日曜日, 4月 29, 2007

VTOL


土曜日15:00ごろ、雹が降りました。

雹の大きさは直径10mm以上あって、

魔法の世界さながらでした。


普通不可能なものが可能になるものが好きです。


大抵の飛行機は飛ぶ前に滑走距離が必要で、

助走なしでは飛べないのですが、

垂直に離着陸できるのがVTOL機です。

小さな頃図鑑で見て、それ以来気に入っています。


不可能を可能に変えるためには、

二つの独立な枠が必要です。




木曜日, 4月 26, 2007

ラジオのような、くぐもった音のCD

夜3時に表に出ると、濃密な霧が出ていました。
街灯のナトリウムランプのオレンジと
水銀灯の緑色が強い白の光の玉が
柔らかな空気の中に輪郭のないシャボン玉のように浮いていて、
珍しくマウンテン・デューのソーダを手に取りました。

水曜日, 4月 25, 2007

大地と海に恵まれぬ民

日本語のメールにはどことなく緊張感があって、
たまに英語で”Please do not hesitate”と書かれたメールを見て、
なぜかいつもほっとした気分になります。

数十年前の事は良く分かりませんが、
一部の年上の会社の人とは尊敬語ではなくて
丁寧語ぐらいで話す方が相手も心地よいという感触があって、
少しずつ日本語は使われ方が変わっているのかなとも思います。

しかし「特上で扱って欲しい人」というのはいつの世もいて、
過剰なマナーを社会に要求する人は
いつまでもこの世にいるんだろうなと感じるのです。

自分が美しいものを感じる感度を上げられたら、とよく思います。
この世界の中でもっとも無秩序なものは、
人の脳自体ではなく、
人の脳の配線具合かもしれないのです。

野菜に含まれるマグネシウムの量が劇的に減っている、と
最近の調査結果は伝えます。
塩は邪気を払うと言いますが、
恐らくの意味は撒くのではなくて摂取することで
脳圧を下げ意識を沈静化することにあるのだと思っています。
ナトリウムは体内の電解質の中で最も重要で、
確かに多すぎてはいけませんが絶対に少なすぎてはいけません。

西洋の土壌はミネラル分が多くて硬水がよく湧いています。
日本の土地はミネラルが少なく、
それでいて海から離れてしまうなら
日本人は大地の恵みから遠く離れたところに
住んでいることになります。
そして日本人の独特な性格や生き方もまた
海と大地との関係にほとんど影響されているのではないかと
思ってしまうのです。
精神論は日本人の得意な議論ですが、
食べ物、特にミネラルを徹底的に見直してはどうかと考えます。
人は大地から離れて立つことはできず、
また海に抱かれずに眠ることはできないのです。


火曜日, 4月 24, 2007

言葉の報酬系

発生系統の異なり、対抗した二つの研究所に両方所属すると、
それぞれの言い分が分かり、
それぞれの言い分に少しの表現の違いと過不足があることが分かり、
それでわたしは厳密な表現を求められない限りは
まあそんな感じですね、と聞いている時間が増えていきます。

位禄の分離によって江戸の政治は成り立った、なんて一文が
堺屋太一「三脱三創」にあって、
興味深く読んでいます。
商人が金銭は多く持ち、
武士は権力を持ち、農民はそれに続き、ということで
それぞれがそれぞれの方法で満足する、という方法です。

比べられないものとして位置させるのは
奪い合いにならない仕組みを作るうえで必要なことだと思います。

位禄の分離をもう少し詳しく見ていくと、
禄自体は実体で、位は禄を使う潜在のポテンシャルです。
言うなればスピードのついたボールは実体としてのエネルギーで、
地上500mに置かれたボールは地上に対する潜在的エネルギーです。
商人は禄が手元にあることに喜び、
武士は禄をいつでも使える状態にあることに喜びます。

遠い親戚と話す機会があって、
「国から表彰されました」「団体から表彰されました」ということが
非常に誇らしげに語られる場面があって、
実はわたしにとってはすこし新鮮な驚きでした。

表彰というのは何らかの結果を周囲が確認したという意味で、
結果そのものが出たことと表彰というのは別のものです。
実験の真の意味が認められるのは
その「結果が現実化した瞬間」に対してであると思っていて、
それは結果が出てから数年たって周りが確認した、
という経験に基づいています。

言葉の報酬系から離れるようにすると、
何かの行動に対するモチベーションを持つ要素は限定されます。

言葉の報酬から離れるということは行動に対してはちょっと厄介で、
たとえば、ポジティブ・シンキングをしなさいとか、
成功シナリオを描きなさいとか、誇りを持ちなさいとか、
そういうものが行動原理に通用しない思考回路になってしまいます。
それで自分の行動原理を、
たとえば美しいものとか、人に優しいものとかに求めていくことになります。

