月曜日, 6月 11, 2007

コンピュータには「わたし」が残らない

週末、ふきをもらいました。
皮を取っていたら指先があくで茶色く染まって、
野生に近い感じがしてうれしく思いました。

パソコンの画面を見続けるのが苦手です。
なんとなく自分がなくなって
吸い込まれたような感じがするからです。

読み書きするものなら本とノートがあります。
本は持ち歩くたびに少しずつ記事がやわらかくなったり
折れ目がついたりするので、
読んだ、持ち歩いたということが記録されていて
実感として理解できます。

pdfはこの数年頻繁に使うようになった道具で、
21世紀以前にはほとんど存在を知らなかった道具です。
pdfは紙を減らすために作られていて、
なるほど印刷物一つの割合に対しては印刷回数が
減ったかもしれませんが、
印刷物の総量としてはむしろ増えているような気がします。

pdfの困ったところは、何度読んでも折り目がつかないところで、
それで以前読んだpdfはまた真っ白な状態で現れ、
それが逆にわたしを混乱させるのです。

記憶に残っていないものはたどりようがなく、
それで題名とかメモとかを作ってみるのですが、
紙ならすぐにわかる「古くなった程度」さえも
pdfには残っておらず、
それで「わたし」は時々分からなくなります。

金曜日, 6月 08, 2007

2027年を考える

国道16号線はいつも混んでいるのですが、
今日はいつもなら30分で着く20kmの道に
90分以上という予測電光掲示板が着いていて、
暑くて参りました。
雨が少なくて湿気が少ないのが救いです。

人はある日つけた「西暦」というものに振り回されています。
それはこの世界の始まりとは直接つながりを持たない始まりのはずで、
西洋人が「最初に名づける」ことを望むのは
おそらく宗教的な思想と無関係ではないだろうと思っています。

子供の頃に読んだ21世紀の本では、
人の乗り物はみな空を飛んでいて、
無線と動画で対話をしていて、
超高層ビルが立ち並んでいて、という世界のはずでした。

21世紀というものをそんな風に思いながら、
しかしときに思い出すのは
「結婚しないかもしれない症候群」だとか
「ジュリアナ東京」だとか
「キッチンドリンカー」だとか
人は21世紀なんてどうでもよいような素振りをしていたことで、
そしてそれらの出来事でさえも
ある小さなエリアでの関心事を
マスコミという拡声器で拡大していたものだろうというのは
メディアの街とそうでない街の両方に住んでみれば
割と想像がつく話です。

21世紀には科学がより進んでいて、
それらは良い事ばかりしかもたらさないはずであったのに、
科学は核兵器の処理だとか耐性菌の拡大だとかの
到底解決し得ない問題を引き出す結果にもなっていて、
そして20世紀にとって21世紀というもの自体が
ある種の偶像であったことにふと気がつくのです。

2027年というものを考えられるだろうか、と
ふと思いました。

1980年代には2000年が考えられたので、
原理的には20年後を考えることは可能なはずです。
一方で、2027年に何を望めばいいかと考えるときに
多くの人はとても迷います。

一つの理由は、
2027年は5年先ではないので
ほとんど予測がつかないような気がすることです。
もう一つの理由は、いろんなことが「分かった」ことになっていて、
2027年でも飛ぶ車はないだろうと思ってしまうことです。

2027年が想像できない理由はおそらく他にもあって、
2027年の自分の周りに登場させる人物に
誰を選び出すかがはっきりしないことです。
それはなぜか無邪気に選び出すことができず、
選択が誰かの運命に影響することを理解するからです。

しばらく、未来が描けない日がありました。
それは描く力がないのではなく、
わたしが思いのままに描く未来ではいけないのだ、と
言葉にならない言葉を受け取っていたからでもあります。

21世紀を通り越すことと、大人になることは
どうも極めて似通った概念であることに気がつきました。

子供の頃にはどんな誰でも、
まだ来ない未来には自分がいることと、
きっと今よりも良くなるはずだという確信のようなものがあって、
それがある日の自分を支えていたように思います。

いざ大人になると、
夢の中に含まれた「理想郷」は
額面通りには誰一人として叶っていないことが分かり、
時に未来を思い描くのをやめようかと思う人が現れます。

叶うものを夢と呼んではいけないのだ、と
誰かは言います。
わたしには目標しかないのだ、と
ある日思ったことがあります。

わたしが今いる場所は、
10年前の夏に思い描いた場所で、
それでわたしは次の20年を描き出す作業を始めています。

今を見なさい、といろんな人が言います。
でも今には大きさも形もなく、
人は知覚にアナログ的な遅れがあるのだから
正確には今を見ることはできません。
人はコンマ数秒だけ過去を見ていることになっています。

