の歌う姿まで記録されるのでは、
では歌う自分が一回性を保持できるかと不安にもなりそうなものです。

一回性とはアイデンティティに結びついたものです。
それを揺るがすのが人だけではなく、
機械や積み重ねられた社会知識、本やメディアも含まれ、
さらには人間が増えてくると似た状況の人も増えてきて、
自分は自分であるはずなのだけれど
それを証明する手段が分からなくなってしまいます。

誰が悪いわけでもなく、
しかし現在の状況は一回性をより強く意識して行動しなければ
自分がわからない悩みに連れて行かれそうです。

火曜日, 3月 14, 2006

ロバの耳

童話には大抵教訓めいたものがありますが、
秘密が言いたくて地中で叫んで穴を埋めたら
そこから木が生えてきて、その木で作った笛を吹くと
秘密がメロディーに乗せてやってくる、という童話は
何を教訓にするのでしょうか。

日曜日, 3月 05, 2006

アナロジー

時折ガラスが気になることがあります。
透明で錆びなくて適度な重さがあって、
石と同じ物質というのも魅力的です。

ガラスには結晶構造がありません。
固体で透明ですが非晶質で、液体と同じです。
ガラスは非常に長い時間が経つとその重みで
勝手に変形するのだということを聞いた時には
不思議な驚きがありました。

非晶質であるがゆえに等方的でもあります。
塑性の自由さはコンクリートと同様に
建築に重要な役割を果たしています。
それは「自由に曲がる石」と「透明な石」の存在であり、
石造りかレンガで建築を続けてきた西洋人にとっては
新しい石造りなのだと思います。

日本人は石を使い慣れていないし、
あまりなじみもありません。
長屋は木製だから江戸時代はたびたび火事になるのです。
見るものがいとも簡単に変わってしまったせいか
永遠性への理解もあまり深くありません。

永遠性とは本来の定義では永遠に届かない場所であるが、
同様に永遠へ向かうものであっても、
そのスピードには差がある、という数学の先生の一言が
ずいぶん心に残っています。

仏教の説く涅槃は永遠に届かない場所である、
この表現に疑問を持ったことがあります。
永遠に届かないものをなぜ追い求めるかという点で、
結果が出ず自分で確認できないものへと向かうことが
とても奇妙に思えたからです。

これと同じ感触をもった事例は
イタリアの完成までに数百年かかるという塔の建築で、
関わっている人たちが大勢いると言う驚きと、
なぜ完成しないものを作ろうとしているのかが
やはりうまくつかめなかったのです。

この問題は今でも時折立ち表れます。
ふと気が抜けると演繹の方法を忘れてしまうのです。

数百年かかったとしてもそれは有限の時間です。
一人の人間にとっては永遠よりも長い時間のように思いますが、
この場合人間は永遠を
自分の一生と同じ長さだと捉えていることになります。

人間が永遠性の概念を獲得することは
人間の文明の発達度合いとは関係がありません。
永遠性はインドで為されたゼロの発見よりも先にあるのです。

一つの人間の中には
個人と社会というものが存在していて、
そのどちらも本能です。
最近思うことは、人間の脳には
相反するものが多分に含まれているだろうという想像です。
たとえば男脳、女脳と言われたところで
それが実体としての性別とは関係がありません。

社会的に生きるのであれば、
どちらの性別も良く理解できなければならず、
「中性的な脳」が必要なはずです。
男らしく、女らしくという議論は
あくまで外見に結びついた話なのかも知れません。

端的に、蟻には知性がないといいます。
崖に続く場所でも砂糖の道を作っておいたら
どんな状況でも勝手に蟻の列ができてしまいます。
これは人間が砂糖の道を人工的に作っていて
こちらはそれが何かを理解しているが、
当の蟻はその全体を理解できずに動いているために
そう呼ばれるのです。

同じ演繹をするならば
いくら社会システムや宗教、習慣、道徳と呼ばれるものがあっても、
その全体が理解できずに動いてしまえば、
どんなにそのシステムを遵守したとしても
それは知性がないと呼ばれて仕方がないと思います。

人間は全てを知ることができない、
けれども知識とアナロジーによって
共通した現象をカバーできます。
その適用範囲がどこまで広がれるかで
それぞれの世界の広さが決まって行くように思います。

地球の広さが理解できたとしても、
地球の裏まで飛行機で行けたとしても、
それは地球をぱらぱらと
流し読みしているようなものかも知れません、
だからと言って一つのことに執着しているのでは
少しも世界が広がりません。

何かを深く知るということは
アナロジーの端緒として不可欠であり
知ったことを展開して新しい世界を広げていくことも
また勇気が必要なことです。

脳が計算機のように何でも覚えないのは、
すぐに書き換わって現状を把握できなくならないように
するためであるように思います。
脳を書き換えるには
おそらく相当なエネルギーが必要なのです。

限りなく小さいが、しかし0ではない

最終段階のデータを取り終えました。
目標を達成した瞬間というのは
現在形であって実は本人も何が起こったかよく分かりません。

事実というのは本来起こった瞬間に発生しているものですが、
人間の認識はある時間を伴って完成するために
事実は常に過去形でのみ語られます。
このことは話題になることをした自分と、
その影響が遅れて伝わる側との時間差に気がつけば
簡単に認識されます。

COURIER JAPONを初めて読みました。
メジャー・レビュー誌をさらにレビューしたような
おいしいところだけつまみ食いするような本かなと
思って読んでいますが、なかなか分かりやすく面白みがあります。

アメリカ大統領が盗聴をしていた話と
CIAが核兵器開発の偽情報を中東へ流そうとしていた記事があって、
以前ならわたしが驚きとともに迎えるところなのですが、
記事になって大衆が知る頃には
現場では未知の現象が次々に起こっているだろう、と
今はそんなことを思ってしまいます。

この世界はいつでも人間の限界に突き当たっています。
いくら文明が発達したところで、
人間が違う生き物に進化しない限りは
さらに多くの事象を把握できるようにはなりません。

一人の人間は多数の人間のある組織の前では
対抗するのが難しいものです。
個人として生き方の筋があることは必要ですが、
だからと言って孤立無援で戦っても動くものは少ないです。

組織は同程度に大きい組織でなら対抗できます。
何かを動かしたいときに、組織という存在が意味を持ちます。
中国の歴史物語はこの辺を良く踏まえていて、
三国志でも西遊記でも、
まず同じ志を持ったものを仲間にして旅を始めます。

日本にとって組織と言う言葉はなぜか後ろ向きな意味を持ちます。
それを表す象徴的な一節は、
元寇との戦いでは日本の侍が勇ましく名乗りを上げてから一人ずつ戦うのに、
敵はただ無鉄砲に集団で襲ってくるというくだりに示されています。

個人というものが非常に成り立たなかったからこそ
美化されて個人での行動が半ば伝説化された日本と、
個人という小さな単位でしか評価されないからこそ
集団での行動に必要性を感じたいくつかの外国、
どちらが理想ということは余りありませんが、
あるものをあるように捉えるならば
集団と戦えるのは集団であり、
社会性が本能であるならばこの問題は常に立ち上るものです。

文化や主義のバリエーションというのはあって当然のもので、
しかしそれが人間の性質をひどく歪めたもので
あってはならないと強く感じます。
そして集団の中で個人は無力と言う表現をされますが、
非常に小さい力ではあるにせよ、それは0ではありません。
忘れてはいけないことのように思います。

土曜日, 3月 04, 2006

特殊なスイッチ

日本語の原稿を書いている最中には
日本語の曲が聞けません。
頭の回路で干渉が起こるみたいなのです。
ところが英語の曲はすんなりと聞けてしまいます。
同様に英語の原稿を書いている最中には
英語の曲は聞けません。
自分の頭は時々メカのようで、
自分の説明書を書いてるような気分になります。

時々、不意ににあるスイッチが入ることがあります。
そんな時は自分が自動装置のようになってしまいます。
自分のことでありながら
自分を大まかにしか制御できないのです。

あげるので欲しい、という連鎖や
自分のためという欲という感情から遠く離れ、
純粋に楽しみのみを伝えようという気分だけで
人と向かい合うスイッチが入ることがあります。
そういう時は不思議と自分の輪郭を失います。

自分らしいこと、というのは
イメージとして形があるように思ってしまいます。
意識と言葉による定義ができそうな気がするのです。
自分が何であるかを手放した瞬間は
逆にイメージがありません。
しかし自分の輪郭がなくなった自分でいる間が
なぜか一番自分らしいと感じる矛盾があります。

意識が位置や速度であるなら、
無意識は加速度に相当する量のようにも思います。

自立についてちょっとした考察を思います。
雇用と被雇用の関係と
自立と依存の概念は本来別なもののはずなのですが、
非常に近い概念なので混乱が起こります。

想像力や発想はとかくすばらしいもののように呼ばれますが、
違いを正確に弁別できないアナロジーというのは
形がないだけに外から書き換えることができず
極めてやっかいな道具でもありそうです。

「自立の概念」を求めて起業する人がいます。
会社に勤める方に多いのではないかとふと考えます。
会社の違いというのはさながら同じ言葉が通じる外国のようなもので、
そのシステムによってずいぶん印象が違います。
民主的な会社もあれば、社会主義的な会社もあります。
分権が成り立っている場所も、一党独裁な場所も、
象徴で動いている場所も、絶対王政の場所もあります。

日本にとって「外国」の定義には
「言葉が通じない国」を暗に含みますが、
世界を見るとアメリカとイギリスは
言葉が通じても外国です。
ということは、外国の本態的定義は「制度が違う場所」であって、
日本の中の会社は十分外国的に違っているのです。

人の大きさと行動範囲、影響範囲、寿命などを
軽く頭に入れてみると、
この地球全てを網羅できる存在にはなれないだろうと
想像がつきます。

例え「これが単一の国で王は私だ」と宣言したとしても、
野球チームのオーナーが選手と観客と球場のドラマを
一人ではどうにも制御できないのと同じで、
宣言すること自体にあまり現実感がないのです。

会社の社長になったといっても
それは社会という大きな入れ物の中で
役割を果たすために預けられた場所である、というのが
会社のもともとの定義であって、
それが自分の所有物であるという実感に結びつくとしたら
錯覚であるような気さえします。

5000万のロールスロイスを100台持っていても、
エンジンのシリンダから自分の手で作ったわけではないので
「自分のもの」という実感は
本当は湧いていないのではないかと思います。

所有するという感覚がもし実感として成り立つとしたら、
それは人間以外のものから
得たものであり、
自分の体を使う必要がありそうです。
野菜を作るといっても種は買ってくるし、
畑を耕すのだってガソリン動力の機械がやってくれます。

じゃあ人間性を回復するためには
分業をやめて個人の単位へ戻せばいいかというと、
これは論点として違います。
分業によって生産性が累乗に増加する恩恵によって
人は余暇を得ることができていて、
そこから人間性を生み出す素地が発生するからです。

文化はさらに加速され続けなければ
ならないのかもしれません。
もし進歩というものがなかったとしたら、
システムは改変の機会を得ることができず、
会社に必要とされるのは「人の言葉が分かり、
忠実に任務を遂行する機械」のような
存在であって、人間性ではなくなってしまいます。
生き物として生きてはいるけれども、
人間としては生きていないのです。

経済成長が長く続く世界は、
おしなべてこの危機に直面します。
「良い時代」といわれた経済成長期が、
人間性にとって危機であった理由、
富によって不幸せになると宗教が説明する事象は
このようにすれば具体的に説明できるかもしれません。

文化が加速すれば、システムは改変の機会を得ます。
つまり、人間は機械のような忠実なマシンではなく、
それぞれの発想とその総和によって現状を開いていかなければ
ならなくなるのです。
このときには「殿様と家来」のような、
社会制度的な上下関係を破ることができます。
全くの個人が個人の発想によって位置を変えられる、
そういう時代が訪れるのです。

安定というものが「不変」であることならば、
人が生まれて死んでしまう不変を破った存在である限り
原義に忠実な安定はありません。
これが富の差を呼ぶのだと危惧されています。

すべての人が生活できるようにすることは
社会の意義として必ず必要だと思います。
しかしどのようなことをしても生活できるようにするなら
それは社会主義であって、
人間は怠惰することが歴史的に証明されています。

やはり頑張るものが認められるように
制度が整うのが理想として良いとは思うのですが、
問題は「何を判断基準にして頑張ったとするか」が
多くの人にとって可観測な状態にないことが多いのです。
人間は他人の心が読めるわけではなく、
24時間追跡調査をしてるわけでもないので、
判断の誤りが生じます。

今の自分ではこの付近ぐらいまで思考すると
問題の問いが最初へ戻ってきてしまいます。
自然が作ってきた生命のシステムによれば
それは自然淘汰という大きな流れの中にいるもので、
それを改変することはできないと思いますが、
もう少しましな方法はないのだろうかと
いつも考え続けています。