わたしの中での課題はそこまでで一段するのですが、
まだ問題になるのは言葉の報酬によって動く世界が
現実には依然として存在して、
それは人が言葉という交信手段を持ったときから
ずっと変わらず続く現象です。

そして言葉の報酬系が成り立つからこそ
これだけたくさんの人が現在の組織を築いているのかも知れず、
表彰という行為が脳にとって本物なのか偽物なのかといわれると
わたしは大概が偽物ではないかと思っていて、
結果の後に表彰があるのは構わないのですが、
表彰を求めて結果を作るのは本末転倒だと思っています。

人が特別でありたいと願う気持ちはおそらく、
脳はその能力に対して非常に限られたサイズと性能の体しか与えられないせいで、
人がもし進化したければ、順序としては
脳の発達ではなく体を改造することが先になると思います。

3体問題と三権分立の関係

4月の終わりは梅雨より暖かくて、
半そでのポロシャツを着ています。
襟元の裏地に花柄のデザインがついています。

抑止力がその人の内側にある場合は
独立して存在しても振舞いが変わらないのですが、
その人の外側に抑止力が必要な場合は
独立させると軌道が外れます。

日本で言うと三すくみで、
政治的に言うと三権分立です。
権力が1箇所にあってろくな結果になった試しがない、
とさんざん反省した結果なのだと考えます。

単に抑止力というだけなら三権ではなくて二権でも
よさそうな気がしますが、
二権だと一方が強くなりすぎたときに
独裁と同じ振舞いに必ずなります。
三権あれば、どこか一箇所が暴走すると
残り2箇所が常に協力すれば止められるようにできています。

物理的な話をすると、
2であることと3であることは全く違う意味になって、
2体の物理問題は解けますが3体の物理問題は常に解けません。
解けるという意味での完全さは2なのですが、
個人の人智の及ばないという意味での完全さは3です。

月曜日, 4月 23, 2007

シングルクリック

一日話し通しだと大抵のどが痛くなっていたのですが、
昨日は平気でした。

「より理解を深める!体液電解質異常と輸液 3版 」を買って読みました。
医学書なのですが、フィードバック作用は機械制御と同じセンスで
理解できるので、用語に慣れればそれほど難しくは感じません。

人間には体液のフィードバック装置があって、
ナトリウム、カリウム、カルシウム、マグネシウムが
それぞれの方法で入出力されることが分かりました。
水分=純粋なH2O量を維持する、という発想から、
体液=電解質を含めた液体の量と濃度を維持する、という発想に
移りつつあります。

パソコンの「ファイルを開く」動作をシングルクリックに替えました。
Webでの「リンクに飛ぶ」が身についてきたらしいのと、
ダブルクリックってなんだか忙しいなあと思ったからです。

同じ事を繰り返すのが苦手なのかも知れず、
同じボタンを何度も押すのは好きではないのかも知れず、
携帯電話のメールを作成するときはポケベル打ちです。

土曜日, 4月 21, 2007

ポーカーゲームをせずに生きていけるか

天気は良くて風の強い日でした。
桜茶に使われる桜の塩漬けの花は
ソメイヨシノではなく八重桜です。

あるゲームがあると
得意な人と苦手な人というのが勝手にできて、
そしてわたしは多分ポーカーゲームが苦手です。

人生はゲームだという人がいて、
本当だろうかといぶかる日があります。
評価を上げたり評価を下げたり、
コントロールに忙しい人がいます。

綿谷りさ「インストール」の最初の1章は、
全然勉強なんてしていないことを一生懸命装う台詞を話し合い、
それでいてそれをお互いに信じていない友達の場面です。
距離が近い者同士は同じ場所を取り合うことになりがちで、
友達という言葉に込める意味は
たぶん人によって異なります。

わたしとあなたは友達です、
ほらこんなに仲良く昼ごはんを食べに行っています、
くだらない話題でも盛り上がって笑い合っています、
でもいざという場面ではわたしがあなたを置いて行くこともあります、
それでもわたしはあなたに普段から友好的に接してあげているのですから
あなたはいざというときには私によくしてくれるはずですよね、と
お互いに言い合っているような関係を時に見ます。
見抜かれているのにまだ演技できるのはある意味すごいな、と思ったり、
なんだか滑稽だな、と思ったりします。

