月曜日, 1月 30, 2006

書き物考

大きなドラムです。

検出器の外側のようです。

書いていた論文、150pと予想していて、
できた量が最初130ページだったのですが、
レイアウトをやり直した結果149pになりました。
だいたい思った通りです。

書き物がほとんどなくなって
久しぶりに心は平和です。

しかしなぜ書き物が心を乱すのか、
時々考えます。

肉体的辛さというのは確かにあるのですが、
数日眠れれば元に戻ります。
精神的辛さというのはあまり元に戻りません。

いろいろな人に話を聞くと、
書類書きというものにはとても抵抗があります。
文字をたくさん見ると、多分意識が混乱してしまうのです。

火の玉を出す魔法はありませんが、
人の意識に訴える言葉は魔法のようでもあります。

月曜日, 1月 23, 2006

繋がっている、切り離されている

紙飛行機の代わりに、
封筒に切手をつけて飛ばしました。
研究者は一つの自営業だと思っている
今日この頃です。

会社が利益を得るための方法の見方として、
売り切りにするか継続にするかの区別があります。
お菓子のように売ってしまうと終わりなのか、
携帯電話のように一度もつと維持費がかかるものに
大きく分けられます。

売り切りでよいものは生産物で、
本や車や洋服、ipod音楽などのメーカーは常に売り切りです。
その生産物に対して維持するサービスは別にあって、
車の修理工場やファッションアドバイザーなどはそちらです。

物が売れない、というのは
景気が落ち込んでいるという比喩的な意味と、
売り切りタイプの生産物の購買が減少しているという
二つの意味で使われます。

必要不可欠な生活商品が揃うと購買が減るので、
方向としては単価の引き上げかメンテナンス型サービスへと
向かいます。

売り切りは商品さえしっかりしていて返品が少なければ
その後の面倒を見る必要はなく、
売れば売るほど利益が上がります。
その代わり売れなくなると商材の生命は終わりです。
維持型は一度顧客を囲うと継続して利益が得られます。
しかしメンテナンス料に足るサービスを提供し続ける必要があります。

飽和型社会を面倒に思う点は、
いろいろなものが連動し始めていて切り離せない点にあります。
それは集落型の人間関係と都市型の人間関係の違いと同じで、
結びつきが強くなればなるほど不自由感がでてくるものです。

エステだって売り切りのようにすると
サービスを買う側に自由さがあって楽なのですが、
エステの会社は継続して通ってくれることを求めてくるため、
とても不自由に感じてしまいます。

銀行やローンの会社も事情は同じで、
よく返してくれそうな会社には
その資金が必要であるかどうかに関わらず割増しで貸付を行って
継続的に金利を得ようと必死になります。

求める立場なのか、求められる立場なのか、
それは時間にも相手によっても異なり、
いろんな糸が立体的に交差しているようにも感じられます。

以前日本史の研究者から
「本当の自由とは何の制約もないものだ」という言葉を聞いて、
時折その意味を考えます。
以前も考えたとおり「自由」と「自由度」は違うもので、
「義務と権利」の「権利」に当たるものは自由度であって
自由ではありません。

自分の周囲には自由が少ないと雰囲気で思っている人は
きっとたくさんいて、
それは連動することのオーバーヘッドを
毎度解く必要があるからです。

自由をもてあまして不安になってしまう人は
何らかの外的条件に拘束されているほうが落ち着くもので、
ただそういう人が多すぎると
都市全体で村社会を作る結果になります。

自由になるということは、
制約条件を打破するという面が一方で必要で、
しかしもう一方で自由の頼りなさと本気で向き合うことで
相手を拘束する願望をもっと減らすことが必要です。
それは一人の人間の存在と頼りなさの源を同じにするもので、
実行はなかなか難しいものです。

plan, do, and see

食べるのも好きですが
作るのは同じかそれ以上に好きです。

スコッチウイスキーで香りをつけます。

バルサミコ酢はお醤油のような旨み調味料で、
付け合わせが楽に作れます。

木曜日, 1月 19, 2006

あれとこれを繋ぐもの

アンチモンの鉱石です。

人工の造営物に魅力を感じることもありますが、
石が自然に作る規則性に魅入られることがあります。

朝日新聞の絵本について語る一節があって、
鬼に峠の橋をかけてもらう代わりに目玉をよこせと言われる
話があって、つなぐことの難しさをふと思います。

あれとこれ、簡単に繋がるようでいて
実は繋がる部分がとても難しいものです。
たとえばエンジンとシャフトを繋ぐギアは台形歯車を4つ対向した
ディファレンシャルギアと呼ばれるもので、
見るからに複雑な動きをします。

