水曜日, 9月 28, 2005

スパムメールのはやりすたり

デスクワークの日々が戻りました。
季節変わりの風邪が流行っている、と聞くだけで
どうやら風邪を引いてしまいました。
風邪を引くと頭の回転がよくなる、
どうもこのことは変わらないようです。

破壊型の幸せと、調和型の幸せについて
小さい頃ふと思いをめぐらせたことがあります。

破壊型の幸せというのは、
どちらかを幸せにするとどちらかが幸せにならないもので、
調和型の幸せというのは
どちらも幸せにできるものです。

破壊型の幸せが必要である場合、
すべての人が幸せにはなれないことが導かれます。

一見調和型の幸せを求めているようで、
破壊すること自体に幸せを見出してる人もいます。

時々思いますが、
食べ物を食べる喜びというのは
多くは破壊衝動によるものだと思います。
緻密な組織でできた食感を楽しむ、というのは
まさに何かを壊す楽しさから来ています。

世界は壊していいとされるものが減りました。
壊してはいけないようにできているとさえ思います。
それで破壊衝動は
どうしようもないベクトルを向くことがあります。

責任の重いアメリカの裁判官、外科医が
幼児偏愛や性的倒錯に陥る、などという話は
よく現れます。
彼らは「破壊することが許されない」ものばかりに
囲まれて暮らすからだと思っています。

破壊衝動自体が人の持つ避けられない本質であるならば、
法的に許されていて、しかも他の人間に害のない、
破壊衝動を満たす方法とは一体どんなものがあるのでしょうか。

長い寄り道をして
タイトルのテーマへと向かいます。

スパムメールは、メールができてすぐの頃から
やってきました。
携帯が受け取れる情報量が増えるにしたがって、
メールの数は突然多くなりました。

最初からあるのが
露骨な表現のタイトルと成りすましメールです。
法規制が整う前には
「間違って登録した可能性があり、
返信しないと違約金を請求します」などの脅しがありました。

法がある程度整備された後では、
「ご紹介させていただきました」とか
「あなたは特別です」とか
持ち上げるようなタイトルのメールになってきました。
確かに届いたときの印象は和らぎましたが、
スパムメールに変わりはありません。

ここ数ヶ月ぐらいは、男性がお金を払うタイプではなくて
女性が援助するタイプのものも増えています。
運営業者にしてみれば
収入になればどちらでもいい、ということなのでしょうか。

電子メールに代わる通信手段に
何が選ばれるかはよく分かりません。
ただ、それは音声や映像といった時間を要するものではなく、
やはり文字伝達によるものだと思います。

リテラシーの必要な時代は
これからも長く続きます。

火曜日, 9月 27, 2005

find a path to the dream

メーラーはMessage Managerというのを使っています。
送信機能が1MBまでしかないので、
大きなファイルを送るときだけメーラーを使い分けます。

辞書は人間が作ったもので、
言葉も人間が作ったものです。
夢の説明を見ると、
気持ちが想像したこと、という意味で一致しています。

充実した時間を過ごす、というのは
生きていること自体を忘れているときであるような気がします。
心配事というのは生きること自体を考えることで、
この気持ちが長く続くと気持ちが落ち着きません。

さんざん考えてみた末に、
いっとき考えるのをやめる、という方法もあるなと
最近思うようになりました。
今わからない答えはいつも気持ちの中に残るのですが、
だからといってすぐ分からなければ不安になるというのでは
いつも不安だらけだからです。

年齢を重ねて思考の自由度が増えてくるほど、
それを束ねるのが難しくなってきます。
パソコンをさわってうまく操作できない時に感じる
あのもどかしさと全く同じようなことが
自分の脳の中で起こるのです。
パソコンの複雑怪奇な中身に対して
入力装置はせいぜいマウスとキーボードなので、
重故障は入力装置だけでは直せません。