そんな台詞が交換され、継続する関係はきっと、
互いに相手を見下しているからできることなのだろうと感じます。

話の本筋はそこからで、
そういう性質を持った人にどう接したらいいのかと
時折考えることがあります。

わたしは見抜かれてもなお装うような台詞がなぜか出せません。
だからといってそんな台詞を話す人に
あなたは本心はそんなこと思っていませんよね、と
話してみたところでまともな関係になるわけでもありません。
そんなわけでできることを探していくと、
そうかもしれませんしそうでないかもしれませんね、と
お茶を濁したような答えにするぐらいのことで、
相槌を打つでもなく反対するでもないような表情になります。

もう少し難しい問題は
そういう人は頻繁にさぐりを入れてくることがあって、
返事の仕方に困ります。
聞かれたことをありのままに話したところで
その人がいいように使うだけで全体のためになるわけでもなく、
だからといって知っているのに知らないふりをすれば
その人と同じ事をしているような自分が好きになれなくなります。

結局のところ出来ることといえば、
目に付かないように事を進めるぐらいのことなのかもしれず、
物言わず考え事をする日が増えていきます。
そして、わたしはその瞬間に思ったことを話す場所を
どこに設ければいいのかと考えることになります。

金曜日, 4月 20, 2007

多分、ほとんどのことは言われなくても分かっています

パソコンの画面をつなぐ線にデジタル線DVIが使えるのに
アナログ変換をして使ってしまっていたので
変換部を外しました。
画面がはっきりして綺麗です。

最近頭の中に消しゴムが導入されたようで、
言葉を離れた時間が増えています。
ニュースとワイドショーを見る時間が0になって、
それで不便になったかといわれると全く不便にならず、
動画の情報はよほど編集が効いていないと
不要な情報の洪水になることが分かってきました。

あいつが会議でいいことを言った、その実績を求めて言葉を紡ぐ、
それはどこかでわたしが律則的に持っていたもので、
そして変わらず誰かにあるものです。

「言ったもん勝ち」を地で行くのが特許の世界で、
他の人に一秒でも早く知らせればオリジナリティが取れる、という面があります。
研究も50歩100歩の面を持ちます。

一秒でも早く、といって焦って取ることが
長い目で見て有効であるかどうかは不明です。
先駆的な研究には長い時間がかかり、
そしてもしそれが「真にオリジナル」なものである場合、
競争にはならず代わりに「無理解」が来るはずです。

確か30年以上の間存在を否定された「プリオン」の話や、
ガリレオの天動説の話、
250年本の中に埋もれていたメンデルの法則など、
真に新しいものが理解されなかった例はたくさんあります。

美術館になるとよく不思議な感覚になります。
ゴッホの絵は生前少しも評価されなかったのに、
本人がいなくなると「現代フランスの遺産だ」なんて言い出す人がいて、
そこには「生きている間に高い評価をするのは癪にさわる」という
周りの人の感情が確実にあって、
それらが論理的や物理的な障壁でなかったことを
簡単に理解してしまうからです。

それは苦労して建物を立てた人を追い出して
居抜きの部屋をレンタルに貸し出しているようなもので、
それらは厳然として存在するのに、
明示的には決して認められない現象です。

相変わらず競争が嫌いです。
勝っても面白くないし、負けても面白くないからです。
競争をするので高給で雇われる、
それでよいと思う人はそうすればよいのかも知れず、
時折考え事は続きます。

「コンクリート・ジャングル」なんて言葉を作った人がいて、
きっとビルの森の中に人という獣が棲んでいるイメージですが、
最近そのたとえを再定義してしまおうと思っていて、
ビルの岩の中に人という木が生えているようなイメージで、
動く生き物はいないことにしてしまおうと考えています。

人を木と見ようが獣と見ようが、
大半が炭素と酸素と水素でできていて、
遺伝子がメッセージで動かしている点では何の違いもありません。

それで打ち合わせの席で、
「恐らく先様はご存知だと思いますが」と一節を
枕詞のように使って、
「わたしも分かっているのだ」という感情を満足させることになります。

色のにじんだ昔のテレビで現代放送を見る


電子冷却装置です。
先週末が学会で今週末は所内公開なので
来週まで休みがありません。

テレビの信号は赤と青と緑でできていて、
電子線を飛ばして画面の蛍光体に当てることで
色のついた絵を作ります。

にじんだテレビで見ていると、
なぜかどんな内容の番組であっても
昔なつかしの放送だと感じるようなところがあって、
それは決して目の錯覚だけではなく、
人の営みそのものはそれほど変化していないことの
表れなのかもしれません。