この考察、小休止しながら当分続くテーマになります。

火曜日, 2月 28, 2006

イルカに芸を

イルカには人と同じかそれ以上の知性がある、
だから芸を教える方法は知的なやり取りで行うのだろう、と
思っていました。

イルカには知性があってもそれに相当する感覚入力がありません。
皮膚は硬いし高周波しか聞き取れないのです。
表現は体が大きくて細かな作業ができません。

芸を教える、知的やり取りのみによらない方法としての
良い感覚入力はえさをあげることです。
本能に直結している分だけ分かりやすいのです。

もしかしたら人も同じなのかも知れず、
自分を把握でき、状況を細やかに観察できる感覚入力がない場合、
本能の統御によって導かなければならない状況もありえます。

人間という生き物が「人間」という社会的に認められることは
もしかしたらかなり難しく、
生物の成り立ちには何らかの理由があるという連想によれば
人間になれない人間がたくさんいる、とまことしやかに言われるのには
恐らく何らかの理由があるのです。

金曜日, 2月 24, 2006

甘くない酒、甘くない曲

我を忘れるという心地よさと、
自分と向かい合い手ごたえを感じる満足感があって、
それは甘い酒を飲んだときの陶酔感と
甘くない酒を飲んだときの覚醒感に似ています。

人生にはこの両面があって、
どちらにもこの世界に求められるだけの価値があります。

さわやかに飲めるウイスキーの水割りを除けば
最初から最後まで甘い酒ばかりを好んで飲んでいました。
口に入れたときの馴染みがやわらかくて心地良いのです。
しかしいつまでも飲んでいると何かがもやもやとして、
次第に割り切れない気分になってしまうことがあります。

それは一時の落ち着きが得られる場所が欲しくて
他愛のない話題で盛り上がってしまった場に顔を出して
最初は居心地のよさを感じながら、
十分さと退屈さがない交ぜになった感情になって
自分の形がなくなるほど埋もれてしまう前に離れてしまいたいのに
なかなか席を立てないでいる自分の割り切れなさに
とてもよく似ている気がするのです。

永遠や、恋や、あなたがいないと生きていけないとか、
それは言葉なのになぜ味と同じ「甘い」という表現をするのかと
ふと思います。
それは甘い酒と同じニュアンスを多分に含むからかと
考えていたりして、
でもきっとそれは今までたくさんの人が至った
ある感触でもあるのだろうなとも思います。

じゃあ最初から甘くない、
ドライなものばかりで良かったのかというと
それには一抹の疑問が残ります。
手ごたえや厳しさは生きる刺激ではありますが
豊かさや感情的な共感からはずいぶんと距離があります。

後ろ向きな側面を取り出せば
甘さの只中から抜け出せない怠惰、
苦さの只中で感じる消耗感があって、
どちらも万能ではありません。

年月が経つとなぜ甘くない酒が良くなるのだろうと
ずいぶん不思議に思っていました。
自分と向かい合うもう一人の自分ができていくからなのか、
それとも小さな刺激に慣れてしまったからなのか、
いくつかの理由が混在しているようです。

前向きな側面を取り出せば、
甘さの中に浸る優しさと陶酔感、
苦さの中で感じる瞬間の手ごたえや輝き、
それら全てはこだわりや偏りを多分に含んだ
アンビバレントを矛盾なく内包し、
全人間的で豊かな性質を獲得するために
十分すぎるほど経験したいものです。

社会という大きな入れ物を俯瞰するならば
甘さや苦さという要素はひとの個性差から生じる
マーブリングを施した絵のようになっていて、
それぞれの人が深く関わっていくことで
必要なときに甘さや苦さを得られるように
できているような印象を受けます。

全能の神のような完全性など持たない、
だから物事は豊かで複雑という
不可分な両面を背負います。

月曜日, 2月 20, 2006

運命について

メールは見たくない、
メールを見ると仕事が始まるから、と言ったのは
亡くなったボスで、
時に電話を非常に煩わしく思うわたしには
その気持ちが良く分かります。

本来メールは読むことと返信に時間の余裕があることが
一番の利点だったのですが、
10分以内に返事をしないといけないようなメールは
電話と同じです。

一人の時間が好きで、
一人を楽しめる人といるのを心地よく感じます。

数回しか経験がありませんが、
仕事で外国に一人で行くとほっとして心が落ち着くのは
誰にも手が届かない自分が
比較的簡単に手に入るからです。

運命という言葉を
自分の表現として使ったことがありません。
「それは運命だ」と人間という存在が話し
認めてしまうことはあまりに心許ないのです。

人間は自分の五感以上の感覚がありません。
世界の動きが手に取るようにも分かりません。
だからもし運命があったとしても、
本来それを知覚することができないのです。

運命という言葉を使わないのは、
それがしばしば自分に都合のいい解釈の理由付けとして
使われているからです。
自分に降りかかった苦難や悲しみを
これがわたしの運命なのかと問いはしても、
それをわたしの運命だと受け入れる人はごく稀だからです。

運命は思い込みとは違います。
世界はこのまま変わらないと感じることも、
世界は変えられるはずだと感じることも、
どちらも思いの中にあるもので
変わらないこと、変わることのどちらも運命ではありません。

だから人が今まで信じていなかったことが
ある事実の表出と一緒にがらりと認識を変えると、
今まで起こらなかったような現象になりますが、
人の意志の総和は社会の流れであって、
社会と自分との関係性は運命ではないのです。

しかしそれなら、と思います。
全てが世界のある一点から時間発展的に成り立ったのなら、
全ての現象を含めて運命と呼ぶ限りにおいては
納得ができるように思います。

わたしという存在が自由に表現することも、
また時に制約を感じることも、
運命を信じないことも、またその認識に変更を加えることも、
それら全てがある必然の元にある、
それがわたしなりの運命の解釈なのだと思います。

金曜日, 2月 17, 2006

たった一つだけ、アドバイスを残すなら

デジタル・デバイスが好きで、
デジタルカメラやPDAやタブレットを買ってみたのですが、
使いこなせるようになるまでに何年もかかっています。
呆れるほど物覚えが良くないです。

手引きというものがあって、
横断歩道の渡り方から税金の納め方、
パソコンソフトの使い方から大気圏突破に必要なエネルギーの求め方まで
実にたくさんあります。

人生の手引きをしようとするものもたくさんあって、
幸せになる方法から悩みの解決法、
果ては自分探しに至るまで
実に細かく示されています。

ところがいくら読んでも役に立つ気がしません。
パソコンソフトの使い方が分かったからといって
それを何に役立てればいいかはそれぞれが考えることです。

ほとんどのものは行動の前に動機を必要としますが、
動機よりも行動を求められることが次第に増えています。

動機という未知なものが人間の本性につながるものであれば、
たった一つ役に立つアドバイスは、
あなたがあなた自身の動機に忠実に従い、
自分の人生を生きなさい、
という一言で十分な気がします。
しかしこのアドバイスさえ必要ないのかもしれず、
アドバイスなんて何もないのかもしれません。

動機は欲望でも独りよがりでもありません。
人の意見に従いたければ従えばいいし、
違うと思えば違うと思っていいのです。
自らが自らの観察をして制御するなら、
自分に必要な人付き合いの量を選ぶでしょうし、
意識になくても助け合って生きることが行動に出るでしょう。

社会のシステムに従うかどうかより、
自らの動機が分からず、それに従えないということこそ
個人の生きる手ごたえにとって重大な問題なのです。

自らの動機には人を助けることで幸せを得るもの、
人と競争して切磋琢磨するもの、
自らの洞察によって思想を深めるもの、
人を幸せに率いることが自らの使命と定めるものなどが
動機という個人の特性として含まれています。

どんな強烈な外乱の中にあって、
どんなに人の意見を考慮して動いたとしても、
どうしても持ってしまっている特性だけは変わりようがない、
これがこの数年で一番強く意識されたことでした。

言葉にすればわずか数言で済んでしまうようなことですが、
それがわたしの本性だという実感があります。

この世はある一点から時間発展によって生じたとすれば、
その全てが必然の元にあるのであって、
わたしがどう生きたとしてもそれはわたしの「特別な自我」ではなく、
人間という容器と能力の範囲に収まるものであり、
大きく見れば世の必然にしかならないのです。

信じる宗教がなくても林檎は木から落ちるのであり、
どんなに頑張っても
この世の仕掛けというものを逸脱することはないのです。

制御が好きで

自分の好きなものとは、
それを続けても苦にならないものを言うようです。

制御の難解な点は
自分だけのルールを押し通すのではなく、
あるいくつかの定められたルールをまず理解することが
必要です。
しかし理解するだけに終わってはならず、
それを役に立つよう導く所までが仕事になります。

人から見ると不連続で独創的なものというのは、
作る本人にとっては何らかの系譜に沿っているものじゃないかと
最近考えています。
何らかのきっかけがあって事態は生じるもので、
時に誇張して「神のひらめき」などと表現されるのですが、
本人にとってはある流れがあって、
独創とは思えない場合も多いのです。

謙虚であることは大切ですが、
だからといって自信まで失うことはないのです。

水曜日, 2月 15, 2006

変換装置を通過して

2日間、48時間試験が終わりました。
ほとんど朝夜の習慣ごとを抜いてしまったので
月曜が終わったばかりとさえ思う
浦島太郎の気分です。

気持ちの良い人は多分たくさんいます。
ただしその人が快く紹介されるとは限らない、ということを
ネットの記事を読んでいて思いました。

有名人はいろいろなものに紹介されます。
紹介というのは他人がその人について述べたことであって、
信憑性を上げるために取材を載せますが、
その内容は肯定的にも否定的にも「解釈」できます。

古いということに対する安定と退廃の2重定義、
新しいということに対するエネルギーと不安定の2重定義などは
いつの世でも飽きもせず繰り返される議題です。

ネット記事というのは紙面広告と若干違って、
同じ画面でそのまま自分のサイトや商品紹介、注文へと
誘導することができます。
類似のサービスは送料無料の葉書広告ですが、
これはポストに行く手間がかかります。

ネットで買い物をするかしないかより、
買い物の結果何ができたかが概ね重要なのは買う側で、
相手の都合が何であるかよりも
買い物をしてもらえたかが概ね重要なのは売る側です。

売ると買う、ただそれだけのことに
感情という大きなノイズが乗っています。

仕事のある側面が嫌いです。
何でもお金で判断してしまわれることがあるからです。
主に広告によって欲望を煽られています。
広く思想を伝えることも物を買って欲しいと訴えるのも
ともに広告の漢字的な意味です。

宗教観がない、ということは自由なようでいて、
固定概念を変えるための外力も失った状態になります。
包丁がないと料理ができないわけではありませんが、
手づかみばかりでは進歩もしないのです。

それぞれの時代にあった先鋭的で常識を逸脱した思想は、
固定概念を変える可能性があるために危険視されるか、
行き詰まりを変えるために歓迎されるかします。
少し時間がかかっても、次第に世に受け入れられ、
長く効果が出るような仕事をしたいと思います。

宣伝が嫌いなのは、
自分の欲求を操作しようと彼らが試みるからです。
煽られ、挑発されて手に入れたものは
自分の満足と共に心静かに持つことができず、
誰かにそれを見せたくなってしまいます。
長い文化を持った国は
そういう情けないことをしてはいけないと
自省しなければなりません。

ネット広告やバナーには転職関連の記事、
特に年収がどうだといかいうものが
常に目に飛び込んできて
なんだか目障りに感じます。

確かに年収というのは人が共通に持つ
出来事の側面なのですが、
それの大小を測るというのは
小学生が珍しい牛乳のふたの多少を測るのと同じです。

お金にも流行り廃りがある、と考えれば
「価値観の転換」という言葉には意味があります。
およそ共通と思われている物欲、金銭欲とは別に、
個人があり方を考えて意味を見出すことが
価値観を変えるという表現で表されているように思います。

お金というのは現場で使う際に便利ではありますが、
その概念のプロパーな取り扱いが非常に煩雑です。
簡単な面ばかりが強調され、
実体にある二つの側面が自体をややこしくしています。

めぐり巡ってこの話は、
あるものそのものが良いか悪いかに関わらず、
それを誰が伝えたかの方が受け手に重く意味をもつ、という
結論に至ります。

木曜日, 2月 09, 2006

メールは実体か否か

スケジュールが再び詰まり始めて
妙な緊張感が高まっています。

ほとんど信用していなかった装置の中に
FAXがあります。
紙が詰まったら読み取れないし、
いつ読まれるかも不明だからです。

FAXよりは電子メールは信用しやすいものでした。
当初は配信遅延が相当多かったのですが
現在は特に困ったことが起きません。

電子メールより携帯メールは信用できました。
相手の手元に届くし、
vodafone同士なら送られたことはちゃんと通知されるからです。

FAXを日常的に使い始めて、
送ったり受け取ったりするうちに
不思議と信用するようになりました。
エラーが出ることもあるのですが、
それでも「まあこんなものか」と気楽に感じるのです。

状態として何も変わっていないのに、
ないと思っているものは存在せず、
あると思うものが存在します。
幽霊は私にとってない存在ですが、
どこかの誰かにとっては実在です。

人のつながりはこのFAXに不思議と似ています。
あると思えばあり、
ないと思えばないのです。

水曜日, 2月 08, 2006

じゃあ、お金で買える物は何なのか

シュガーパウダーを振り掛けるように
粉雪が降りました。
コメントくれた方がいるのに
サーバーエラーで読めません。
良かったらもう一度コメント下さい。

マスターカードの
pricelessをキーワードにした宣伝があります。
具体的に買ったものの値段を挙げていって、
その結果何かpricelessなものへ至るという流れです。