今を見なければ生きていけない、と
いろんな人が言います。
でもそれは未来を描く力を失っていることの裏返しかも知れず、
わたしの考えは続きます。

20年たてば、おそらく多くの「近しい人」を
距離的に、そして時間的に見送っているのだろうと思います。
今までもいろんな人をいろんな形で見送り、
そしてそのたびに悲しい気持ちでいました。

でも本当は時間は全てのものを一緒に運んでいるので、
全てのものは形を変えていつもわたしのそばにあるはずです。
そして2027年には、それらの流転した材料が再構成されて
わたしの前に現れていることになります。

今住む土地、口にできる水は
「ある日」の「誰か」のかけらで、
そのメッセージは地球という枠の中に保存されています。

むこう20年で何百兆キロワットのエネルギーを
原子力で生み出したとしても、
地球の質量は数キロ変わるわけでもなく、
ロケットで地球外に物を運んだとしても
琵琶湖よりも少ない量の飲み水しか運べず、
全てはこの地球にちゃんと閉じ込められているのです。

そして、絵空事ではなく、物理のあらゆる正確さをもって、
わたしはこう言うことができるはずです:
2027年にも、
わたしとあなたは互いのかけらを感じながら
この世界の中に居続けています。

人は非線形物理の演算結果から
未来予測ができない生き物だと言い、
それはこの世界全ての物理についてそうなのですが、
意識がどこから来るのか、それは
客観を伴う物理では説明がつかず、
その説明がつかない意識ならば
人の意識だけは「未来」を見ることができるのではないかと
なぜか今は思っています。

この世界は「わたし」という入れ物の外にある、
それはとても理屈に合わない出来事であって、
そんな出来事が既に起こっているのなら、
未来を描くという作業が、そして見えない何かに祈ることが
それを果たす一歩になる、そんな気がするのです。

わたしはひつじ年のうお座で、
本のお話に拠れば
それらはともに清らかなる物の象徴なのだそうです。



水曜日, 6月 06, 2007

神様のDJ

ビールパーティーなるものをやるのだそうで、
今日は第1回打ち合わせでした。
昨年は所内の敷地も分からなかったので、
イメージがつくあたりが少しうれしく思えます。

ヒトではない生物を研究するグループの人に聞くと、
同じ哺乳類でも、体内の化学物質のフィードバック機構は
驚くほど違っているのだそうで、
薬の効きかたもまた異なるのだといいます。

「心の問題」と呼ばれているものは
そのほとんどすべてが体の中の化学物質によって引き起こされる
ある状態か現象である、ということが
比較的はっきりするようになって、
それでもまだ心を論じるべきなのだろうかと
しばしば考えることがあります。

脳科学で言うところの「クオリア」は
「認識」か「主観」の発生起源に対する疑問を提起していて、
ひとはそれを「魂」とも呼んでいるようです。

人の心はまだかなり分裂しているようで、
歴史の認識がどうであるとかという問題を
あたかも永久不変の問題のように取り扱おうとします。
そして人は「意思」がなんであるかの理解が得られないまま
ある日自分がある人の形の「内側」にいることに気付き、
そして気付きのうちに終わりがあることを知ります。

鏡に映した自分は確かに他人と同じように
人間の形をしているのですが、
この世界で自分だけが宇宙人なのかもしれない、と
思った人はなぜかたくさんいるようで、
それで「わたしは神の子だ」と言い出す者が
歴史上にはたくさん現れます。

人は皆未来が読めないことを嫌います。
明日も太陽は東から昇って欲しいし、
電車は規則正しく動いて欲しいし、
蛇口をひねれば清潔な飲み水が出て欲しいと思っています。

一方で人は「意外性を求めている」のだと時に言い、
しかしそれは常に「連想でカバーできる範囲内の」意外性であることに
時に気づかないようでもあります。

人は昔鏡を見て恐れたといいます。
水に映る自分の顔は自分という認識をもたらすもので、
写真や鏡がなければ人は自分の顔かたちを
写し取って確かめることはできません。

今日は久しぶりに携帯電話を家に置き忘れてしまい、
その空白感は旅先に出たときの自分に似ていて、
確かにここは日本なのですがそれ以上のことが分からず、
ニュースのサイトを開かなければ今日の出来事を
知ったような気になることもできず、
人はこんな気持ちで過ごし、
文や便りや人の帰りを待ちわびてきたのだろうと
妙に納得したような気になりました。

分かることを前提にして考える分からないことよりも、
分からないことを前提にして考える分かることの方が
よりありがたみがあるような気がします。
そして人は時に何をすればいいのか分からず、
緩やかに定められたルールの中に浮いています。