脳も同じで、
五感の入力を全て動員して調整しようとしても
悩みが深ければ直らないこともあるだろうと思います。

やっかいなのはこの世界そのものではなくて、
この世界に振り回される自分の脳なのです。

金曜日, 9月 23, 2005

街歩きの方法論

何も知らずに街に行く、
何かを調べて街に行く

書を捨てよ、街へ出ようの一節から考えると、
自分の目で見よう、という言葉が印象に残ります。

「自分の目で見る」という言葉は
分かったような分からないような言葉なので
少し説明を試みます。

自分ではない目というのは他人の目で、
主には聞いたり読んだりした「人の話」の印象の部分に
自分の印象が支配的に影響されることを指します。

歴史書には、
起こったことを書いた部分と、論や観を書いた部分とがあります。

起こったことについて書かれた場合、
その出来事に関連した場所に注目する能力が上がりますが、
それ以外の視点が忘れられがちになります。

論や観について書かれた場合、
感情の共有によって見るもの自体の主観的な印象に
大きく影響を与えてしまいます。

日常において、
言葉自体にとらわれる、という現象がよく起こっているのに、
なかなかそれを拭うことができません。
言葉が独り歩きする、それは
ものと言葉は必ずしも一対一で結ばれていないからです。

「花」という言葉があって、
最初は植物の花に対しての単なる呼び名であったものが、
そのうち華やかさを表す印象まで帯びてくると
使われ方が変わってきます。
かけことばや短歌の隠喩などは
言葉の持つ複数の意味を多面的に使った結果です。

日本にとって西洋から外的にもたらされたもっとも強い感覚は
「絶対観」だと思っています。
それは技術として受け入れ、非常に器用に操れるようになったのですが、
絶対観の欠点を補正する哲学の導入バランス、
つまり人間の不完全性への理解が不十分だったために
ある意味で人間性という感覚がつかめなくなってしまいました。

絶対観はしばしば単一観と混同されます。
本来は複数の観点が有機的に繋がっていても、
それらが全体として矛盾なく閉じていれば絶対なのです。

数学オンチな側面も大きく作用していると考えることがあります。
数学は演繹の方法によって解が変わることは
確かにありませんが、
数式がどう表現されるかによって
物理的表現の意味が大きく変わります。

めぐりめぐってこの話のまとめは、
街歩きの前に書を読む、
これがうまく行くためには
得た情報の力に対峙できる、ということが必要です。

水曜日, 9月 21, 2005

マッチポンプ、というわけではないけれど

西洋医学的に難しい症例には
漢方薬がいいよ、と言って
初めて人に勧めたのは10年前です。
最近になってやっと
自分も漢方薬を使ってみることにしました。
予後は良好です。

2度目の装置組み立てにあたり、
新しい試みを始めました。
と言っても「何かを増やす」とは逆のことで、
「前もって起こると自分だけが予見できたことでは
行動を開始しない」というものです。

これまでは、潜在的な危険性に気がつくと
先回りして全て手を打ち、スケジュールが円滑に流れることに
意識を全て集中していました。
これだと確かに狙ったとおりのスケジュールで流れるのですが、
現場を理解されず時間が過ぎてしまうことが
次第に分かってきました。

そこで今回は、
トラブルが起こりそうでも
重大な事態に至らないものについては
少しのスケジュールの遅れを容認し、
トラブルについては全体で対処する、という方角に
舵を切り替えました。

結果として理想どおりのスケジュールからは程遠くなりますが、
手を動かさなければ現場に対する認識を持てないという
人特有の問題からは
少しずつ解放されつつあります。

相変わらず思考作業の難しい部分は
負担が大きいのですが、
労働作業を肩代わりしてもらえるだけでも
成果は大きいのです。

木曜日, 9月 15, 2005

1分以内は全て「同時」です

近くのネットカフェには
最新式のマッサージチェアがあって、
腰の下のほうやふとももまで指圧球が付いています。

「同時」の概念を変える、という作業を始めています。

物理的な「同時」は
本当に小さな瞬間でも同一ではないのですが、
人間にとっての「同時」は
概念によってずいぶん変えられます。

毎年終わりごろになると聞かれる
「1年って過ぎるのが早かったよね」という台詞は、
1年という時間を瞬間のように扱っている証拠です。
1年前のことを思い出すことと、
昨日のことを思い出すことの間には
頭の働きとしては何の違いもないのです。