インターネットが難しかったのは、
仕様も速度も違うネットワークを統一することで、
TCP/IPはいくつもの階層に分かれて差を吸収しています。

メーリングリストはある、けれどもそれが機能するには
文字以外の繋がりが必要だったりします。

カタログで構成部品は規格品がいくらでも買えるのですが、
それを繋いで機能化する段に独創性が現れます。

あれとこれの境界部分に自分を置く、
自分は頻繁にその作業を続けています。
繋ぐ作業は決して単調な仕事にはならず
頻繁に難しさを感じますが、
それらが機能として一体に振舞う瞬間というのが
とても嬉しいのです。

水曜日, 1月 18, 2006

EXPACK500

パッションフルーツが好きで、
トロピカーナ夏季限定のオレンジ+パッションフルーツを
見つけて1箱買って来ました。
研究室に非常食用のカップ麺をたくさん買って
置いているのですが、
思ったよりほんの少し予定が早まったので
食べ切らないかもしれません。

速達には手続きが必要、というわけではないのですが、
重さが分からなくて結局郵便局へ向かってしまいます。
その点EXPACK500は便利で、
ポストに入れるだけで無条件に速達扱いにしてくれます。
ちなみに、厚紙の封筒に入れば少々膨らんでいても良いのも
なかなか気が効いています。

封筒は248mm*320mmの厚みがないサイズですが、
20mmぐらいは平気です。
こうすると容積は1.5Lぐらいになります。

郵便局のHPには"30kgを超えて入れられません"と書いてあって、
1.5Lで割ると比重20g/cm2まで大丈夫という計算になります。
これは金の板を封筒一杯に詰めて送っても大丈夫という規格で、
全く心配が要りません。
しかしこんな封筒が30kgもあったら大変だなあと
真面目に考える一方、
30kgにした背景は上記と同じ思想で考えたんじゃないかと
なんとなく想像してしまいます。

金曜日, 1月 13, 2006

叶わぬ願い

ボスが生きていてくれていたら、
ここ一番で絶対に推薦状を書いてもらおうと
心に決めていたのを今さらながら思い出しました。
今日はなんだか悲しくて泣いてしまいそうな1日です。

水曜日, 1月 11, 2006

加速度

運動という言葉にはややストイックな修行のイメージ、
活動的で競技的なニュアンスがあって
もう少しいい言葉がないかと考えています。

物体の位置は見ることで分かります。
物体の速度も見える範囲で分かります。
ところが加速度は目で見ることはできず、
力として感じるものになります。

ニュートン方程式の示す式は
とても少ない文字で書けてしまうもので、
アインシュタインの質量とエネルギーの等価性も
とても少ない文字で書けてしまいます。
じゃあ世界は簡単かというとそうではなくて、
簡単な式は適用する場面に応じて無限にその姿を変えます。
質量の項が複数になり、行列になり、
加速度が積分されたり、相互作用が生じたりして
もともとの簡単な式とは似ても似つかぬほどになります。

速度が速いものは見た目に派手ですごそうですが、
抵抗のない系ではエネルギーが失われないので
一度加速してしまうとエネルギーが与えられなくても
飛び続けることができます。

それではあまりつまらないのです。

常に力を感じたければ加速度を与えるしかなく、
そのためにはエネルギーが必要です。
こう書いてしまうと読みようによってはただの物理の話ですが、
こんな人生でいたいなと願う自分のヒントのようでもあります。

木曜日, 1月 05, 2006

3冊選びなさい、といわれたら

今日は妙に血が頭に集まっているようで、
めまいがします。

信教の自由、というものがあって、
「公共の利益に反しないように」と定められています。
受刑者が希望する持込図書は
経典として認められれば別枠扱いされるそうで、
オウム説法集は3冊までと定められた「一般図書」とされたことに
訴えが起こっているのだそうです。