月曜日, 6月 04, 2007

行と列:100回やっても覚えないこと

RowとColumn、
行と列、
いつもどちらが縦でどちらが横か
わからなくなります。
同じように思っている人は結構たくさんいるはずなのですが
いかがでしょうか。

ちなみにEXCEL風に言うと、
ColumnはA、B、C・・・の方で横(列)、
Rowは1、2、3・・・の方で縦(行)
です。

脳にはいくつもの口があって

夜明け前に24時間開いているマクドナルドに行ったら、
3分ほど待って熱々のハンバーガーとナゲットが出てきました。
混んでいないマクドナルドはおいしいのかもしれません。

話すことの効用について考えます。

人はどうやら表現したい生き物なのだと
すがのたいぞうさんの本には書いてあって、
表現と脳のつながりについて考えます。

表現の最たるものは「話すこと」で、
話をして思っていることを言いたいのだけれど
利害を多く含む昼間の世界の誰にもそれを打ち明けられない、と言っては
夜の盛り場で滔々と自説を展開する、
それで成り立つ世界があるというのだから
話すことは人の根源的な欲求のようです。

人は自由に話すという表現をし、
それを「自由」だと呼んでいるのですが、
今朝がたふと、それは「自由にする=制約条件を外す」ことではなくて、
「自分を確定していく=不自由にする」ことではないかと
気がつきました。

人は話していないとき、
その心の中ではさまざまな言葉が乱れ飛んでいるように思います。
心の声は物事を知るにつれて大きくなり、
この世界自体がそうであるように心の声自身も
また百家争鳴です。
エネルギーの場の中から粒子に対して反粒子が存在し、
二つは生成と消滅を繰り返すように、
言葉はそれと対を成す言葉と生成消滅を繰り返します。

脳にはすでにたくさんの人が住んでいて、
それは物語の登場人物だったり、実在の人の記憶だったりして、
その印象がそれぞれ好き勝手なことを話し始めます。

しかし自分が何かの言葉を実際の口に出しているとき、
それらの声は聞こえなくなります。

いかなる形でもかまわないのですが、
声に出すと落ち着くということは確実にあって、
それは「自由の多すぎる」脳を「体で制約する」ことであり、
膨大な経典の知恵の中から即効性のある「落ち着き」を得る方法として
ただ一つの念仏の言葉を唱えればいいのではないかと
たとえば法然は思ったように考えます。

それは巨大な連立方程式を解く場合に似ていて、
仮に何らかの初期値をたくさん与えておくと
階数が減って非常に解きやすくなることに似ています。

人の体は空も飛べない不自由さに行き詰って
空を飛ぶ機械を発明したがり、
しかし人の脳はあまりに多すぎる自由度に参ってしまって
その言葉を纏めてしまいたいと思っています。

進化論では進化の系譜という図があって、
哺乳類の先に人間があるのですが、
同じ進化度を達したとされているのが鳥類で、
体の自由度と脳の不自由さのバランスを考えると
人間ではなく鳥が
最も成功した進化の形なのかもしれません。

金曜日, 6月 01, 2007

その窓は開きますか

建物の中は妙に息苦しく思うことがあって、
窓を開けると気持ちがすっとすることがあります。

建物の設計の打ち合わせに参加しています。

建物というのは外気を建屋内に何度循環させるかが
設計のときに決められるのだそうで、
1回というところもあり10回というところもあります。

循環する空気は人が増えれば酸素が減るはずで、
それで花粉の飛ばない今は積極的に窓を開けています。

何かになろうとすること、それを意思やこころと呼ぶならば、
全ての生き物に心はあります。
環境に応じてその姿を変えていく、
そこには何らかの「意思」があるはずです。

冬に食べていたアイスです。
物珍しさがあって、味よりも楽しみと思って買ったら、
アイスはなめらかでとてもおいしかったです。
自分が前もって思うよりもよい、ということがあると
人は喜びます。

わたしにはアイデアがあるのだ、
だから忙しくて、誰かの手を借りたいのだ、
だからわたしに手を貸さないかと
いろんな人が言いに来ます。

それはおそらく今に限ったことではなくて、
ひとは「脳の出す欲求」が体でできる限界をいつも超えていて、
殻に閉じ込められた脳は出口を探しているのでしょう。

わたしは何かやりたいことがあると
ほとんど自分で解決しようとしてしまうため、
人には「もっと人に頼めばいいのに」と言われます。
人に頼まないのは人を信頼していないからだ、とか
時に言う人がいて、
そうかもしれないと思うときもあり、
そうではないと思うときもあります。