自分の中の理解が未分離なので演繹してみます。

買うという行為はお金を自分が出し、
物かサービスか権利を自分が受け取ることです。

物に値段が付いている内訳は
開発費回収のため、宣伝に使った分のため、会社を大きくする分のためなど
複数の理由によっています。

値段に納得すれば買う、
この言葉は何に納得するかで異なります。
服であれば、自分に似合うという納得と、
値段が高いものを身につけているという納得、
作りの丁寧さや流行に合っているという納得などが混在していて、
人によってその重み付けが違います。

納得して欲しくても買えないことがあります。
お金が十分にあるというのは、この買えない壁を
取り除く意味を持っています。

買ったものには何らかの使い道があります。
服なら着るし、デザートなら3時に食べます。
何もしない「置物」も置いて見ています。
人に見せなくても、自分が持っているという意識があります。

買って持つ、という行為が
人によって意味合いを変えます。

物と対話するように何かを買ったり所有する人は
持っているだけで喜びを感じます。
そこに他人は必要とされません。
しかし人に見せるために何かを買ったり所有する人は、
持っているだけでは喜びを感じません。
そこに他人が必要になるのです。

自立と孤立、
この言葉を最近2冊の本で相次いで見つけました。
自立のためには対話する「もう一人の自分」が必要である、というくだりで、
物を擬人化することでも間接的にそれは得られます。
しかし物に依存してしまうと
一種の偶像崇拝になります。

じゃあ物があれば人間には迷惑がないかというと
それは別の問題です。
人を必要とする人が人を失うと嘆き悲しむように、
物を必要とする人が物を失うと同じように嘆きます。
物に傷が付いたり失われたりしてひどく怒り出す人は、
それを自分の分身か愛する誰かのように捉えているからです。

仏教の解説に「無権利の確認」というくだりがでてきます。
自分が持つもの、意のままにできるものは何一つないことを
改めて知りなさい、という意味なのだと考えています。

ここまで考えてみて、
個人として生きるということは可能であっても
人の中で生きるということは可能になるとは限りません。
社会性は人が獲得した本能で、
自分が社会的に意味があることを確認していたいものなのです。

社会的な意味を作り出すために、
人はいろいろなアプローチを考え出します。
見た目が美しいほうが受け入れられやすいという判断をすれば
着飾ったりすることに集中し、
人のために尽くすことが受け入れられやすいという判断をすれば
ボランティア活動や仕事に力を注ぎます。

ここでお金と仕事の接点が現れます。
社会的に受け入れられる仕事の評価や対価としてお金をもらう、
ということだけが単一概念として受け入れられていると、
仕事の評価の代わりにお金の多少を参照します。

参考程度にしているうちはいいのですが、
そのうち仕事の評価のほうがなおざりにされて
お金の多少だけが一人歩きし始めることが多くあります。

仕事の評価がお金の多少へ反映することも、
お金の多少が仕事の評価の反映であることも、
その双方向の流れがもともと絶対的ではないのです。

水木しげる「水木さんの幸福論」では、
「努力は報われず裏切られることがある」という一言で、
この双方向の流れが絶対的であるという概念を
固定しないよう説かれています。

お金を多く持つ人の中には、
たくさんの人のためになったと認められた結果の人と、
そうではない理由による人とが混在しています。
それでもお金を欲しい、お金があることを示したいと思う人は、
お金の多少によって「ためになった重要な人」と思われたいのだと
ふと思います。
これが「お金で買えると思っているもの」のある人たちの結論です。

VIP待遇って何のことだろうと思っていると
Very Important Peopleなのだそうで、
お金持ちな人と重要な人はイコールではないのに
呼び名がそうなっているのでは
認識が混在するのも無理はありません。

問題は、真に人に認められる満足というものが
実際にはお金では買えないということにあります。
建設的な提案には、自らが他人となって自らを認めるという
方法があります。

この省略形が「自己満足」であるようなのですが、
なぜか自己満足という響きは肯定的に用いられることが
少ないようです。
これは「自己中心」とか「利己的」と
混同されがちだからなのでしょうか。

他人からの承認が絶対的な価値を決めるものではない、
この意識が自らに自信を持たせるために必要なはずですが、
これを広めようとすると抵抗が起こります。
ブランド屋さんはその「普遍的に認められる存在」という意識で
命脈が繋がっている面があるためです。

小さく、あまり認知されてないものは信用を得るのが大変です。
特に日本人は誰も知らないものに
自らの判断で興味を示しにくい傾向があります。
おのずと結果ばかりが重視されるようになります。
一生懸命結果を出すと認められるようになるのですが、
今度は認められることを足がかりに事業を展開しようとします。

asahi.comのネット広告で
「松下だから安心です」というくだりがあったのですが、
実績は長いとしても
工場をあちこちで閉鎖し、賃金カットをして
ファンヒーターの修理に奔走している、
こういう現実はどんな会社にも起こりうるのですが、
しかし「松下だから」とはちょっと言い切りすぎてないかと不安になります。

人にも良い影響を与えるような自己満足とは
どうやって作ったらいいのでしょうか。

まず「人に良い影響」が何であるか考える必要があります。
一義的には言えないが抽象的解ですが、
生き物は生き続ける事がその目的であるとすると
長い目で見てその人の生活や行き方に満足が得られる、というのが
一般的に良いかと思います。

しかし生きているだけでは人間的に満たされないと考えた場合、
短い目で見て、結果が出ない時点であっても
その方向へ向かうこと自体に満足が得られる必要があります。

競争原理が人の限界能力を伸ばすと言いますが、
それは分かりやすく過ちやすい目標だと思っています。
競争は他人を使って満足する方法であって
自己満足ではないからです。

先生という職業を難しいと思うのは、
生徒を教えた結果、有名大学にいけたという数が
評価の対象になってしまう点にあります。

入学の時点で概ね進学欲のある人を選別するのですが、
本人たちが進学を望まないと途中で気が付いても
自らの評価が必要なために生徒に
大学を受けさせようとしてしまう先生が出てきてしまうことになります。

もっとも、それは畑作りが上手な人と同じようなもので、
できる人はできるし、
できない人はできないものだとも思います。

ここまで考えると、競争原理を発動したがる側というのは
人の行動を管理する側だということにも気がつきます。
なるほど競争原理というのは簡単な麻薬のようなもので、
数字で判断ができるため見た目に分かりやすく、
早く結果が必要な場合に誰でも使える思考です。

競争ではなくて人を動かすことは
管理側の人間にとってかなり負担になります。
やる気とかモチベーションと呼ばれるものを引き出すには
試行錯誤が必要になるし、
人徳とか信用というものを人の心に発生させるには
かなり時間がかかるからです。

見た目に分かりやすい、
これを絶対善としてはいけないという結論になります。
まるで偶像崇拝のアナロジーのようです。

管理側の人間が挑まなければならないことは、
競争原理を使わずに組織をつくり、
かつ非常に強力な競争原理の組織よりも
実りある結果を出して存続することです。

相手の組織に勝つのではなく、
競争原理という概念に勝たなければならないのです。

最近、社会に挑むという言葉は
人そのものに挑むのではなく、
既存概念やシステムに挑むという言葉であるように感じます。

研究を続けて思うのは、
分からないことが自然の何かである場合、
その仕掛けを理解するという戦いを挑みます。
たとえば鉄が溶ける温度が分かれば
温度域の設計によって強度を保つ目的が達成され、
建物の共振周波数が分かれば
地の神様にお祈りするよりは
地震によって建物が倒れるのを防ぐ確率が上げられます。

このアナロジーを先ほどの話と重ねると、
自分が始めることは
社会は善だとか悪だとか単純すぎる切り分けに逃げることを
ひとまず保留し、
社会という組織に何が含まれるかを
まず実験的に理解するところから始め、
理解が得られた範囲で対策を考えれば良いと考えます。

社会契約論では、
人は生まれながらに社会に属するというのですが、
属していることとそれが理解できていることは
全く違う話です。
これは野球のルールと面白さが分からなくても
球場に行けば野球観戦ができる様に似ています。
周りが騒げば良い結果が起こったのだろうと感じ、
同調すると分からなくても騒げます。

自らの判断をすること、
それはルールが分かっているものに対してのみ行えることで、
そのルールを理解することは直接お金では買えません。
しかしお金を持っている人は
お金の影響で自分が理解したようなルールに
社会を変えられないかと試みることがあるでしょう。
意識は形ではないのでどちらにも変わり得ます。
それを「買えるもの」にするか、それとも「買えないもの」にするかは、
一人一人がお金に左右されやすいかどうかという傾向の総和として
現れてくるでしょう。
そしてルールが「買えないもの」であるよう保てれば、
人に行動を左右されない個人の自由も
またその中に保たれることでしょう。

水曜日, 2月 01, 2006

心の声

明け方まで印刷機を回しました。
寝不足で目も回りました。

意識というものを重要視とか特別視する、
特に現代はその傾向にあります。

意識が特別なのはなぜでしょうか。

意識によって自分と他人の区別をしています。
一切の行動表現をしなくても意識を変えることはできます。

腕が動くように意識は自在に操れると思い込んでいますが、
まんがのトレースがとても難しいように
意識の操作は簡単には行えません。

同じ表現が違う意味を表すことがあります。
横断歩道を手を上げて渡ることと
歩きながら手を上げてタクシーを呼び止めるしぐさは
同じ表現で違う意味です。
意味の違いは意識が行います。

意識を作る要素がいくつかあります。
未解明の超自然性を除けば、
哲学は思考のアプローチ、特に思考の繋ぎ方を変えるもので、
薬剤や栄養学は脳を含む体としての性能を変えるものです。
思考の変化は体の性能に影響し、またその逆もあるため、
システムのように連動した働きになります。

万物の動きが、人間には理解し把握できなくとも
厳密な法則の元に成り立っていることは間違いなさそうで、
人間も物体であるならある法則に従って動いていることになります。

ここで意識というのが全て物理反応の経歴で示される、
この前提を受け入れるなら、
自分が思っている自由という概念も、
その概念が何らかのきっかけ、本や行動によって変わることも、
目に映る現在の像もある法則によって自動的に成り立っていることが
疑いのないものになります。

頑なに旅行を嫌う人がいて、
たとえばその人を説得するとか、
それでも良いと放っておくのか、
その選択は自分という自由存在がしているようでいて、
実はその決定は物理法則が決めている、としたら
既に定められた法則の上をさまようしかない意識は
何を思えばいいのかと少し考えます。

自分の中のこの問いは最近考えが進んで、
物理法則が決めていたとしても、選択を判断する時点で
人間にはその作用素を全て理解できる能力がないため、
支配されているように「感じる」かどうかは感性に委ねられます。

ではこれで十分かというとそうではなくて、
物理法則が選んだ一形態が人間であると、
人間そのものに関してはある規則性があります。
食事をし、眠り、社会的行動をする特徴から
その「社会的まとまり」と意識との関係は
十分考察されべきテーマだろうと思います。

物理の法則は確かに存在している、
しかしそれがなぜかを知ることは人間である以上不可能であり、
人生に目的があると考えるとするならば
それは人間が生き物と呼ばれるシステムを持っているために
生存を第一目的にするためだろうと考えられます。

全てが物理法則の元にあっても社会学に意味がある、
この関係はたとえば素粒子物理学があっても
流体力学が存在する関係に等しく、
それは素粒子物理は流体力学を内包しますが、
流体力学はそれに固有の法則や性質が厳密にあり、
一見素粒子の成り立ちとは無関係に取り扱えるからです。

哲学というのも
ある限られた条件において定められる
応用=バリエーションのひとつであります。
それがいかに複雑で機能に富んでいるとしても、
それは基礎法則の境界条件に基づいた展開の複雑さを
解いているようなものです。

哲学者、特に意識の絶対化が前提になった思想は
たとえば宗教です。
世界は球形だと科学が証明したとき、
仏教は世界を須弥山という山とお盆でできていると説いていて、
物理の受け入れ、仏教の実在性に相当な論議を呼んだそうです。

意識さえも基本則の展開であると認めるならば、
この時点で実は人格を持つ神の存在が間接的に否定されます。
ほとんど全ての宗教は「神の意思」に自分の自由意志を固定することを
要請するもので、神の存在が物理的に知覚されない以上、
その議論の展開はあくまで仮定が前提です。
素粒子物理でも実験によって証明されないうちは
さまざまな仮説が実験事実をうまく表現しており、
仮説はいくらたっても仮説のままです。
そして物理法則の展開が人間に「神」なるものの存在を思い付かせるわけで、
神が存在し人間がそれをあらゆる制約とは独立に、自由意志で発見した、
ということにはならないからです。

人間も物理諸法則にしたがって成り立つ「物体」である、
この意識がもっと正確に広まらないかな、とふと思います。
人間の目的性やロジックとしての悩みというものは
勝手に作った仮定と仮説の上で遊んでいるようなもので、
生き物として自動的に反応してしまうことはあっても
それが世界の全てではなく、
本来苦しむことではないからです。

長い助走区間

1枚、と英数字の1を出したいときに
なぜか"i"のキーをタイプしてしまいます。
"iti"と"1"の回路が干渉するのでしょうか。
それとも文字の形的に干渉するのでしょうか。

ライブドアの話、少し詳しく書いて見ようと思います。

ちょっとした論調として、
「彼は善か悪か」という雰囲気のものばかりですが、
個々の事象については冷静に見たものが良いものが多いです。
自分たちはさんざん通信簿という多面体的評価をされてきたのに、
人を二元論で片付けるのはバランスが悪すぎます。

