月曜日, 12月 26, 2005

効率化がエネルギーを失わせる

論文を書きながら、
たった1行、文字にして40文字程度の事実を述べるために
年単位の時間を費やす時間かかったことを
ふと思います。
何事かを為すための時間は短い、とよく言いますが
もともと何かを為そうと思うこと自体が
僭越な問題なのかもしれません。

是と非のスタンダード

自然から離れた労働、
機械生産や情報処理、を担当していると、
信頼性の度合いが自然労働に比べて桁違いに上げられています。
たとえば、昼という時間は1日の1/3しかないし、
晴れた日中は1年のうちの3割くらいしかないのです。

問題は人間が同じだけの信頼性を出そうとした場合、
人間そのものは自然から生まれたものであるために
信頼性を確保するのは非人間的な作業だったりします。

是非、という言葉は
是が非でも、という言葉の短縮で、
この意味を良く考えます。

栄養学というものは今ひとつ要領を得ません。
油が体に悪い、という理由しか大抵出てこないのです。
そんな中でキューピーのHPには注目したい記事があります。
http://www.kewpie.co.jp/know/magazine/releace_30.html

脳は脂肪が50%もあって、
コレステロールの20%が集中しているのだそうです。
蛋白質のかたまりのイメージがありながら、
実は脂肪の方が量が多いのです。

油は体に必要であるからこそ食の満足感を高めます。
だからあく抜き、油抜きをたくさんする日本食は
西洋食に比べて満足感が低いのです。
子供がハンバーグが好きなのは、それが子供だからではなくて
人間の節理にかなっているからです。

しかし一方で、油は消化器にとっては負担です。
理由は分子量が大きいからで、
主に肝臓が分解の役目を果たします。
そういう意味で油のとりすぎは体調を崩す原因になります。
体調の崩れは脳にとって負担になります。

部品にこだわる、ではなくてシステムとして思考する、ということを
何かの対象で身につける必要があるのではないかと思います。

たくさんの本は読めませんが、
いくつかの読んだ本の共通する一節を
ネットワーク状に思い出すことがあります。

「車はこうして作られる」の一節で、
ホンダがV10エンジンを開発していたときのことが載っていて、
エンジンとしての出力限界を出し切るために
システムを設計する、という思想から、
「速く走るための車を作る」という目的から
エンジンを見直す思想へと変化したという
パラダイム・シフトが起こった時期があったのだそうです。

畑村洋太郎「失敗学のすすめ」でも、
局所最適、全体最悪というキーワードが出てきて、
全体への影響を考慮せずに一部分だけ改善してしまうと
取り返しのつかない事態になるとあります。

システムフローであれば線形計画法、
フィードバックであれば制御理論で
全体を見る道具立ては与えられます。

昔の人は「大局を見る」という表現で
このことを言っていたのかもしれません。
分業化によって著しく生産性が上がった文明社会では
各人間が忠実な要素=コンポーネントとして
振舞うことが必要とされ、
最初に全体像の理解を求められない場合があります。

しかし社会としては要素であっても
個人としてはいろいろな要素の集合体であり、
生きている時間は大きなシステムでもあります。
その全体を見て、今の自分に何が最適かを探ることで
次第に「自分に必要なこと」は見えてくると考えます。

日曜日, 12月 25, 2005

アンチテーゼ

スーパーで保存食をたくさん買う気分になると、
それは部屋にこもって仕事をする、という
心の準備が始まったことを意味します。
人は行動として体を動かす10秒以上前には
気持ちの準備がされるのだそうで、
現在の意識というものの不思議さを思います。

この世で確かなことというのは
それっぽく用意されているのですが、
万物流転ということ以上に正しいものはない気がします。
それは法や道徳やそういういろいろが定めた人間的な正しさではなく、
地上では林檎が落ちるのと同じ程度の確かさのものです。
物理的に正確に言えば、空間と時間は同じ価値の存在ですが、
時間だけは進みっぱなしで戻ることができません。