いろいろと考えを巡らせます。
一般図書とされた理由は、一種の「危険思想」であって、
読み進めた場合犯罪やテロを招く恐れがある、という解釈が
言外のうちに進められているはずなのですが、
それを言うなら他教を排除するキリスト教やイスラム教だって
立派に犯罪やテロを招いています。

「公共の利益に反しないように」という言葉は曲者で、
さまざまな解釈ができるからこそ問題が起こります。
言論統制が行われようとしている国会インタビューの話を見ると、
人権を盾にとって悪事を隠そうとしています。

それぞれの名前のついた個人にプライバシーはあります。
しかし国会議員という公人に秘密は必要ありません。

信教の自由というのは
それ自体がリスクの大きい権利なのだろうと思います。
人が決めた全てのことには
完全な正解や間違いが定義できないからです。

ただ衝突のない画一化された世界を理想とせず、
自由な言論が確保された上で常にせめぎあいの中にある、ということこそ
本来は揺らぐ世界の健全な姿であるのかもしれません。

もし3冊選べといわれたら、
最初の1冊に岡本太郎の本を入れ、
残りは適当な物理の辞典と厚い英語大辞典を選びます。

火曜日, 1月 03, 2006

前衛と、モダニズムと

「今日の芸術」からの一節で、
芸術の側面には前衛とモダニズムがあるといいます。

モダニズムは心地よくて好まれる、
前衛は理解されにくい、この図式は
量産技術と先端技術の構図にも当てはまります。

ちなみに、前衛はモダニズムの領域を開きますが、
その逆は成り立ちません。
つまり、スマートさを身につけたいと願うのであれば
まず前衛に立つ必要があります。

そしてこの「前衛」と「モダニズム」とは
人によって分けられているわけではなく、
一人一人の時間配分によって分けられています。
前衛に立つ時間を生涯にどれだけ確保できるか、
これがモダンを自分に身につける鍵となります。

アンチテーゼ・その2

ひつまぶしとひまつぶし、
全て自分の時間に合わせれば暇は作れるのですが、
決まりごとという観念的要請が時にそれを阻みます。

季節感を放棄してみたらどうなるだろう、と
ふと思います。

ここで言う季節感とは、
世界の時間は春、夏、秋、冬が
順に巡ってくる、という意味においてです。
宇宙の時間で言えば一時も同じ状態はありません。
なので、去年「春」と呼ばれていたある時間と
今年「春」と呼ばれているある時間は違うものです。

最近のニュースキャスターは
暑くなったり寒くなったりすると、
「異常気象ですね」と口ぐせのように言います。
観測史上一番の暑さが来たといっても、
観測は100年もしていないのだから、
特に驚くことはありません。
冷夏の年も旱魃の年も、
昔のようにたくさんの人がそれで死んではいないのです。

春だと観念的に思っているものがあります。
桜が咲くのはだいたい春ですが、
今年や以前に、秋の終わりに咲いた桜を見かけたことがあります。

冬でも夏野菜のトマトが食べられるなら、
季節感がなくなっても不思議ではないし、
頭脳労働の世界にはもともと季節感がありません。
季節で式が変わるような憲法や物理法則では困るからです。

自然という言葉の定義も気になります。
地球環境とか、野山、という意味での自然なのか、
普遍的に存在する‹この世>という意味での自然なのか、
これがよく混在しています。

季節感を大事にしよう、という表現はやや謎めいていて、
季節感とは気になるかどうかだと考えます。
意味がわからないものを大事にするといっても、
どう大事にするかがつかめないものです。

春夏秋冬なんていりません、
常に時間は戻らないのですから、というと
‹自然を忘れた現代人›と呼ばれるのかもしれませんが、
春夏秋冬のサイクルだけに縛られていることこそ
[自然]を忘れていることになります。

月曜日, 12月 26, 2005

効率化がエネルギーを失わせる

論文を書きながら、
たった1行、文字にして40文字程度の事実を述べるために
年単位の時間を費やす時間かかったことを
ふと思います。
何事かを為すための時間は短い、とよく言いますが
もともと何かを為そうと思うこと自体が
僭越な問題なのかもしれません。