面倒だからとすぐ人に頼む人がいて、
その人は別に信頼しているということとは相関がなくて、
ただ自分に便利であればいいと考えているだけだと思っています。

すぐにしたい、を応援します、というOn Demandに応えることが
果たして「適切なサービス」なのかと
時折考えます。

脳の要求に応えること、が人にとって適切であるといい、
事業者にしてみればそれで散財してくれれば後は知らない、という感じに
受け取れる場面も多くあり、
一時生きていければそれでいい人もいて、
一度その人の感覚になって世界を見てみたいと思うこともあります。

遺伝子には機能発現に必要がないといわれている情報の部分があり、
その部分には「伝えられる心」が書かれているのではないかと
ふと思うことがあります。

長く祖先が語り、思ってきたことは
みな遺伝子の中に書かれてしまっていて、
たとえばある年齢になると発動する「心」があり、
そしてそれを自らの意思として動いては
また記録を書き足していく、そんなことを繰り返している気がします。

気の持ちようで病気が治る、ということは確かにあって、
プラセボは日本語訳で「偽薬」と書いて
それは偽物のようなのですが、
実在する現象であるならそれは意味のある行為です。

気持ちが自分の何を変えるのか、ということを思うとき、
わたしは遺伝子にアクセスしているような印象を持ちます。

全ては跡形もなく消え去ってしまうのではなく、
記憶にないことは忘れてしまうのではなく、
わたしというものは遺伝子を読んだり書いたりをずっと繰り返していて、
その方法として「わたしの言葉」があるのではないかと思ったのです。

遺伝子はその並び、つまり「言葉」に意味があるもので、
もちろんその並びは量子論的に決められた機能を持っていて、
だからわたしの言葉は、わたしに定められた機能を発現します。

隣のデスクの人と話すことは、
その人は「神はルールなのだ」と言い、
わたしは「神はシステムの中にいる」と言い、
それは異口同音であることに気がつくのです。

木曜日, 5月 31, 2007

なぜか皆、猫の手を借りたいという


高圧鉄塔の端

なんとなく乾いた空気の中に
雨が降っているような気がして、
今年は不思議な気分です。
とろろおにぎりを良く食べています。

電力を伝達する電線を支える高圧鉄塔は
なんとなくその端は全て発電所につながっている気がします。
たどっていくともちろん電線は
全て発電所に繋がっているのですが、
高圧線から地上の電信柱への接続部は
あまり気にしたことがありません。

車を走らせていて、
ふと並んでいる高圧鉄塔の一つが
ほんの少し形が違うことに気付き、
よく眺めてみると高圧線は地上に降りて
そのまま地面にもぐり地下線になっていました。

自分の見ている光景のほんの少しの視野角に映った
ありふれている景色とほんの少し違う出来事に気付くとき、
その出来事自体に面白さを感じると同時に、
気付いたこと自体にもなにか喜びがあります。

月曜日, 5月 28, 2007

あなた方は侵略的な民だ、となぜ言わない

洗濯機にかけただけでは落ちない何かがあって
次第に色がくすむので、手洗いしてみました。
手洗いの時は生地にもよるのですが
合成洗剤はすすぎに時間がかかり、
石鹸は比較的すぐにすすぎが終わります。

わたしがいた頃の高専のカリキュラムは
受験という目標から一歩離れているせいかずいぶんと自由度が大きく、
歴史の授業にしても暗記をさせられた記憶がありません。

わたしの歴史の先生だった人は仏教の僧侶で、
半期に一度大胆にテーマを設定して好きな授業をしていました。

アステカ文明はなぜ滅んだのか、とか、
日本人の「恐れ入ってかしこまる」はどこから来たのかとか、
戦後50年の歴史認識はどうであったとか、
一事が万事こんな調子でした。

試験もB4の紙を渡されて論述せよ、だったので
今思えば良くも悪くも大学的な感じがします。

わたしが面白いと思って聞いていた講義は
その人にしかできないテーマで話してくれるときでした。
それはどうしてもとりとめがない、
ある人に言わせれば脱線した話になります。

金属の先生は金属材料の英知の結集として
日本刀に惚れているといい、
延々と日本刀を作る行程での塑性変化の見事さ、
顕微鏡で覗かなければ理解できないような金属組成として
刀体の粘り強さと刃先の硬さを熟知し、
一つの流れ作業にパッケージしているのだと話してくれました。

英語の先生はひたすらラテン語やギリシャ語の語源の編纂が研究テーマで、
英語は語源に分解できる、とよく話してくれて
それで分かりもしないのに
Merriam-Webster's Vocabulary Builderを買って読むきっかけになりました。

一事が万事こんな調子で、
プログラム講義では延々と研究テーマの画像処理と人工知能にまつわる話だったり、
熱力学だったらやたらと熱サイクル側ではなく冷凍サイクル側だったり、
高校の終わりに量子論を展開されたり、
微積分の基礎さえ知らない頃に電磁気のテストをしたり、
聞き纏める範囲が限界を超えていたのをよく覚えています。