ところが1年という長い時間を「同時」と思うには
かなり無理があります。
1年の間では、活動的な日も、ふさいでいる日もあるからです。

かといって全ての瞬間が同じではない、と
真剣に思うと、思考がまとまる自信がなくなります。
少しずつでも変わっていく自分のどこに
自己同一性が求められるか自分で疑問になり、
まるで狭い空間の中で追い立てられて
逃げるように走り回るような
日々のイメージができてしまっています。

「いまを生きる」という言葉を読んでも、
「いま」の瞬間が非常に短い時間であったなら、
ナイフのエッジを渡るようなイメージにしかなりません。

人間は思考が前後できる、ということは
人間にとって「同一である」「いま」という時間は
過去と未来にそれぞれ1分ぐらいあると
みなしてもいいのではないだろうか、と考えた瞬間に
気分が落ち着いてきました。
思考が少しでも過去へ戻って、
方角を変えて再生できるのなら、
見てしまった嫌なことも少しだけなかったことにできるのです。

現実の世界でも時間は不確定です。
量子論から導かれた不確定性原理と呼ばれる現象では、
非常に大きいエネルギー幅を持つ不安定な世界では
時間のぶれが非常に小さくなり、
エネルギーの非常に低い状態である安定な世界では
時間のぶれは非常に大きくなります。

揺らぎ自身は不安定と受け止められがちですが、
揺らぎが許された世界はとても安定なのです。

火曜日, 9月 13, 2005

おめざとおやつを推奨します

二つの世界を知る、という作業は
下手をすると二つの逃げ場になってしまいますが、
うまく行けば相乗効果が得られます。
知るということはそれ自体が難しいと思う
今日この頃です。

朝ごはんにご飯と納豆と味噌汁、という
食事は栄養価的に見ると非常に素晴らしいらしいのですが、
どうもわたしの朝の胃には合いません。
食べ物を取り扱うのにもエネルギーが必要なせいか
起きてすぐにはたくさんの栄養価を取り込めないのです。

おめざという言葉を辞書で引くと、
子供が朝起き抜けに食べる甘いもの、とあって、
なんだか納得してしまいました。
ちなみにアジアのどこかの国では
朝冷たくて甘いミルクティーが出されるのだそうです。

朝の果物は金、とか言っていて、
ビタミンのせいもあるのですが、
多分甘いものは朝に合うことを指してるのだと
思います。

一時期友達が食事の代わりにお菓子を食べていたのを思い出して、
なぜ弁当ではなくてお菓子なのか不思議に思ったこともあります。

こういう断片的な記憶が繋がって
「朝は好きなお菓子を食べる」ということにしました。

やってみると胃は軽いし意識ははっきりしているし
調子がいいものです。
その代わり昼よりすこし早くおなかが空きます。

この間読んだ新聞記事で、
午後3時に食べたものは脂肪になりにくい、というくだりがあって
おやつは敬遠するものではなく歓迎すべきものかもと
思いました。

栄養学の世界というのは未開の部分が多くて、
定説になっているものが簡単に覆ることがあります。
コーヒーはガンを助長すると言っていたら
翌年にはコーヒー4杯でガン抑制なんて言っているのだから
鵜呑みにすると振り回されてしまいます。

オーダーメイド医療という考え方も、
カイロプラクティックの概念も、
漢方の証判断も、
人間が1種類の方法では取り扱えないことを指しています。
これは恐らく、人間も進化の過程であって、
さまざまな種類の人間の中から
「次の新しい生き物」へと緩やかに変わって行く途中の
試行錯誤の段階だからかもしれないと思っています。

聖書の中では、
人間は本来完全であったが、木の実を食べて不完全になったという
くだりがあって、
不完全であることは許されざる罪の象徴と捉えられるのですが、
もし最初から不完全に作られていたとしたら、
矛盾や葛藤も人間のために用意されたものかもしれないなと
ふと思います。

弱い相互作用にカイラル対称性がない、ということを
学者たちは「神が傾いた塔を作った」と表現しています。
人体も見た目は対称で内部は非対称です。
すべてが対照的で美しい世界がこの世の理想の姿ではなく、
もともとどこかが歪んでいるのがこの世の中の最終形だとしたら、
それはなんとなくほっとする世界なのかもしれません。