是と非のスタンダード

自然から離れた労働、
機械生産や情報処理、を担当していると、
信頼性の度合いが自然労働に比べて桁違いに上げられています。
たとえば、昼という時間は1日の1/3しかないし、
晴れた日中は1年のうちの3割くらいしかないのです。

問題は人間が同じだけの信頼性を出そうとした場合、
人間そのものは自然から生まれたものであるために
信頼性を確保するのは非人間的な作業だったりします。

是非、という言葉は
是が非でも、という言葉の短縮で、
この意味を良く考えます。

栄養学というものは今ひとつ要領を得ません。
油が体に悪い、という理由しか大抵出てこないのです。
そんな中でキューピーのHPには注目したい記事があります。
http://www.kewpie.co.jp/know/magazine/releace_30.html

脳は脂肪が50%もあって、
コレステロールの20%が集中しているのだそうです。
蛋白質のかたまりのイメージがありながら、
実は脂肪の方が量が多いのです。

油は体に必要であるからこそ食の満足感を高めます。
だからあく抜き、油抜きをたくさんする日本食は
西洋食に比べて満足感が低いのです。
子供がハンバーグが好きなのは、それが子供だからではなくて
人間の節理にかなっているからです。

しかし一方で、油は消化器にとっては負担です。
理由は分子量が大きいからで、
主に肝臓が分解の役目を果たします。
そういう意味で油のとりすぎは体調を崩す原因になります。
体調の崩れは脳にとって負担になります。

部品にこだわる、ではなくてシステムとして思考する、ということを
何かの対象で身につける必要があるのではないかと思います。

たくさんの本は読めませんが、
いくつかの読んだ本の共通する一節を
ネットワーク状に思い出すことがあります。

「車はこうして作られる」の一節で、
ホンダがV10エンジンを開発していたときのことが載っていて、
エンジンとしての出力限界を出し切るために
システムを設計する、という思想から、
「速く走るための車を作る」という目的から
エンジンを見直す思想へと変化したという
パラダイム・シフトが起こった時期があったのだそうです。

畑村洋太郎「失敗学のすすめ」でも、
局所最適、全体最悪というキーワードが出てきて、
全体への影響を考慮せずに一部分だけ改善してしまうと
取り返しのつかない事態になるとあります。

システムフローであれば線形計画法、
フィードバックであれば制御理論で
全体を見る道具立ては与えられます。

昔の人は「大局を見る」という表現で
このことを言っていたのかもしれません。
分業化によって著しく生産性が上がった文明社会では
各人間が忠実な要素=コンポーネントとして
振舞うことが必要とされ、
最初に全体像の理解を求められない場合があります。

しかし社会としては要素であっても
個人としてはいろいろな要素の集合体であり、
生きている時間は大きなシステムでもあります。
その全体を見て、今の自分に何が最適かを探ることで
次第に「自分に必要なこと」は見えてくると考えます。

日曜日, 12月 25, 2005

アンチテーゼ

スーパーで保存食をたくさん買う気分になると、
それは部屋にこもって仕事をする、という
心の準備が始まったことを意味します。
人は行動として体を動かす10秒以上前には
気持ちの準備がされるのだそうで、
現在の意識というものの不思議さを思います。

この世で確かなことというのは
それっぽく用意されているのですが、
万物流転ということ以上に正しいものはない気がします。
それは法や道徳やそういういろいろが定めた人間的な正しさではなく、
地上では林檎が落ちるのと同じ程度の確かさのものです。
物理的に正確に言えば、空間と時間は同じ価値の存在ですが、
時間だけは進みっぱなしで戻ることができません。

ASKAの「晴天を誉めるなら夕暮れを待て」の歌詞が好きです。
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=55123
青い空は誉める、雨は面倒に思う、
本当にそう思うときと、観念で思っているときがあります。
観念が自動的に作る循環の真偽をを見極めたいとよく思います。
突然降り出した大雨が
忘れられない思い出になる事だってあるのです。

ザ・テレビジョンの表紙の話を聞いたことがあって、
以前は満面の笑みだけを採用していたのだけれど、
最近はすまし顔も使うようになったのだそうです。
良い流れだな、と思います。