試験に通るためには限定してまとめてくれたほうが良い、と
受験的で暗記が好きな学生にはめっぽう評判が悪く、
一方で徹底的に纏めて来る先生は
相当高度な数学的処理を要求したりしてきて、
しかしわたしにとってはそれが面白くて
脱線したところばかりが頭に残っていました。

先生の一致した意見は、
その時はやっていた「ゆとり教育」には全く反対の姿勢を取っていて、
旧課程の問題集や自作のテキストに目一杯情報を詰めて渡されました。
教科書も基礎に甘んじたようなものはほとんど使わず、
20年は使えそうな難解な物ばかり揃えさせられました。

なるほどその当時の多くの学生には不評でしたが、
先生の意味とは
どれだけ遠くにどれだけ密接な具体的目標があることを
示せることなのかも知れず、
今になって、そしてこれから彼らは
あの時聞いていた事はこれだったのかと
未知に向かうというもっとも困難な最初のバリアを
知らない間にクリアさせられていることに
気づいていくのだろうと考えています。

脱線ついでに、
歴史認識が常に自国の意識として行われるなら、
ペリーが圧力外交をしたために日本は不安定になった、
だから世界大戦のきっかけはヨーロッパやアメリカが作ったのだと
宣言することに何の問題もないだろうと思うのです。

ヨーロッパやアメリカの動向を見る限り、
我々は知識について遅れているかもしれないと不安になるらしく、
いまだに実際の欧米モデルを取りいれようとばかりしているのですが、
もし実際を知ろうというのなら、
圧倒的多数の経済難民や尽きぬ貧困を抱え、
労働者階級、なんて言葉が厳然とまかり通っているような国であることまで
見てくる必要があると思います。

そして[invasive]であるあなた方に
何を言われても動じる必要はない、と優しい国の民は思っていて、
日本が欧米のようにならないのは
「なれない」と「なりたくない」が混在していることに気がつくのです。

金曜日, 5月 25, 2007

outrage


野の草がロケットのように花をつけていました。

この世に良いと悪いは仮にあるに過ぎない、としても、
人は何かに怒りを持ちます。
それは強烈な感覚で、
その瞬間はたとえこの世界の全てが消え去っても
今ならなんとも思わないだろうとさえ感じるほどで、
ひとは一体何のために怒るのかとふと思います。

この世界はこれで完全であるとして、
それならわたしがこの世界を不条理だと感じることが
不完全だというのか、と
自分に問いかけます。

小さい頃に読んだ聖書物語の絵本には、
都市が栄え人の暮らしが他の人の労働によって賄われる余裕ができ、
自然は静かなときに人はこの世界にある神を忘れ、
そしてその度に神は街を焼き討ち、大地を洪水にして滅ぼした、という絵が
いたるところに描かれていました。

それなら、と思うのです:
焼き討ちにするくらいなら、
人が共同生活することで余裕を作ることができないようにして、
必死に自然から食べ物を得て神を敬う民にしておいたほうが
人は充足するのではないだろうか、と。






火曜日, 5月 22, 2007

identity of music

小グループですったもんだして仮に纏めた案があって、
最適化の基準が異なっても数字で判断できない条件では
大グループで相談すると
すったもんだの過程を一度丸ごとやり直すことがしばしばあって、
大グループでは小グループにある程度の権利委譲を
認めておいてもらう必要があることが最近感じることです。

「同じ曲」の定義について思います。

曲にどこまでの条件を付加するかで
「同じ」と「違う」の表現は異なります。
歌い手が変われば違う曲だとする人もいるし、
メロディーラインが同じなら同じ曲だという人もいます。

「同じ曲」が流せる可能性を手にした後で、
わたしたちがそれを「同じ曲」として再生するかどうかは
別の問題です。

曲の違いの中に、
曲調の違いは大きいと思っています。
たとえ音の上下とリズムが同じでも、
調が違えば印象が違います。

CDをかけると流れる音は同じようですが、
最後に一つ「音の大きさ」というのが
曲を同じにしたり違うものにしたりするのではないかと
確信的に思っています。

人と話をするときになぜ通じないのだろうと考えたとき、
大抵のアドバイス本はその「中身」について問題にすることが多く、
表現方法は別の本で詳しく取り上げられています。

通じない話はもしかしたら声が「大きい」のかもしれない、
それは複雑な議論をするときに大声で話していたら
十分耳を澄ませて考えられないからという理由は成り立ちそうです。

