木曜日, 12月 06, 2007

知的労働について

写真1:霞ヶ浦近くの古墳
外面的にいくら強気でいたとしても、

それほど世界は悪くないはずのときでも、
どうしようもないほど心が落ち込むことがあって、
その理由も解決法も分からず、
こんなときに限って物理も役に立たず、
今日はそんな感じです。

知的労働には際立ったいくつかの特徴があります。
まず「表現」によって初めてその輪郭を得ること、
そしてその「表現」には時間がかかるにもかかわらず
「表現の伝播」は極めて短い時間ですむこと、
そして「知的労働」は
最終的に印刷物やディスクの生産という
「知的理解を必ずしも伴わない労働」に変換されうること、
などが挙げられます。

本の「内容」は作家の知的労働で生み出されるものですが、
それを「印刷物」にする過程では物質価値としては
紙の価格とインク代と印刷機の価格と輸送費の総和になり、
コンビニでA4一枚が10円で採算が取れているのだから
物質的価値としてはたいした値段になりません。

知的労働とはその「内容」に価値がありますが、
その「内容」はある意味では
「知った途端にその価値が失われる」ものでもあります。
週間誌に全く同じ内容の情報が
決して二回掲載されないのはいうなればそういうことです。

ある種の知的労働はたとえば掃除機のように、
それを作るために高額な設備投資を要するわけではなく、
また一度生産されたら何度も実用として役立つ、
という類のものでもありません。

大仏や茶器のように
知的生産物が「一点もの」になることはほとんどないのです。
ゆえに知的生産物は「物質的価値を伴わせる」、
つまり限定盤を作ったり豪華な表装にしたり
高価な材料で作ってみたりして再生産を抑制します。

「知的生産」が価値を保持しうる条件の一つは、
それを「理解するためには取得者の時間を要するようなもの」である場合です。
だから「難しい=理解と習得を要する」教科書は
値段が下がらないのです。

「知的生産」が価値を保持しうる条件のもう一つは、
それが「秘密に取り扱われるもの」である場合です。
つまりその情報の開示を受ける「前に」
情報の公開抑制とその対価を事前に「契約する」手続きを行います。

知識は人にとっての豊かさのひとつである、と思うから
わたしは自分の知っていることが
人に役立つなら惜しまず広めていこう、
とこれまで考えてきました。

しかし知識の開示が「知識の価値を破壊する」のであれば、
わたしは秘密を持たなければならないのだろうか、としばらく考えます。

「失敗学のすすめ」を書いた畑中洋太郎さんは
「日本人は知識を外国に開示しすぎである」と言います。

秘密の増加によって
知的価値を生産する社会は言うなれば「不透明な社会」でもあり、
知らないふりをしたり構成員を限定したりしなければ成立しない社会になります。

「役立つ=力がある」と分かった途端に人が飛びついてくる世界、
そして「役立つこと」を秘匿して保持する社会、
その循環は人の欲によって造られていて、
だから欲と力は決して「善ではない」ことになります。

「弱いものをいじめることが絶対的な悪である」理由は、
人は完全な善を持つことができない存在ではあっても
相対的に「弱いものの方がより善に近い」ためであって、
力の保持は必然的に善から遠ざかる可能性を持ちます。

だからといって
「弱いもの」は「強くなろうとする意思を持っている」必要があり、
自らが進んで「弱い側を顕示することで善を装う」のは
力の保持を自らの存在条件とする人間としての条件に反します。

わたしが専業主婦のある側面を決して好まないのは、
たとえば「昼下がりに集まってただお茶を飲んで過ごす」ことに
なんらの後ろめたさも感じていない人がいて、
何の社会参加を行っていない人たちがいるからです。
専業主婦になるために性や美しさを使う、というのであれば
それらは全くの悪となります。

そして「自らは悪い」という意識を持てない人たちが
実は一番悪い、というあべこべな結果になります。

人間存在の苦しさというのは、
その存在を成り立たせるためには力が必要で、
しかしその行使は決して善にはなりえず、
だから自らの生きている時間が長くなれば負う罪の量が増え続けることに、
意識的あるいは無意識に気がついているからなのでしょう。

わたしは時が力が与えることを知っています。
そしてそれは、決して手放しでは喜べないのです。
その力を意味づけできる理由はたった一つで、
それが「より善に近いものを守るための剣」になるときだけです。

金曜日, 11月 30, 2007

北風に向かって怒るとき

人に向かって怒ることはできないけれど
寒い北風に向かって怒ることはできます。

風はどこまでも続いていて、
その怒りはわたしたちが神と呼ぶ
何らかの存在のもとまで届いているのかもしれません。

火曜日, 11月 20, 2007

漢字という、絵でも言葉でもない存在

朝晩が寒くなって、
ついに先週は車の窓ガラスに氷が張りました。

過冷却の水は外的振動によって凍るので、
うっかり水滴だと思ってワイパーをかけると
その途端に水滴が凍る、というような
物理的には興味深い現象を見ることもできます。

飛行機の前に座った人が読んでいたスポーツ新聞を
覗き見してみると、
特大の縁つき文字で「脳梗塞」と書かれていました。
それはまるで、字を見ただけで気分が悪くなるようでした。

どうしてだろう、とふと思いました。
外国のゴシップ記事ではこんなに内容の数文字だけで
意味を表して紙面を埋めてしまうようなページを
見たことがないのです。

それでふと、アルファベットは限られたいくつかの言葉でしか
「短いが強い意味の言葉」を持つことができないことに
気がつきました。

「脳」という字は明らかに[brain]を表しているのですが、
脳は1文字でbrainはそれそのものが読みに近い5文字で、
漢字は読みの「言葉」から遠く離れていることに気がつきます。

英語の文章は単語の間が空いていて、
これに対応するものは実は
「筆文字のときに重要な言葉は大きく書く」
のような対応で作っていたものを、
「マス目に並べる」ことにしてしまって
活字を読みにくくしてしまったのではないかとも思っています。

こういう日記の「書き方」-
わたしが画面の端から端まで文字を並べないのは、
ひとえに「活字を読みやすくする」ためです。

新聞や公共の文書に、
「もっと読みやすい活字表現を採用してくれないか」と
よく思うことがあります。
たとえば、文節ごとにもっと隙間を空けるとか、
何か色分けをするとか、そういう何らかの工夫です。

わたしたちの「言葉の問題」、
つまり「読みと書きの乖離」を埋めるためには、
より分かりやすい文字が必要で、
それは「ひらがなとカタカナを多く使う」こと、
たとえば主文は大小のひらがなで書かれていて、
ルビ側に漢字がついているとか、
思い切った改革が必要ではないかと感じます。

日本語を読みやすく直そうという試みは、
日本人が始めたいと思うのです。


火曜日, 10月 30, 2007

見方の違い

宗教の概念があるから人がまとまるのではないのです。
人はまとまろうとするようにできているから宗教ができたのです。

同様に、宗教の概念があるから人が争うのではないのです。
人は争うようにできているから宗教の概念は対立するのです。

まとまろうとする働きも、争おうとする働きも
もう再現性のある科学の言葉で説明可能です。
それはこのわずか数十年の間に起こっていて、
ほとんど全ての「過去の推測」は棄却されてしまうほどです。

人は絶えずどこかでまとまろうとしていて、
そして人は絶えずどこかで分裂しようとしています。

だから
「すべての人がこれら全ての情報を知れば幸せになる」と
考えを結んでしまうのは性急です。
情報は正しい組み合わせで提供されなければならず、
そして情報を覚えておく力には個人差があります。

「お念仏」は、
「あまりに難しい経典を知らなければ幸せになれない」のでは
「不平等だ」と思う気持ちが作らせたひとつの技術です。
繰り返すリズムは確かに人を安心させるのです。

敬虔的感覚と科学的感覚は
等しい重さで持たなければならないのではないか、と
最近考えています。
どちらかが重すぎる場合、何らかのバランスが狂います。

もし民がたくさんの科学知識を持たなければならないとしたら、
そのときこそより強力な敬虔に対する感覚が必要です。

敬虔的感覚と科学的感覚は
どうやらシンクロトロンの集束電磁石に似ています。

集束電磁石には2種類あり、
片方は水平方向の集束で垂直方向は発散する磁石で
もう一方は垂直方向の集束で水平方向は発散する磁石です。

どちらか一方ではビームを絞ることができないのですが、
両方を組み合わせるとなぜか水平方向も垂直方向も絞れます。

なぜ科学と宗教があるのか、というのは
論理的な半分の脳と感覚的なもう半分の脳が作り出した
二つの見方、
意識と無意識の両方だといわれれば説明がつくのかもしれません。

しかしたとえどんなに「説明」がついたとしても、
「この世界はなぜできて、どうしてわたしはここにあるのか」を
説明したことにはなりません。
それだけが、この世界のただ一点の不思議として
昔も今も、そしてこれからも
全く変わらず存在し続けます。

木曜日, 10月 25, 2007

風と炎

風はそれ自体は燃えません。

でも風がないと薪は燃えないのです。

水曜日, 10月 24, 2007

盾と専守防衛

盾を持つのだと言います。
それは守るためなのだと言います。
しかし盾は無害ではありません。
盾があれば矛が傷つき砕かれるのです。

攻めるにしても守るにしても、
兵は「傷つく」ことを前提とした任務です。

ドイツの宗教心が保たれている理由は、
兵役の体験によって
「人は争いを起こさないためにどこかが力の保持を行う」必要を
民が認識するからであるように思います。

わたしはその理由を
「強い軍隊が必要である」や「兵役が必要である」
という肯定的理由として使いません。
しかし、人は見たことのないものや経験したことのないものを
決して肌身の感覚としては理解できないのです。

進化には何億年もかかるのです。
人間はまだせいぜい登場から数万年ではないかと言われています。
それはきっと気の遠くなるような話です。

土曜日, 10月 20, 2007

ショート・レポート

時折カップめんを買うと
ノンフライであるかどうかを気にします。
麺がおいしいのです。

「人は見たいものが見える」と言った人がいて、
「人間は都合のよいことだけを知りたがる」と言った人がいて、
そこから分かることは
「人はこの世界をどう扱ったらいいかは分からない」ということです。

先日雁の群れをみました。
魔女の宅急便みたいに、ほんとに逆V字を描いて飛び、
しばらくすると先頭が入れ替わるようすが観察できました。

魚の群れは「全体を知って」動いているのではなく、
「自分の近傍」に対する振る舞いだけが決まっていて、
それだけで群れで泳ぐ性質が保たれます。

遠隔相互作用の例は電磁力で、
近接相互作用の例は核力です。

人間にはひとつの脳幹とふたつの大脳があり、
ひとが「世界はひとつ」とか「二つの相補性」とか言いたがるのは
そのせいであるような気がします。
脳が二つのパーツで構成されている限り、
世界の争い、つまり自身の葛藤は続くのかもしれません。