写真家が残す写真が膨大な試作の結果の上に成り立つ、
時折このことを思い出します。
本当の「一瞬」はgiftとして与えられるもので、
人間が意図しただけで作れるものではないのです。

NHKの公開録画とかラジオ体操とかに立ち会ったことがあって、
「盛り上がってますか」と
約束事のように掛け声をかけられるのですが、
この言葉は「当然盛り上がりますよね」という答えを期待されていて、
問われれば問われるほど
シンクロせず盛り上がっていない自分を強く意識してしまって
盛り上がるきっかけを全く失ってしまいます。
心のベクトルの急変更がききません。

寒い朝にココアが飲みたくて
ミルクを早く温めたいのですが、
強火にかけると百発百中で焦げます。
だからミルクを温めるのには必ず時間がかかります。

笑いが良い写りならそれで構わないし、
撮る写真が笑い顔でなくてもいいと思います。
満面のスマイルが良い、という連想もまた観念的なものです。
すました顔からほんのり覗く笑みが綺麗な人だっています。

スープを皿に盛りたいときに、
スープが冷めるからといって沸かしてしまうと
香りが飛んでしまいます。
温かく香りの良いスープを最後まで楽しみたいなら
より注意を向けるべきはスープ自体ではなく
厚いボウルを熱湯で温めておくことにあります。

無用の用、という言葉もとても好きです。
一見無用や無駄に見える何かは、
それがあることによって
支えられている何かがある、という意味で、
英語で言うとセレンディピティ=serendipityの思想に
なにかつながるものを感じます。

西洋と東洋の大きな違いは、
神が人を統治するか、人が人を統治するかという意識に
あるのではないかと思ったりしています。
そして神と言う象徴を持ってくることによって
人はみな平等だという意識が生まれるのですが、
最終的な統治で人の統治に読み替えるシステムが必要で、
この点で社会の解釈や理解が大きくこじれてしまいます。
宇宙人によって統治されるようになったら、
人という生き物は団結できるのでしょうか。

絶対的な王を立てた中国、象徴的な神格を分離した日本、
どちらにも最終的には人の統治という解釈があって、
なまなましいけれど正直な解釈が気に入っています。

敢えて科学がこの見解に挑むならば、
人間のように感情や道徳を定義するような「人間みたいな」神は
いないとし、
しかし人間と言う存在を超えた何かがあるだろうという解釈は
十分考えられる、とすべきだと思います。

日本習字の原田観峰さんも
「神はもう[あ]」という名前でいいじゃないか、
それを修飾すればするほど本来の定義から逸れていく」と
いうくだりの文を載せていたことがあって、
なるほどと納得したことがあります。

神は教えられるものではなく、
勝手に心に生じる気持ち、というぐらいのあやふやさだとしたら、
死ぬまで神が生じない人だっているわけで、
世界の混沌としたまだら模様はいつまでも続きます。

水曜日, 12月 21, 2005

長い助走区間

1枚、と英数字の1を出したいときに
なぜか"i"のキーをタイプしてしまいます。
"iti"と"1"の回路が干渉するのでしょうか。
それとも文字の形的に干渉するのでしょうか。

ライブドアの話、少し詳しく書いて見ようと思います。

ちょっとした論調として、
「彼は善か悪か」という雰囲気のものばかりですが、
個々の事象については冷静に見たものが良いものが多いです。
自分たちはさんざん通信簿という多面体的評価をされてきたのに、
人を二元論で片付けるのはバランスが悪すぎます。

彼が「古いしきたりを壊す」と言ったその姿勢には
建設的な意味も多く含みます。
カネボウの例にあるように
日本が封建的で閉鎖的な社会構造であることは確かで、
新規参入を拒み、既得権益を守るのに都合のいい
システムができています。

買収劇は少なからず既得権益の上にあぐらをかいていた人にとって
ポストを奪われるという戦慄を感じたものと考えます。
正しい競争原理は必ず必要で、
ソフトバンクやウィルコムが携帯に参入することで
市場原理に沿わないサービス料が改善した経緯と同じように、
最終的に消費者が良い選択をできるよう促されます。