同時だと思っているものに対する、タイミングのずれ

「反省しないアメリカ人を扱う方法」という
アメリカ人自身が書いた本があって、
ちゃんと評価してあるのかな、と思ったら
だいぶアメリカ人を弁護した書き口になっていて、
やっぱり反省しないアメリカ人だなあ、と
少々おかしくなりました。

そういえば、
おかしいという言葉は
「面白いさま」と「異常なさま」を表すのに使います。
面白いと言う言葉は
「笑いたくなるさま」と「興味深い」を表すのに用います。
たのしいのなかにも
「楽しい」と「愉しい」があります。
"fun"や"enjoy"のように
純粋に楽しみを抽出した言葉が日本語として必要であるように感じます。

脳科学の本の話題が最近多いのは、
なんだか頭に残っているからで、
見ている現象を人間が感知するまでに
最低0.1秒かかるのだ、というのは、
どっきりカメラのスローモーション写真を見ていると
よくわかります。
顔にカエルが張り付いてから少し間をおいて
人が慌てふためくさまを
ちょっと不思議に思っていたところでした。

しかし、半導体産業のマザーマシンで使うような
表面粗さがナノメートルのすごい精度の平板を作る段階では、
人の手がどうしても必要になります。

人間には機械のような正確さがない、
人間は機械よりも精密である、
この言葉はどちらも正しいものです。
しかし時間に関してはあまり当てになりません。

音楽にあわせて踊るロボットを作ればわかることですが、
音楽と同時に手足が動いているように見せるためには
音楽よりもほんの少し早めに動力を発生させる必要があります。
ということは、
ダンスと言うのは現象を先読みして早く動いていることになります。

バッティングセンターでバットを振っていて、
なぜかボールにバットが当たらないときに、
ボールが飛んできたのを目で確認してからバットを振るのではなく、
飛んできそうなタイミングを予想してバットを出し始める、という
普通に誰でもできそうなことで悩み発見をしたことがあります。

言葉を認識するソフトでは、
まず数秒の音波を記憶した後で、
単語に直し、意味を考える動作を行います。
少なくとも人間はこれより高度なことをしていて、
音波を聞きながら先読みをして
残りを早く補完しようともします。

この話をもうすこし拡張すると、
人間がなにか現象として行動を起こすときには
その前に十分な気持ちの発生が必要であることがわかります。

最近の研究では、ちょっとうろ覚えですが
コーヒーを飲む動作をする数秒以上前に
「コーヒーを飲む動作をする」という指令が
脳からは発生しているのだと言います。

「今は一瞬しかない」というとき、
科学の言葉では
一瞬の定義は無限小の時間を指すのですが、
どうも人間はかなり幅の広い時間帯を纏めて取り扱っていて、
同時という言葉さえかなり緩やかな定義で済みそうです。

一瞬を大事に、とは言っても
ほんとうの一瞬では何も思考できなくて焦り、
数秒から数十秒の自分がまとまった一瞬だと思えるだけでも
気持ちはなぜか緊張から救われる気がするのです。

日曜日, 9月 11, 2005

宇宙観

日を浴びると体力を使うので
今日は全身が倦怠感に包まれています。
たくさん汗をかいて体中の水分を入れ替えたので
実は気分が良かったりします。

TVチャンピョンの番組の最後に
「あなたにとって・・・とは何ですか?」と聞く場面があって、
優勝者がその競技テーマについていろいろな言葉を残すのですが、
「生きがい」と答える人や「人生」と答える人が
多くいます。

自分が深く関わったものの中に、
自分の人生や世界観を重ねてみる、というのは
人間学的にいえば連想の一つです。
全く同一ではないのですが、
しかし人間が為したことという点で共通しています。

この世界はこのようになっている、と
写真や数式でいくら説明されても、
それは真の姿の「ある断面」にしか過ぎません。

もし人間に電波でものを見る能力が備わっていたら、
全ての物体は二重に見えたり、
可視光では見えない障壁の後ろ側の物体を感じることができるので、
この場合かくれんぼをやろうとすると
全く違うルールを作ることになります。