木曜日, 10月 18, 2007

虚業の診断と治療法の開発

普段「すき屋」に行くことが多く、
夜中3時にめずらしく吉野家に行きました。
激しいコスト競争は一段落したのか、
夜中は牛丼を売らず代わりにすこし割高な牛焼肉丼を売っていました。
味が気に入ったのでしばらく通うかもしれません。

「内科学」はからだの内側の状態を外側からの観察と
なんらかの低侵襲サンプル採取によって診断を行います。
名医がその経験から苦痛なく診断を下せるように、
この国のシステムも名医を選んで低侵襲の診断を行えればと思います。

やぶ医者が診断を行います。

経済変動が大きい世界というのは通貨の保持と放出の量が異常であって、
言うなれば多血症と循環不良です。
通貨を何にたとえるかはいろいろなのですが、
よく血液にたとえられます。
血液の一部、栄養素が多すぎるとシステムは蓄積をはじめ、
人であれば血液そのものではなく脂肪を蓄積しますが、
通貨自体は何らかの要素に変換しなくても蓄積できます。
そして金本位制から離れた通貨は純粋概念に近い存在で、
その全量はもはや計算機上の数字として保持されるのみです。

虚業は経済のバッファ=緩衝材として機能するものであって、
それはあるサイズと能力を維持する限りにおいて、
経済全体というシステム保持の上で必要な機能です。

虚業が通貨を流通させないというのを何にたとえるかは診断が難しく
人で言えばメタボリックな状態か血腫ができた状態かがん化した状態の
いずれかに相当すると考えられます。

イメージとして持たされているのはがん化した状態で、
とにかくそれを消してしまわないと良くならないという向きがあり、
しかしその機能の必要性からがんと共存するわけではないと考えます。

いくら体に脂質のエネルギー源がついていたとしても、
いきなり食べるのを止めてしまうと生きられなくなってしまいます。
ダイエット中に食べたい誘惑が生じるように、
虚業の縮小化には「それに抗うような」誘惑、
贅沢や蓄財や快楽の誘いが出ることになるところも同じです。

ダイエットには二つの段階があって、
まず体重は変化せず脂質が筋肉質に置き換わり、
次に消費能力の高い筋肉質のスリム化が生じます。

消費能力の高い筋肉質に相当するのは
おそらく「人的財産」の活用、つまり物質生産を伴わない
サービスによる個人への直接的還元と、
「知的財産」の生産、つまり人的資源を多く必要とし、
かつ生産の量ではなく質を高めることによる
個人への直接還元が考えられます。
もちろん、それを支える骨格である一次産業の生産と地産地消、
知的財産を展開する二次産業の生産もある割合で必要です。

もし血腫だと診断された場合、治療法は複数あって、
蓋をして上手に焼き切るか、
一度体外に血液を移し総量を減らしてから
血腫を縮小させて戻すことになります。

見立ては焼き切った場合に失う血の量が多くて危険だ、という診断があり、
しかし瀉血は貧血になるという心配があり、
腫れ物のように慎重に扱われる傾向にあります。
この時血腫は蓋をして少しずつサイズを小さくし、
成分をバイパスして肉体に戻す必要があります。

おそらく虚業の人は「血腫」と見立てを欲しがり、
慎重な治療をするよう望むのかもしれませんが、
実施に当たっては「メタボ」と見立てておく方がよいように思います。
クランケが欲しがる見立てをあてても構わないのですが、
それではシステムが停止してしまい
元も子もなくなってしまいます。

火曜日, 10月 16, 2007

知識は無料か有料か

人によって「心地よい」と思う音があるとすれば、
話よりも声が重要である場面があります。
声はその人の「言葉」から切り離せないものであって、
鳥が歌を歌うように人は歌を歌うものかもしれません。

「知識」は授かりものであるから、惜しまず与えよ、という人がいて、
「知識」は人類の労苦の結果だから対価を払って当然、という人がいます。
これについていまひとつ結論が出ず、いろいろと考えています。

「知識」はそれがある精度を持っていれば力になりえます。
歴史自体にもしはないのですが、
もし大航海時代の前に何らかの海路図があれば事故は減っていたし、
もし百年戦争の前に電子通信があったら
百年もかからずに通信を持っていた側の国が圧倒的勝利をもたらしたでしょう。

「物理的な力」に「価値」を見出すのはおそらく必要なことで、
それはこの世界がものでできていることに起因します。
一方で「知識」はいつも「諸刃の剣」であり続けました。
それが誰の手に渡され、どんな目的に使われるかが問題になります。

「正直」な人が「秘密」を保持しうるのか、
これは哲学の人が考えている命題です。
「聞かれたことに正しく答えること」をもって「正直」を定義するなら
「話さない」ということは正直ではありません。
これは「誠実」とは違うという意見が多分あり、
しかしそれなら
「何に基づいて話さないことを決定するか」を定めなければなりません。

盲導犬の試験で重要なものに「賢い不服従」というものがあり、
これは危険の迫る横断歩道へ主がゴーサインを出しても
盲導犬自身がその「言葉の命」に背くことを例として出されます。

この「直接的な命令への不服従」の論拠は短期的発想、
つまり「主に従うこと」が最重要である場合には成り立たず、
主という存在に対する長期的発想、つまり
「主を生かすこと」が最重要である場合にのみ成り立ちます。

個人を生かすということと社会を生かすということは
必ずしも一致しない場合があります。
個人すべてを生かせば社会を生かすことになるのですが、
社会システムを維持するためには
個人すべてを生かすようにデザインできません。

社会を生かすようなデザインは「最大公約数」であるべきで、
たとえばダムの建設などがその例で、
古い町並みを水の底に沈めるのだから、
それによって救われない人の悲しみを生みます。
しかしダムが必要なのは「それだけ人が増えすぎた」からであって、
増えたこと自体に問題があるのであれば
それは「増えた人間」を構成する人間すべてに問題の一端があります。

知識は循環をもたらすようにデザインする力として使われれば
よい効果として認められるのだろうか、とふと思います。
それは太陽の風によって飛ばされることなく、
月の引力によって奪われることのない、
地球の重力に抱きとめられた存在が繰り返し続けてきた
なんらかの循環の歴史をたどることでもあるように思います。

月曜日, 10月 15, 2007

ハンマー

同じ釘を打つある道具を見て「かなづち」と「ハンマー」と呼べば
これは同じ意味になり、
そのことば同士の「同じ」の保証は「同じ道具の存在」によって成り立っています。
ところが「かなづち」は「泳げない人」の比喩で使われ、
それでハンマーとかなづちは違う意味範囲を指すことになります。

「ハンマーで叩きたい」という台詞をよく覚えていて、
ブルーハーツの「ハンマー」という歌を最近知り、
こういう気分なのだろうか、とふと思いました。
元気にしてるだろうか、とふと思いましたが、
なにを「元気」と呼ぶの?と質問がやってきそうで、
それで「気にかけている」に相当する表現だけを表す言葉があれば
どんなに救われるだろう、と考えたりしました。

平井堅の「きみはともだち」のプロモーションビデオを見て、
まったく予想しない結末にふいに涙が落ちました。
天から伸びたその逆らえない「大きな手」は
破壊と再生の象徴のようでした。

ハンマーが「いたるところで」振り下ろされるのだ、と言います。
しかしわたしには「壊していく」ことしかできないようにも思います。
わたしが「大きな手」に導かれて何かを壊した後、その「大きな手」は
ちゃんと面倒を見てもう一度何かを作ってくれるのでしょうか。

金曜日, 10月 12, 2007

刺激の足りない都会

「お金と時間のかかっているものがよいもの」という表現があって、
これは複雑な装置であればとても正確な表現である場合があり、
これを食べ物に応用していくと
保存食や手の込んだ料理が「よいもの」の傾向を受けることになります。

一方で「新しいものほどよい」という表現もあって、
これを食べ物に応用していくと
生に非常に近いものが「よいもの」の傾向を受けることになります。

物質に対する「古い」「新しい」の概念と、
知識に対する「古い」「新しい」の概念は本来まったく異なるものです。
物質に対して「古い」のことばはある状態の成立から「変化して」
時間を経ると劣化する、という意味を持ち、
知識に対する「古い」のことばはその知識自体は「変化せず」、
変わってしまった世界に対して通用しなくなった、という意味を持ちます。

物理学のひとつの特徴は、
新しい理論がこれまで通用してきた理論を矛盾なく内包し、
かつこれまでの理論では説明できない現象を同じ視点から論じられること、
つまりその「普遍性」を最も重要な拠りどころとしている点です。

物理学は「この理論は正しい」と言っているわけではないのですが、
「再現する」という「時間に拠らないもの」をもって「確からしい」を積み重ねていきます。
そして「確からしい」の精度は際立っていて、
10桁以上の精度を持つ測定結果が得られるものまであって、
これを「正しいかもしれない」と呼ぶのは適当ではありません。

新しい理論の登場によってこれまでの法則が捨てられるかというとほとんどそうではなく、
実用的な範囲では言うなれば「古い」近似値の方がはるかに計算しやすいことがあり、
また精度も問題のない場合が多く、そのまま使われるものがほとんどです。
たとえば量子論と相対論が明らかになり、時空のゆがみが生じる、といくら言っても、
F1のエンジンと筐体の設計で相対論が必要になることなど全くなく、
それらはすべて「古典力学」の範囲で間に合います。

つまり「古い」知識はその普遍性が「新しいものの内包」によって保証されているために
「役に立たない」とは異質のものであることが分かります。

人がたくさん集まって分散型機能体となったものを都市と呼びます。
コンクリートの堅牢さは石にはかないません。
建物を石で作るのとコンクリートで作るのは意味が異なります。

都会人は刺激と欲望が好きだ、なんていう言葉がありますが、
わたしは都会には「刺激」があまりにも少ないから求めているような気がします。
そして都会の刺激とはほとんど「人の活動」のことであり、
だから「都会の孤独」はどこよりも孤独なのです。

水曜日, 10月 10, 2007

すべり台を怖がってはいけない

構成員の性質が非常に異なる集団があって、
その集団にはひとつの名前がついている場合、
わたしたちはこれを大きい分散と呼びます。
この場合、「アメリカは」とか「ヨーロッパは」という表現から始まる説明は
文書上限りなく無効に近いことになります。