ASKAの「晴天を誉めるなら夕暮れを待て」の歌詞が好きです。
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=55123
青い空は誉める、雨は面倒に思う、
本当にそう思うときと、観念で思っているときがあります。
観念が自動的に作る循環の真偽をを見極めたいとよく思います。
突然降り出した大雨が
忘れられない思い出になる事だってあるのです。

ザ・テレビジョンの表紙の話を聞いたことがあって、
以前は満面の笑みだけを採用していたのだけれど、
最近はすまし顔も使うようになったのだそうです。
良い流れだな、と思います。

写真家が残す写真が膨大な試作の結果の上に成り立つ、
時折このことを思い出します。
本当の「一瞬」はgiftとして与えられるもので、
人間が意図しただけで作れるものではないのです。

NHKの公開録画とかラジオ体操とかに立ち会ったことがあって、
「盛り上がってますか」と
約束事のように掛け声をかけられるのですが、
この言葉は「当然盛り上がりますよね」という答えを期待されていて、
問われれば問われるほど
シンクロせず盛り上がっていない自分を強く意識してしまって
盛り上がるきっかけを全く失ってしまいます。
心のベクトルの急変更がききません。

寒い朝にココアが飲みたくて
ミルクを早く温めたいのですが、
強火にかけると百発百中で焦げます。
だからミルクを温めるのには必ず時間がかかります。

笑いが良い写りならそれで構わないし、
撮る写真が笑い顔でなくてもいいと思います。
満面のスマイルが良い、という連想もまた観念的なものです。
すました顔からほんのり覗く笑みが綺麗な人だっています。

スープを皿に盛りたいときに、
スープが冷めるからといって沸かしてしまうと
香りが飛んでしまいます。
温かく香りの良いスープを最後まで楽しみたいなら
より注意を向けるべきはスープ自体ではなく
厚いボウルを熱湯で温めておくことにあります。

無用の用、という言葉もとても好きです。
一見無用や無駄に見える何かは、
それがあることによって
支えられている何かがある、という意味で、
英語で言うとセレンディピティ=serendipityの思想に
なにかつながるものを感じます。

西洋と東洋の大きな違いは、
神が人を統治するか、人が人を統治するかという意識に
あるのではないかと思ったりしています。
そして神と言う象徴を持ってくることによって
人はみな平等だという意識が生まれるのですが、
最終的な統治で人の統治に読み替えるシステムが必要で、
この点で社会の解釈や理解が大きくこじれてしまいます。
宇宙人によって統治されるようになったら、
人という生き物は団結できるのでしょうか。

絶対的な王を立てた中国、象徴的な神格を分離した日本、
どちらにも最終的には人の統治という解釈があって、
なまなましいけれど正直な解釈が気に入っています。

敢えて科学がこの見解に挑むならば、
人間のように感情や道徳を定義するような「人間みたいな」神は
いないとし、
しかし人間と言う存在を超えた何かがあるだろうという解釈は
十分考えられる、とすべきだと思います。

日本習字の原田観峰さんも
「神はもう[あ]」という名前でいいじゃないか、
それを修飾すればするほど本来の定義から逸れていく」と
いうくだりの文を載せていたことがあって、
なるほどと納得したことがあります。

神は教えられるものではなく、
勝手に心に生じる気持ち、というぐらいのあやふやさだとしたら、
死ぬまで神が生じない人だっているわけで、
世界の混沌としたまだら模様はいつまでも続きます。

水曜日, 12月 21, 2005

長い助走区間

1枚、と英数字の1を出したいときに
なぜか"i"のキーをタイプしてしまいます。
"iti"と"1"の回路が干渉するのでしょうか。
それとも文字の形的に干渉するのでしょうか。

ライブドアの話、少し詳しく書いて見ようと思います。

ちょっとした論調として、
「彼は善か悪か」という雰囲気のものばかりですが、
個々の事象については冷静に見たものが良いものが多いです。
自分たちはさんざん通信簿という多面体的評価をされてきたのに、
人を二元論で片付けるのはバランスが悪すぎます。