そう考えると、
買収劇は競争原理というより
支配・被支配の関係に近い感じがしてきます。

お金で買えないものはない、このことは
多分バブル的な発想を持っているかなりの人は
当たり前のこととして思っているはずなのですが、
あまりに露骨なので表に出しません。
明言したことは社会的な追い風を得るには不利に働きます。

急成長しすぎたことにも問題があります。
球団買収などを手堅く行い、買収した企業で
実業方面によい成果を上げていけば
顔の見える会社になれた可能性があります。
実業方面に影響が残らないということは
経営が傾いた後で形になるものが残らないわけで、
形がないものは比較的早く忘れられます。

もし彼が社会システムを変えるつもりだったのなら、
支配関係ではなく競争関係として参入すればよかったのだと
考えます。
しかし彼は会社でお金を得る方面に集中しすぎたために
手段を選ぶのを忘れてしまったのかもしれません。

生意気だからつぶされるんだ、
だからみんなもおとなしく言うことを聞きなさい、が世論の結論だと
納得してはいけないのです。
正しいことをし、正しい競争をもって、
しかし会社が大きくなっても巨大企業同士のもたれあいや
談合状態で馴れ合いにならず、
既得権益に対してまっすぐ戦っていく、
そうあるならば社会の風が押してくれたかもしれません。

この国は正しい風を吹かせる力が少し弱くて、
追い風によって大きく育つのではなく
大きく育ったものにより強く追い風が吹く状態で、
そのことに歯がゆい思いをしている人たちがきっといます。

早上がり、早熟ばかりが目立ちもてはやされる空気ではなくて、
風雪に耐えきちんと花を咲かせる人たちをよりよしとするなら
もっとみんなが強くなれたという手ごたえがもてるでしょう。

月曜日, 12月 19, 2005

First, follow the music with your heart

音楽と気分との付き合い方をずいぶん考えていました。
上手に気分とマッチする曲をかけると
うまく集中する事があるのを知っているからです。
ところがうまくはまらないと
曲が気になって集中できなくなってしまいます。

集中できる曲は一種類に決まっていません。
ユーロビートのようなすごく速いテンポの曲がいいときもあれば、
静かなピアノ曲がすんなり馴染めることもあります。

今日見つけたキューピーのHPには
よく研究された記事が掲載されていました。
たとえば落ち着かないときに、リラックスを狙って
いきなりスローテンポの曲を聞くと
逆効果なのだそうです。

まず自分の気持ちと同じテンションや曲調の音楽を選び、
それを聞いて曲と自分を同調させてから、
徐々に目標とするテンポへ近づけていくと
導入がうまく行くのだそうです。
つまり落ち着かないときには
まずハイテンションのダンスナンバーを聞くということになります。

好きでよく聞いている曲を見れば
その人のモードが分かる、ということにもなりそうです。
ユーロビートの中でも超高速側が好きなわたしは
時折すごくテンションの高い人間らしいということになります。

大きな街が好きな理由

上手な電話との付き合い方、ただそれだけのために
ずいぶん時間が必要だったように思います。
直接行かなくても情報がやり取りできる、
中身は会話であっても効果はずいぶん違うものです。

大きな街が好きです。
新宿を歩いていると、宝くじを売る声、
街頭募金の社会鍋を掲げる声、
神の道を説く声、
クリスマスの呼び込みなど
人が行いうるさまざまな出来事が
同時に目に映ります。

人間は性善説の生き物か、あるいは性悪説の生き物かと
悩んでしまいそうなとき、
それらは全て混沌としている、という明快な回答が
街の風景に現れているように感じます。

人間以外の動物が悠久の時を過ごしていそうなのは、
彼らが環境を変えてまで住もうとしていないからであって、
環境を変え、社会的構造を変えながら生きている人間には
「変わる」ということが宿命付けられているから
急ぎはやって生きていこうとしてしまうのかもしれません。

これと種類の似た質問として、
人間は世界が理解できるか、という問いもあって、
明快な答えは、脳の演算量と人間の寿命に限界があるので
全ては理解できない、という答えがあります。
可能性は無限大、とは響きの良い言葉で、
しかし人間そのものの実体は有限です。
人の目の前には、無限の数ではなくて、
常に片手に余るほどの選択肢が考えられる程度です。
しかしどう変化するかが予測できない、ということも
合わせて知っておくと気持ちは落ち着くかもしれません。