わたしたちが望むと望まざるとに関わらず、
「性質の似た、似たような容姿と服装と言語をもつあつまり」があり、
環境が人間の生活様式を多様化させてしまうので、
「国境」はなくても「国」の概念は存在します。

「国=くに」が必要なくなったとしても、
今のところ人間という種は単細胞生物のように
単一と環境の組み合わせで生きることができず、
集団で生きるような能力と結果が淘汰の結果生じました。
人間に「何らかのまとまりが必要である」のは意識の分裂が理由ではなく、
ただ人間が単細胞生物ではないという理由から生じるものです。

昨日生物学者と話をしていて、
人間にはたとえそれが仮にでも目に見える方向や指針が必要であって、
たとえば敬虔の表現を偶像と動物と人間と文書から選ぶなら
一体どれが一番ましなのだろうかというような話題を出してみました。

どれもこれも欠点はあるのはよく分かっていて、
偶像なら破壊や劣化や宝物化などが問題になり、
動物なら穢れや生態系のアンバランスが問題になり、
人間ならその代の継承や悪意性の排除機構が問題になり、
文書なら理解の程度や誤訳や時代背景の喪失などが問題になります。

導くもの達の一部は、必ず形に限界があるを知りながら、
それでも「知覚可能な方向」を表すために偶像を作るひとと、
その作られた偶像によって「それに無上の価値を感じる錯覚」を引き起こす人が
この世界には同時に現れます。

知覚可能で強力な方法がなければ人は決して纏まることができず、
しかしその方法自体が時間が経つと今度は人を振り回してしまいます。

わたしは特に数学のエッセンスを聞いたことのない人が、
仏教の言う「カミハデタラメデアル」という台詞を誤用することをとても心配します。
でたらめとは「まったく何の相関もない」のではなく、
確率統計のように「集団の性質を規定する法則は厳密に存在するが、
個別の現象に対して、特に連続性に対しては無相関な抽出結果を持つ」
という理解がなされないまま、
そして法則を少しでも明らかにする明確なひとつの方法は
「数多く試してみる」であることも理解されるはずであるのに、

「分からないからどうしようもない」と簡単に思考放棄してしまうことが多いからです。

しかしだったらなぜこの世界には「揺らぎ」や「広がり」などという
妙なものが存在するのか、とそれでもわたしは思います。
「人格神がいる証明はできない」というのはアインシュタインの台詞ですが、
この世界が「人格」を持つかどうかは分からなくても
人間は「人格」以上の知性を一切思いつくことができません。

この世界の「なにか」を擬人化してしまうのは
もし人間がその存在に価値を置くならば不可避に起こる現象で、
そしてアインシュタインが「神はさいころを振らない」、つまり
量子論の説明に最後まで「信じない」を貫いたのは、
彼がそれを理解できなかったからではなく、
「この世界の最後がでたらめであるという結論などあってはならない」という
信念がそうさせたのだと思っています。

わたしには思考を放棄することはできません。
できることは生ある限り「分からない」を「分かる」に変えていくことだけです。

金曜日, 10月 05, 2007

ブラインドタッチで作文は作れない

先日、意識的には何の脈絡も何の悲観もなく
ふと遺書を書いておいたら安心するだろうか、と思いました。
もちろん書いたからといって文字としてはありふれていて、
それが本人のもとへ届くかは分かりませんが、
すくなくともそのありふれた言葉は自分が選んだものであることと、
「言い足りなかった」とは思わずに済むことがよいところです。

それはある「おわりのしるし」だったのかもしれず、
不思議な気持ちがしています。

たとえ手書きであっても構成に悩むように、
報告書でも作成するような速さで文書は書くことができません。
もしかしたら作れる人はいるのかもしれませんが、
自分にとって真に新しいことである場合は
大抵その表現に迷うものです。
アメリカやヨーロッパで計算機を人差し指だけで打つ人がいて、
しかしその人たちのほうが真に新しいアイデアを持っていたりして、
社会の急激な変革とも言うべき大変化や大発見が
なぜその当事者にとって歩くような速度でのみ綴られるのか、
その不思議について考えています。

水曜日, 10月 03, 2007

刹那と歌は相容れる存在か

ブログで日記を書くもともとのきっかけは
家にIBMのパソコンが来たときにメモ帳で日記を書き始めたのが最初で、
手書きの文字が感情移入しやすいのに比べて
キーボードで綴る文字はやや他人行儀な感じがして、
それが言いたいことの近くまで至れる理由かもしれません。


求めていると与えられるのだという人がいますが、
正確には求めたからといって与えられるとは限らず、
求めなくても与えられることはあり、
求めなくて与えられないこともあるのですが、
与えられたものをすぐ役立つ状態に出来る条件は
求めていて与えられた場合だけです。

わたしにないものをもつ、それが分野の遠い人であるほど
それは実り多いものになります。


この世界は時間と空間で成り立っているといい、
しかし物理の解釈では時間がなくても空間があるということはなく、
時間の消失は空間の消失を招きます。


私たちは東に行くか、その反対の西に行くかを
決めることができ、それは「選択の任意性がある」という意味で
これをパラメータと呼びます。
わたしたちは未来=時間の東と過去=時間の西を行き来できないので
時間はパラメータではありません。

現代のわたしたちは多少の不便さはあっても、
東に行くことと西にいくことは同じ意味だと思っていますが、
地球が丸いということが分からなかった時代には
東の果てや北の果てに地球の端や異次元があると思われていて、
東と西に異なった印象を持っていたことになります。

そしてわたしたちは望むと望まざるとに関わらず、
時間と呼ぶものの流れを止めることも進めることもできません。
ある瞬間だけを切り抜いて「それが世界の全て」というとき、
世界中のあらゆる物とその状態を含めることができ、
しかし定義した「世界の全て」に「歌」の存在を含めることはできず、
文字通りの「世界の全て」にはなりません。

わたしたちは歌を「くりかえし」歌うといい、
それは確かに「同じ歌」だと認識する、
宇宙の始まりには何らの分離もなかった世界は、
十分大きくなり十分に冷えて、
そして「光の速さ」が宇宙始まって以来一度も変わったことがないように、
わたしたちは「変わらないもの」をいくつか知っています。
そして変わらないものを認識するもっとも身近な手段が
わたしたちが「歌」と呼ぶ存在だったのかもしれません。

月曜日, 9月 24, 2007

四ツ谷16:00

飛行機の中はかなりの騒音なので
耳栓が欠かせません。
移動の機内は映画を一本見たら良いほうで、
大抵はその前後に慌しく準備をしているので眠ってしまいます。

10億人ぐらいが一斉にジャンプすると
大きな地震か津波が起きる、というような話をどこかで読んで、
地震が起きるかどうかはともかくとして
それだけの人がたったひとつの目標に向かうことができたら
いろんな不可能が覆るだろうと思います。

世界中全ての人が平和でありますように、と
わたしを含めて今までこの世界でどれだけの人が祈っただろう、と
想像します。
相当な人数がいるはずで、
ところがこの願いが叶ったことは一度もありません。

願って叶わなかったのでそれで終わりではないのが
この世界の時間の定めで、
叶わなかった人はそれからの時間を
願い続けて過ごしていくのか、願いを打ち捨ててしまうのか、
様々な葛藤状態に置かれます。

生き物は厳しい環境におかれて進化するのだといい、
そして互いに争うのだといい、
それがまるで生き物の定めのように言われます。
わたしはこの世界をそんな仕掛けにしてしまった「何か」は
どう考えても設計ミスをしているようにしか思えないのです。

金曜日, 9月 21, 2007

"Happy" + "End" = "Happy End"

なぜお酒に強くなるのかは
酵素の有無だというのは一応分かっているのですが、
ではその酵素の有無は何で決まるのかはいまだ分からず、
世の中の話題というのはもう少しつつくと「分からない」が出てきます。

それでいたずらな人は
「なんだそんなことも分からないでよく研究ができるな」なんて
言いたがる人が多いのですが、
そういう人は大抵自分に自信のある分野でしか意見を言わないもので、
「わからない」ことに怯える「けんきゅうしゃ」は
「研究者」の定義=分からないことへの敬意と憧れをもつことに
反していると思います。

「ハッピーエンド」という言葉を不思議に思います。
「時間の限られた物語」の中では「終わり」が決まっていて、
だから「エンド」の意味は「物語の終わり」という意味なら明確です。
しかしこの世界が「終わる」という表現は
その可能性がほとんどありません。
地球にとって生命のなかった時代の方が圧倒的に長くて、
そして地球から生命がいなくなったとしても
この宇宙は広がり続けていく固有の時間を持ちます。

しかし人は「終わりよければすべてよし」に見られるような
「ハッピーエンド」思想をどこかに持っていて、
それがなぜなのかをしばらく考えていました。

人は物語をあるまとまりで終えるように、
区切りのない時間を昼と夜のセットで終えます。
そして眠りはおそらく「おわりのしるし」です。
人は意識のあるあいだ、つまり起きている間しか
正確には生を意識できず、また自身を意思によって動かせません。
人はおなかが満たされると眠たくなる、
それは「意識の放棄を許していること」であって、
その「安らかな眠り」が「ハッピーエンド」のもとではないかと
最近考えています。

安らかな眠りの前に描く想像は
「明日も良いことがあるだろう」という期待で、
そして人は明日にちゃんと期待を描くことができ、
それが最後の明日であってもこの世界に期待する練習を
実は眠るという手続きで行っているのかもしれません。

人類には確かに問題が消失したことは一度もありません。
しかし人類すべてが希望を完全に失ったこともまた一度もないのです。

木曜日, 9月 20, 2007

カワイタコトバ

今年は暑かったので
デスクの下にサーキュレーターを置きました。
説明書きを読むと
「冷えすぎるので風を人体にあてないでください」とあって、
もっと冷えても良いのに、と思ったりします。

アメリカの記者だか忘れましたが、
表現に形容詞はいらないと言っていた人がいて、
ふとそのことを思い出します。

目の前にリンゴが3つある場合、
二人の人が見ると何かが「3つある」ことは了解します。
しかしこれを形容詞で表現した場合、
リンゴ園に住む人は
3つのリンゴを少ないと言い、
リンゴが1個1億円の国に住む人は
3つのリンゴを多いと言うとします。

形容詞は感覚に対する言語表現であって、
共通了解が取りにくいものでありながら、
生活の質感におおきな影響を持つ言葉です。

乾いた表現を求める、
つまり静止画の写真に似た描画をするなら、
澄み切った青空、よりも
8月のメキシコの雲ひとつない青空、のほうが
より印象を確定的なものにします。