彼が「古いしきたりを壊す」と言ったその姿勢には
建設的な意味も多く含みます。
カネボウの例にあるように
日本が封建的で閉鎖的な社会構造であることは確かで、
新規参入を拒み、既得権益を守るのに都合のいい
システムができています。

買収劇は少なからず既得権益の上にあぐらをかいていた人にとって
ポストを奪われるという戦慄を感じたものと考えます。
正しい競争原理は必ず必要で、
ソフトバンクやウィルコムが携帯に参入することで
市場原理に沿わないサービス料が改善した経緯と同じように、
最終的に消費者が良い選択をできるよう促されます。

そう考えると、
買収劇は競争原理というより
支配・被支配の関係に近い感じがしてきます。

お金で買えないものはない、このことは
多分バブル的な発想を持っているかなりの人は
当たり前のこととして思っているはずなのですが、
あまりに露骨なので表に出しません。
明言したことは社会的な追い風を得るには不利に働きます。

急成長しすぎたことにも問題があります。
球団買収などを手堅く行い、買収した企業で
実業方面によい成果を上げていけば
顔の見える会社になれた可能性があります。
実業方面に影響が残らないということは
経営が傾いた後で形になるものが残らないわけで、
形がないものは比較的早く忘れられます。

もし彼が社会システムを変えるつもりだったのなら、
支配関係ではなく競争関係として参入すればよかったのだと
考えます。
しかし彼は会社でお金を得る方面に集中しすぎたために
手段を選ぶのを忘れてしまったのかもしれません。

生意気だからつぶされるんだ、
だからみんなもおとなしく言うことを聞きなさい、が世論の結論だと
納得してはいけないのです。
正しいことをし、正しい競争をもって、
しかし会社が大きくなっても巨大企業同士のもたれあいや
談合状態で馴れ合いにならず、
既得権益に対してまっすぐ戦っていく、
そうあるならば社会の風が押してくれたかもしれません。

この国は正しい風を吹かせる力が少し弱くて、
追い風によって大きく育つのではなく
大きく育ったものにより強く追い風が吹く状態で、
そのことに歯がゆい思いをしている人たちがきっといます。

早上がり、早熟ばかりが目立ちもてはやされる空気ではなくて、
風雪に耐えきちんと花を咲かせる人たちをよりよしとするなら
もっとみんなが強くなれたという手ごたえがもてるでしょう。

月曜日, 12月 19, 2005

First, follow the music with your heart

音楽と気分との付き合い方をずいぶん考えていました。
上手に気分とマッチする曲をかけると
うまく集中する事があるのを知っているからです。
ところがうまくはまらないと
曲が気になって集中できなくなってしまいます。

集中できる曲は一種類に決まっていません。
ユーロビートのようなすごく速いテンポの曲がいいときもあれば、
静かなピアノ曲がすんなり馴染めることもあります。

今日見つけたキューピーのHPには
よく研究された記事が掲載されていました。
たとえば落ち着かないときに、リラックスを狙って
いきなりスローテンポの曲を聞くと
逆効果なのだそうです。

まず自分の気持ちと同じテンションや曲調の音楽を選び、
それを聞いて曲と自分を同調させてから、
徐々に目標とするテンポへ近づけていくと
導入がうまく行くのだそうです。
つまり落ち着かないときには
まずハイテンションのダンスナンバーを聞くということになります。

好きでよく聞いている曲を見れば
その人のモードが分かる、ということにもなりそうです。
ユーロビートの中でも超高速側が好きなわたしは
時折すごくテンションの高い人間らしいということになります。

大きな街が好きな理由

上手な電話との付き合い方、ただそれだけのために
ずいぶん時間が必要だったように思います。
直接行かなくても情報がやり取りできる、
中身は会話であっても効果はずいぶん違うものです。

大きな街が好きです。
新宿を歩いていると、宝くじを売る声、
街頭募金の社会鍋を掲げる声、
神の道を説く声、
クリスマスの呼び込みなど
人が行いうるさまざまな出来事が
同時に目に映ります。