美しいものを見ている、といっても
美しいのは可視光で見たものの姿であって、
こうもりのように音波でものを見る場合には
美しさの定義が変わってきます。

世界にあるありふれたものの中に
社会や宇宙の一部分を感じるというのは、
自分の中に社会や宇宙というものの詳しいモデルが
備わってきたことも意味します。

フランス料理を極めたシェフが
家に帰って食べる好きなものはただのキャベツの千切りだったりして、
しかし彼はただキャベツの千切りを食べているのではなくて、
そのキャベツが調理でどんな味に変わるかを
心の中でいくらでも想像し感じられるからこそ
キャベツの千切りが普通の人よりおいしく食べられると思っています。

日常のありふれたことを楽しく感じるために、
非日常の極まった部分の情報が必要というのは
逆説的で結構面白いことだと思っています。
平凡だからこそ日常を楽しめるのではなく、
極まったからこそ日常のありがたさが分かるのです。

前向きに行こう、という言葉があって、
どうしたら前向きになれるのかということについて
しばらく考えていました。
でたらめに「明るく楽しく」でも何とかなると言うのですが、
追い詰められたときほど「明るく楽しく」は叶いません。

真剣に成功させたいという強い思いと、
前向きな気持ちが矛盾なく同居するには、
「こうすればどうなるか」が分かっていることが大事じゃないかと
最近思っています。
ある物事が成功するにしても失敗するにしても、
分かっているなら覚悟ができるし、
次善の策を考えられるからです。

もう一つ大事なことは、
ここまでは大丈夫、ここからは注意が必要という
上限や続きをきちんと決められるようになることです。
高校野球のほうがペナントレースより人気なのは
確かに一瞬の輝きというものがあるからなのですが、
それが叶わなければもう次はないという世界より、
失敗してもうまくいかなくても続けられるという
しぶとい希望のほうが楽しい気がするのです。

先を考える上で一番怖いのは、
失敗することではなく、予想外のことが起こることです。
無知は幸せなり、でいうと
知ることを受け止めるのは力が必要なので
自分にあった分だけ世界を知ればいいのですが、
知ることができれば変えることも考えられるようになります。

毎日が退屈だという人と、
明日を心待ちにする人の前にあるのは、
どちらも同じひとつの世界です。

月曜日, 9月 05, 2005

あの人の真似事

日本海を渡っている台風なので
風だけ強くて雨が降りません。
強い風が吹く日が大好きです。

おととい、ボスの形見分けで
50冊ほどの蔵書を貰い受けました。
その半分が今の仕事に役立つもので、
残りの半分が読み通すのに20年以上ほどかかりそうな
レベルの高い物理の本です。

なぜ自分がその人のようになりたいのか、
論理立てて説明することはできません。
ただその人がいたことを本当に嬉しく思い、
その意志が少しでも現実のものとなることが
自分にとっての生きる手ごたえであると信じるからです。

多分、ボスの真似事を続けると
どうしようもなく苦労するだろうというのは
少し考えればすぐに分かります。
それでも自分は、
自分が何かをもらう時に感じる喜びよりも、
人に何かを与えられている姿を目にしたときの喜びのほうが
大きいのだと思います。

その意思を継ぐ、というのは
ボスをエミュレーションで人間の形に生き返らせる
たった一つの方法なのかもしれません。

土曜日, 9月 03, 2005

道行きの決め方

朝日を浴びた加速セルです。

10月から実験の新たな戦力に加わります。

なくなったのは終身雇用、という実績ではなく、
終身雇用で人集めができるイメージ、だと思っています。
戦後から高度成長の間が45年、
会社員の勤続年数は約40年だから
完全に終身雇用できた世代の数は5年間分だけです。

しかしイメージがなくなってしまったので
会社側が「もう終身雇用の努力はしません」と放棄してしまったのは
人を大切にすることよりも
会社が生き残ることを選択した結果です。
法人、とは法の上で全く人と同様に扱われ、
簡単に死ぬことが許されないものになっています。
そんな会社は信用や忠誠心の源も失っているわけで、
選択を誤った会社=法の人は
数十年のスパンで大きな変化が表れるだろうと考えています。