月曜日, 4月 16, 2007

むなしく往きて満ちて帰る、は稀で

共通点を探すのが好きで、
倉木麻衣のFairy Taleと
YUIのCan't Buy My LoveのThank you My teens、
aikoの"キラキラ"とYUIの"Umbrella"が
よく似ているなと思ったりしています。

弘法大師=空海が唐で出会った師の恵果を
「むなしく往きて満ちて帰る」と表現しています。

人を探すというのは宝探しのようなもので、
金の王冠のない洞窟に迷い込むこともあります。

花を咲かせるための冬

デスク周りに散らかっていた書類を引っ張り出し、
連絡に使われた内容が期限切れのA4用紙を大半捨て、
なんとなく気分もさっぱりしました。

最近とある学会に出席し、
それは確かにいろいろな活躍をした人がいたのですが、
わたしにとっては亡くなったボスを超える人が見つからず、
それはこの2年ずっとそうであったことを改めて思い出し、
ボスの代わりを探すのはやめようと思いました。

少し考えれば、
なくなったペンは探せても人は探せないもので、
ある日出会うしかなく、
一生に一度の恋のようなものなのだろう、と思っています。
そして一生に一度の本物ならば、
手に入ることがうれしいのではなく、
出会えたこと自体がうれしいのであって、
それは一生片思いで過ごしていけるものです。

木曜日, 4月 12, 2007

HyperLexia & DisLexia

雨上がりの明け方の空はいつも心を奪われるように綺麗で、
自分が夜出かけない日の夜に時々雨が降っていると
それは空からのプレゼントのような気がします。

何かを知るということの結果には二つの側面があって、
小さな違いに気がつくという面と、
大きな違うものの間に共通点を見出す面があります。

何かを分けるときに、
二つの軸の組み合わせで考えることがよくあります。

人について知るうちに、
人は自分が話すことが得意な人と苦手な人がいて、
人が話すのを聞くのが得意な人と苦手な人がいて、
これらの組み合わせで振舞いが4象限に変わります。

全ては努力と修練だ、としたがるのが
「日本人」とわたしたちがよぶあるカテゴリの人たちで、
それは自分が他人と接したときに他人から受ける印象であり、
おそらくは他人が自分に接したときに他人が受け取る印象です。

それは「紋切り型」の受け答えとして存在していて、
紋切りから外れたことをすると周りから浮いてしまうので
話す側は「建前で」”努力と修練”を謳っている場面があり、
しかし自分の今に役立つアドバイスを求めて訊く側は
「本気で」”努力と修練”なのかといぶかってしまいます。

このパターンでは
聞き手になったときには「日本人」は他人であり、
話し手になったときには「日本人」は自分です。


紋切り型の受け答えからどれだけ離れて
その場その場にあった言葉を用意できるかが
聞き手が話し手に求めていることで、
話し手は聞き手に「聞く力を身につけよう」と「話しかける」ことは
適切な場面とそうでない場面があることが分かります。

そして概して、
話をしたい人は多くて聞いてくれる人は少ない、
それは人の仕組みがもともとそうなっているからで、
人が好んでそうなろうとしているわけではないように思います。




水曜日, 4月 11, 2007

エスパー

最近少し寝不足です。
頭脳労働に寝不足は影響が大きくて、
数日以上寝不足が続くとリセットに時間がかかります。

話をしていると、
わたしが思っていることを表現する、と
感想をもらうことがあります。
心を読んでいるわけではないので、
心象が似ているということなのかもしれませんが、
人の心はどこかに共通点があるものなので、
その表現がうまく伝わっているのかもしれません。

世界には昼があって夜があるように、
夏と冬があるように、
穏やかな地殻変動と地震があるように、
人には平和なときと不穏なときがあるのだと思います。

日曜日, 4月 08, 2007

二つの心


水仙の花が広がる東京ドイツ村に行ってきました。
施設名に東京とつけたがるのは千葉の特徴らしくて、
東京ドイツ村は千葉にあります。
アンパンマンの劇中おそらくもっとも複雑で哀しい役を与えられているのが
ロールパンナで、
生まれながらに善と悪のふたつの心を併せ持つことになっています。
それゆえロールパンナはみんなと一緒に住むことにためらい、
一人山奥に住んで修行しています。
善玉も悪玉も己の意思に忠実に動いているだけで役が果たせるのに、
ロールパンナは自分を振り返って悔いてしまいます。

月曜日, 4月 02, 2007

満開の桜に雨が降る

柏インターを降りたところは桜が植えてあって、
花曇りの天気で桜を見ました。