打ち合わせで「全部」や「絶対」をよく使う人に出会うと、
台詞の意図を読み取れず
話が食い違っていくことがあります。
「全部」や「絶対」はとても使いづらい単語で、
それは「全部」や「絶対」に相当する現象が
この世界にはもともと少ないことに起因しています。

「なんて青い空なんでしょう」という感嘆の台詞と、
「こんな空を以前見たのはいつだろう」という感嘆の台詞、
なぜか形容詞の少ない台詞のほうが訴えるものがあり、
それは「熱狂する歌は規則正しく歌われている」ことに似て、
冷静さが感情を動かす例でもあります。

火曜日, 9月 18, 2007

高速増殖炉と核融合炉と

どんな大都会でも夜は眠る人が多くて、
その様はとても静かで、
もしこの世界の人の睡眠時間が1日16時間で
起きている時間が8時間だったとしたら、
人間世界に起こる問題そのものが減るのではないかと
ふと考えています。

エネルギーという言葉をわたしたちは簡単に使い、
それが力学的・電気的・熱的・核力的のいずれかに該当することを知っていて、
かつそれらの定義も変換公式も分かっているのですが、
「エネルギー」が何であるかはいまだに分かっていません。

人はエネルギーという言葉に特別な響きを与えます。
食べ物は体にエネルギーを与えるものとして重要で、
寒い冬をしのぐために熱エネルギーが必要で、
パソコンを動作させるために電気エネルギーが必要で、
岩盤を削るために力学的エネルギーが必要です。

世界中がお金をかけようとしているものが
高速増殖炉と核融合炉です。

高速増殖炉は言うなれば今の核分裂型原子炉の派生型で、
ウランの代わりにプルトニウムを原料にします。
「燃える」ウラン235の濃縮に限りがあることと、
「燃えない」ウラン238から「燃える」プルトニウム239までのプロセスは
中性子が2回入射するだけで済むことが動機付けになっています。

核融合炉は2重水素と3重水素の衝突、
あるいは2重水素同士の衝突で発生するエネルギーで、
2重水素だけを燃料にできれば原料は海水だけで済みますが、
3重水素が必要な場合加速器か原子炉が必要になります。

エネルギー問題が切実なのは、
自国のエネルギー供給装置運転を他国が掌握した場合、
エネルギーが戦略的に用いられる手段になりうるからです。

それでは人間がみな薪を燃やして暖をとればいいかというと、
今の人口ではあっという間に森林を切り尽くしてしまいます。

自然界のピラミッドでは
連鎖の頂点に存在する種の数は極めて少ないことが
バランス成立の必要条件になっていて、
連鎖の頂点に上ってしまった人間は
明らかにこの法則に反しています。

細胞をシャーレで培養すると、
シャーレ一面に培養し終わると
細胞は互いに連絡して分裂を止めるのだそうで、
これをコンフルエントと呼びます。

金魚は水槽の大きさ、つまり酸素溶存量に合わせて
成長する大きさを変えています。

人が地球というシャーレの上に満ちたとき、
人は何をするのでしょうか。

金曜日, 9月 14, 2007

きみはともだち

うつぶせになって寝る、という健康法があるそうで、
健康な人はまっすぐ仰向けで寝るのだと思っていて
仰向けで寝ようと努力していたのをすっかりやめて
枕を抱きかかえるようにして寝ています。

背中を温める、も始めていて、
手足のこわばりは背中をうまく伸ばせないのに
理由がありそうだと考えるようになりました。

この数ヶ月聴いているのが浜崎あゆみと平井堅で、
どちらも福岡の出身で、
そして少し花開くのに時間をかけたうたうたいです。
「恋じゃない歌」をちゃんと聴けることは意外に少なくて、
そしてわたしは曲のリズムや流行ばかりに気をとられていて
特に浜崎あゆみの方は
歌詞をちゃんと聴いていなかったことに気がつきました。

幸せになるために生まれてきたんだと
思う日があってもいいのだろうか、という問いに
うたうたいは「いい」とも「よくない」とも言わず、
「わたしはそう思いたい」と言います。
シリアスな歌詞にポップなリズムがついている、
なかなか良いものだと思います。

月曜日, 9月 10, 2007

客観について

車の中でCDを聞きながら思うことは、
曲と曲の間にほとんど無音時間がなくて、
一人の歌手のアルバムを再生すると
リズムの違う曲が矢継ぎ早に流れてきます。

最近のオーディオはどんな曲も継ぎ目なしに再生するので
せっかく気持ちがリズムに同調したと思った途端に
違うリズムになり、時折違和感を感じることがあります。

曲と曲の間の無音時間を自由に設定できるCDが
あったらいいのに、と思ったりします。

文書を書くときに、客観とか第三者の視点でという表現を
非常にしばしば耳にし、
しかし一人の人間、言い換えれば統合されたひとつの人格が
「他人の視点」や「別の視点」を持つことは決してありえない、と感じ、
それで「客観視せよ」という人の話が理解できずにいます。

わたしは理解できない言葉で動きが取れなくなることが多く、
「コモンセンス」の意味があまりよく分かりません。
個人の経験はどこまで行っても個人の経験で、
想像したものが外れていることがあまりに多いからです。
それで勢い話は長くなり、摺り合わせに長い期間を必要とします。

わたしは相手の言葉のセットとその連想を理解し、
相手はわたしの言葉のセットとその連想を理解します。

日本語は曖昧だという表現をよく聞きますが、
曖昧であることはすべての言語にありうる可能性であり、
曖昧な印象のひとつは話し手が使い方のセットを明確に保持しないからであり、
もうひとつは一人ひとりに「にほんご」があるということを認識しないからです。

そして「ひとりひとりのにほんご」があるという強い認識から
「共通了解を作る動き」が生じるのであって、
言語はその表現そのものが理解の前提条件なので
「言わないでわかってくれ」は絶対に成り立ちません。
そして「阿吽の呼吸」と日本人が呼びたがるものは
大抵のところ表情と間の取り方という非言語の「表現」であって、
それは会うことでしか理解できず、
「阿吽の呼吸」を求める限り
「明示的な文字表現による理解」からは離れていることになります。

日本人はメールを使うのだといい、
しかしこれらの環境を考えてみると
日本人の意思疎通法にメールは向いていません。
そして会って話す、つまり極めて近距離の情報伝達だけが有効であるので
「国がまとまらない」印象は「表現に用いている形態」に理由があります。

それは俳句の世界にも似ていて、
俳句が好まれるのは多様な読み方、
つまり空に雲があるというような再現する普遍的事実を許容でき、
各人がその環境に出会ったときに普遍的事実のフレームワークが
適切に機能する、というようなものであって、
ある時刻のある現象を切り出して永久保存するような使い方をしていません。

日本人にとって英語は大抵「ある特殊な職業条件に対応した言葉」であるので
限定した世界で使えば誤解が少ないと言うだけであって、
英語も知れば知るほど十分曖昧になって行きます。

そこでどうするかと言うと、契約書や特許の書類などは
最初に「この単語はこの意味範囲のみに限定する」というセットを大量に作り、
それを骨組みとして境界の内側に論理構造を修飾します。

「客観」とは言うなれば「別の立場」、つまり書き手と読み手であって、
客観は決して想像で作れるものではなく、
ひとつの人格が書き手の経験と読み手の経験をもつことです。
そこには「わたし」という書き手と「わたし」という読み手がいるのであって、
決して真の他人の視点ではありません。

「真の他人の視点」を忠実に考えれば考えるほど
本来は「わからない」だけが絶対的な真実になるはずです。

もしわたしが書き手にアドバイスすることがあるとしたら、
客観という言葉は使わないだろうと思います。
書き手は自分で読んでいて納得するものしか書けず、
それは常に一人称であり、
言葉は経験という事象と言葉の間の連想によって成り立っています。
その関係があるからこそ「職業用語=ジャーゴン」が適切に機能します。

書き手にはどこまで行っても
その人の言葉はその人にしか真に理解できないことを
十分伝えるだろうと思います。
それから「共通理解を得る手段」について話を進めます。
共通了解が得られるものと得られないものの判別は本来難しく、
分野が違えば本来ほとんど共通了解がありません。
それで説明には「物理的な量」と「物理的事象」をどれだけ多く書き表すかが
大切になってきます。

日本語という言語セット自体に曖昧さがあるのではありません。
曖昧なのはそれを使っていて、かつそれが共通だと思ってしまっている
わたしたち自身です。
そして「厳密には異なる」ことの完全な認識というのは
人間の集団のなかにいながら
「孤立」と「独立」と「自立」の組み合わせを要請する種類の行動であるために、
「誰にも拠らず自らの意思を支える」という必要とその手段があって
初めて可能になるものです。

この世界に対する「あるもの」への認識は、
わたしの言葉を支えるために必要なものです。

金曜日, 9月 07, 2007

宵っ張りのジェラート

今日は少し気を緩めています。
フィレンツェは福岡に似ていて、
夜遅くまで人が歩く姿ややわらかい雰囲気があります。
夜の通りでひときわ目を引くのがジェラート屋さんで、
12時を過ぎてもショーケースから
甘い香りが街ゆく人を無邪気に誘っています。

男も女もジェラートをよく食べます。

街には恋する人もたくさんいて、
それはあるべきようにあるような気がして、
なんとなくあたたかくて微笑ましい感じがします。

多分それは、「生きていく」ことと「恋すること」を
分けている認識から生じているようにも思います。
「生きるとき」と「生きるのを終えるとき」は
神さまが決めてしまうことで、
「恋すること」は自らがそう思ったことだ、
そんな風に言いたげな感じなのです。

「恋」に文字通りの「両想い」は決してありません―
それは「片思い」と「片思い」の寄り添いです。
どんなに相手を好きであったとしても、
どんなに相手が自分を好きだと思ったとしても、
相手は自分の思う仕方で好きになってはいないし、
自分もまた相手の望む仕方で好きになってはいないのです。

どんなに「私はあなたの望むとおりに」と思っていても、
それは自らが望む通りのことであって
相手が望む通りにはなっていないし、
「私がそう思うのだからあなたもそう思うはず」は
全く成り立ちようがありません。

それらすべてに十分すぎるくらい認識を持った上で、
なお相手を好きにならずにいられない
自らの思いに気づくのなら―
それは真の恋を突き止めているのだと私は思うのです。

そんなことはあり得ない、と人は言うかも知れません。

助け合って生きていかないと言っているのではないのです。
大切にしないと言っているのでもないのです。
そして私が思う「真の恋」でなくても構わないと思うのです。

でもどんなに自己犠牲を払うのだと言っても、
それはあなたがあなた自身を好きであるだけで
相手を好きであるわけではないのだから、
そんな状態のままで
私はあなたが好きだとは言って欲しくないのです。

「恋する」ことの本質は「恋を認識していること」にあって、
「恋するから何かをする」ということではありません。
これはただ言葉遊びをしているのではなくて、
恋というものはいかなる他の方法によっても
表現できないのです。

それは風に似ていて、
空気を捕まえることができても
吹く風を閉じ込めておけないのと同じです。

誰かに好きになって欲しいのではないのです。
誰かを好きにさせたいのでもないのです。
ただわたしはあなたをを好きであることに、
ただ本当にそう思うことに気付いていたいのです。

木曜日, 8月 30, 2007

うたうたいの気持ち

「シンガー」でも「歌手」でもなく 歌を歌う人は「うたうたい」だと
自分の中では呼んでいます。

素敵な恋の歌を聴くことと
そのうたうたいが失恋したのだという ニュースを耳にすることは、
こんなに完全な恋が表現できるのに
なぜうたうたいが失恋なんかするのだろう、と
ずっと不思議に思わせてしまいます。

「うたうたいも人だから」はその通りの答えで、
しかしそれを認めてしまうには
耳にした歌はあまりに美しいのです。

すべての機械にはそれを作る「マザーマシン」があり、
その「マザーマシン」だけは人が手で作ります。
しかし機械の世界は常に、
マザーマシンの精度以上の性能を
作られたマシンは持つことが出来ないと決まっています。

人はまったく不完全で、
でも人は自分自身より完全な歌が歌える、としたら、
それが人の不思議のひとつだろう、と思うのです。

?の!