人間は性善説の生き物か、あるいは性悪説の生き物かと
悩んでしまいそうなとき、
それらは全て混沌としている、という明快な回答が
街の風景に現れているように感じます。

人間以外の動物が悠久の時を過ごしていそうなのは、
彼らが環境を変えてまで住もうとしていないからであって、
環境を変え、社会的構造を変えながら生きている人間には
「変わる」ということが宿命付けられているから
急ぎはやって生きていこうとしてしまうのかもしれません。

これと種類の似た質問として、
人間は世界が理解できるか、という問いもあって、
明快な答えは、脳の演算量と人間の寿命に限界があるので
全ては理解できない、という答えがあります。
可能性は無限大、とは響きの良い言葉で、
しかし人間そのものの実体は有限です。
人の目の前には、無限の数ではなくて、
常に片手に余るほどの選択肢が考えられる程度です。
しかしどう変化するかが予測できない、ということも
合わせて知っておくと気持ちは落ち着くかもしれません。

月曜日, 12月 12, 2005

物言わぬ肝に思いを寄せて

科学をやっているものは2種類いて、
SFが好きなものと、
SFより現実を選んでいるものとに分けられる気がします。
SFを読んでいてどうしても気になることは、
物理的には正しくないことがたくさん現れるからです。

人間関係の世界なら、想像の範囲内で
なんでもありかもしれませんが、
何もしないのにりんごが地に落ちずに
空へ吸い込まれたりはしないのです。

体のあらゆる部位に意識が届くかというと、
感覚のない部分については意識ができません。

明確に意識できるのは胃とか心臓で、
鼓動の様子とかストレスで胃が痛くなったりとか
自分で知覚ができます。

脳は一見知覚できそうですが、
たしか感覚神経はなかったような記憶があります。
だから脳に関していえば、周辺部の知覚によって
間接的に分かる、といったところです。

全く意識できないのが肝臓です。
体の大きい割合を占めるのに、調子が良くても悪くても
痛みや苦しみを感じないのです。

それ自体は確かに苦しくないのですが、
肝臓の調子が悪いと全身に影響が出ます。
そういうわけで、「自分の肝臓が悪いのではないか」という
意識は脳と同じで間接的にしか分かりません。

ところが間接的にしか分からないはずなのに、
肝を冷やす、肝心かなめ、肝の据わったなど
肝の表現はたくさん見られます。
英語でliverだと
liverishで「肝臓の悪い人」という表現があるぐらいで
それほど意識的に使われてはいないように思います。

ちょっとした演繹でいうと、
全ての臓器は時折不具合になるのであれば、
肝臓だって調子の良いときと悪いときがあります。
ところが調子の悪さが痛みや違和感として感じられないので
原因探しが路頭に迷います。

バイオリズムと言う言葉があって、
長い周期で気分や体調が変化することを指しますが、
肝臓の調子がバイオリズムを決めていたとしたら
自分でわからなくても納得が行くようにも考えます。

感覚がない部位に対して
先人がちゃんと意識するよう用意していたというのは
とてもありがたいことです。

この物言わぬ部位に意識を寄せてみようと思います。
丹田という場所はへその下だとかいうのですが、
それは肝を含むおなか周りの意識を指すのかもしれません。

人間は意識によって自分の一部を制御下におくことが出来る、
これはトレーニングをする際には使われる筋肉を意識すると
効果が上がるという例で証明されています。
意識というものを肝においたら、
一体どうなるのでしょうか、という言葉は
一見ことば遊びのようで楽しくもあります。

金曜日, 12月 09, 2005

モノクロの文字を見て色を観る

ひところに比べると画面の解像度がとても上がりました。
この解像度は、画面のサイズとは関係がなく、
画面のサイズが10インチだろうが20インチだろうが
1280*960だったりします。
大きい文字は見やすい文字で、
解像度が高くなったからこそ
できるだけ大きな文字で作業を心がけたいなと思います。

