木曜日, 1月 31, 2008

書きっぱなし

ハリアーハイブリッドを選びました。

ホンダという会社はたいへん不思議な会社で、
独創性が非常に高いにもかかわらず
「エンジンに取り憑かれている」としか思えない方針に
しばしば出会います。

「エンジン」がなければイノベーションが大変強いのです:
航空機もロボットも作ってしまいました。
コンセプトも設計も大変見事です。

しかし「エンジン神話」が常に二の足を踏みます:
エンジンの最適化にこだわりすぎて
V10の複雑システムを F1に持っていったために
トータルシステムを犠牲にして
ホンダは勝てなくなっていったし、
車はエンジン以外の性能、
ボディ剛性とか質感に車間の個体差を感じにくいのです。

確かにホンダのエンジンは
文句なく世界一の確信があります:
しかしハイブリッドシステム「IMA」を作ったとき、
「ハイブリッドシステムでアイドリングストップをしない」というのは
あまりにエンジン主体の意思が見えます。

ホンダは「モーターアシスト」という用語を捨てません:
モーターは「アシスト」、補助であるというのです。

「インサイト」の設計を知ったときに、
エンジンシステムには大きな改造を加えず、
全アルミの高価なボディと軽量化、
空力改善の追求で
確かに世界一・35.5km/Lの記録を作りましたが、
修理に高等な溶接技術を要求するアルミボディと
加速感に乏しいパワートレイン、
4人乗れず荷物が詰めない構造は
「車としてのロバスト性」を全く考慮していないことに
目が留まりました。

回転数に対するモーターのトルク域とエンジンのトルク域は
理想的な相補的関係があり、
「ハイブリッドシステム」が「エンジンシステム」を
一切妥協せず全方位的に超えられる理由はそこにあります。
しかしそのためには
「エンジン中心主義」を「捨てる」必要が発生します。

ハイブリッドシステムは
エンジンがもつ「連続回転体」と「エネルギー発生源」の主特性から
「回転体」としての特性のみを積極的に失わせる、
いうなれば 「エンジンをデジタル的(不連続)に使う」技術であって、
もはやエンジンが「回転の主役」ではないのです:
エンジンとは「効率の良い回転数」が決まっています。
それは「エンジンをアナログ的に使う」アプローチの延長では
導けないのです。

エンジンを不連続に使うからこそ
低回転では非効率である 排気量の大きなエンジンを採用でき、
モーターを主役とみなすからこそ
出力の大きな電力システムを積極的に開発して
大きなエンジンとのバランスを取ることが可能になります。
ホンダの最大の革命のタイミングは
「みずからのエンジン音の呪縛を超克する時」に重なるはずです。

巡り巡って書きたかったことは、
もしホンダが真の「ハイブリッドシステム」を作ったら
必ずCR-Xからの後継機にしようと願っていたのに、
ということです。
CR-Xはそのくらいエンジン音が好きな車でした。

水曜日, 1月 30, 2008

笑うとは何か

橋があるとその橋は大抵渋滞します。
昔の人が川を隔てて街の区分を決めたのは自然で、
たかが川ひとつで生活が極端に異なるのだから
海を隔ててしまった場所の生活は全く別だという気がします。

人の死がとても嫌いで、
ホラー映画も仁侠映画も全く観ないのに
がんに関わる研究をするようになったのは複雑な気分で、
本当はとても苦手な分野です。

苦手であるからひとつひとつのプロセスを
意識に乗せ、自らに承認を求めながら作業をこなす必要が生じ、
それは別の視点での理解に近づきます。

哲学がいくら「死」は存在しないといっても
外的な「死」は存在します:
それは肉体的に不可逆的な機能停止です。

葬式で笑ってはいけないのはなぜだろう、と
ふと考えています。
「笑う」のは不謹慎だ、と人は言います。
しかしなぜ人が「笑う」のかと問われて、
「笑う意味」について考える人がどれだけいるのだろう、とも
思います。

しばらく書きながら考えます。

愛する家族を失った者にとって死は悲しむべきものであり、
笑うことは悲しみの対極にあるもので、
共感をそぐから、というのが多分一般的な意見になりそうで、
しかしここで「死」が「悲しむもの」である前提は
疑われる必要があります。

苦痛にさいなまれてベッドに縛られているものにとって
死は唯一絶対の解放ではないか、と思うのです。

死別と言う言葉があるように、
死は別れだとされています。
別れとは「コミュニケーションが不能になること」であって、
死んだ人とは話すことができず、
それは遠く別れ離れた人と話せないのと同じです。
そして生きて別れた人とはコミュニケーションの可能性が残されますが
死んだ人とは対話としてのコミュニケーションを失います。

しかしそれらを差し置いても、
葬式で笑ってはいけない理由とはなりえません。
非常に極端な例を持ち出せば、
「死んだ後も人に笑い転げて欲しい」と願った落語家の葬式で
笑ってあげなければ、
まわりの家族にはともかく本人の意思には背きます。