現場を知らなければどんなに平和に「思える」世界であっても
現場を見ると予想とは違った様相になっていたり、
そして難しいと「感じる」世界であっても
飛び込んでみると意外にうまくつかめたりして、
「わたし」の今までの予想が役立たない場面によく出会います。
これを話すと
そんなの当たり前だ、と多分言われ、
しかしこれが常に誰しも持つ普遍的な事実であって
それにいつも手を焼いていることに向き合ってくれる人は
どのくらいいるのだろうか、とふと思います。

「宗教観」を出来るだけ持たないようにしようという発想から、
これまで宗教に関する記事や本には
出来るだけ近づかないでいようという意識がありました。
人が宗教と呼ぶとき何らかの方法で対立を生むことは分かっていて、
宗教を語らずにこの世界を表現する努力をしていました。

しかしこの世界には確かに「宗教観」というものがあるのだから
偏見を持たずに調べてみよう、という試みは
去年の春に始まりました。

買っては読み、しばらく時間を置き、
別の本を探し、という作業を繰り返して
「シュウキョウ」という言葉に
一体どんな人がどんなイメージを持とうとしたのかを
整理することも出来ずただ読み進んでいました。

「問う」という言葉の特殊性、について
人はずいぶん長いこと「問い続けてきた」ように思います。
「問う」という言葉は「無限」という言葉に意味が近く、
無限の定義が「留まることなく増え続けていること」と同じように、
「問う」という言葉は留まることなく歩き続けることのように思います。

たとえば禅は答えのない問答を続けるのだといい、
ヨブ記はただひたすら神の存在を問う人間を描き、
仏教は終わりのない彼岸へと向かう道なのだといい、
そこに共通するのは「留まる何か」を与えることではなく
「常に問いかけること」だけが
人が自らを支えられる方法だと述べているようにも思います。

あるのは物理でも法学でも名前のついた学問でもなく、
「問う」ということであって、
これはどちらかというと敬虔という意味合いが近く、
外に問うaskと内に問うquestionの両面で成り立っていて、
調べていくとreligiousという「状態」が敬虔であるのに対して
religionという「名づけれられたもの」を宗教という別の漢字で充てています。

ある日が昼ごはんを食べながら宗教観の話になったとき、
わたしの話に興味を持ってくれた彼に
「日本人は皆そんなにreligiousなのか」と聞かれ、
[日本人はreligionを持っているのか]という問いではなかったことを
思い出します。

わたしが求めるものは問う状態であって、
しかし宗教は滑走路のようなものであって、
ある点までは地面の助けを借りますが
ある点からは地面を離れて飛び立つように
設計された言葉の集まりであると考えます。

それを意識しているからか、
哲学の最後は問いかけで終わるものが多くて、
そして哲学の最後は自らの存在を否定して終わります。

自らの存在を否定する力を持つもの、
それを人は宗教のいう名のセットとして持っています。

月曜日, 8月 27, 2007

ミームが世界をつつむとき


つくばまつりでねぶたを見てきました。

木曜日, 8月 23, 2007

空想日記

月の話をしながらふと空想しました。

物理を構成する4つの力の起源である
大統一理論を調べるためには、
今人間が手にしているエネルギーの
およそ100万倍の100万倍が必要です。

これを手にするにはコライダー実験と呼ぶ
2物体の衝突実験が必要です。

ここである科学者が
月を光の速度まで加速する原理を
発明したとします。

人はこの世界の起源をはっきりさせなければ
人が存在する理由を説明できないことを知り、
緊張が高まっていきます。

地球上ではもはや大統一理論の実験ができない事を知り、
ある日人間は地球会議を開き
月を太陽系外にあるほぼ同じ質量の惑星に衝突させて
コライダー実験を行うかどうかを決める
すべての国の人が参加する投票をおこないます。

月が消えれば潮の満ち干がなくなり、
あらゆる生態系のリズムを狂わせ、
夜道を照らす明かりもなくなる代わりに、
人はこの世界の起源を明らかにできる
唯一の可能性をもつことになります。

こんな状況になったとき、なんとなくわたしは
人間が「月を失う」ことに賛成してしまう気がするのです。

金曜日, 7月 27, 2007

いくつかの思想からなる5行詩

思想の前提
・非常にしばしば転置を起こしてしまう感覚として、
行動が悪であるというものがあるが、
行い自体に善悪があるのではない:
善の定義は
それが「あり方」の問題であることを指し示しており、
善の定義は具体的行動を規定しえない。

・善の思想は世俗的道徳とは独立した概念であり、
世俗的道徳を完全に満たす善は存在しない。
この意味において、
いかなる人間にも恒常的かつ永続的な善は宿っていない。

・外的な社会の保持には我々は情報と模倣が必要である。
重要なことは外的模倣をしないことではなく、
外的模倣と内的(心的)模倣を混同しないことである。

・真の未知=現在は真の未知であるがゆえに
本来知覚できず、
恐怖は常に既知のものからのみ生じる。


・思想の正しさは
外的世界のいかなる既知の現象にも
その基礎を求めていないときにのみ生じる。

木曜日, 7月 26, 2007

アニマと世間話をする

あくまで比喩として人の命は地球より重いといい、
しかし地球にはたくさんの人が住んでいるのだから
この比喩はどこまで受け止めるべきだろうかと
ふと思うことがあります。

似たような例で、
人間はこの宇宙で取るに足らない存在だといい、
しかしこれを言っているのはあくまで人であるので、
宇宙と人間存在の大小は価値観に拠ったもので、
わたしとあなたは等質であるというのが
適切かな、と感じることがあります。

たくさんの海を見て自分の心の中に海が描かれるように、
たくさんの人間を見て心の中に人間が描かれます。
心理学の言葉でアニマと呼ぶ自分の女性面があって、
時折それを意識することがあります。

そのような心は誰にでもあるのだ、と本にはあり、
しかし心理は主観に基づく個人固有の持ち物であるので
「誰にでも」の客観的観察を前提とした言葉に
なかなか確証をもたせることができません。

女性面があるからといって、
服が着たいわけでも化粧がしたいわけでもありません。
現実の女性の方がよほど綺麗だと感じるからです。

だからといって女性のように遇されたいわけでもありません。
それ自体は良いや悪いではない中性的な現象なのですが、
たくさんの女性がそう思うらしいと書いてある本によるところの
「女性が喜ぶ」ような事柄に興味があるわけでもないのです。

それで日記を書きながら自分のアニマは何がしたいのかと見つめていくと、
どうやらさまざまな感情の交叉を意識する必要なしに
ただ世間話がしたいのではないかとふと思いつきました。

性差を意識することなく話す友達はいますが、
それでもその立場はやはり男性と女性の担当を分けていて、
男性同士、女性同士で話するような
心理状態の基盤の共有を伴う会話にはなりません。
そしてそれは実現できない願いであることに気がつきます。

男性と友達であってもそのアニマが満たされるわけではなく、
女性と友達であってもそのアニマは見出されることはなく、
ただ時折わたしが私以外に友達のいないアニマを訪ねては
月の浮かぶ湖のほとりで
とりとめのない会話をするように思うのです。

火曜日, 7月 24, 2007

読むなら古い本を薦めます

夏なら毎日食べてもいいと思っているものは
そうめんと厚揚げです。
どちらもしょうが、ねぎ、みょうがと
薬味を効かせて楽しみます。

タイムマシンに乗る方法があります。

一本の木について注目すれば
それは時間の経過がわかるのですが、
たくさんの「木というもの」について注目すると
それはある時間幅の中では普遍的として取り扱える
対象になっていきます。

時代を表現するには言語、非言語を含めた
何らかの「情報」が必要です。
そしてその表現の一つが言葉であり、
本はその言葉を残すために作られます。

科学の世界ではその分野の創世記とともに
それに関わりを持ったいくつかの人物の名前と
世に発表した研究論文という「ことば」が紹介されます。

その分野を作った論文なのだから
さぞかし難しいだろう、というのがわたしの予想だったのですが、
なぜか一番初めに書かれた論文が
一番読みやすく平易に記述されているように感じます。

それを引用したものはどれもひどく展開が省略されていたり
理論が発展して見た目が難しくなってしまったりして、
読んでいて面白いものは多くありません。

たとえば物語の感想について詳しく書かれた書物があって、
しかしいくら詳しく書いてあっても原典が持つ意味には届かない、
というものをよく見かけます。
「わたし」に関して記事にするほどの「変わったことがない」と
人はかなり思うようで、
それは確かに同じ「名前」のついた電車に乗って
同じ「名前」のついた場所の席に座り、
自らが考えることではないという仕事をしている、という認識では
それらは「決まっていること」だとみなされる傾向にあります。

あらゆるものが本来「同じ」にはなりえないのですが、
「人と同じことをしている」と感じることもまた
「わたしは特に面白いことをしていない」という連想に向かう
ひとつの理由付けとして使われることになります。

わたしたちは「同じ」であることにもう少しなじむ努力をする一方で、
「同じでない」ことを認めていかなければならないのかもしれません。
日本語が使えるからといって分かり合っているとは限らないし、
それなのにあなたとわたしには同じ重力の仕掛けが働いています。