彼が「古いしきたりを壊す」と言ったその姿勢には
建設的な意味も多く含みます。
カネボウの例にあるように
日本が封建的で閉鎖的な社会構造であることは確かで、
新規参入を拒み、既得権益を守るのに都合のいい
システムができています。

買収劇は少なからず既得権益の上にあぐらをかいていた人にとって
ポストを奪われるという戦慄を感じたものと考えます。
正しい競争原理は必ず必要で、
ソフトバンクやウィルコムが携帯に参入することで
市場原理に沿わないサービス料が改善した経緯と同じように、
最終的に消費者が良い選択をできるよう促されます。

そう考えると、
買収劇は競争原理というより
支配・被支配の関係に近い感じがしてきます。

お金で買えないものはない、このことは
多分バブル的な発想を持っているかなりの人は
当たり前のこととして思っているはずなのですが、
あまりに露骨なので表に出しません。
明言したことは社会的な追い風を得るには不利に働きます。

急成長しすぎたことにも問題があります。
球団買収などを手堅く行い、買収した企業で
実業方面によい成果を上げていけば
顔の見える会社になれた可能性があります。
実業方面に影響が残らないということは
経営が傾いた後で形になるものが残らないわけで、
形がないものは比較的早く忘れられます。

もし彼が社会システムを変えるつもりだったのなら、
支配関係ではなく競争関係として参入すればよかったのだと
考えます。
しかし彼は会社でお金を得る方面に集中しすぎたために
手段を選ぶのを忘れてしまったのかもしれません。

生意気だからつぶされるんだ、
だからみんなもおとなしく言うことを聞きなさい、が世論の結論だと
納得してはいけないのです。
正しいことをし、正しい競争をもって、
しかし会社が大きくなっても巨大企業同士のもたれあいや
談合状態で馴れ合いにならず、
既得権益に対してまっすぐ戦っていく、
そうあるならば社会の風が押してくれたかもしれません。

この国は正しい風を吹かせる力が少し弱くて、
追い風によって大きく育つのではなく
大きく育ったものにより強く追い風が吹く状態で、
そのことに歯がゆい思いをしている人たちがきっといます。

早上がり、早熟ばかりが目立ちもてはやされる空気ではなくて、
風雪に耐えきちんと花を咲かせる人たちをよりよしとするなら
もっとみんなが強くなれたという手ごたえがもてるでしょう。

月曜日, 1月 30, 2006

書き物考

大きなドラムです。

検出器の外側のようです。

書いていた論文、150pと予想していて、
できた量が最初130ページだったのですが、
レイアウトをやり直した結果149pになりました。
だいたい思った通りです。

書き物がほとんどなくなって
久しぶりに心は平和です。

しかしなぜ書き物が心を乱すのか、
時々考えます。

肉体的辛さというのは確かにあるのですが、
数日眠れれば元に戻ります。
精神的辛さというのはあまり元に戻りません。

いろいろな人に話を聞くと、
書類書きというものにはとても抵抗があります。
文字をたくさん見ると、多分意識が混乱してしまうのです。

火の玉を出す魔法はありませんが、
人の意識に訴える言葉は魔法のようでもあります。

月曜日, 1月 23, 2006

繋がっている、切り離されている

紙飛行機の代わりに、
封筒に切手をつけて飛ばしました。
研究者は一つの自営業だと思っている
今日この頃です。

会社が利益を得るための方法の見方として、
売り切りにするか継続にするかの区別があります。
お菓子のように売ってしまうと終わりなのか、
携帯電話のように一度もつと維持費がかかるものに
大きく分けられます。

売り切りでよいものは生産物で、
本や車や洋服、ipod音楽などのメーカーは常に売り切りです。
その生産物に対して維持するサービスは別にあって、
車の修理工場やファッションアドバイザーなどはそちらです。

物が売れない、というのは
景気が落ち込んでいるという比喩的な意味と、
売り切りタイプの生産物の購買が減少しているという
二つの意味で使われます。

必要不可欠な生活商品が揃うと購買が減るので、
方向としては単価の引き上げかメンテナンス型サービスへと
向かいます。

売り切りは商品さえしっかりしていて返品が少なければ
その後の面倒を見る必要はなく、
売れば売るほど利益が上がります。
その代わり売れなくなると商材の生命は終わりです。
維持型は一度顧客を囲うと継続して利益が得られます。
しかしメンテナンス料に足るサービスを提供し続ける必要があります。

飽和型社会を面倒に思う点は、
いろいろなものが連動し始めていて切り離せない点にあります。
それは集落型の人間関係と都市型の人間関係の違いと同じで、
結びつきが強くなればなるほど不自由感がでてくるものです。

エステだって売り切りのようにすると
サービスを買う側に自由さがあって楽なのですが、
エステの会社は継続して通ってくれることを求めてくるため、
とても不自由に感じてしまいます。

銀行やローンの会社も事情は同じで、
よく返してくれそうな会社には
その資金が必要であるかどうかに関わらず割増しで貸付を行って
継続的に金利を得ようと必死になります。

求める立場なのか、求められる立場なのか、
それは時間にも相手によっても異なり、
いろんな糸が立体的に交差しているようにも感じられます。

以前日本史の研究者から
「本当の自由とは何の制約もないものだ」という言葉を聞いて、
時折その意味を考えます。
以前も考えたとおり「自由」と「自由度」は違うもので、
「義務と権利」の「権利」に当たるものは自由度であって
自由ではありません。

自分の周囲には自由が少ないと雰囲気で思っている人は
きっとたくさんいて、
それは連動することのオーバーヘッドを
毎度解く必要があるからです。

自由をもてあまして不安になってしまう人は
何らかの外的条件に拘束されているほうが落ち着くもので、
ただそういう人が多すぎると
都市全体で村社会を作る結果になります。

自由になるということは、
制約条件を打破するという面が一方で必要で、
しかしもう一方で自由の頼りなさと本気で向き合うことで
相手を拘束する願望をもっと減らすことが必要です。
それは一人の人間の存在と頼りなさの源を同じにするもので、
実行はなかなか難しいものです。

plan, do, and see

食べるのも好きですが
作るのは同じかそれ以上に好きです。

スコッチウイスキーで香りをつけます。

バルサミコ酢はお醤油のような旨み調味料で、
付け合わせが楽に作れます。

木曜日, 1月 19, 2006

あれとこれを繋ぐもの

アンチモンの鉱石です。

人工の造営物に魅力を感じることもありますが、
石が自然に作る規則性に魅入られることがあります。

朝日新聞の絵本について語る一節があって、
鬼に峠の橋をかけてもらう代わりに目玉をよこせと言われる
話があって、つなぐことの難しさをふと思います。

あれとこれ、簡単に繋がるようでいて
実は繋がる部分がとても難しいものです。
たとえばエンジンとシャフトを繋ぐギアは台形歯車を4つ対向した
ディファレンシャルギアと呼ばれるもので、
見るからに複雑な動きをします。

インターネットが難しかったのは、
仕様も速度も違うネットワークを統一することで、
TCP/IPはいくつもの階層に分かれて差を吸収しています。

メーリングリストはある、けれどもそれが機能するには
文字以外の繋がりが必要だったりします。

カタログで構成部品は規格品がいくらでも買えるのですが、
それを繋いで機能化する段に独創性が現れます。

あれとこれの境界部分に自分を置く、
自分は頻繁にその作業を続けています。
繋ぐ作業は決して単調な仕事にはならず
頻繁に難しさを感じますが、
それらが機能として一体に振舞う瞬間というのが
とても嬉しいのです。

水曜日, 1月 18, 2006

EXPACK500

パッションフルーツが好きで、
トロピカーナ夏季限定のオレンジ+パッションフルーツを
見つけて1箱買って来ました。
研究室に非常食用のカップ麺をたくさん買って
置いているのですが、
思ったよりほんの少し予定が早まったので
食べ切らないかもしれません。

速達には手続きが必要、というわけではないのですが、
重さが分からなくて結局郵便局へ向かってしまいます。
その点EXPACK500は便利で、
ポストに入れるだけで無条件に速達扱いにしてくれます。
ちなみに、厚紙の封筒に入れば少々膨らんでいても良いのも
なかなか気が効いています。

封筒は248mm*320mmの厚みがないサイズですが、
20mmぐらいは平気です。
こうすると容積は1.5Lぐらいになります。

郵便局のHPには"30kgを超えて入れられません"と書いてあって、
1.5Lで割ると比重20g/cm2まで大丈夫という計算になります。
これは金の板を封筒一杯に詰めて送っても大丈夫という規格で、
全く心配が要りません。
しかしこんな封筒が30kgもあったら大変だなあと
真面目に考える一方、
30kgにした背景は上記と同じ思想で考えたんじゃないかと
なんとなく想像してしまいます。

金曜日, 1月 13, 2006

叶わぬ願い

ボスが生きていてくれていたら、
ここ一番で絶対に推薦状を書いてもらおうと
心に決めていたのを今さらながら思い出しました。
今日はなんだか悲しくて泣いてしまいそうな1日です。

水曜日, 1月 11, 2006

加速度

運動という言葉にはややストイックな修行のイメージ、
活動的で競技的なニュアンスがあって
もう少しいい言葉がないかと考えています。

物体の位置は見ることで分かります。
物体の速度も見える範囲で分かります。
ところが加速度は目で見ることはできず、
力として感じるものになります。

ニュートン方程式の示す式は
とても少ない文字で書けてしまうもので、
アインシュタインの質量とエネルギーの等価性も
とても少ない文字で書けてしまいます。
じゃあ世界は簡単かというとそうではなくて、
簡単な式は適用する場面に応じて無限にその姿を変えます。
質量の項が複数になり、行列になり、
加速度が積分されたり、相互作用が生じたりして
もともとの簡単な式とは似ても似つかぬほどになります。

速度が速いものは見た目に派手ですごそうですが、
抵抗のない系ではエネルギーが失われないので
一度加速してしまうとエネルギーが与えられなくても
飛び続けることができます。

それではあまりつまらないのです。

常に力を感じたければ加速度を与えるしかなく、
そのためにはエネルギーが必要です。
こう書いてしまうと読みようによってはただの物理の話ですが、
こんな人生でいたいなと願う自分のヒントのようでもあります。

木曜日, 1月 05, 2006

3冊選びなさい、といわれたら

今日は妙に血が頭に集まっているようで、
めまいがします。

信教の自由、というものがあって、
「公共の利益に反しないように」と定められています。
受刑者が希望する持込図書は
経典として認められれば別枠扱いされるそうで、
オウム説法集は3冊までと定められた「一般図書」とされたことに
訴えが起こっているのだそうです。

いろいろと考えを巡らせます。
一般図書とされた理由は、一種の「危険思想」であって、
読み進めた場合犯罪やテロを招く恐れがある、という解釈が
言外のうちに進められているはずなのですが、
それを言うなら他教を排除するキリスト教やイスラム教だって
立派に犯罪やテロを招いています。

「公共の利益に反しないように」という言葉は曲者で、
さまざまな解釈ができるからこそ問題が起こります。
言論統制が行われようとしている国会インタビューの話を見ると、
人権を盾にとって悪事を隠そうとしています。

それぞれの名前のついた個人にプライバシーはあります。
しかし国会議員という公人に秘密は必要ありません。

信教の自由というのは
それ自体がリスクの大きい権利なのだろうと思います。
人が決めた全てのことには
完全な正解や間違いが定義できないからです。

ただ衝突のない画一化された世界を理想とせず、
自由な言論が確保された上で常にせめぎあいの中にある、ということこそ
本来は揺らぐ世界の健全な姿であるのかもしれません。

もし3冊選べといわれたら、
最初の1冊に岡本太郎の本を入れ、
残りは適当な物理の辞典と厚い英語大辞典を選びます。

火曜日, 1月 03, 2006

前衛と、モダニズムと

「今日の芸術」からの一節で、
芸術の側面には前衛とモダニズムがあるといいます。

モダニズムは心地よくて好まれる、
前衛は理解されにくい、この図式は
量産技術と先端技術の構図にも当てはまります。

ちなみに、前衛はモダニズムの領域を開きますが、
その逆は成り立ちません。
つまり、スマートさを身につけたいと願うのであれば
まず前衛に立つ必要があります。

そしてこの「前衛」と「モダニズム」とは
人によって分けられているわけではなく、
一人一人の時間配分によって分けられています。
前衛に立つ時間を生涯にどれだけ確保できるか、
これがモダンを自分に身につける鍵となります。

アンチテーゼ・その2

ひつまぶしとひまつぶし、
全て自分の時間に合わせれば暇は作れるのですが、
決まりごとという観念的要請が時にそれを阻みます。

季節感を放棄してみたらどうなるだろう、と
ふと思います。

ここで言う季節感とは、
世界の時間は春、夏、秋、冬が
順に巡ってくる、という意味においてです。
宇宙の時間で言えば一時も同じ状態はありません。
なので、去年「春」と呼ばれていたある時間と
今年「春」と呼ばれているある時間は違うものです。