このことから、
死の意味は社会的関係性の中に
多分に存在することがわかります。

自分が死んだら悲しんで欲しい、という気持ちが
人に葬式で悲しみを表現させる原因となっています。

悲しむとは「現前した状況の否定」です。
そこから、笑うとは「現前した状況の肯定」であることがわかります。
「死を受容しない」「死を受容したくない」という気持ちが
「笑ってはいけない」に繋がります。

笑いが「肯定」を表すのであれば、
「笑わない日本」は「肯定していない日本」と同じです。

それでは「死」を「肯定する」ことが可能だろうか、と
考えの焦点は移ります。

笑いは「全面的な受容」に相当する、
そうすると笑いが「一部分だけの受容」を表すことはありません。
「全面的」という言葉には特有の響きがあり、
「全部」は完全に汎用である必要を求めます。

この世界を見て笑っていられない、と感じ、
それは「受け入れられない」ものがあると感じるからです。
たとえば目の前で人が死んでいなくても、
「人は死に続けている」こと自体が逃れようのない普遍的な事実で、
これを拒否することはできません。

生物は本態的に死を恐れる存在です。
たとえ動物に感情があるかどうか不明であっても、
何の理由もなく命を絶とうとはしないのと同じです。
脳に欠陥が生じた場合はこの限りではありません。

単細胞生物にアポトーシスはないが、
動物の細胞にはアポトーシスがあるのだそうで、
自らの存在確認機構というのは
集団としてのシステムに特有の機能であることがわかります。

もし人間が一人で生きられるとしたら、
もうすこし正確に言うと、人間の細胞がひとつでも生き続けられるとしたら
本来死ぬことを心配する必要はありません:
個々の細胞が離れて生存すればいいからです。
人間の細胞が単体で生きられないこと、
人の意思に「自殺」=アポトーシスが組み込まれていることは
人間は最初から「人間社会」というシステムの一部であることに対応します。

人間とは「個体で生きることを選択しなかった」生物に
分類されます。
そして社会システム自体はそれが生き物であるならば
「死」を受容できません。
社会システムは常に、それ自身の死を選ぶぐらいなら
その構成要因である人間の一部の死を選択し続けます。
それは人間が焼けた山肌を登るときに、
手をやけどして手の細胞を犠牲にしてでも生き残るのと同じです。

人は常にただ生きているのではありません:
自らの中でさえ常に死と再生を伴わせて生きています。
そして不要な細胞を「殺し」、必要な細胞を「生かして」
システムを維持しています。

「笑い」の積分量が
「生存と死」を分ける引き金になっているのではないだろうかと
考えは進みます。
もし「笑う」が重要なシグナルだとしたら、
「笑う」力とは社会システム自体が発動する感覚であるはずです。

平均寿命を延ばすことによって、
人は死から「ただひたすら遠ざかって」きたのです。
戦後の人口増加が「生」を増やし続け、
「生物学的生」がその生命単体で保証されていたために、
これまでは「笑う」という秩序を必要としなかった、と考えます。

人間はいうなれば「自らの細胞というシステム」の管理者であり、
「社会システム」の被管理者です。
社会を構成するためには人間は生きていなければならず、
この観点から「人間の死」は基本的には否定されます。
しかし「社会システムの死」はそれよりも強い否定を要請します。

生物的死と社会的死を独立した象限としてとると、
死には4つの意味があることが分かります。

人間としての死が社会システムの死を遠ざける場合、
人間としての生が社会システムの死を遠ざける場合、
人間としての死が社会システムの死を近づける場合、
人間としての生が社会システムの死を近づける場合です。

1番目が社会的役割を終えたものの死、
2番目が新たに生まれ社会的役割を果たすものの生、
3番目が社会的役割を果たす能力があるものの死、
4番目が社会システムを破壊するものの生に対応します。

このうち、両方の生を選ぶことが理想ですが、
人間の死は避けることができません。
一方で、生き始めた人間にとって生も避けることができません。

がんの患者はこの象限が混在し始めます。
完治の見込みを失う場合が特に複雑です。
人間としての生は確かに続いていますが、
その生の維持のために大きな社会システムの力を
必要とするようになります。

患者を治すというのは
「社会システム」の生と
「人間」の生を維持する両方の意味があります。
個人としての人間は、この二つのシステム、
生物的人間と社会的人間のシステムの両方に通用する
回答を見つける必要があります。

「娯楽」や「享楽」の笑いではなく、
豊かな微笑みの発露としての笑いとして、
社会システムの秩序レベルと「笑いの総量」は
強い相関があるような気がしてなりません。

「笑い」とは社会システムに秩序をもたらす原動力でしょうか?

笑いは受容であるならば、
がんであることを受容することはどこから生まれるのでしょうか?
それは可能でしょうか?
めぐりめぐってがんの患者と向き合うとき、
わたしは「笑い」をどう取り扱えばいいのでしょうか?