今日は道行きの決め方の話です。
ある日の日記には書いたのですが、
おそらくブログ引越し前の日記です。

世の中の事象は、
原因と結果が分かっていて、
その過程を調べるのを内挿と呼び、
現在までの結果から
未来の結果を調べるのを外挿と呼びます。

内挿にはいくつかの選択肢があるだけですが、
一般に外挿はあまり当たりません。
未来のことが分からないのは外挿をするからです。

外挿が分からないなら、誰か結果を出した人に
聞いてみよう、とその時に言葉になったわけではありませんが、
自分がなりたいものに困ったときに
知っている教授に片っ端から
「どうしてこの道を選んだのか」を聞いたことがあります。

電気の教授は
「小学校の頃の理科の抵抗の計算が得意だったから」と言い、
メカトロニクスの教授は
「こどもの科学の工作が誰よりも好きだったから」と言いました。

聞いて回りながら、
どこかで職業との運命の出会いをしたのではないかと
期待していたイメージからは遠く離れて、
普通の人でもあるような、ちょっとしたきっかけを
大切に温めたような話ばかりをたくさん聞きました。

ちょっとしたきっかけ、とは
人が聞けば小さなきっかけのお話で、
しかし自分に起こったきっかけは
自分の未来を変えてしまう出来事になるんだ、と
そのとき思いました。

それから始めたことは、
新しく何かを覚えたり行動したりすることではなく、
自分にとって何が面白くて、
自分は何が好きだと思えるのかを
小さなことまで思い出してみることでした。

仕事にはどんなところでもしんどい時があって、
それは人間関係であったり勤務時間であったり
将来性であったりさまざまなのですが、
その仕事に意味を見出すことができれば
ひとつづつ越えられると思います。

しかし越えられる、と書いてみたものの、
自分には物理も機械も本気で嫌いになった時期が
1年間以上ありました。
こんなことをやって数十年過ごしたところで
一体何のためになるのかさえ分からないじゃないか、と
心の底から思ってしまったのです。

社会にとっての科学は偏執狂の手中にある斧のようなもの、
とはアインシュタインの言葉です。
科学を進めた先にある世界が何をもたらすかは
それを用いる人たちに委ねられます。
人が科学を使う限り、その用途の一つに
兵器転用が必ず表れます。

仕事にはどこかで共通の性質があって、
それをやったからといって100%の純粋さで
世界を幸せにする方法というのがないと最近は思います。
どこかに反作用があって、時々によって
自分であったり周りの人であったり、
時にはライバルや商売敵と競り合ったりしなければなりません。

それでも自分は仕事をするのであれば、
選択によって最大公約数に近い人が
良い効果を得られるような方向に向かいたいと
今は思うのです。

これは大災害が起こったときの救命の方法で、
軽いけがの人から治療する、という決まりがあって、
それは最大公約数の人を生きながらえさせるための決断に
どこかで似ているような気がします。

非常時などないほうが本当は良くて、
できる限りの手を尽くすことが人道だと信じますが、
人ひとりの力はあきれるほど小さく、
懸命な選択を繰り返すことがせいぜいです。

その仕事によって、自分は誰かの罪を負うかもしれない、
そのことを申し訳ないと思いながら、
人である限りこの世界のすべての人に
同時に幸せや安息は訪れないけれども、
それでも世界には昼と夜があるように、
持ち回りで幸せな日々が迎えられるようにすることが
人として望める精一杯かなと考えています。

そして「自分の好きな道を選べる」ということは、
非常時ではない自分に与えられた幸せな選択であり、
幸せな道が何かの選択で選べると考えるよりも
その道を歩いていくことで人と自分を幸せへと連れて行く、
そんなイメージが持てればいいなと思います。

夢の大きさは持った本人にしか分からない、
だから、どうか自分が持った夢はつまらないなんて思わずに、
大切に持ち歩いてください。

金曜日, 9月 02, 2005

何者にもなれていないわたし

ボールペンは、なぜか
外国製の、イベントでもらうおまけみたいな
非常に安いものがとても書きやすいと感じます。


わたしは何者にもなれていない、
そんな気持ちがいつもあります。
なくなるのかどうかは分かりません。

とても強く意識したのは学部を出てすぐのことで、
目の前にある仕事というものの広さと
それに対して自分ができることの少なさに
ショックを受けています。

自信がもてればいいな、と思うのですが、
気持ちには影も形もないので
何かを成し遂げたということが自信になるのかなと
焦って過ごす日々がたびたび訪れます。

しかし本当に、
自分は相変わらず何もできないのだろうかと問うと、
あの頃できなかったたくさんのことができるようになり、
あの頃知らなかったたくさんのことを知っています。