最近のニュースキャスターは
暑くなったり寒くなったりすると、
「異常気象ですね」と口ぐせのように言います。
観測史上一番の暑さが来たといっても、
観測は100年もしていないのだから、
特に驚くことはありません。
冷夏の年も旱魃の年も、
昔のようにたくさんの人がそれで死んではいないのです。

春だと観念的に思っているものがあります。
桜が咲くのはだいたい春ですが、
今年や以前に、秋の終わりに咲いた桜を見かけたことがあります。

冬でも夏野菜のトマトが食べられるなら、
季節感がなくなっても不思議ではないし、
頭脳労働の世界にはもともと季節感がありません。
季節で式が変わるような憲法や物理法則では困るからです。

自然という言葉の定義も気になります。
地球環境とか、野山、という意味での自然なのか、
普遍的に存在する‹この世>という意味での自然なのか、
これがよく混在しています。

季節感を大事にしよう、という表現はやや謎めいていて、
季節感とは気になるかどうかだと考えます。
意味がわからないものを大事にするといっても、
どう大事にするかがつかめないものです。

春夏秋冬なんていりません、
常に時間は戻らないのですから、というと
‹自然を忘れた現代人›と呼ばれるのかもしれませんが、
春夏秋冬のサイクルだけに縛られていることこそ
[自然]を忘れていることになります。

月曜日, 12月 26, 2005

効率化がエネルギーを失わせる

論文を書きながら、
たった1行、文字にして40文字程度の事実を述べるために
年単位の時間を費やす時間かかったことを
ふと思います。
何事かを為すための時間は短い、とよく言いますが
もともと何かを為そうと思うこと自体が
僭越な問題なのかもしれません。

是と非のスタンダード

自然から離れた労働、
機械生産や情報処理、を担当していると、
信頼性の度合いが自然労働に比べて桁違いに上げられています。
たとえば、昼という時間は1日の1/3しかないし、
晴れた日中は1年のうちの3割くらいしかないのです。

問題は人間が同じだけの信頼性を出そうとした場合、
人間そのものは自然から生まれたものであるために
信頼性を確保するのは非人間的な作業だったりします。

是非、という言葉は
是が非でも、という言葉の短縮で、
この意味を良く考えます。

栄養学というものは今ひとつ要領を得ません。
油が体に悪い、という理由しか大抵出てこないのです。
そんな中でキューピーのHPには注目したい記事があります。
http://www.kewpie.co.jp/know/magazine/releace_30.html

脳は脂肪が50%もあって、
コレステロールの20%が集中しているのだそうです。
蛋白質のかたまりのイメージがありながら、
実は脂肪の方が量が多いのです。

油は体に必要であるからこそ食の満足感を高めます。
だからあく抜き、油抜きをたくさんする日本食は
西洋食に比べて満足感が低いのです。
子供がハンバーグが好きなのは、それが子供だからではなくて
人間の節理にかなっているからです。

しかし一方で、油は消化器にとっては負担です。
理由は分子量が大きいからで、
主に肝臓が分解の役目を果たします。
そういう意味で油のとりすぎは体調を崩す原因になります。
体調の崩れは脳にとって負担になります。

部品にこだわる、ではなくてシステムとして思考する、ということを
何かの対象で身につける必要があるのではないかと思います。

たくさんの本は読めませんが、
いくつかの読んだ本の共通する一節を
ネットワーク状に思い出すことがあります。

「車はこうして作られる」の一節で、
ホンダがV10エンジンを開発していたときのことが載っていて、
エンジンとしての出力限界を出し切るために
システムを設計する、という思想から、
「速く走るための車を作る」という目的から
エンジンを見直す思想へと変化したという
パラダイム・シフトが起こった時期があったのだそうです。

畑村洋太郎「失敗学のすすめ」でも、
局所最適、全体最悪というキーワードが出てきて、
全体への影響を考慮せずに一部分だけ改善してしまうと
取り返しのつかない事態になるとあります。

システムフローであれば線形計画法、
フィードバックであれば制御理論で
全体を見る道具立ては与えられます。

昔の人は「大局を見る」という表現で
このことを言っていたのかもしれません。
分業化によって著しく生産性が上がった文明社会では
各人間が忠実な要素=コンポーネントとして
振舞うことが必要とされ、
最初に全体像の理解を求められない場合があります。

しかし社会としては要素であっても
個人としてはいろいろな要素の集合体であり、
生きている時間は大きなシステムでもあります。
その全体を見て、今の自分に何が最適かを探ることで
次第に「自分に必要なこと」は見えてくると考えます。

日曜日, 12月 25, 2005

アンチテーゼ

スーパーで保存食をたくさん買う気分になると、
それは部屋にこもって仕事をする、という
心の準備が始まったことを意味します。
人は行動として体を動かす10秒以上前には
気持ちの準備がされるのだそうで、
現在の意識というものの不思議さを思います。

この世で確かなことというのは
それっぽく用意されているのですが、
万物流転ということ以上に正しいものはない気がします。
それは法や道徳やそういういろいろが定めた人間的な正しさではなく、
地上では林檎が落ちるのと同じ程度の確かさのものです。
物理的に正確に言えば、空間と時間は同じ価値の存在ですが、
時間だけは進みっぱなしで戻ることができません。

ASKAの「晴天を誉めるなら夕暮れを待て」の歌詞が好きです。
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=55123
青い空は誉める、雨は面倒に思う、
本当にそう思うときと、観念で思っているときがあります。
観念が自動的に作る循環の真偽をを見極めたいとよく思います。
突然降り出した大雨が
忘れられない思い出になる事だってあるのです。

ザ・テレビジョンの表紙の話を聞いたことがあって、
以前は満面の笑みだけを採用していたのだけれど、
最近はすまし顔も使うようになったのだそうです。
良い流れだな、と思います。

写真家が残す写真が膨大な試作の結果の上に成り立つ、
時折このことを思い出します。
本当の「一瞬」はgiftとして与えられるもので、
人間が意図しただけで作れるものではないのです。

NHKの公開録画とかラジオ体操とかに立ち会ったことがあって、
「盛り上がってますか」と
約束事のように掛け声をかけられるのですが、
この言葉は「当然盛り上がりますよね」という答えを期待されていて、
問われれば問われるほど
シンクロせず盛り上がっていない自分を強く意識してしまって
盛り上がるきっかけを全く失ってしまいます。
心のベクトルの急変更がききません。

寒い朝にココアが飲みたくて
ミルクを早く温めたいのですが、
強火にかけると百発百中で焦げます。
だからミルクを温めるのには必ず時間がかかります。

笑いが良い写りならそれで構わないし、
撮る写真が笑い顔でなくてもいいと思います。
満面のスマイルが良い、という連想もまた観念的なものです。
すました顔からほんのり覗く笑みが綺麗な人だっています。

スープを皿に盛りたいときに、
スープが冷めるからといって沸かしてしまうと
香りが飛んでしまいます。
温かく香りの良いスープを最後まで楽しみたいなら
より注意を向けるべきはスープ自体ではなく
厚いボウルを熱湯で温めておくことにあります。

無用の用、という言葉もとても好きです。
一見無用や無駄に見える何かは、
それがあることによって
支えられている何かがある、という意味で、
英語で言うとセレンディピティ=serendipityの思想に
なにかつながるものを感じます。

西洋と東洋の大きな違いは、
神が人を統治するか、人が人を統治するかという意識に
あるのではないかと思ったりしています。
そして神と言う象徴を持ってくることによって
人はみな平等だという意識が生まれるのですが、
最終的な統治で人の統治に読み替えるシステムが必要で、
この点で社会の解釈や理解が大きくこじれてしまいます。
宇宙人によって統治されるようになったら、
人という生き物は団結できるのでしょうか。

絶対的な王を立てた中国、象徴的な神格を分離した日本、
どちらにも最終的には人の統治という解釈があって、
なまなましいけれど正直な解釈が気に入っています。

敢えて科学がこの見解に挑むならば、
人間のように感情や道徳を定義するような「人間みたいな」神は
いないとし、
しかし人間と言う存在を超えた何かがあるだろうという解釈は
十分考えられる、とすべきだと思います。

日本習字の原田観峰さんも
「神はもう[あ]」という名前でいいじゃないか、
それを修飾すればするほど本来の定義から逸れていく」と
いうくだりの文を載せていたことがあって、
なるほどと納得したことがあります。

神は教えられるものではなく、
勝手に心に生じる気持ち、というぐらいのあやふやさだとしたら、
死ぬまで神が生じない人だっているわけで、
世界の混沌としたまだら模様はいつまでも続きます。

水曜日, 12月 21, 2005

長い助走区間

1枚、と英数字の1を出したいときに
なぜか"i"のキーをタイプしてしまいます。
"iti"と"1"の回路が干渉するのでしょうか。
それとも文字の形的に干渉するのでしょうか。

ライブドアの話、少し詳しく書いて見ようと思います。

ちょっとした論調として、
「彼は善か悪か」という雰囲気のものばかりですが、
個々の事象については冷静に見たものが良いものが多いです。
自分たちはさんざん通信簿という多面体的評価をされてきたのに、
人を二元論で片付けるのはバランスが悪すぎます。

彼が「古いしきたりを壊す」と言ったその姿勢には
建設的な意味も多く含みます。
カネボウの例にあるように
日本が封建的で閉鎖的な社会構造であることは確かで、
新規参入を拒み、既得権益を守るのに都合のいい
システムができています。

買収劇は少なからず既得権益の上にあぐらをかいていた人にとって
ポストを奪われるという戦慄を感じたものと考えます。
正しい競争原理は必ず必要で、
ソフトバンクやウィルコムが携帯に参入することで
市場原理に沿わないサービス料が改善した経緯と同じように、
最終的に消費者が良い選択をできるよう促されます。

そう考えると、
買収劇は競争原理というより
支配・被支配の関係に近い感じがしてきます。

お金で買えないものはない、このことは
多分バブル的な発想を持っているかなりの人は
当たり前のこととして思っているはずなのですが、
あまりに露骨なので表に出しません。
明言したことは社会的な追い風を得るには不利に働きます。

急成長しすぎたことにも問題があります。
球団買収などを手堅く行い、買収した企業で
実業方面によい成果を上げていけば
顔の見える会社になれた可能性があります。
実業方面に影響が残らないということは
経営が傾いた後で形になるものが残らないわけで、
形がないものは比較的早く忘れられます。

もし彼が社会システムを変えるつもりだったのなら、
支配関係ではなく競争関係として参入すればよかったのだと
考えます。
しかし彼は会社でお金を得る方面に集中しすぎたために
手段を選ぶのを忘れてしまったのかもしれません。

生意気だからつぶされるんだ、
だからみんなもおとなしく言うことを聞きなさい、が世論の結論だと
納得してはいけないのです。
正しいことをし、正しい競争をもって、
しかし会社が大きくなっても巨大企業同士のもたれあいや
談合状態で馴れ合いにならず、
既得権益に対してまっすぐ戦っていく、
そうあるならば社会の風が押してくれたかもしれません。

この国は正しい風を吹かせる力が少し弱くて、
追い風によって大きく育つのではなく
大きく育ったものにより強く追い風が吹く状態で、
そのことに歯がゆい思いをしている人たちがきっといます。

早上がり、早熟ばかりが目立ちもてはやされる空気ではなくて、
風雪に耐えきちんと花を咲かせる人たちをよりよしとするなら
もっとみんなが強くなれたという手ごたえがもてるでしょう。

月曜日, 12月 19, 2005

First, follow the music with your heart

音楽と気分との付き合い方をずいぶん考えていました。
上手に気分とマッチする曲をかけると
うまく集中する事があるのを知っているからです。
ところがうまくはまらないと
曲が気になって集中できなくなってしまいます。

集中できる曲は一種類に決まっていません。
ユーロビートのようなすごく速いテンポの曲がいいときもあれば、
静かなピアノ曲がすんなり馴染めることもあります。

今日見つけたキューピーのHPには
よく研究された記事が掲載されていました。
たとえば落ち着かないときに、リラックスを狙って
いきなりスローテンポの曲を聞くと
逆効果なのだそうです。

まず自分の気持ちと同じテンションや曲調の音楽を選び、
それを聞いて曲と自分を同調させてから、
徐々に目標とするテンポへ近づけていくと
導入がうまく行くのだそうです。
つまり落ち着かないときには
まずハイテンションのダンスナンバーを聞くということになります。

好きでよく聞いている曲を見れば
その人のモードが分かる、ということにもなりそうです。
ユーロビートの中でも超高速側が好きなわたしは
時折すごくテンションの高い人間らしいということになります。

大きな街が好きな理由

上手な電話との付き合い方、ただそれだけのために
ずいぶん時間が必要だったように思います。
直接行かなくても情報がやり取りできる、
中身は会話であっても効果はずいぶん違うものです。

大きな街が好きです。
新宿を歩いていると、宝くじを売る声、
街頭募金の社会鍋を掲げる声、
神の道を説く声、
クリスマスの呼び込みなど
人が行いうるさまざまな出来事が
同時に目に映ります。

人間は性善説の生き物か、あるいは性悪説の生き物かと
悩んでしまいそうなとき、
それらは全て混沌としている、という明快な回答が
街の風景に現れているように感じます。

人間以外の動物が悠久の時を過ごしていそうなのは、
彼らが環境を変えてまで住もうとしていないからであって、
環境を変え、社会的構造を変えながら生きている人間には
「変わる」ということが宿命付けられているから
急ぎはやって生きていこうとしてしまうのかもしれません。