月曜日, 12月 12, 2005

物言わぬ肝に思いを寄せて

科学をやっているものは2種類いて、
SFが好きなものと、
SFより現実を選んでいるものとに分けられる気がします。
SFを読んでいてどうしても気になることは、
物理的には正しくないことがたくさん現れるからです。

人間関係の世界なら、想像の範囲内で
なんでもありかもしれませんが、
何もしないのにりんごが地に落ちずに
空へ吸い込まれたりはしないのです。

体のあらゆる部位に意識が届くかというと、
感覚のない部分については意識ができません。

明確に意識できるのは胃とか心臓で、
鼓動の様子とかストレスで胃が痛くなったりとか
自分で知覚ができます。

脳は一見知覚できそうですが、
たしか感覚神経はなかったような記憶があります。
だから脳に関していえば、周辺部の知覚によって
間接的に分かる、といったところです。

全く意識できないのが肝臓です。
体の大きい割合を占めるのに、調子が良くても悪くても
痛みや苦しみを感じないのです。

それ自体は確かに苦しくないのですが、
肝臓の調子が悪いと全身に影響が出ます。
そういうわけで、「自分の肝臓が悪いのではないか」という
意識は脳と同じで間接的にしか分かりません。

ところが間接的にしか分からないはずなのに、
肝を冷やす、肝心かなめ、肝の据わったなど
肝の表現はたくさん見られます。
英語でliverだと
liverishで「肝臓の悪い人」という表現があるぐらいで
それほど意識的に使われてはいないように思います。

ちょっとした演繹でいうと、
全ての臓器は時折不具合になるのであれば、
肝臓だって調子の良いときと悪いときがあります。
ところが調子の悪さが痛みや違和感として感じられないので
原因探しが路頭に迷います。

バイオリズムと言う言葉があって、
長い周期で気分や体調が変化することを指しますが、
肝臓の調子がバイオリズムを決めていたとしたら
自分でわからなくても納得が行くようにも考えます。

感覚がない部位に対して
先人がちゃんと意識するよう用意していたというのは
とてもありがたいことです。

この物言わぬ部位に意識を寄せてみようと思います。
丹田という場所はへその下だとかいうのですが、
それは肝を含むおなか周りの意識を指すのかもしれません。

人間は意識によって自分の一部を制御下におくことが出来る、
これはトレーニングをする際には使われる筋肉を意識すると
効果が上がるという例で証明されています。
意識というものを肝においたら、
一体どうなるのでしょうか、という言葉は
一見ことば遊びのようで楽しくもあります。

金曜日, 12月 09, 2005

モノクロの文字を見て色を観る

ひところに比べると画面の解像度がとても上がりました。
この解像度は、画面のサイズとは関係がなく、
画面のサイズが10インチだろうが20インチだろうが
1280*960だったりします。
大きい文字は見やすい文字で、
解像度が高くなったからこそ
できるだけ大きな文字で作業を心がけたいなと思います。

女性が美しいさまを色っぽいといいます。
この「色」という言葉が指し示す色は一体何色なのだろうと
思ったことがあります。
鮮やかな紅か、爽やかな藍か、引き立つ翠か、
いろいろ想像してみたのですが、
「色を失う」という表現を本で読んでから、
色とは色彩を感じること全てなのかなという気がしています。

極彩色とか総天然色、と呼ばれたものは
カラーの映画とかテレビとかです。
総天然、という言葉の通りかというとそうではなくて、
テレビや映画は赤と青と緑の3色しか出していません。
人間の目にはこの3色を中心として
他の波長域をカバーするセンサーがあるから
ほかの色彩を落としても変わらず見えるのですが、
夕日のオレンジは「オレンジの波長」なのであって、
赤い光と緑の光の合成ではありません。

着色されたモノクロ映画というのがあって、
いまだに原理を知らず不思議に思います。
モノクロ映画を観ていると、
ふと色が載っているのではと錯覚することがあります。
池谷さんの本によると、
この時色は見えているのではなく、脳が補っているのだそうです。
また、目の感色細胞は目の中心にしかついておらず、
周辺の色はみんな脳が補完しているのだそうです。