女性が美しいさまを色っぽいといいます。
この「色」という言葉が指し示す色は一体何色なのだろうと
思ったことがあります。
鮮やかな紅か、爽やかな藍か、引き立つ翠か、
いろいろ想像してみたのですが、
「色を失う」という表現を本で読んでから、
色とは色彩を感じること全てなのかなという気がしています。

極彩色とか総天然色、と呼ばれたものは
カラーの映画とかテレビとかです。
総天然、という言葉の通りかというとそうではなくて、
テレビや映画は赤と青と緑の3色しか出していません。
人間の目にはこの3色を中心として
他の波長域をカバーするセンサーがあるから
ほかの色彩を落としても変わらず見えるのですが、
夕日のオレンジは「オレンジの波長」なのであって、
赤い光と緑の光の合成ではありません。

着色されたモノクロ映画というのがあって、
いまだに原理を知らず不思議に思います。
モノクロ映画を観ていると、
ふと色が載っているのではと錯覚することがあります。
池谷さんの本によると、
この時色は見えているのではなく、脳が補っているのだそうです。
また、目の感色細胞は目の中心にしかついておらず、
周辺の色はみんな脳が補完しているのだそうです。

色っぽいと思うその「色」、
どうも脳が直接作るもののようです。

木曜日, 12月 08, 2005

車のおもちゃ思想

畑村洋太郎さんの講演
「失敗学のすすめ」を受講しました。
成功や失敗の取り扱いについて実に深く掘り下げた見識と
とにかく現地・現物で取材を重ね
たくさんの人に会う力をもっていることに
強く感銘を受けました。

日記はいつも通り、思いついたことの
書き連ねです。

車のおもちゃが大人も面白いと感じるのは、
そのおもちゃを拡大したり精緻化したところに
本物の実体が存在するからではないかと考えています。
盆栽が美しいといいますが、
あれはおもちゃ的な小サイズの精密さを楽しんでることと、
雄大で厳しい自然に支えられた巨木のエッセンスが
凝縮して映りこむからだと思っています。

さまざまなイメージを支える実体、
それは実業と虚業の関係にも似ています。

複製に戸惑いを覚えることがあって、
デジタルデータの中では氏名も会社も
一発でコピーできてしまいます。
それでなんとなく手書きのような手順を踏まないのが
失礼に当たるような気分になることがあります。
ところが貰うほうにとっては
それがどのような過程を経て製作されたかということが
重要である場合とそれほど重要でない場合とがあります。

作る側の戸惑い、
裏方を知るものの戸惑い、それは
美しく理論的な一面だけを知ることだけでは済まない者が
共に感じる迷いのようです。

水曜日, 12月 07, 2005

器用さ、不器用さの感覚

この1ヶ月、外見的には変化がなく、
内面的な変化ばかりが起こっています。
目新しい何かも誇るような話もない、こういうのを
平凡と呼ばれる状態なのかとも思いますが、
本人の意識は至って満たされています。

本を読みながら、時折気になる言葉の中に
馬鹿になれ、という表現があります。
似た表現として、不器用でもいいから
愚直にやり通すこと、とか
ある種の非効率さが必要なのだという言葉もあります。

この表現、なにか的を得たような、
今ひとつ理解へ至らない言葉のようで、
少し考えを進めます。

器用であることで困ることは概ねありません。
ほとんどのことは不器用さによって困っていて、
思ったことが言えないとか、やりたいことが分からないとか、
自分の気持ちを前向きに転化できないとか、
そういう不可能性というものに結びついているからです。

器用であること自体が問題になるのは、
どんな問題にも「スマートな解決」というものが
存在している、という連想へと結びついてしまうことに
あるのではないかと思います。

目の前にある問題が、霧が晴れたように
前へ進むなら、どれほどいいだろう、と思う気持ちは、
感情のどこかに焦りを抱えています。
それで、自分が今できる器用なことの組み合わせによって
その問題がスマートに解決できないかと考えます。