昔から何度も読まれた本がある、といい、
しかしそれをわたしやあなた自身が読み始めるまで
それはどんなに名著だとよばれていても
本としての役割を果たさないものです。

月曜日, 7月 23, 2007

夏の料理にはよく火を通す

蒸し暑い日が続いています。

食べ物の日持ちをよくするために
「食べられる火の通し加減」よりももっと長く
煮るや焼くの時間を取ることで、
食べ物の日持ちをよくすることができます。
なんとなく中華料理のように
火を入れる時間が短い方が酵素やビタミンを失わずに
済むような気もするのですが、
長く火を入れた料理を食べると
不思議と体が落ち着くような気がします。

煮物というのは本来おいしさを保つために
火を止める時間加減のある料理なのですが、
作って食べるときには頻繁に火入れをし、
しかも煮過ぎてもあまり気に留めずに口にでき、
それが体に優しい食べ物になる理由なのかもしれません。

金曜日, 7月 20, 2007

短報

わたしは普段眼鏡をしていません。
しかし「日常生活する距離の視点」、
50cmぐらいのところの物を見るのがとても苦手です。

エスカレータの降りる場所を
足元を見ずに知ることができます。
視野角が広くなっているようなのですが、
そのせいで一日過ごすと眼がとても疲れます。

中島義道「悪について」を取り寄せています。

世間が決めた道徳が善だとは思っていません。
道徳の是非は時代によって変わるからです。
そして変わるものにしがみつくことはできないからです。

法が善だとも思っていません。
法は人が作り出したもので、利害の調整はできますが
それで社会に絶え間なく生じる「新たな問題」をカバーできてはいません。

わたしが感覚的に信じている善は
自分の都合よりも「それ」が優先できるかであって、
大事な人の定義であればわたしの都合よりも
その人を生かすことを優先することとなります。
それは「自己愛」を脇において考えることでもあります。

だからといってわたしは「善」という言葉が
ポジティブな意味ではまったく好んでいません。
「善」とは肯定的に存在するものではなく、
あらゆる付帯物を否定してなお打ち消せない、という方法でしか
確かめることができないものだと思うからです。

この感覚はおそらく道徳的な法に縛られて安心する人には
まったく厄介なものになります。
可能な限り法の枠の中にいようと努力はするのですが、
絶対に法の中にいるとは約束しないからです。

すべての人がそうである、とは決して言わないつもりですが、
多くの女性の「正しさ」は潜在的に「自己愛=わたしのため」を含んでいて、
わたしが求めるものとは少しだけ違う気がするのです。

わたしは自分のことを正しいとは言わないつもりです。
それが喜ばれることでもなければ好ましいものでもないことも、
まして正直やありのままでなかったことも認識しています。
過ごしている時間のほとんど全てが
自己愛に根ざしたものだとも思っています。
でもわたしは大切に向き合っているときに
「自己愛」から離れた選択をしたつもりです。


火曜日, 7月 17, 2007

祈りという高級言語

東京駅から博多駅まで新幹線のぞみで5時間ほどです。

行きはあなごめしか深川めし、

帰りはかしわめしをお薦めします。

わたしなりに科学の予想をすると、
意識の問題が解かれるその少し手前で
祈りの問題と意味が解かれるだろう、と
最近考えています。

祈りには言葉が必要です。
そして正確な意味での祈りでは
眼に見える物体の対象はありません。

言葉は伝達のための手段だといわれています。
心理学療法などでは意識の間に言葉を介在させて
意識への働きかけを求めます。

言葉は自己認識の手段だともいわれています。
話す対象へと言葉を投げかけることで
それが強化されていくのだといいます。

プラグマティズムの世界においては
「意思」を言葉で作ることになっていて、
自己暗示をかけるであるとか言われています。

計算機に指示を送るプログラム言語は
最初は0と1の数字をいくつか並べたものを
ひとつの「命令」に対応させたもので、
アセンブリ言語と呼ぶこともあります。
アセンブリ言語は非常に高速ですが、
膨大な命令群をアセンブリ言語だけで記述するのは
時間的制約から無理があります。

たとえば漢字を使いたい場合、すべての漢字を
メモリ上のアドレスを指定して表示させるのはほぼ不可能です。

そこで「アセンブリ言語のまとまり」をさらに抽象化したものを
新たに言語とし、これを高級言語と呼ぶことにしました。
こうすることによって、"Aを画面に表示する"というような命令文で
実際に画面にAを表示させることができます。
そこでは計算機的にどのようなデータの流れが存在するかは
見ることができません。

高級言語にはいくつかの欠点もあります。
逐次翻訳型とよばれる高級言語は
すぐに動きますが翻訳プログラムを常に通すために
できたプログラムはあまり速度が上がりません。
一方で先に翻訳してしまう高級言語は
速度は速いのですが翻訳にかなりの時間がかかります。

面白いのは、翻訳機の性能が変わると
同じ高級言語の同じ命令であっても
実行プログラムの速度と機能がまるで変わることです。

時折、祈るだけでは何も変わらない、という人がいます。
祈りは精神の純粋な活動に近いものであるため、
実存主義的な「眼に見える変化」になじまないのだと思います。
しかし祈りは「高級言語」に近い働きがあるのではないかと
最近考えています。

それは誰もが実行できることではないにせよ、
ヨガで代謝や心拍数を変化させたり、
強い意識が病気を治す力を高めることなどの実例から
現象論的に説明できます。
誰でもできないから証明できない、と言ってしまうのは
誰でもスノーボードで宙返りができないから
わたしは信じないというのに近い感じがしています。

人は祈りによってその具体的な方法を意識することなく、
その方法を実行する手段を身につけられるのかもしれません。
そして人が経験によってより適した翻訳機を持つことができれば
同じ願いであってもより叶いやすくなるように思います。
そしてそれ以上に、
祈りはわたしという枠を超えたところへ作用するような気がするのです。

祈りという行為がどのように実体に作用を及ぼすのか、
わたしは試してみようと思います。
現実には叶わないと考えられている願いを、
すべての人に幸せが訪れるよう願うことを、
祈りがどう叶えるのか調べてみたいのです。

木曜日, 7月 12, 2007

慰めと共にあることの意味

雨が降っています。
福岡に比べて関東の梅雨はあまり蒸し暑くないので
それほど気になりません。

わたしが思いめぐらす「ある種の悩み」は
かなりの部分が「ヨブ記」に語られているような気がします。
ヨブは敬虔に生きようとし、自らの罪を認めていて、
それなのになぜ世界はわたしを苦しめるのか、と
神に問いを投げかけます。

周りの人がこぞって悩む彼に性急な結論を与えようとして
理由付けをし幾多の言葉を投げかけますが、
彼は「人の語る言葉で説明などできない」から
「どうか神に問わせてくれ」と願います。

キリスト教を広めるものにとってはヨブ記の章は
「よい事を信じればかならず報われる」と解釈しますが、
これを現実に当てはめれば
そうではないことはよくわかっています。

わたしがヨブ記を読んで慰めを得るのは、
それが最後には救われるという打算的な約束があるからではなく、
同じ悩みと苦しみを感じた人が
以前からこの世界にはいる、ということを認識できるからで、
物語の中のヨブは一人荒野の嵐で立ちすくみますが、
これを読む私の心は彼と共にいて、
わたしが問いかけることと同じことを言葉にし、
ただ同じ苦しみを持つものだけが与えてくれる慰めを
得られるような気がするのです。


「無駄口はやめよ」とか「何にいらだってそんな答えをするのか」という。
わたしがあなたたちの立場にあったなら
そのようなことを言っただろうか。
あなたたちに対して多くの言葉を連ね
あなたたちに向かって頭を振り
口先で励まし唇を動かすことをやめなかっただろうか。

ヨブ記16章3-4

月曜日, 7月 09, 2007

increment, incruded

わたしとわたしたちの動機付けが
すべて何らかの「仮説」に基づいている、という言葉を作ったとして、
それを証明する方法は存在するだろうか、と
ふと思います。
なぜならば、「仮説に基づいている」という言葉自体が
「仮説」である域を超えないからです。
トートロジーのように聞こえるこれが
どうやらある種の普遍性を帯びていることに
ふと戸惑うことがあります。

ここで「仮説」に対する「実証」を考えるとき、
わたしたちは現在のところ「宇宙の始まり」に
実証の由来を求めるほかにありません。
宇宙が始まったことと、時間が進むことだけが
この世界の普遍的な出来事で、
この証明の前にはあらゆる寓話的仮説が排除されてしまいます。
そして宇宙の始まりは
わたしたちすべてがどう生きるかという問いに対して
まだ何らの「言語的」回答が示されていません。

「証明されていないもの」を「仮説」と呼ぶのであれば、
私たちは「仮説」の中で生きていることが「証明」されています。

ここで宇宙は「始まった」としましたが、
宇宙にある「起点」が存在するのか、それとも循環しているのか、
その点について論争が続いています。

わたしたちが何かを決めると行った時に必要なものは、
「絶対的真理」ではなく「仮説」です。
「絶対的真理ではない」理由は、
おそらくわたしたちが「人」に生まれているせいで、
宇宙の果てを観察することもできず
空も飛べないほどの限定された存在だからです。

わたしたちはさまざまな仮説を立てることができます-
神はいるとか、神はいないとか、
争いは続くとか、争いは終わるとか、
幸せはあるとか、幸せはないとか、
そしてすべては「仮説」であるとか、あらゆるものが「真理」であるとか。

しかしわたしが思うことは、
これらすべては「仮説」だろうな、ということです。

日曜日, 7月 08, 2007

Miscellaneous

食材選びに一段落して
新しい器を買いました。
器は大きさやデザインのほんの少しの差が効いてくるもので、
それは宝石をあしらったアクセサリーにも
共通したことが言えます。

日本人はよく「神を持たないこと」を誇っているようなところがあって、
神なんか持つから戦争なんて始めるのだ、と
時に言いたげな場面に時々出会います。
religionという言葉に当てはめた意味について
わたしは時に詰めなければならない考えがあるように思います。

平等院鳳凰堂ができたのは浄土に早く行きたいという
末法思想の影響があったといい、
歴史上人は時々神を見失っています。

神の指針が揺らぐことと
教義が揺らぐことはある意味で等価で、
須弥山を中心とした仏教の世界観が
「地球が丸い」ことを示したキリスト教と衝突したりして、
教義は言葉でできているためにこのような事が起こります。

いくらこのような書き方をしても、
「世に広まった」というときでさえ
必ずそうは思っていなかった人たちの生活があり、
「教義が議論になった」といっても排他的に生活をしなかった
人たちの営みがあったはずなのです。