私自身にこれを置き換えるならば、
人間の最後の仕事は「自らの死」を「受容する」ことになります。
これは人間の生がある限り本態的に不可能なことです。

人にこれを当てはめるならば、
がんの患者に「笑いかける」ことはまったく可能であって、
不謹慎でも何でもありません:
それが-「存在の受容」が
「人が死ぬ尊い存在であると受容する」と表現する限りにおいて、
「微笑みかけること」が意味を持つのです。

人間という意識にとっての幸せとは、その終末の間際まで
「存在の受容」を受けることであって、
もっと拡大すればこの世界の終末の間際まで
「存在」を受容されることだろうと思います。

過去に生を受けたものすべてが「その生の受容」を望んできたのです。
だから私たちはこの世界を受容して次へ送ります。

自らの死に対してなお「笑う」ことができるならば、
それは社会システムの生へと意識を移行する準備が進んだことを意味します。
人間は社会よりも小さく、その定量的判断はできません。
しかし自らのアナロジーから、
その「定性的判断」が可能です。

他者に対する「存在の承認」としての「笑い顔」が必要です:
それは常に社会秩序をもたらすからです。
世界は対称にできています:
人はすべて「泣いて」生まれるのであれば、
人は「笑って」その生を閉じることが対称です。

月曜日, 1月 28, 2008

霜柱

8センチほどの長さの霜柱を見つけました。

金曜日, 1月 25, 2008

本からのひと言

「花には枯れる自由がある」、というくだりが
春日武彦さんの本に出ていて
ふと目に留まりました。

花はいつまでも咲いていたいだろう、
美しさを全うせず早く枯れてしまってはかわいそうだろうというのは
わたしの思い違いなのかもしれない、と
考えを改めることにしました。

咲こうとみずから宣言する花にのみ、
雨は降り注ぐ意味を持ち、
そのとき花が求めるから
日の光は降り注ぐのかもしれません。

火曜日, 1月 15, 2008

今は何度目の開闢だろうか

今朝は海沿いの町にも霜が降りたようです。

極端で非現実的な状況を仮想することは、
混沌とした現実の中から特徴を取り出すことです。
加速器は「非現実」のエネルギー世界を作ることで
この世界では縮退した4つの力を個別に取り出して観測します。

この操作を人に当てはめると、
人の混沌とした日常を観察するためには
人にとって極端で非現実的な状況、
つまり人が生を終えるという状態を仮想することで
日常の生に含まれる要素を観察します。

昨年の年末は
仏教の本とクリシュナムルティの本を集め、
今年の年末は
がん医療のコミュニケーションスキルの本を集めました。

死について時折思うことがあります。
それは「死」という文字のほうが恐ろしくて、
実際に生を閉じる人を間近で接するときには
同じ恐ろしさはない、ということを不思議に思います。

死にゆく者のひとつの役目は、
生きている者に対して
それが恐ろしくないことを
証明して見せることではないだろうか、と思っています。

死というものが恐ろしいのではないのです:
わたしたちが恐れる「死」が表現するものは
ほとんどの場合の死に伴う苦痛と
自らの制御がままならない不全感に対する恐れです。

自然界での生活にとって苦痛とは主に死に近づくことであるから
階段は気をつけて降りることを覚えます。
ひとという生き物は苦痛を避けるよう
何十年もかけて必然的にその術を学んでいきます。

人間より大きな単位の生き物=システムとして「町」があります。
そして「町」はそれ自身の消滅を恐れます。
だから都市機能はその機能を果たす人が入れ替わることで
正常に生き続けます。

都市が生き物であるならば、
都市にはその終わりがあります。
それは「会社の終わらせ方」と同じような問題で
「都市の終わらせ方」というものを考える必要もあるだろう、と
思いました。

終わりを決めて何かを始める、ということは
言い換えるとゴールを決めてスタートを考えることと同じで、
目標とは「終わり」のことです。

生き物はその役割を
その生きているうちにだけ引き継がせることができます。
人の目標や都市機能や会社の方向は、
それらが生き物のような性質を持っているのであれば、
ある目標を目指している途中のエネルギーから次の目標は「新たに生じ」、
新たに生じたそれが
次の主軸となって走り出す、という性質を必ず持つはずです。

適切な長さの期間を持つ目標が必要です:
短すぎては次の目標を生み出す土壌が育たないし、
長すぎてはそれ自体の目標が叶わないまま終わってしまいます。

ボスという人としての形がいなくなってもうすぐ3年になります。
しかし意志を引き継いだ人たちによって
彼の願いは確実に叶いつつあります。
彼は人という形を失っただけのように思います。
彼の「意志」はそれ自体、立派に「生きている」のです。

宇宙は0秒が分からず、
今の宇宙が160億年ぐらいだと言われていますが、
この世の対称性から考えると負の時間があるはずで、
この宇宙は何度もビッグバンが起きていて、
その何回目かが今の宇宙である、と考えるのが
妥当ではないか、という気がしています。

たとえ人が自ら滅ぶ道を選んだとしても、
宇宙はそれ全体が開闢から「やり直す」のです:
そして次の宇宙が開かれたとき、
もう一度あなたにもわたしにも形が与えられるでしょう。