写真に流れは写らない

とろろで巻いたおにぎりが好きです。
小さい頃から好きな食べ物は
わかめ、玉ねぎ、ねぎ、しょうが、わさび、しそです。
薬味を野菜の量で食べるとおいしく感じます。

川の写真を撮ると、
そこに写るのは水で、川ではありません。
川の動画を撮ると、
そこに写るのは水の写真の集まりで、川ではありません。
コンサート会場を撮ると、
そこに写るのは人だけで、音楽はありません。

言葉は「動き」を捉えるために作ったもので、
しかし「歌」は楽譜でも写真でもなく、
そして形がありません。

この世界の全ては歌なのかもしれず、
できれば綺麗な歌を聴きたいなと思うのです。

月曜日, 5月 21, 2007

そして、より近づくことへ

人口甘味料は血糖値を上げないのだそうで、
甘いものを口にしたいけれど甘いものを食べた後の
あの妙な気分が気になるときに便利です。

今日の昼ごはんでは
徴兵令と戦争意識についての話が持ち上がりました。
徴兵を経験することで他人事ではない戦争の辛さの実感が湧き、
国全体として戦争を望まなくなっていくのだと一方で思う人がいて、
徴兵の経験がより「軍隊の必要性」についてまざまざと知り、
人は力によって治められる部分があるのだと他方で思う人がいて、
それらはどちらも現実に意味を持った意見になります。

しかし大方「そんなきれいごとでは国家は成り立たない」と言われるのが
平和を望む声のほうで、
仕方がなくて戦争をするというのなら
どんな理由でも「未来は分からない」と「仕方がない」で済んでしまいます。
医療行為と生死の意識もおなじ論理の流れで、
医療に従事するからこそ生きると死ぬをまじめに考えるようになり、
医療から離れるから生死の苦しみを普段忘れて暮らせるのです。

医療の境は知りたくないといい、
一方で軍隊は必要なのだという人がいて、
同じロジックを通すなら
どちらも「必要で知らなければならない」と言うはずだという気がするのですが、
いかがでしょうか。

気に入ったアルバムは延々と聴くくせがあって、
Chemistryの最初のアルバム"The Way We Are"が
とても気に入っています。
Chemistryのアルバムは他にも聴いたことがありますが、
最初のアルバムが飽きずに聴いていられます。

ある日好きなものはなぜか別れの歌であることが多くて、
その理由ははっきりしません。
あえて理由を与えるとしたら、
別れの瞬間に「何か」がはっきりする、
それはその人が自分にとってどれだけ大事なものかであり、
自分の中にどれだけその人が埋め込まれたかの証左を感じるから、
と書いたら少しは当たるでしょうか。

幸せな曲も好きなのですが、
このアルバムは別れの歌が綺麗です。
8曲目"You Go Your Way"を聴いて、
最後の最後に心とは異なる言葉を発し、
その言葉を本心と受け取ってもらったことを思います。

パンドラの箱の最後が「希望」であるように、
わたしの心の最後にある言葉は表には出さず、
しかし錠をかけて鍵を月に返しました。

わたしが願うことはいつも同じで、
ただあなたがあなたでいられる日が増えますように、です。

日曜日, 5月 20, 2007

長湯をする

ひたちなか海浜公園で
ネモフィラという青い花を見ました。

雨上がりの空、太平洋側の海、カリフォルニアの花が
まるで互いに申し合わせたように
空の青、海の蒼、花の藍をぴったり一致させていて、
丘のふもとから見上げた景色は
丸い青のなかに包まれているようでした。

長湯について思います。

小さい頃は風呂の中にいるのが好きでした。
喧嘩の多かった両親の間で
なんとなく「安全地帯」だったのが
風呂とその時間だったからなのかもしれません。

平穏な日でも、何かと機会を見つけては
湯船の中に長くいる習慣ができました。
しばしば風呂の中で寝ることがあって、
そうなると風呂の時間は2時間を超えます。

湯船に湯を張るとガス代が高くつくので、
極力シャワーを使う生活が続き、
次第に湯船で寝る時間が減っていきました。

今日気が向いて、久しぶりに長湯をしました。

金曜日, 5月 18, 2007

仕事をしながら思うことは、
人はある場面で秘密を保持しなければならないことで、
それは全体のために本当に必要なときと、
相手の都合よりもただわが社の利益を守るためだけだったり、
ときにない袖で勝負する ある種のブラフや虚勢の類として使われることがあります。

全体のためにならない秘密以外の「表現された秘密」は、
疑いなくある種の恐れから発生していて、
格下に見られると買い叩かれるとか
大抵はそんなところで、
これが本来なら必要のない意見の相違や無理解を招きます。

わたしが戦うものは
必要のない秘密の表現の代わりに、
どれだけ一人間として誠実な表現で応えることができるかであり、
恐れの感情で満ちた現場に
協力した建設的な議論をどこまで展開できるかです。