水曜日, 7月 04, 2007

シャボン玉がストローを離れるその瞬間

空の鳥を良く見なさい。
種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。
だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。
あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか。
マタイによる福音書6章26節

火曜日, 7月 03, 2007

探し物は「安心」ですか、それとも「安全」ですか

埋めて戻す、を繰り返す道路工事があって、
たとえばそれは税金の無駄遣いだと言われることがあって、
しかし契約を纏めて収入が減ると嘆くのは土木の人で、
実際の多くの場面では雇用側ではなくそこから会社の経費を引かれて
支払われる労働者が困ることになって、
なぜか無駄遣いの結果益を得るはずの人のところで
収支のつじつまを合わせるようなことになる、
このシステムの醸成とそれにかかる危険の放置が
金融業や虚業の最も深い罪だと思っています。

たとえ虚業でも新しい健全なシステムの構築へと
エネルギーを振り分けられるのであればそれは建設的な仕事で、
わたしたちはそれぞれの職業で
なんらかの「ものづくり」をし続けることが
健全な循環の社会を作る鍵だと信じています。

シソーラスがあって、
それはよく似た言葉を集めて言い換えを促す辞書、という
側面を持ちます。
最近気になっている近い言葉は
satisfyとfulfillの違いで、
それに対する訳に何を当てはめるべきかと考えています。

satisfactionと書くとまず「満足」と出てきて、
一見それでよさそうなときもあるのですが、
満足という言葉はよりfulfilledに近い意味合いを持つような気がして、
それでsatisfactionは「安心」に近い意味を持つのだろうかと
ふと考えました。

調べたところ「充足」という言葉が出てきて、
これなら意味が近づく感じがします。

ではeaseなら「安心」に近づくかというと、
easeは「気を抜く」に近いニュアンスもあって、
安心という状態とはやや異なることに気がつきます。

和英辞典で安心を調べると平和を指す"peace"が出てきて、
peacefulはそれに近い意味合いかもしれないと思います。

reliefは確かに「安心」に近づきますが、
これは「何かからの開放」というニュアンスを含んでいて、
安心は不安と対極にあるものですが
不安から離れることが安心ではないと感じて、
これは安心の意味とはまた違うと思ってしまいます。

気になったのは安心の中にsecuredが入っていて、
今日の疑問はこの「外的・物理的に防備された」というsecuredで
「安心」が得られるのか、というところへと向かいます。

外的に求めるものが「安全」で、
内的に求めるものが「安心」だとすると、
わたしたちは求める方向として二つあることが分かります。
そして方向が異なるのであれば注意が必要で、
安心が欲しいときに安全を求めることは理に適っていないし、
その逆もまた理に適いません。

たとえばいくらドアに鍵をかけても、
それは家を安全に近づけるだけで安心はしません。
一方でいくら安心して橋を渡っていても
橋の点検を怠って強度不足であれば安全ではありません。

安全が安心に繋がるのか、という問いは
わたしは繋がらない、と答えるような気がします。
そして人は非常にしばしば「安全」と「安心」を混同しているような気がし、
また「安全」で「安心」が手に入るか、
「安心している」から「安全である」と思い込んでいるふしがあって、
それが極めて似通った概念であるからこそ
わたしたちは使い間違えるのです。

安全は安全に向かう道があり、
安心は安心に向かう道があります。
そしていついかなるときにも「安全」は担保されないかもしれませんが、
「安心」は求めることができるかもしれません。

月曜日, 7月 02, 2007

fearとseeについて

苦手な仕事に就いたと思うときがあって、
しかししばらくすると自分の得意な持ち場を
生かせる場面が現れることがあります。
この時得意である持ち場というのは
かつて苦手だったけれど我慢して身につけたというものが多くて、
それで「得意」と「不得意」は移り変わるものだと
気がつきます。

あらゆる言語は非常に厳密に言えば翻訳不能です。
それぞれの単語が指し示す意味の範囲が
厳密に同じであることはありえないからです。

それでも翻訳を試みる場合には
何らかの観点から切り取る、という作業を行うことになります。

単語は一つ一つが文化的な成り立ちを持っています。
日本人の間でさえ「その言葉が指す意味は何か」などと
形而学的疑問を投げかける人がいるぐらいなので
違う言葉にすればなおさら異なった意味になってしまいます。

しかしある人がある言語を
「文化的背景との深い関わりを持たずに」用いたとすれば、
実はその言葉は最初から限定された意味を持つことになり、
かなり正確な表現となる場合があります。

日本語ではそれが非常にしばしば行われていて、
新しい現象に対して外国語を借りてきては当てはめ、
その現象のみを指し示すように仕向けることがあります。
それで日本語のjargonには
気取ったようにと揶揄される外国語の単語が並び、
そして外国語の本来の意味に通じている人が見ると
何を言っているのか逆に分からなくなるという現象が発生します。

今読んでいる本のキーワードはfearとseeとtotality、fragmentationで、
全体や断片に相当する言葉は比較的意味範囲がオーバーラップできるのですが、
fearとseeはかなり込み入っていて、
それをどう訳そうかとかなり考えをめぐらせています。
よい表現があったら教えてください。

木曜日, 6月 28, 2007

ある日、月まで燃料の石を拾いに

所を出る直前に携帯電話を水に濡らしてしまい、
携帯を持たないままJRと新幹線に乗りました。
JRのホームに設置してあった公衆電話は
硬貨ではなくテレホンカードでしかかけられないタイプのもので、
10年ぐらい時間が逆戻りしたような生活をしています。

がん細胞の研究をするグループの人と
最近良く話す機会を持ちます。
たんぱく質は「機能」を持つにもかかわらず
それ自身は生物ではない、という話題があって、
「生物」の定義を「自己複製」というものに当てはめていることで
この問いを考え続けています。

機械に原子力の心臓を積み、
自らに工作機械を搭載して
自らとまったく同じ機能の機械を作れるようにしたら
それは生命と呼ぶのだろうかとふと思います。

これほど飛躍した話ではなくても、
街は確実に生き物としての性質を持っています。

新しい街には以前の街からの「文化」が引き継がれ、
経済、インフラ、行政の機能を分割して
それぞれがある程度自立したシステムとなるのだから
十分「生物」の定義に当てはまっています。

それより大きな単位になると
「生命」に類似したシステムを見つけるのは難しくなります。
地球を二つに分けたとしても、
それは小さくなってしまうので
正確には地球はそれ自体が生命としての定義を
持ち得ないことになります。

システムを繰り返すという点では
超新星の単位まで視点を広げる必要があります。

もし「地球を複製する」というプロジェクトが始まったら、
それはわたしたちが「生命」と呼ぶシステムになるはずで、
地球の質量を減らしてはいけないような気がするので
たきぎ拾いに出かけていたように
隣の星まで燃料の石を集めに行くことになると思います。

人はいつか太陽系を再編成できるのだろうかと考え、
そのとき地球自身があたらしい生命単位になるのだろうと思います。

水曜日, 6月 27, 2007

知性の非対称

最近の宇宙論に拠ると、
この銀河系は真球ではなくゆがんでいるといい、
それは宇宙が対称性を持っていないのか、
あるいは観測不能な対称性をもっているのかの
どちらかになります。

宇宙の始まりに非対称がたとえなかったとしても、
高温の宇宙が冷えていく間に統一された力は
その領域によって4つに分かれてしまっています。

仮にそれらの力が統一されたとしても、
多体系の物理は解析的に解くことはできず、
エントロピーがその乱雑さを規定します。

わたしたちは非対称であるこの世界のことと
統一した対称性を求めることについて
可能な限りの理解を深める必要があります。

極めて単純で規則的な微分方程式でさえ
眼に見える現象としてはカオス的になることや、
豊かな実りを授けてくれる自然でさえも
火山や津波や竜巻や地震を引き起こすこと、
晴れと雨が規則的に永遠にやってくることはなくて
それらは偏ってやってくること、
外見は対称であるようでいて
体内のつくり、
臓の位置は非対称であること。

そしてそれらからの演繹で言えば
平和を望む人と争いを望む人は
これからのどんな世界にも必ず存在します。

人間は60兆の細胞からできているのだといい、
時に免疫のフィードバックがおかしくなり、
脳の中ではさまざまな思想が衝突していて、
わたしという人間の中でさえも
調和と争いは日々続いているのです。

世界は「知覚できない何らか」の
バランスをとるようになっていて、
世界に戦争がやまないのはもしかしたら
わたしが平和という偏った状態を望むから
そのバランスをとるために争うのかも知れず、
それでもわたしは全ての人が
その見えない任を果たしていることを見たいと思います。

よく疲れ、時々みっともない思いをし、
風邪を引き、文句を言い、
くだらない思想に翼を与えることがあり、
しかし時に使命にも似たものを感じ、
目的に向かうことがあります。

どうかそれら全てが偏りのない形で認識され、
等身大の人間でいられたら、とよく思うのです。
しかしわたしのあらゆる面が「対称に認識されること」は
この非対称な世界ではとても難しいことかもしれません。

月曜日, 6月 25, 2007

脳はstaticを好まない

100Wぐらいの電源がパソコンに乗ったといって
驚いていたのは約10年前の話で、
今は1kWの電源が乗るのだそうです。
これは電気ストーブをつけているのと同じで、
部屋を閉め切って計算してみたらひどく暑くなりました。

スキーに行ったときに、スキーがうまくなった人から
「うまくなる途中が一番面白いのだ」という台詞を聞きました。

「うまくなりたい」ことと「うまくなる」ことのイメージが
なぜか人はしばしばずれているように思います。

目的があるということの中に、
「そこにたどり着くこと」への願いと、
「目標自体を持てること」への願いが重ねあわされています。

「何かをしたいのだ」という人に、
「じゃあ叶えてあげればいいのだろう」というのは
時に適切で時に適切ではありません。

この世は縁で成り立つのだといい、
それは「この世界がそうなっている」ということと
「脳がそうなっている」ことの二つに理由があって、
時に判断に迷います。


木曜日, 6月 21, 2007

首相、今日の体調はいかがですか

日本で言うところの味噌汁は
韓国で言うとわかめスープなのだそうで、
ではイギリスならコンソメスープなのかなと
勝手な連想をしています。

勝手な連想、という動作が難しくなってきました。
ひとつは自分が「適切な連想」ができるようになっているせいで、
もう一つは「ネットで調べれば何かの情報が得られる」という
確信があることです。