これと種類の似た質問として、
人間は世界が理解できるか、という問いもあって、
明快な答えは、脳の演算量と人間の寿命に限界があるので
全ては理解できない、という答えがあります。
可能性は無限大、とは響きの良い言葉で、
しかし人間そのものの実体は有限です。
人の目の前には、無限の数ではなくて、
常に片手に余るほどの選択肢が考えられる程度です。
しかしどう変化するかが予測できない、ということも
合わせて知っておくと気持ちは落ち着くかもしれません。

月曜日, 12月 12, 2005

物言わぬ肝に思いを寄せて

科学をやっているものは2種類いて、
SFが好きなものと、
SFより現実を選んでいるものとに分けられる気がします。
SFを読んでいてどうしても気になることは、
物理的には正しくないことがたくさん現れるからです。

人間関係の世界なら、想像の範囲内で
なんでもありかもしれませんが、
何もしないのにりんごが地に落ちずに
空へ吸い込まれたりはしないのです。

体のあらゆる部位に意識が届くかというと、
感覚のない部分については意識ができません。

明確に意識できるのは胃とか心臓で、
鼓動の様子とかストレスで胃が痛くなったりとか
自分で知覚ができます。

脳は一見知覚できそうですが、
たしか感覚神経はなかったような記憶があります。
だから脳に関していえば、周辺部の知覚によって
間接的に分かる、といったところです。

全く意識できないのが肝臓です。
体の大きい割合を占めるのに、調子が良くても悪くても
痛みや苦しみを感じないのです。

それ自体は確かに苦しくないのですが、
肝臓の調子が悪いと全身に影響が出ます。
そういうわけで、「自分の肝臓が悪いのではないか」という
意識は脳と同じで間接的にしか分かりません。

ところが間接的にしか分からないはずなのに、
肝を冷やす、肝心かなめ、肝の据わったなど
肝の表現はたくさん見られます。
英語でliverだと
liverishで「肝臓の悪い人」という表現があるぐらいで
それほど意識的に使われてはいないように思います。

ちょっとした演繹でいうと、
全ての臓器は時折不具合になるのであれば、
肝臓だって調子の良いときと悪いときがあります。
ところが調子の悪さが痛みや違和感として感じられないので
原因探しが路頭に迷います。

バイオリズムと言う言葉があって、
長い周期で気分や体調が変化することを指しますが、
肝臓の調子がバイオリズムを決めていたとしたら
自分でわからなくても納得が行くようにも考えます。

感覚がない部位に対して
先人がちゃんと意識するよう用意していたというのは
とてもありがたいことです。

この物言わぬ部位に意識を寄せてみようと思います。
丹田という場所はへその下だとかいうのですが、
それは肝を含むおなか周りの意識を指すのかもしれません。

人間は意識によって自分の一部を制御下におくことが出来る、
これはトレーニングをする際には使われる筋肉を意識すると
効果が上がるという例で証明されています。
意識というものを肝においたら、
一体どうなるのでしょうか、という言葉は
一見ことば遊びのようで楽しくもあります。

金曜日, 12月 09, 2005

モノクロの文字を見て色を観る

ひところに比べると画面の解像度がとても上がりました。
この解像度は、画面のサイズとは関係がなく、
画面のサイズが10インチだろうが20インチだろうが
1280*960だったりします。
大きい文字は見やすい文字で、
解像度が高くなったからこそ
できるだけ大きな文字で作業を心がけたいなと思います。

女性が美しいさまを色っぽいといいます。
この「色」という言葉が指し示す色は一体何色なのだろうと
思ったことがあります。
鮮やかな紅か、爽やかな藍か、引き立つ翠か、
いろいろ想像してみたのですが、
「色を失う」という表現を本で読んでから、
色とは色彩を感じること全てなのかなという気がしています。

極彩色とか総天然色、と呼ばれたものは
カラーの映画とかテレビとかです。
総天然、という言葉の通りかというとそうではなくて、
テレビや映画は赤と青と緑の3色しか出していません。
人間の目にはこの3色を中心として
他の波長域をカバーするセンサーがあるから
ほかの色彩を落としても変わらず見えるのですが、
夕日のオレンジは「オレンジの波長」なのであって、
赤い光と緑の光の合成ではありません。

着色されたモノクロ映画というのがあって、
いまだに原理を知らず不思議に思います。
モノクロ映画を観ていると、
ふと色が載っているのではと錯覚することがあります。
池谷さんの本によると、
この時色は見えているのではなく、脳が補っているのだそうです。
また、目の感色細胞は目の中心にしかついておらず、
周辺の色はみんな脳が補完しているのだそうです。

色っぽいと思うその「色」、
どうも脳が直接作るもののようです。

木曜日, 12月 08, 2005

車のおもちゃ思想

畑村洋太郎さんの講演
「失敗学のすすめ」を受講しました。
成功や失敗の取り扱いについて実に深く掘り下げた見識と
とにかく現地・現物で取材を重ね
たくさんの人に会う力をもっていることに
強く感銘を受けました。

日記はいつも通り、思いついたことの
書き連ねです。

車のおもちゃが大人も面白いと感じるのは、
そのおもちゃを拡大したり精緻化したところに
本物の実体が存在するからではないかと考えています。
盆栽が美しいといいますが、
あれはおもちゃ的な小サイズの精密さを楽しんでることと、
雄大で厳しい自然に支えられた巨木のエッセンスが
凝縮して映りこむからだと思っています。

さまざまなイメージを支える実体、
それは実業と虚業の関係にも似ています。

複製に戸惑いを覚えることがあって、
デジタルデータの中では氏名も会社も
一発でコピーできてしまいます。
それでなんとなく手書きのような手順を踏まないのが
失礼に当たるような気分になることがあります。
ところが貰うほうにとっては
それがどのような過程を経て製作されたかということが
重要である場合とそれほど重要でない場合とがあります。

作る側の戸惑い、
裏方を知るものの戸惑い、それは
美しく理論的な一面だけを知ることだけでは済まない者が
共に感じる迷いのようです。

水曜日, 12月 07, 2005

器用さ、不器用さの感覚

この1ヶ月、外見的には変化がなく、
内面的な変化ばかりが起こっています。
目新しい何かも誇るような話もない、こういうのを
平凡と呼ばれる状態なのかとも思いますが、
本人の意識は至って満たされています。

本を読みながら、時折気になる言葉の中に
馬鹿になれ、という表現があります。
似た表現として、不器用でもいいから
愚直にやり通すこと、とか
ある種の非効率さが必要なのだという言葉もあります。

この表現、なにか的を得たような、
今ひとつ理解へ至らない言葉のようで、
少し考えを進めます。

器用であることで困ることは概ねありません。
ほとんどのことは不器用さによって困っていて、
思ったことが言えないとか、やりたいことが分からないとか、
自分の気持ちを前向きに転化できないとか、
そういう不可能性というものに結びついているからです。

器用であること自体が問題になるのは、
どんな問題にも「スマートな解決」というものが
存在している、という連想へと結びついてしまうことに
あるのではないかと思います。

目の前にある問題が、霧が晴れたように
前へ進むなら、どれほどいいだろう、と思う気持ちは、
感情のどこかに焦りを抱えています。
それで、自分が今できる器用なことの組み合わせによって
その問題がスマートに解決できないかと考えます。

ところがいくつかの問題、
自分にとって新しいことや
必ず時間がかかると分かる事象に対しては
現在の手段の組み合わせでは解決できません。
たとえば、
ドミノ倒しの駒を一瞬で並べる方法は
どこにも存在しないのです。

ところが全ての方法に「不器用な方法」を持ち込むことには
大きな問題があります。
不器用な方法を続けていくと、次第にその中に潜む
「規則的な原理」というものが現れてきて、
ある閾値を越えると不器用さに対する認識を
改めなければならない転換点が訪れます。

未知のこと、というのは
何も壮大なことである必要はなくて、
じゃんけんをして勝つ、という命題にも
未知のことが含まれます。

じゃんけんをして一生勝ち続けることがないように、
未知のことに挑むときに
器用な方法、不器用な方法のどちらで突破できるかは
事前に知らされておらず、
選んだ手段が外れてしまうことは必ずあります。

しかしどちらの方法を使ったとしても、
目標は「未知のことを突破する」ことであって、
それさえ叶えばどちらの手段であってもいいのです。

不器用な方法を使ったときに、
後で器用な方法に気が付いてもがっかりする必要はないし、
器用な方法が通らなかったからと言って
不器用な方法を選べなかったと自分を責める必要はありません。

人は過ち、神は赦す、
過ち、というものへの認識を
あとスプーンひと匙だけ緩めることができたなら
それだけで人は幸せになれるかもしれないのです。

月曜日, 12月 05, 2005

roll-play

朝車を走らせていたら、
雨上がりの空で遠くの山が見えて、
雪で白くなっているのが見えました。
今年も冬がやってきた実感が湧いてきます。

できる限り本音に近い自分でいる、ということに
どこかこだわりをもっている気がします。

TEXという書式を使っていると、
論文というプログラムを送れ、という
指令のように思います。
製本用のフォーマットを文の中に組み込むよう
求められていて、
さながらHTMLのようでもあります。

How-to本であるとか、~の方法とか、
とかく求められていることの多い世の中です。
この「求めること」が、自分に対する要求なのか、
他人に対する要求なのかというところが論点になります。

ほうじ茶にもカフェインがやや入っているのを知り
ちょっと驚きました。
今まで濃いほうじ茶を多めに飲んでいたからです。
明日からは昆布茶に変えるかもしれません。

ラフランスを食べる時期を迷います。
固い時は味がしないのに、
一度熟し始めると加速度的にやわらかくなってしまうのです。

決まった言葉はキーボードを急いで叩いても
出てくるのですが、
自分の中から生まれてくる言葉をつかまえているときには
どうしても作られる文字の速度が落ちます。
ブラインドタッチができるようになっても、
自分が言いたいことまで早く出てくるわけではないのです。

外国の研究者はそのあたりを知っているのかいないのか、
人差し指だけで文字を打つ人が相変わらずいます。
事務仕事はもちろんそのペースでは間に合わないはずですが、
しかし論述の際にはそれで十分すぎるほどなのです。

私に合った役割と居場所、
少し数えてみようと思います。

金曜日, 12月 02, 2005

風邪の因数分解

年に3回ぐらい風邪を引くわたしは
よく風邪薬を飲みます。
ところがこの風邪薬、
西洋系の総合感冒薬ほど効き目がやっかいで、
飲んだ後の調子が優れません。

漢方の葛根湯は
よいタイミングで飲むと劇的に効いて
次の日には治っているものですが、
いろいろ調べてみると
タイミングが違うと全く効かないことがわかって
それはそれで困っています。

そこで引いてしまったけれどその場を凌ぎたいとき、
各症状だけ抑えることにしました。

くしゃみが止まらない時はくしゃみ止め、
喉が痛い時は咳止め、
頭痛がする時は痛み止めという具合に
薬が混ざる種類を減らしていくと
比較的体のもちもいいようです。

風邪を引いたら頭を使わずに寝ていればいいのですが、
それができないという世の中なのかという問いを
時折考えます。
もちろん少しの具合でいろいろな約束事が進まないと
困ることはたくさんあるのですが、
いたずらに納期や期限が短い設計になってはいないだろうかと
考え直したくなることがあります。

熟練して手際よくなることは大切だと思いますが、
スピードは力である、
一般的に言われているこの言葉を
どう受け止めたらいいのか分からず、
まだまだ思索は続きます。

月曜日, 11月 28, 2005

hardware, software, data

朝3時に目が覚めました。
少し書き物をしてもう少し眠ります。
機械に関して言えばハードウェアの得意な日本です。
最近は良質なソフトも増えていますが、
良質で安価なデータが少ないと思います。

需要と供給、の話で言えば、
需要が多ければ供給する値段が高くなります。
ものやソフト、つまり目に見えるものに関しては
需要と供給というのは成り立つのですが、
データに関しては
なかなか需要と供給が成り立っているとはいえません。

もう少し深く入り込めば、
需要と供給自体は成り立っているのかもしれませんが、
データが広く流通していないので
おのずと値段が高くなります。

学術書の類で、
値段を高くすると売れなくなるから、と言います。
確かに辞書以外で1万円以上する本が飛ぶように売れることはないのですが、
しかし外国の学術書なんかは300ドルでも平気で売っていたりして、
それを買う人も多くいます。
一方でネットに広まる情報では無償で手に入るものが充実していて、
それらのバランスは一体どこから来るのかと不思議な気分になります。

休暇になると日光浴をしながらひたすらペーパーバックを読んでいる、
そんな話を聞くと、
日本で思われがちな本の虫とか雑学おたくとかではなくて、
活字に親しみを覚えるという肯定的な意味を
もっと前面に出してもいいかもしれません。

生きた知識、という言葉について考えます。
どんなものを「生きた知識」と読んでいるかというと、
それは実体化して何かの役に立つ、という暗喩を含むような気がします。
役に立つは利益を得るとかいう経済ベースの話ではなく、
不安定な自分を支えたり人に快い感情を与えるものも
生きた知識だと思います。