自分を明かす何かを必要とするのは、
主に人と向き合うときに用意する盾のようなものです。
それが必要なのは、立派な飾りをつけて
いい印象を与えたいと願うためだと思います。

何もなくても、素のままの自分でいいんだ、という
台詞がありますが、
社交界に出るのにスーツなしではおさまりがつかないのであって、
華美ではなくてもそれなりの準備は必要です。

わたしにとって一番自信になったことは、
資格を取ることでも高価な装飾が似合うようになることでもなく、
自分がとても良いと思う人に認めてもらえた時であった様に思います。
あの人が認めてくれたのだから、と思うと
その自分を人に見せても大丈夫な気がするのです。

自分だけで自信を持つ、
これが非常に難しいことは良く知っていて、
果たして自分だけで自信を持つことがもともと可能なのか
証明された試しはありません。
人間はもともと社会性を持つ生き物だからです。
しかしストイックに自分で閉じた自信を求めるくらいなら
誰かに認めてもらって十分な自信を持つというのでも
全然構わないと思うのです。

詩を書き、時には論壇に立ち、絵画を残し、彫刻を施した
岡本太郎のコメントの中に、
あなたの本職は一体何ですかと問われるが、
わたしには本職などない、
わたしの本職は「人間」です、というくだりがあって、
強く印象に残ったのを覚えています。
もちろん各界で成果を残せたから言える台詞ではありますが、
しかし成果というのは人が決めるものであって、
自分が発したものではないのです。

人柄も優しく、たくさんの人に好かれそうな
建設会社の会長さんに会ったときに、
自分は、自分のことを応援してくれる人がどこかに一人でもいるなら、
その人のために生きていける、と話してくれたことがあって、
その言葉のどこかに思いつめたような気持ちを感じて、
しかしそれこそがいつか至る本質なのかも知れないと思いました。

自分というものが本当に一人だと思ったときに、
すべての人は「自分ではない」他の人であって、
すごい人も偉い人もなく、
正しい道も誤った道もなく、
それぞれが個別に思う人生の中に生きている不思議を思う、
そんなときに「自分ではない人」は「ただの人」に
なっていくのかな、と思ったりしています。

世の中には確かに何事かを為した人はいる、
自分にできることは大して多くない、
でも自分の毎日の積み重ねと専心は
自分にとってunknownであったことがknownに変わっていく、
そのこと自体が幸せなんだとよく考えます。

この世界全体を表す統一理論が見つかったとしても、
人は悩みながら生きる、それは
個別の事象に対しては
個別の取り扱いが必要だという明快な理由に依っていて、
世界は誰かが全て理解できるような代物ではもともとないのです。

木曜日, 9月 01, 2005

ご褒美をもらい損ねた人たち

小中学校で踊ったのは
ラインダンスじゃなくてタップダンスじゃなくて
なんだっけ、と思い出したらフォークダンスでした。
フォークダンスというとどうもぴんときませんが、
Folk=民族の、と感じると
なんだかおしゃれな感じがします。

バブルは、
途中で終わってしまったフォークダンスに
似ていると思っています。

意中のあの人とはもう少ししたら踊れるから、
今は我慢して待ってみよう、
先生もそう言っているし、
こんな気持ちに近い感情で
お城のような会社は新入社員が
お殿様のような上司の命に右左と飛び回っていたのでしょう。

自分にもいつか日の目が来る、
だから今は辛い仕事でも頑張る、というのは
自分自身でそう思うときはいいのですが、
人を説得する種にはあまりなりません。
将来はどうなるか分からないからです。

情熱や、感動という本来つかまえにくい言葉に対して
歯車のかみ合った明確な輪郭を与えるのは難しいものです。
ともすると情熱や感動の下支えになる実体が存在できずに
すぐに浮ついた言葉になるからです。
最近の啓蒙書は
・数年で数千万から数億稼げるか
・情熱を持って毎日を過ごす
かのどちらかに分類できる感触があります。