会社は時にお金を払って仕事を頼み、
一方で時に仕事を受けてお金をもらいます。
そしてお金を払うときには殿様のように
札束で頬を張るように買い叩き、
仕事を受けるときは下僕のように忍従する、
そんなことばかり繰り返しているように感じます。

仕事を受けているときに辛い思いをした、
だから仕事はそういうもので、
買う時には同じプロトコールを繰り返す、
そう思ってしまえば連鎖は解けません。

役所と市民、 官庁と民間、
言葉の上での違いはあっても、
それら全てに「自分の友達」がいるのなら、
わたしは区別をつけたくありません。

研究所が入札をすると言い、
いろんな会社が伺いに来ます。
非常にしばしば彼らは「殿様と下僕」を演じ、
まるでそれが当然であるように振舞います。
それで仕事が進めばいいのですが、
議論は上滑りして仕事は前に進みません。
お互いに「あいつは分かっていない」と言っています。

そして失敗を恐れて自ら話すことはためらい、
人が話すことのあら探しばかりに徹しようとします。
そんな議論の仕方では確かに失敗はしないかもしれませんが、
前に進まず、結局時間が詰まってみんなで大失敗をします。

いくら大きなお金が流れ、
その使い方を決められるといったところで
それは「預かり物の資金」であって、
目の前にいる人は一人の人間です。

メーカーの会社の人と向き合うとき、
わたしはふと友達の顔が浮かびます。
同じ仕事を成し遂げるときに、
その人がどこの人かなんて関係ない、
と わたしは思っています。
だから分からなければ聞こうと思うし、
分かっていれば教えてあげようと努力しています。

それはわたしにとってはひどく効率が悪く、
フォローを増やせば仕事は増えるし
内部の人と避けられぬ衝突になることもあるのですが、
曲芸のような世渡り上手になるよりも
負側面を可能な限り受け止めて正に転化できるような
そんな人でいたいのです。

それは詰まるところ、試験前の勉強の延長なのかもしれず、
順位を上げたいからといって一人裏で勉強し、
人当たりはいいけれど肝心なところははぐらかす人と
みんなで進級しようと勉強会に参加する人が
そのまま仕事にスタイルを持ち込んだようにも思います。

これは多分終わりなき戦いで、
わたしはできるだけ最前線に立っています。
時に負けることもありますが、
勝って建設的な議論が始まるその瞬間のスイッチを入れる、
大きな音を立てて人のシステムが生き脈動し始める、
その一体感がわたしにとっての何よりの成功報酬です。

木曜日, 5月 17, 2007

笑いの総量

とても性能のよいソフトがやってきて、
それが勝手にいろんなデータを出力してくれて、
見た目にはやたら情報量が多くても、
なぜか人がそれに関わった時間というのは感じることができて、
時折それを不思議に思います。

偶像ではなく書物を持つ、
ということにおいて宗教のある種類は一致しています。
聖書を傍らに置く人の気持ちは
なぜか理解できるような気がするのです。

本は物として成り立っているのではなく、
「言葉」によって成り立っているところが偶像とは違います。

どんな本を選ぶかは人によって異なりますが、
おそらく人には「この1冊」とか「この1曲」のようなものがあるように思います。
もしそれがない、という人は、
たとえば指輪だったりお守りだったりするのかもしれません。

話は少し違うのですが、
会話の中の笑いには総量があって、
面白いことを言われると笑いたくなるのですが、
面白いことが真顔で言われるから面白いのかも知れず、
面白いことを笑いながら話したらこれほど笑うだろうか、と
ふと感じたことがあります。

ある日わたしはメールで笑顔の顔文字をたくさん送り、
しかしそれが本当にほんの少しだけ
「笑っていなければならない」という気持ちを含んでいたことに気付き、
それで笑い顔の絵文字を送る回数がずいぶん減りました。

一日に歩ける量が決まっているように、
わたしはどうも一日に笑える量も決まっているような気がします。

それはおそらく、自然を理解したから

雨が降っています。
それでも建物の中はこの数ヶ月雨が少なかったせいで乾いていて、
タオルがよく乾きます。

人間は文明を作った、だから偉大なのだ、と現代は言い、
情報とテクノロジーが優先しているように見えます。

テクノロジーを「使う」という事の意味は、
ひとつは「食べることを楽にする」ために導入されてきました。
簡単な例は石器の斧や農耕具、土器などで、
そのままでは食べられず処理が必要な食材を
食べ物として導入するために必要とされました。

食べるため、住むためのテクノロジーというベースが充足するにつれて、
「長く生きる」ためのテクノロジーが注目されます。
薬草や発酵食などから始まり、
傷や疾病の治療へと話が進みます。
それでも文明のほとんどの期間は食べるために精一杯で、
旱魃や異常気象などに対応する術をもちませんでした。