ところがいくつかの問題、
自分にとって新しいことや
必ず時間がかかると分かる事象に対しては
現在の手段の組み合わせでは解決できません。
たとえば、
ドミノ倒しの駒を一瞬で並べる方法は
どこにも存在しないのです。

ところが全ての方法に「不器用な方法」を持ち込むことには
大きな問題があります。
不器用な方法を続けていくと、次第にその中に潜む
「規則的な原理」というものが現れてきて、
ある閾値を越えると不器用さに対する認識を
改めなければならない転換点が訪れます。

未知のこと、というのは
何も壮大なことである必要はなくて、
じゃんけんをして勝つ、という命題にも
未知のことが含まれます。

じゃんけんをして一生勝ち続けることがないように、
未知のことに挑むときに
器用な方法、不器用な方法のどちらで突破できるかは
事前に知らされておらず、
選んだ手段が外れてしまうことは必ずあります。

しかしどちらの方法を使ったとしても、
目標は「未知のことを突破する」ことであって、
それさえ叶えばどちらの手段であってもいいのです。

不器用な方法を使ったときに、
後で器用な方法に気が付いてもがっかりする必要はないし、
器用な方法が通らなかったからと言って
不器用な方法を選べなかったと自分を責める必要はありません。

人は過ち、神は赦す、
過ち、というものへの認識を
あとスプーンひと匙だけ緩めることができたなら
それだけで人は幸せになれるかもしれないのです。

月曜日, 12月 05, 2005

roll-play

朝車を走らせていたら、
雨上がりの空で遠くの山が見えて、
雪で白くなっているのが見えました。
今年も冬がやってきた実感が湧いてきます。

できる限り本音に近い自分でいる、ということに
どこかこだわりをもっている気がします。

TEXという書式を使っていると、
論文というプログラムを送れ、という
指令のように思います。
製本用のフォーマットを文の中に組み込むよう
求められていて、
さながらHTMLのようでもあります。

How-to本であるとか、~の方法とか、
とかく求められていることの多い世の中です。
この「求めること」が、自分に対する要求なのか、
他人に対する要求なのかというところが論点になります。

ほうじ茶にもカフェインがやや入っているのを知り
ちょっと驚きました。
今まで濃いほうじ茶を多めに飲んでいたからです。
明日からは昆布茶に変えるかもしれません。

ラフランスを食べる時期を迷います。
固い時は味がしないのに、
一度熟し始めると加速度的にやわらかくなってしまうのです。

決まった言葉はキーボードを急いで叩いても
出てくるのですが、
自分の中から生まれてくる言葉をつかまえているときには
どうしても作られる文字の速度が落ちます。
ブラインドタッチができるようになっても、
自分が言いたいことまで早く出てくるわけではないのです。

外国の研究者はそのあたりを知っているのかいないのか、
人差し指だけで文字を打つ人が相変わらずいます。
事務仕事はもちろんそのペースでは間に合わないはずですが、
しかし論述の際にはそれで十分すぎるほどなのです。

私に合った役割と居場所、
少し数えてみようと思います。

金曜日, 12月 02, 2005

風邪の因数分解

年に3回ぐらい風邪を引くわたしは
よく風邪薬を飲みます。
ところがこの風邪薬、
西洋系の総合感冒薬ほど効き目がやっかいで、
飲んだ後の調子が優れません。

漢方の葛根湯は
よいタイミングで飲むと劇的に効いて
次の日には治っているものですが、
いろいろ調べてみると
タイミングが違うと全く効かないことがわかって
それはそれで困っています。

そこで引いてしまったけれどその場を凌ぎたいとき、
各症状だけ抑えることにしました。

くしゃみが止まらない時はくしゃみ止め、
喉が痛い時は咳止め、
頭痛がする時は痛み止めという具合に
薬が混ざる種類を減らしていくと
比較的体のもちもいいようです。

風邪を引いたら頭を使わずに寝ていればいいのですが、
それができないという世の中なのかという問いを
時折考えます。
もちろん少しの具合でいろいろな約束事が進まないと
困ることはたくさんあるのですが、
いたずらに納期や期限が短い設計になってはいないだろうかと
考え直したくなることがあります。