本宮ひろ志の話の中に、
漫画家が絵が描けるのは当たり前で、
その絵で何を伝えたいかが問題なんだ、という一節があって、
時折思い出します。
ただ、こういう言葉を聞くと、認められる絵が描けなければ
公表する意味や価値がないと連想してしまうことが
表現の量を少なくしてしまうのだと考えます。

何かを下手な人間は、表現が許されない、
こう書き切ってしまうと、「そんなことはない」と
反応が返ってきそうですが、
今でもそういう雰囲気は強くあります。
そしてそれは自分の中にも強い意識としてあるものです。

下手なところを見せて笑われると傷つく、
その「傷ついたもの」は何なのだろうと思います。
下手だというその結果、
へんてこな絵とか調子の外れた歌とか、を見て
その行為自体や状況という非人間的な現象を笑っているのか、
それともその行為を行った自分自身というもの、
つまり人間的な価値の薄さを笑っているのか、
これがよく混在しています。

持つ者はさらに与えられる、という言葉があって、
この意味をよく考えることがあります。
最初に人より少し得意であったものが
練習を重ねていくうちに上手になっていくという過程でもありますが、
最初に持たないものについての言及がありません。
持たない者だって与えられるようチャンスが必要です。

最初に少し持っている者が続けられるのは、
自分の行動に価値があると信じられるからで、
また周りもそういう視線を送るからだと思います。
少し持っている、持っていないの観念が比喩的なものならば、
ほんの少し持っているところからでも始められる、
そんな風に思えたらいいなと感じます。

あれほど流行ったのにわたしがちっとも知らないのが
ミスチルの歌で、それは最初の流行に乗れなかったから
そのまま追いかけられずにいたもののひとつです。
その手の苦手意識というのはたくさんあって、
苦手意識を持つと思考を停めてしまったように前へ進みません。
後追いするとなんだかかっこ悪く感じるものですが、
それが好きだと公言できなくても
せめて曲ぐらい聞いてみればよかっただろうにと
ずいぶん後悔をしています。

後追いをかっこ悪いと感じるのは、
知識の量を勝った負けたと優劣で決める傾向のせいでしょうか。

物と知識の決定的な違いは、
物が使うと減ってしまうのに対して、
知識は使うほど増えていくことにあります。
100%満足する結果でなくても、途中であっても、
行動を起こしたことを評価する、
そんな気持ちがもっと広まればいいと願い、
そして自分の意識もそう近づけたらいいなと願います。

木曜日, 11月 24, 2005

コンビニ弁当をレンジ弱で7分

とかく「温もりが足りない」といわれがちな
電子レンジは、
早く温めるのとゆっくり温めるのでは
ずいぶん風味が変わります。
レンジ強2分のお弁当は
レンジ弱7分で加熱すると
芯から全体まで温まっておいしくなります。
時間のあるときにお試し下さい。

南無阿弥陀仏と、ひつじが一匹

カフェインの入ったコーヒーが苦手です。
体がとても緊張してしまいます。
たくさんは飲めないので、
小さなカップで飲むか、
カフェインレスのコーヒーを頼みたくなります。

自分の軸を時折見失うことがあります。
おおむね集中できないときに起こります。
ひつじを数えると脳が忙しく動き出して眠れなくなると
何かのメディアが言っていたようですが、
わたしはひつじを数えると良く眠れます。

想像、という定義は
頭の中だけで世界を作ることであって、
小さい頃はよくやっていて、
大人になるとなかなかしないものかなと思います。
この「脳を落ち着かせる」という方法に、
繰り返し脳の中だけの入出力を行う、という行為が
有効なのではないかと思っています。

全ての宗教に祈りという反復行為が伴い、
唱える言葉が存在します。
実在の論議を少し脇において話を進めるならば、
それはひつじが一匹と数えながら眠るのと
特に違いがないような気がするのです。

思考はひとつではない、というのは
かなり前に気がついたことで、
さまざまな感情が自由に表れたり消えたりしています。
これは脳の細胞が個別に活動できるからであって、
手と足を同時に動かせることの理由と
特に大きな違いはありません。
そして脳の中の協調動作が乱れると
混乱してしまいます。

脳だけでの入出力というのは、この乱れた動作を
もう一度まとめ直す意味があるのではないかと
最近思っています。

人の心を落ち着かせるのには「ひつじが一匹」で十分で、
神様を登場させるのは
概念としてちょっと強力すぎる施策じゃないかと考えます。
100mを10秒で走れる人が限られるように、
神様の概念をうまく援用できる人も限られているように
感じるからです。

火曜日, 11月 22, 2005

redundancy

パルス発生器の主電源が入らなくなりました。
予備機を当てて実験を続けています。

小集団の中での個人と、
大集団の中での個人は振る舞いとして異なります。
小集団でキャンプに行ってテントを持ってきた人が
誰なのかはすぐ分かりますが、
大集団で株の売り買いをして
値下げ傾向に導いた人は特定できません。

同じ集団のためとはいっても、
世の中のためになることをしようと考えたときに、
いきなり「汚職のない世の中を作る」とか考えても
うまくは行かず、まず自分が不正のない政治家になるところから
始めなければなりません。
そして自分も一人の人間であるなら、
「不正のない政治家とある政治家」のバランスを
ひとこま変えるのが精一杯かもしれないのです。

たくさんの集団の中では
良い意見ばかりもたれないことがあります。
amazonの書評などを読んでいると、
評論というのは感性によるところが大きいせいか
良いとか悪いとか好き勝手に書かれています。

良い意見ばかりもたれずに過ごしていくことの
難しさを思います。
それ自体はいつでも起こりうることなのですが、
好ましくない反応に対して
無視して過ごすわけにもいかず、
かといって自省ばかりして過ごすわけにもいきません。

何かの行動原理を最終的に興味へと結びつけることに
時折必要性と疑問を同時に感じます。
そこにある必要性があれば決めるのは楽なので
何らかの必要性を探してしまうことがあります。
50:50の大賛成と大反対があったときに、
それでも一歩を踏み出せるかどうかを悩みます。

この国の人らしい感情であれば
50:50の時に踏み出すのはきっとためらいます。
そして行動そのものにも正の側面と負の側面があるとすれば
行動というもの自体はリスクの大きなことです。

しかしためらうことというのは
重要であるけれども行動に移すには
まだ時間があると思っているか、
あるいはどちらでも構わないと感じるようなことかの
どちらかです。
しきたりやマナーというものでその場であたふた悩んでいるのは
それが「本当はどちらでもいい」ことの
明確な表れだと思います。

食器を持って食べてはいけない中国、
食器を持って食べなければならない日本、
それはどちらがよいという言葉では
本来説明をしてはいけないものです。
だからテレビで「マナーの先生」とやらが
偉そうに正負善悪の番人のようなご口上を述べているのを見ると
なんだか腹が立ってきます。

盲目的に従うことは極めて不自由でありながら、
他方で非常に心地の良いものだろうと思います。

月曜日, 11月 21, 2005

prohibited?

黒パンを食べるロシア、
とうもろこしを食べるメキシコと
食べ物は千差万別ですが、
人に関する歴史があるところには
なぜか酒だけはあります。
自分の意識という壁をなんとかして取り払いたいと思うと
何らかの外力が必要なのかもしれません。

気持ちの壁で思い出す話は象を飼いならす話で、
小さい頃に脚を紐のついた杭に縛られて過ごすと、
大きくなっても地面に打たれた小さな杭を見ると
動くのを諦めるのだといいます。

得意なことはいくらでもできそうで、
苦手なことはとても続かないものだったりして、
「持つものはさらに与えられる」の理由は
こんなところにあったりするのだろうかと思うこともあります。

心理学以外の心的効果を除けば、
占いやまじないの類には
まったく信憑性がないことは明らかなのですが、
夜の新宿駅前にはたくさんの占い師がいるし、
雑誌には星座占いが載っているし、
縁起を担ぐ人がたくさんいたりします。

非科学には幾通りもの「答え」なるものが存在するため、
できるだけ気持ちのよりどころに
非科学を持ち込まないようにしてきました。
しかし最近少し発想が変わってきて、
全てが正しく「固定された真実」であるという存在に
人というものは耐えられるのか疑問に思うようになりました。

固定された真実には逃げ場がなく、
好き勝手な行動が許されないことが増えてきます。
もちろん日々の出来事は現象として一つで、
その効果と解釈は関わった人の分だけ存在するのですが、
自分がおかれた状況の解釈を
丸ごと受け入れられない時が時折あります。

そんな時に、世の中的になんだか良く分からないが
受け入れられている「非科学なもの」というのは
その解釈に新しい可能性を残すことができそうで
なんだか期待してしまうのです。

川本真琴の歌の中に
禁止したって人類はぐんぐんはみ出してゆく、
というくだりがあって、
その表現はとても確かな感じがします。
果たしてこんなことをして何になるのだろうと
考えたくなる気持ちは、
生きるために一生懸命になっている時には思いつかないものです。

人間だけがこの世界で住む仕組みを変えてしまう、というのは、
考えることの1/10しか表現できない人間の脳の
せめてもの頑張りなのかもしれず、
そのためにいろいろな壁を感じるということ自体には
それが必要な何らかの意味がありそうだと考えます。

金曜日, 11月 18, 2005

教えてもらいたかったこと

デスクの中の余っていたペンが
最近増えなくなりました。
そういえば身の回りのものも増えなくなりました。
ちょっとした意識改革です。

情報に関して最近さまざまなことを思います。
会社に入るまで会社のことが分からないと心配する
卒業間際の大学生を見ながら、
それは会社が決して積極的には教えようとしないからだろうと
思います。
「門戸は何らかの方法で開いてるのだから
だったら知るよう努力すればいいじゃないか」と言われると
ひどく反発したくなるのは、
「情報開示」と言ってただ雑文交じりの膨大な資料庫の
鍵を開けただけの状態のお役所のある課と同じだからで、
それが誰にでも通じる積極的な開示ではないからです。
特殊な方法、先輩を頼るとか裏口から入るとか
そういう方法は決して「門戸が開いている」とは言いません。

メディア・リテラシーの重要性を思います。
「本人のためにならない」とか分かったような理由で
面倒な気持ちを隠しながらお茶を濁したりせずに、
読みやすく、分かりやすいということを
なぜもっと純粋に追求しないのかと思うことがあります。
禅の思想だか問答なのか知りませんが、
それはひどく人を不公平に、そして不幸せにします。

自分でやらなければ分からないこと、というのは
確かに存在します。
覚える過程で手を使い、頭を使うのですが、
しかし先に手順を聞いたからといって
それが中途半端になることなど少しもありません。
洗練された情報によってより早く理解できるだけです。
物理がここまで進んだのは、
遠回りせずに知識を積み重ねる方法を選択したからです。

これらがどこかで「きれいごと」と言われるのも
どこかで感じています。
人はその淘汰を乗り切るために
個人としては情報戦を繰り広げているからです。
しかしチームであるという意識があるならば
積極的に開示することがプラスになる事だってあります。

大事なのは、
何ができるかではなく、できるようになったことで
一体何が表現できるかにあります。
やってみなければわからない、という言葉は、
半分は本当で、半分は嘘です。
だから何も教えずにただやってごらん、と言うのは
少しも足しになりません。

自分が知らずに困り果てたことがたくさんあったので、
教えて欲しい、という気持ちに
可能な限り応えてあげたいといつも思います。
いざと言うときには
とにかく今自分が持っているものと知っていることを
総動員して事に当たるもので、
知るということはよりよい選択を導くための力です。

木曜日, 11月 17, 2005

階段建設屋

最近試している健康向上対策は
なぜかことごとく成功しています。
しかしそれはストレスそのものを感じなくなっているかもしれなくて、
ストレスがあるときには健康対策って
効果が殆ど現れないんじゃないかと思う今日この頃です。

結果が出て名を残すことばかりでしか評価されない、と
まことしやかに言われる風潮がいやで、
初期の苦しい段階でとても力になってくれた人を
どういう言葉で形容すれば確かな賛辞になるのかと
よく考えていました。
ボスの追悼文の中に
「道をつけてくださいました」という一言があって、
ああ、この言葉だと納得しました。

道を歩くことと道を開くことは別物です。
開いた道は誰でも歩けますが、
何もないところに道を開くことは限られた人しかできません。
このできないという表現にはかなり問題があって、
やればできるかもしれないけれどやりたくないと思う人は
少しぐらいやったらいいじゃないかと思ってしまいます。

この国に新しい宗教も文化も多分必要ないのですが、
正しい気高さ、ある種のプライドのようなものって
少しぐらいは必要じゃないかと感じることが最近増えます。
全く棘がなくて攻撃性のない人が
マスコットのように愛される、というのは
確かに理にかなっているような気もしますが、
多少手ごわくても芯がある人というのは
この国ではとても警戒されます。

ビルを作るには重機が必要で、
電力を作るには核燃料が必要です。
人が進み登る道を作るのであれば、
それに叶った強さを持つ人が求められます。

最近、同じような気持ちを
繰り返し違う表現で書いているような気がします。
こう思う気持ちののなかに何があるのか、
なぜそう思うようになってしまっているのか、
その理由はまだ聞かされていません。

水曜日, 11月 16, 2005

畑の概念

家では玄米茶を良く飲んでいました。
香ばしくて気に入っています。
時折塩を口に含みます。
冬は体が乾燥しやすいのです。

秋になるとさんまが一尾50円くらいで
スーパーに並びます。
安くて新鮮なので買いますが、
ふと一尾50円で経済はちゃんと回るのか
すごく不思議に思うことがあります。