食べ物、正確には意識を正常に保てる食生活と
居住区の確保という基盤があって、
初めて人は戦争に関する出来事を忘れていくのだと
最近感じます。

文明というものが現れては消え、
しかし今や人間は地球全土に広まっていて、
それらが奇しくも体と同じ電気信号で情報をやり取りする、
その様子は地球の外から見ればおそらく、
人の集まりが作った「新しい生き物」の姿です。

樽いっぱいのジャムはいらない、スプーンひとさじのはちみつが欲しい、と誰かが言う

週に10程度の打ち合わせがあって、
デスクにゆっくり座って仕事をするためには
仕事時間を早く始めるか遅く終わるかの
どちらか、あるいは両方を選ぶ必要に迫られます。

加速器施設の建設フェーズに立ち会えることは
ハードウェアのスキルアップという意味では本来とても幸せなことで、
一方で加速器は技術的に枯れるまで時間がかかるため
動いている加速器で実験することが
ビーム工学のスキルアップに必要です。

欲することの意味について考えます。

この世界のさまざまなことは
決して個別の問題として存在しない、
だから関心を持ち続ける、と意識は話し、
一方でわたしが置かれた状況の多くで、
これがなければ生きていけないという切迫感と
ともに生きることの喜びの両方に突き動かされて
行動原理が生じてきた事を思います。

袖摺り合うも他生の縁、という言葉は
時に人が前世と呼ぶ、知覚不能な領域に対しての概念です。

しかし人は一方で、精神に強烈な影響を持つ
薬剤が存在することを知っていて、
そしてある人にとって「他の人」の挙動というのは
その人の履歴とさまざまな物質的入出力、物理的相互作用によって
成り立っているきわめて精巧な機械、と捉えることは、
それが都合のよい支配の理由として使われない限り
当を得た表現のように思います。

わたしにとって別の人がそう見えるのであれば、
別の人にとってわたしはまたそう見えるはずです、とここまで書いて、
相手の人が思う認識については言及ができないことに気がつきます。
別の人はその人なりの履歴を持っているはずで、
この世界を「わたしと全く同じように」認識していることはないのです。

この世界はハドロンとレプトンの素粒子でできていて、
構成要素としてなんら違いはなく、
そして現在までの理解では
宇宙はある一点から生じたことになっていて
この世界はきわめて均質にできています。

「わたし」の難しさというのは、
「わたし」だけがこの体の「内側」にあることが分かっていて、
「わたし」に付随した入力と出力が存在し、
そのほかの全てがこの体の「外側」にあるという認識があり、
それがなぜだろうと疑問に思うことにあります。

わたしは「わたしの五感」というものを通してできていて、
わたしの五感に入力されないものは、存在していても
わたしには知覚されません。
しかしそれらの存在全ては列車のようになっていて、
ある場所で生じた影響が連結されて末端への作用となるように、
知覚できる情報はこの世界全体の演繹の結果であるので、
わたしには関係がない、と呼べるものは言葉の上にしかなく、
全てのものに関係があります。

わたしを構成するものについて時に関心を持つことがあります。
細胞はそれぞれが生きていることになっていて、
それぞれの環境に応じて生成と消滅をし、
それら全体としてより大きなシステムとしての人のからだがあります。
風邪を引きにくい体質の人は
大きな体調の変化や体の炎症が少なくて
結果的に長く生きられるように、
人もまたそれぞれの衝突がより小さくなっていけば
結果的により大きな秩序を持った存在として成り立つようになります。

「人」全体がこの「より大きな秩序を持った存在」になれるのかどうかは
実は人間は誰も教えることができません。
この世界は「現在のわたしの知覚」においては
時間だけが遡れもせずまた先に進むこともできず、
時間のある一点に乗っていることだけが確かなことです。

わたしの中に生じてきたさまざまな衝突や葛藤は、
それまでの人の歴史の中で生じてきたことを
わたしという存在に認識させるために必要だったのだろう、と
ふと思います。
たとえそれらが分かったとしても
わたしたちの体という存在は生成消滅をするものであり、
確かに「いまのわたし」が体を失えば
その記憶と認識は体とともに失われます。
それは多分眠っているのと同じようなもので、
この世に存在はしているけれども
ただ認識だけが存在しない世界です。

眠りについて思いを馳せるとき、
わたしという体は存在していて、
しかし意識だけが存在せず、
眠りは「意識」にとって「死」と等価です。

人にはさまざまな欲求があり、
その中で「安らかに眠る」ことが一番の欲求であるわたしにとって、
安らかに眠ることを妨げられることの辛さは
よく理解できます。

どうかわたしとあなた、特にあなたの「意識」が、
その体の中で安らかに眠れますようにと
今日も願います。