ネットの情報は決して「全てが正しい」わけではなく、
大勢を占める情報であっても正確であるわけではないのですが、
「たくさん見ている」ことで次第に判断できるようになる面があり、
「なにもせずにいる」よりも多くの情報を扱うことになり、
「人に聞く」よりも手数が少ない場合があります。

情報というのは現代でも「財産」のように扱われることがあり、
技術の継承でおそらく問題になっているのは
伝える側が情報を「既得権益」的に取り扱うことだろうと思っています。

テレビの画面で見る「首相」は
姿を知ってはいるけれど断片的な声しか聞けず、
しかも自分が質問した答えを聞いたわけでもなく、
そういう意味でコミュニケーションが取れていない存在です。

良く知らない「ある人」の「何らかの行動」に対して
言えることを見つけるのは時間がかかります。
それは「歴史上生きた人の足跡」で、
たくさんの人が意見を摺り合わせてできるものならともかく、
現在形で生きている人の状態を確定するのは
どんなに近くにいても不可能なことだと思っています。

それで「年金問題をどうするつもりですか」と問いかける前に、
「今日の体の具合はいかがですか」と聞いてみるほうが
よほど的を得た質問になるような気がするのです。

銭湯にて


月曜日, 6月 18, 2007

20段分の階段差で変わる世界

梅雨らしい曇り空になっています。

五木寛之の本に出てきた「アウトバーン」の話では、
気圧が低いときではなくて気圧が変わりつつあるときに
事故が起こりやすくなるのだというくだりがありました。
人間はやはりどこかで機械なのだと思います。

たとえば外国に飛行機で行く、というときには
違う国であることを強く意識するのですが、
たとえば一度も行った事のない隣のマンションを見て
そこが外国であるような意識はあまり持ちません。

わたしの仕事場のフロアは3階で、
階段を上った4階は宇宙線や細胞実験の研究者がいます。
昼に話をする機会が増え、
同じ日本語のはずなのに言葉がまるで分かりません。
今日はプラスミドがどうだとかmRNAがどうだとかいう話で、
たんぱく質は機能を持った「生き物のようなもの」であることが分かりました。

よくよく話を聞いてみると常識の範囲までまるで違っていて、
毎日質問しています。

土曜日, 6月 16, 2007

原子力による太陽に対する認識の変化

食べ物の「味」と呼んでいるものは
直接的には主に「香り」のことで、
イチゴ味というときには
主に砂糖とイチゴ香料があれば
最初の良い近似になります。

原子核反応から化学反応とは比べ物にならないほどの
エネルギーが取り出せるという認識は、
どうもその認識自体が
この世界のありようを変えているのではないか、と
ふと考えました。

信仰の形として「太陽信仰」と言うものがあって、
ピラミッドやインカ文明にみられるように
太陽を神として祭る風習は今なお存在します。
しかし日食のメカニズムが理解されていなかった時代と
それが月の軌道のせいだと理解されている時代では
太陽の「感覚的な重み」もまた異なっているように思います。

太陽は物理の観測によって常にある場所にあって、
多少運動に変化が起こるけれど安定な存在だと思われていて、
それで「いつも安定だと思われている」太陽は
当たり前の存在になってしまっています。

わたしたちは「太陽の影響をある程度コントロールする」
と思っていて、
紫外線が有害であるとか夜には電灯がつくとか
太陽の機能を人工的に取捨選択しているつもりになっています。

しかし太陽の光がなければ
もともと地球に生命が発生する可能性はなく、
いくら原子力が発達したところで
この地球の主たる駆動力が太陽であることにも変わりがなく、
人の心に影響を与え続ける「光」の存在もまた
太陽から生まれているものです。

ギリシャ神話では太陽を恐れずにロウの羽で
天へ飛び立とうとした若者の話が出てきて、
わたしたちは無意識に「太陽に近づいている」ような気がします。

金曜日, 6月 15, 2007

1回性の生き物

電車や自動車に乗るようになってから
天気予報が当たるとか当たらないとか
最近はすこし気にならなくなっています。

天気予報というのはいつでも同じ確率で
当たると当たらないがやってくるのではなく、
気象条件の難易によって命中精度が変わります。

特に気圧の山と谷が入り乱れる頃、
たとえば春先の細雨とか梅雨の入り口などでは
晴と雨の境界線が頻繁に列島を横断するので
「降る」か「降らない」かという問いに
うまく答えることができません。

時間を計る、という作業は
「周期的に発生するイベント」の存在を前提とします。
これは古いところでは太陽の周回や振り子、
燃えている線香や水の入ったたらいで、
それが現代では
セシウム原子核の振動数を計っています。

ラジオを聴き始めました。

CDを聞いていると、CDを買った当初は
ちゃんとCDの音が聞こえるのですが、
しばらくするとCDを歌詞ごと覚えてしまって
自分の記憶とCDの音が混在します。
そうするとCDはうまく聞こえなくなってしまいます。

流れる歌から歌詞がわかる人と、
歌詞は見ないと覚えないという人がいます。

覚えてしまった音は「過去の音」で、
それで「いつも違う音がする」ラジオがいいと
思うようになりました。
その点に到って、
流行りとすたりは人が必ず持っている現象だと
認めなければならなくなります。
そして流行りとすたりは
この世界の全てについて起こるのです。

しかし流行りとすたりはやってくるだけで、
ほとんど同じところを行き来しています。
だから西洋文化と東洋文化の注目度は
大きな時間単位で行き来するし、
服の流行りも数十年で行き来するし、
恋の高まりと落ち着きもまた往復するのです。

生き物だけがエントロピーという名の
乱雑さへの進行を食い止めているのだと
何かの本には書いてありましたが、
そのためには太陽に与えられたエネルギーを使っています。
地球に最も大きな影響を与えているものは太陽である、
これはおそらく検証可能で間違いがない話です。

太陽と地球の距離と軌道はほとんど奇跡的なのだといい、
もし0.1%でも軌道がゆがめば
今のような生命は発生しなかったといわれます。

だからわたしたちは
「見えない神」の子という表現が
見えも触れもしない一向にまとまらぬ要素であるなら、
極めて現実的に「太陽の子」と言うことができます。

太陽についての研究はかなり進んでいて、
数十億年先には太陽が巨大化して
地球はその中に飲み込まれてしまうとも言われています。
地球の資源をいくらつぎ込んだとしても
太陽をゆがめることはできないことはよく分かっていて、
そして「永遠の繁栄」は
「太陽がある限り」と言っておくのが妥当なところです。

表現のなかでは主に天が父で大地が母です。
エネルギーを与えるものと受け取るものがいて
その照り返しのはざまに生き物は成り立っています。

神のようになるという目標は想像ができませんが、
太陽のようになるというなら想像ができます。
それは本来大きくて強烈で、いつもある距離で遠くにいて、
あたたかいものです。

木曜日, 6月 14, 2007

既に答えは与えられている

写真を貼るのは好きなのですが、
レイアウトがゆがむのが気になります。

新しさや古さといった表現について
しばらくの間考えを続けてきました。

新しいものに人は飛びつき、
古いものに寄りかかります。

時間の表現は物質に「新しい」と「古い」を別途与えているように
感じますが、
物質、つまり空間と時間は連成した存在なので、
物質のないところに時間はありません。

人は新しいを探してこの世界を飛び回っています。
そして何らかの問いに対する答えを
この世界の外側に求めようとしています。

この世界を作ったのが自分の脳であること、
脳はネットワークでできていることを考えると、
たとえそれが10の1000乗のバリエーションがあっても
有限であることに変わりはなく、
ネットワークの組み合わせ以上の答えは存在しません。

ネットワークの組み合わせは常に存在するので、
この世界の理解というのは「新しい要素を加える」ことにはなく、
ただ「わたしの要素を減らしていく」ことのみが
世界の理解の正確な表現になります。

どんなに複雑な宇宙論も、
どんなに素敵な物語も、
本当は全ての人の頭に最初から入っていて、
わたしたちはただそれに「気付いていく」だけです。

「捨てる」権利を「求める」


カロリーのないコーラ分野でペプシとコカコーラが頑張っているのだそうで、
黒いラベルのコーラを見つけた自販機のそばに
花が咲いていました。
情報の保存についての研究があって、
それは情報を保存したり圧縮したりする場合に
「可逆」と「非可逆」の特徴を取り扱うことでもあります。
情報圧縮は何も遠い世界の話ではなく、
jpegのような画像の取り扱い、mp3のような音楽の取り扱いで
頻繁に現れます。
jpegやmp3について言えば、
原画や原音を「完全には」再現しない、
つまり情報を一部切り捨ててしまうことと引き換えに、
可逆圧縮では得られない「高い圧縮率」を実現します。
その効果は再現させる画像の特徴にもよりますが、
感覚としては概ね10%程の情報切捨てで10倍の圧縮ができます。
人が何らかの数学的理論を思いつくということは
脳自体にその機能が実現できるからでもあります。
人は何かを「選んでいる」といい、
それは自分が一つ一つ積み増ししているような感触を持ちますが、
おそらく脳が行っていることは砂金とりの様なもので、
大量に砂を集めてきてふるいにかけるようなものであります。
この世界の現象を取り扱う際でも同じことが言えて、
解けない微分方程式を無理に解こうとする際に
解が有効な範囲を限定して線形近似を施し、
解ける形の方程式に変形します。
変形することで初めて、少しだけ未来予測が可能になります。
これは明日の天気がほぼ当たること、
1週間後の天気があてずっぽうの期待値以上にほとんど当たらないことを
表す際の話です。
人の脳はそのネットワーク・マトリクスで
問題を解こうとしていて、
しかし要素が多すぎては解けないので
見方を変えて扱う数字を少なくしたり、
不要な要素を切り捨てて解けるようにしたりします。
だから人が望んでいることは全て、
全体を満足するような「不要なものの切捨て」を行っているのです。
だからわたしとわたしたちが望むものは常に「取得権利」ではなく、
「棄却権利」です。

水曜日, 6月 13, 2007

日本語で神は定義できるか



知り合いから生のふきをもらいました。
前の日に作った角煮の煮汁をベースにして
醤油、ミリンで味を調えて仕上げました。
ふきはほろ苦い程度にあく抜きを調節したので
主観的には大人の味になりました。

「見た」文字を「読む」回路に接続するとき、
日本語は「前後の文節との関係性で読みの音を決める」
というプロセスがあります。
つまり見ると読むの間にネットワーク回路が必要で、
しかもこの「読む」は「ルビを振る」ことによって
「見る」からほとんど完全に独立した操作になります。
一つのものに多義的な定義が存在するというのは
よく言えば幅の広がりという表現になり、
しかし絶対感の欠如というのは
極めることに対して大きな障害になります。