どこかで「我慢だけさせられて、
ご褒美にはありつけなかった」と思っている人が
たくさんいるのだろうか、と思うことがあります。
そういう人たちは世界が変わることなど望んではおらず、
せめて自分がご褒美をもらえるまでは
変わらずにいてほしいと強く思ってしまうのだと考えます。

後悔とは
「こんなはずじゃなかった」という言葉と同義です。

期待をしなければ後悔をしない、と
使い古された言葉の意味について考えたい時があります。

ブラック・ジャックによろしくの中で、
治る見込みが数%という患者さんと向き合うときに、
可能性はあるが保証はない手段が手元にあり、
しかし法や慣習に縛られて「ベスト」と思うことを尽くせず、
「期待しなければ辛くはないんだ」とつぶやく場面があります。

期待を上手に持つのは、
アクロバットより難しいことなのかもしれません。

ご褒美をもらい損ねた人たちは、
どうしたら溜飲が下がるのだろうかとしばらく考えます。
そのご褒美を何かの対象に求め続けるのか、
ご褒美のない人生の部分は諦めるのかと
大きく分かれると思いますが、
できればバブルは元に戻らなくても
皆の気持ちが満足するような方法が見つかるといいなと思います。

株価が回復しないかとすがるように報道されていた声は、
曲が終わって意中のあの人と踊りたい気持ちだけが残った
あの日の自分に似ています。

ここに、言葉の通じない魔物を連れてきて、仕事をさせなさい

お盆を過ぎると突然朝晩が涼しくなります。
深い眠りにつけるのはこの時期以降で、
気持ちが上向きになるのもこの時期以降です。

行き先の見えない仕事を任させる、というのは
言葉の通じない魔物を連れてこいと
言われてるのとちょうど同じじゃないかと
ふと思いました。

言葉が通じないので、
最初はどうしても格闘することになります。
しかも相手は魔物なので、
初めのうちは負けっぱなしです。

しかしいくつか通じる言葉が見つかってくると、
魔物はいくつかの動きをするようになってきます。
通じる言葉に対しては魔物は忠実なのです。

魔物の動きを掌握することができれば、
魔物に大きな仕事をさせることができます。

誰でもやればできる、は
可能性という意味で正しく、
現実的な能力という意味で正しくありません。
魔物を操れるのは限られた人たちです。

助けが少ない

倉木麻衣"Fairy Tale"を聞いています。
細かいことに文句を言い出すときりがないのですが、
夏の曲、ビーチボーイズ系バンドと
冬の曲、クリスマスナンバーが同時に入っていたりして、
しかしそれがいい感じだったりするのです。

助けるという言葉、
恐らく西洋文明による訳語製熟語が増える前からある
中世の日本語ですが、
助けるに近い表現の単語は
ほとんど見当たらない気がします。

これが英語なら、
help, support, rescue, save, ensureなど
そこそこの数が用意されています。
「助けを呼ぶ声」という表現がありますが、
「助ける」が抽象的過ぎて何をしたらいいか分からないのです。
「世界の中心で」の映画の中では
助けてください、と叫ぶシーンがありますが、
ここでの助けは"rescue"であって"help"ではないのです。

日本はhelpとsupportの少ない国だから、
転んではいけない、とは
松本紳助の本の一節です。

誰もが助けを求めているような気がして、
しかし助けてほしいという言葉はどこかへ追いやられていて、
さみしかったり心細かったりします。

~してください、という響きには、
敬体としての「ください」が使われているのですが、
耳で聞く限りでは要求を表す「ください」と区別がつきません。
敬体で話す限り、自然に言葉の中には
「ください」ばかりが増えていきます。

決まり文句のように使われる
「ヨロシクオネガイシマス」も
なにかをお願いして要求しているような気がします。
それで、この一文を見ると
なんだか気分が重くなるのです。

耳で聞こえる言葉を中心に考えて、
すこし日本語の使い方を変えてみようと思います。
目標とするイメージは、
さっぱりしていて、自立していて、ほがらかな感じです。