色っぽいと思うその「色」、
どうも脳が直接作るもののようです。

木曜日, 12月 08, 2005

車のおもちゃ思想

畑村洋太郎さんの講演
「失敗学のすすめ」を受講しました。
成功や失敗の取り扱いについて実に深く掘り下げた見識と
とにかく現地・現物で取材を重ね
たくさんの人に会う力をもっていることに
強く感銘を受けました。

日記はいつも通り、思いついたことの
書き連ねです。

車のおもちゃが大人も面白いと感じるのは、
そのおもちゃを拡大したり精緻化したところに
本物の実体が存在するからではないかと考えています。
盆栽が美しいといいますが、
あれはおもちゃ的な小サイズの精密さを楽しんでることと、
雄大で厳しい自然に支えられた巨木のエッセンスが
凝縮して映りこむからだと思っています。

さまざまなイメージを支える実体、
それは実業と虚業の関係にも似ています。

複製に戸惑いを覚えることがあって、
デジタルデータの中では氏名も会社も
一発でコピーできてしまいます。
それでなんとなく手書きのような手順を踏まないのが
失礼に当たるような気分になることがあります。
ところが貰うほうにとっては
それがどのような過程を経て製作されたかということが
重要である場合とそれほど重要でない場合とがあります。

作る側の戸惑い、
裏方を知るものの戸惑い、それは
美しく理論的な一面だけを知ることだけでは済まない者が
共に感じる迷いのようです。

水曜日, 12月 07, 2005

器用さ、不器用さの感覚

この1ヶ月、外見的には変化がなく、
内面的な変化ばかりが起こっています。
目新しい何かも誇るような話もない、こういうのを
平凡と呼ばれる状態なのかとも思いますが、
本人の意識は至って満たされています。

本を読みながら、時折気になる言葉の中に
馬鹿になれ、という表現があります。
似た表現として、不器用でもいいから
愚直にやり通すこと、とか
ある種の非効率さが必要なのだという言葉もあります。

この表現、なにか的を得たような、
今ひとつ理解へ至らない言葉のようで、
少し考えを進めます。

器用であることで困ることは概ねありません。
ほとんどのことは不器用さによって困っていて、
思ったことが言えないとか、やりたいことが分からないとか、
自分の気持ちを前向きに転化できないとか、
そういう不可能性というものに結びついているからです。

器用であること自体が問題になるのは、
どんな問題にも「スマートな解決」というものが
存在している、という連想へと結びついてしまうことに
あるのではないかと思います。

目の前にある問題が、霧が晴れたように
前へ進むなら、どれほどいいだろう、と思う気持ちは、
感情のどこかに焦りを抱えています。
それで、自分が今できる器用なことの組み合わせによって
その問題がスマートに解決できないかと考えます。

ところがいくつかの問題、
自分にとって新しいことや
必ず時間がかかると分かる事象に対しては
現在の手段の組み合わせでは解決できません。
たとえば、
ドミノ倒しの駒を一瞬で並べる方法は
どこにも存在しないのです。

ところが全ての方法に「不器用な方法」を持ち込むことには
大きな問題があります。
不器用な方法を続けていくと、次第にその中に潜む
「規則的な原理」というものが現れてきて、
ある閾値を越えると不器用さに対する認識を
改めなければならない転換点が訪れます。

未知のこと、というのは
何も壮大なことである必要はなくて、
じゃんけんをして勝つ、という命題にも
未知のことが含まれます。

じゃんけんをして一生勝ち続けることがないように、
未知のことに挑むときに
器用な方法、不器用な方法のどちらで突破できるかは
事前に知らされておらず、
選んだ手段が外れてしまうことは必ずあります。

しかしどちらの方法を使ったとしても、
目標は「未知のことを突破する」ことであって、
それさえ叶えばどちらの手段であってもいいのです。

不器用な方法を使ったときに、
後で器用な方法に気が付いてもがっかりする必要はないし、
器用な方法が通らなかったからと言って
不器用な方法を選べなかったと自分を責める必要はありません。

人は過ち、神は赦す、
過ち、というものへの認識を
あとスプーンひと匙だけ緩めることができたなら
それだけで人は幸せになれるかもしれないのです。