供給が多すぎると値崩れする、
これは市場原理の講義の初期の頃に現れる
基本定理です。
人間の労力と機械の労力を足したものが
市場が求める量より多い場合、
労働が値崩れします。
しかし労働が続かなければ給料は得られず、
どこかで調整が必要になります。

一生懸命働くことは必要だと思いますが、
何のために働こうとしているのか時々考えていないと
労働過多の世界の調整ができません。

この間「叩き台」を作る難しさを話していて、
最も必要な仕事は「叩き台」にあるのではないかと
認識を持ちました。

叩き台は手探りで作られます。
そしてたいていの場合不恰好です。
叩き台があるからこそそれを純化して
より洗練した姿にすることができます。

どちらかと言うと、人は
叩き台を作ることよりも、
洗練させることのほうを好むようです。
楽に何か良い結果が出たような気分になるからです。

叩き台を作るのには
ずいぶん泥臭い手続きが必要です。
情報を集めて試行錯誤して、
それでできたものはその時点では
どこか垢抜けないものだったりします。

でも一度核ができてしまえば、
あとはその核の可能性に応じて
自由に発展させることができます。
それはおもちゃを作る人と、
おもちゃで遊ぶ人の違いでもあります。

どんなに面倒でも、
叩き台を自分で作る気持ちを忘れたくないし、
余剰の労働力は創造的な事柄に振り分けれたらいいなと思います。
それを横取りしたりちょっとだけ使おうとする人は抵抗を持ち、
別の場所で叩き台を作っている人は大好きです。
そして「荒野に畑を広げる」ことに相当するものが
「未知の世界に叩き台を作る」ことだと考えます。

火曜日, 11月 15, 2005

「野球が好きな人」

昨日はずいぶん外が暗くて、
午後4時半になると真っ暗になった感じがします。

野球が好きな人、と表現すると
野球をするのが好きな人、野球を見るのが好きな人、
その両方、という3種類に分けられます。

趣味で野球をする場合は、
観客というのはあってもなくても野球自体はできます。
仕事で野球をする場合は、
野球をする人には野球を見て楽しみにする人がいることで
野球が続けられます。

時折出てくる話の中で、
世の中には2:6:2の法則と言うものがある、といいます。
ある出来事、集まり、など多数のものの集合に対して、
最も重要な寄与をするものは全体の2割、
日によって変動する寄与をするものは全体の6割、
全く寄与しないものは全体の2割、
という風に解釈されます。

野球でも芸能でも、
熱心に応援へ馳せ参じ通うファンの存在が
その後の発展を決めるのだといいます。
彼らは自分自身が「応援するもの」をやるのではないけれど、
それと同じくらいの努力をして注目し応援しています。

ちょっと立ち寄って気の効いたことがひとこと言えて、
立ち寄るも立ち寄らないもその日の気ままで、
という「しゃれたお客さん」の立場でいる場所も
十分あっていいと思いますが、
そういう人もどこかの場所に「一生懸命さ」というものを
持っていて欲しいなとつい思ってしまいます。

お気楽で楽しくて、という感じが持てれば
もっと気持ちには余裕がたくさんできるのかもしれませんが、
そうすることを自分に許すことは難しいし、
そういうものに魅力を感じる感覚も発達していません。

ずっと楽できる生活にはなれないのかもしれませんが、
それでも一生懸命さというものを出せる意志の強い魅力を
自分にも相手にもどこかで求めていくだろうと感じます。
それは何度も自分を試してみて、
一度も変わらなかった部分の一つです。

月曜日, 11月 14, 2005

気持ちが枯れていないとできない仕事

小さなハードディスクを買いました。
USBメモリにしばらく慣れていたのですが、
中途半端に容量が多いとうまく使えません。

およそ力仕事を続けている時期に、
デスクに落ち着いて座って思考するのは難しいものです。
「素早い気持ちの切り替えを」とよく言われ続けてきたのですが、
もともと考え込んでしまう性格もあって、
切り替えろといわれると妙にへそを曲げたくなります。

意識すればするほど増していくものがあります。
タバコを吸いたい人が「タバコをやめろ」と毎日聞かされると、
逆にタバコを忘れられなくなってしまいます。

何か困ったことを手放すには、忘れてしまうことが良いようです。
逆に大事なことは何度も思い出す必要があります。
そういえば学校では覚え方は何度も繰り返し学びますが、
忘れ方を教えてくれることは一度もありません。
人は覚えにくく忘れやすい生き物だから、というのかもしれませんが、
時に忘れられないタイプの人間もいます。

脳を自在に使えるということは、
自在と言う言葉は双方向の意味を成すものであるため、
覚えたことを自由に取り出せるだけでなく、
不要なものは自在に忘れてしまえる能力も必要です。

もの想う秋、とはよく言ったもので、
デスクに座って考え事をするのは秋が向いています。
いたずらに活動的な時期より、
少し気持ちが枯れているほうが考え事は楽なのです。

日曜日, 11月 13, 2005

人にはそれぞれ「必ず理由がある」

秋の山をこれほど美しいと感じるようになったのは
関東に出てきてからです。
九州の紅葉はオレンジ色が多いのです。

タイトルはC&Aのブックレットの一節です。

ニュースとテレビを見ない生活を送っています。
概ね見なくても生活はできます。
しかし人と共通の話題を求めるときには
少々不便に感じることもあります。

この「不便さ」、国によって違いはないようで、
イギリス紳士は社交場のたしなみとして
新しいジョークと最近の話題を用意しておくことが
求められていたといいます。

生きやすさ、というのは
制約条件の少なさ、という尺度で測れば分かりやすく、
条件が増えれば増えるほど生きるのは難しくなります。

争いや矛盾や衝突や、
そういったものは生き物の中では脳の活動という「おまけ」の部分であって、
それらは単体では特に意味を成さないのかもしれないのですが、
しかしそれらが人という種を選び進化させるプロセスの一つで
あるとするなら、
それらには何かの理由があるのだろうと思います。

人間は進化の最終過程に生まれたという説がまかり通っていて、
しかし人間は進化し間違えた生き物かもしれないことは
あまり問題にしようとしないものです。

月曜日, 11月 07, 2005

食塩は体に悪いか

24時間以上起きていたので睡眠不足明けです。
旅する行と座禅の行があったら、
多分旅する行のほうが気分はいいと思います。

今日はすこし食べ物の話です。

食べ物の環境は遺伝します。
たとえば塩味の濃い食事が日常の場合、
体は塩分に慣れるように変わっていきます。
菜食主義と言う人がいて、
その人たちの体は野菜の成分の中から
必要な蛋白を吸収できるように変わっています。

「人間」という単一の標準モデル、という概念が
どこまで通用するかを最近考えます。

個性には、頭で覚えたことから生まれる性格に根ざす面と、
体のつくりや環境・経験から生まれる実体に根ざす面があります。

極端に言えば、脳は単一世代で書き換えることができます。
脳はただのネットワークで、それに何を覚えさせるかで
結果が変わってしまうからです。

これに対して、環境が体の働きを変えてしまうことがあります。
イヌイットかエスキモーなどのカヌー生活をする民族は
生まれつき腕力が強いのだといいます。

食塩を多く取る地域の人たちは
自然と塩分を代謝できるような体になっています。

それでいろいろ考え直すと、
一人暮らしを始めてからしょっぱいものを
あまり食べなくなったような気がしたのです。

数日日常を変えたぐらいでは体は異常になったりしないので
たまに自分を試すことがあります。
そこで昨日から多めに塩分を取ってみました。
夜食の後も眠くならず、
眠い以外は意識ははっきりしていました。

実家にいたときの味付けの濃い食事は、
自然と自分の中に身についているのだろうかと
不思議に思った今日の夕暮れです。

木曜日, 11月 03, 2005

人は皆違っていく生き物

世の中的に平日か休みか、を
一番肌で感じさせるものは、
町の様子とテレビ番組です。
テレビを殆ど見なくなって、
世間と距離を置いてみるのもなかなか楽しいものです。

記憶にはある日不思議だと思って
心に引っかかった言葉が集まります。

「この業界は狭いから」と言う言葉は、
なぜかどこの業界の人からも聞かれます。
業界に広いところなんてあるのだろうか、という疑問が生じます。

「あの人とは根本思想が違っていた」ということが
仲違いの原因になったりして、
しかしある一時期は共通点を持っていたからこそ
そこに共通の時間が生まれたわけで、
果たして「違っていた」ことは
世間的に言われる「勘違い」ではないのではないかと
不思議に思っています。

年は取りたくない、と言いながら、
忙しい今週は早く終わらないかと思う気持ちは
よく分かる心境なのですが、
時間的に厳密なことを言うと矛盾しています。

キャバレーに通う紳士、
マイクを握ったら離さない後援会幹事、
立ち話に熱中する淑女、
共通するのは「話し相手が欲しい」という欲求で、
それは年を重ねるごとに増していくもののようです。

似ているものから始まると、
若者は個性が少ないとか個性を求める、と言う気持ちは良く分かって、
同じ時代環境で育てば多かれ少なかれもともと似ています。

このような連想から行くと、
よくブログの質問にある
「あなたと瓜二つの人が現れたらどうしますか」の問いに対して、
多くの人は「一生理解しあえる話し相手にする」と答えるのが
自然なような気がします。

違う個性に刺激を受け、同じ個性に安心を得るとすれば、
人が違い続けていくということは
安心ではなくなっていくということなのだろうかと
時々難しく考えます。

西洋では個の概念、東洋では集団の概念、と
区別したとしても、
人はいずれ違っていく生き物であることは
どの世界でも変わりません。

水曜日, 11月 02, 2005

頭に優しいノートの取り方、とか

薄い紙が好きです。

実は薄い紙のほうが安いらしいのですが、
値段と好みは関係がありません。

本は頭から読みます。
最後から読んだらお話にならないからです。
それでノートと言うのも本と同じように
最初のページに一番古い情報、
最後のページが一番新しい情報を載せるようになっています。

以前からこの「ノート」の使い方が苦手でした。
自分でメモを取るのに、後で読み返せないからです。

いくつか原因があることが分かりました。
ノートが「ある時間を基点に進む時間で記録される」場合、
一度記憶を「ある時間」まで戻した後、
そこから読み進める、という二回の操作が必要で、
私はこの「ある時点に戻る」際に混乱するのです。

そこでノートをバインダー型にして、
古いページが一番最後に来るようにしました。
こうすると、最近の情報はいつも上にあって、
過去に遡る一回の操作で目的の場所を思い出せます。

新しい情報ほど、最初は何度も復習する必要があり、
時間が経ってもたまには見ることが必要、とは
リビングストンとか言う人の学習曲線に繋がる話です。

ここまで書いて、
だったら今まで通りノートを書いて
逆からめくればいいじゃないかと思ったりするのですが、
こうすると「時間を遡る」ことがイレギュラーだと感じて、
あまりうまく行かないのです。

この方法、本がとても好きで、
お話として全体を理解できる人には向かないかもしれません。
しかし本に書かれたものを読む場合は、
実は現在から未来への時間を使っているので、
最初の情報が一番「古い」必要があります。

自分用のノートを書くという事と、
人に読んでもらう文章を書くことは、
実は頭の働きの方向が逆なのだと感じます。

story-tellingとは、
現在から未来に向かって行われる作業です。

日曜日, 10月 30, 2005

プラス1の処世術

マウスの一つボタンがMac、
二つボタンがWindows、
三つボタンがUnixと決まっています。
わたしはWindowsをメインに使いますが、
最近右ボタンをできるだけ使わないようにしています。
なんとなく思考の邪魔になるかもしれないと思ったからです。

相反することについて時々考えます。
「お金は後からついてくる」と、
「先立つものがないと始まらない」は全く逆です。
そしてこれらの言葉を、適切な状況の説明にも
諦めの理由付けを求めるためにも使います。

いくら大農場が効率がいいからと言っても、
大平原を一人で耕していたら
いつまで経っても作物は実りません。
といっても自分ひとりがやっと食べる分しか耕さなければ
いつまで経っても楽にはなりません。

どうもそこには「適切な大きさ」というものが
決まって存在するように思います。
アプローチの方法はひとそれぞれですが、
少なくとも大農場での農法と
小農場での農法は全く違うはずです。

量子論は確かに全ての物理の基礎を成しますが、
高エネルギーでの場合と低エネルギーでの場合は
基礎となる考え方そのものが違います。
そして複雑怪奇な量子論は突然生まれたのではなく、
もう研究することが何もないだろうと言われるまで
古典力学が精査された後に生まれたものです。

大きな事を為したいときに、
がむしゃらに無理をするわけでもなく、
かといって臆病さから行動範囲を狭めるわけでもなく、
今できることから一歩だけ先へ努力してみる、
そういう歩み方が必要だと思います。
そして、一足飛びではなく一歩ずつというのが
なぜか結果的には一番早く目的地へたどり着ける感じがします。

ただ時々無理をすることにはいい意味があって、
今までの自分の「方向」を変えたり、
日常に余裕を持たせる効果があります。
それは一歩ずつの歩みではもしかしたら得られないことで、
諸行無常の考え方で言えば
自分が生まれ変わることに等しいのかもしれません。