木曜日, 12月 06, 2007

知的労働について

写真1:霞ヶ浦近くの古墳
外面的にいくら強気でいたとしても、

それほど世界は悪くないはずのときでも、
どうしようもないほど心が落ち込むことがあって、
その理由も解決法も分からず、
こんなときに限って物理も役に立たず、
今日はそんな感じです。

知的労働には際立ったいくつかの特徴があります。
まず「表現」によって初めてその輪郭を得ること、
そしてその「表現」には時間がかかるにもかかわらず
「表現の伝播」は極めて短い時間ですむこと、
そして「知的労働」は
最終的に印刷物やディスクの生産という
「知的理解を必ずしも伴わない労働」に変換されうること、
などが挙げられます。

本の「内容」は作家の知的労働で生み出されるものですが、
それを「印刷物」にする過程では物質価値としては
紙の価格とインク代と印刷機の価格と輸送費の総和になり、
コンビニでA4一枚が10円で採算が取れているのだから
物質的価値としてはたいした値段になりません。

知的労働とはその「内容」に価値がありますが、
その「内容」はある意味では
「知った途端にその価値が失われる」ものでもあります。
週間誌に全く同じ内容の情報が
決して二回掲載されないのはいうなればそういうことです。

ある種の知的労働はたとえば掃除機のように、
それを作るために高額な設備投資を要するわけではなく、
また一度生産されたら何度も実用として役立つ、
という類のものでもありません。

大仏や茶器のように
知的生産物が「一点もの」になることはほとんどないのです。
ゆえに知的生産物は「物質的価値を伴わせる」、
つまり限定盤を作ったり豪華な表装にしたり
高価な材料で作ってみたりして再生産を抑制します。

「知的生産」が価値を保持しうる条件の一つは、
それを「理解するためには取得者の時間を要するようなもの」である場合です。
だから「難しい=理解と習得を要する」教科書は
値段が下がらないのです。

「知的生産」が価値を保持しうる条件のもう一つは、
それが「秘密に取り扱われるもの」である場合です。
つまりその情報の開示を受ける「前に」
情報の公開抑制とその対価を事前に「契約する」手続きを行います。

知識は人にとっての豊かさのひとつである、と思うから
わたしは自分の知っていることが
人に役立つなら惜しまず広めていこう、
とこれまで考えてきました。

しかし知識の開示が「知識の価値を破壊する」のであれば、
わたしは秘密を持たなければならないのだろうか、としばらく考えます。

「失敗学のすすめ」を書いた畑中洋太郎さんは
「日本人は知識を外国に開示しすぎである」と言います。

秘密の増加によって
知的価値を生産する社会は言うなれば「不透明な社会」でもあり、
知らないふりをしたり構成員を限定したりしなければ成立しない社会になります。

「役立つ=力がある」と分かった途端に人が飛びついてくる世界、
そして「役立つこと」を秘匿して保持する社会、
その循環は人の欲によって造られていて、
だから欲と力は決して「善ではない」ことになります。

「弱いものをいじめることが絶対的な悪である」理由は、
人は完全な善を持つことができない存在ではあっても
相対的に「弱いものの方がより善に近い」ためであって、
力の保持は必然的に善から遠ざかる可能性を持ちます。

だからといって
「弱いもの」は「強くなろうとする意思を持っている」必要があり、
自らが進んで「弱い側を顕示することで善を装う」のは
力の保持を自らの存在条件とする人間としての条件に反します。

わたしが専業主婦のある側面を決して好まないのは、
たとえば「昼下がりに集まってただお茶を飲んで過ごす」ことに
なんらの後ろめたさも感じていない人がいて、
何の社会参加を行っていない人たちがいるからです。
専業主婦になるために性や美しさを使う、というのであれば
それらは全くの悪となります。

そして「自らは悪い」という意識を持てない人たちが
実は一番悪い、というあべこべな結果になります。

人間存在の苦しさというのは、
その存在を成り立たせるためには力が必要で、
しかしその行使は決して善にはなりえず、
だから自らの生きている時間が長くなれば負う罪の量が増え続けることに、
意識的あるいは無意識に気がついているからなのでしょう。

わたしは時が力が与えることを知っています。
そしてそれは、決して手放しでは喜べないのです。
その力を意味づけできる理由はたった一つで、
それが「より善に近いものを守るための剣」になるときだけです。