熟練して手際よくなることは大切だと思いますが、
スピードは力である、
一般的に言われているこの言葉を
どう受け止めたらいいのか分からず、
まだまだ思索は続きます。

月曜日, 11月 28, 2005

hardware, software, data

朝3時に目が覚めました。
少し書き物をしてもう少し眠ります。
機械に関して言えばハードウェアの得意な日本です。
最近は良質なソフトも増えていますが、
良質で安価なデータが少ないと思います。

需要と供給、の話で言えば、
需要が多ければ供給する値段が高くなります。
ものやソフト、つまり目に見えるものに関しては
需要と供給というのは成り立つのですが、
データに関しては
なかなか需要と供給が成り立っているとはいえません。

もう少し深く入り込めば、
需要と供給自体は成り立っているのかもしれませんが、
データが広く流通していないので
おのずと値段が高くなります。

学術書の類で、
値段を高くすると売れなくなるから、と言います。
確かに辞書以外で1万円以上する本が飛ぶように売れることはないのですが、
しかし外国の学術書なんかは300ドルでも平気で売っていたりして、
それを買う人も多くいます。
一方でネットに広まる情報では無償で手に入るものが充実していて、
それらのバランスは一体どこから来るのかと不思議な気分になります。

休暇になると日光浴をしながらひたすらペーパーバックを読んでいる、
そんな話を聞くと、
日本で思われがちな本の虫とか雑学おたくとかではなくて、
活字に親しみを覚えるという肯定的な意味を
もっと前面に出してもいいかもしれません。

生きた知識、という言葉について考えます。
どんなものを「生きた知識」と読んでいるかというと、
それは実体化して何かの役に立つ、という暗喩を含むような気がします。
役に立つは利益を得るとかいう経済ベースの話ではなく、
不安定な自分を支えたり人に快い感情を与えるものも
生きた知識だと思います。

本宮ひろ志の話の中に、
漫画家が絵が描けるのは当たり前で、
その絵で何を伝えたいかが問題なんだ、という一節があって、
時折思い出します。
ただ、こういう言葉を聞くと、認められる絵が描けなければ
公表する意味や価値がないと連想してしまうことが
表現の量を少なくしてしまうのだと考えます。

何かを下手な人間は、表現が許されない、
こう書き切ってしまうと、「そんなことはない」と
反応が返ってきそうですが、
今でもそういう雰囲気は強くあります。
そしてそれは自分の中にも強い意識としてあるものです。

下手なところを見せて笑われると傷つく、
その「傷ついたもの」は何なのだろうと思います。
下手だというその結果、
へんてこな絵とか調子の外れた歌とか、を見て
その行為自体や状況という非人間的な現象を笑っているのか、
それともその行為を行った自分自身というもの、
つまり人間的な価値の薄さを笑っているのか、
これがよく混在しています。

持つ者はさらに与えられる、という言葉があって、
この意味をよく考えることがあります。
最初に人より少し得意であったものが
練習を重ねていくうちに上手になっていくという過程でもありますが、
最初に持たないものについての言及がありません。
持たない者だって与えられるようチャンスが必要です。

最初に少し持っている者が続けられるのは、
自分の行動に価値があると信じられるからで、
また周りもそういう視線を送るからだと思います。
少し持っている、持っていないの観念が比喩的なものならば、
ほんの少し持っているところからでも始められる、
そんな風に思えたらいいなと感じます。

あれほど流行ったのにわたしがちっとも知らないのが
ミスチルの歌で、それは最初の流行に乗れなかったから
そのまま追いかけられずにいたもののひとつです。
その手の苦手意識というのはたくさんあって、
苦手意識を持つと思考を停めてしまったように前へ進みません。
後追いするとなんだかかっこ悪く感じるものですが、
それが好きだと公言できなくても
せめて曲ぐらい聞いてみればよかっただろうにと
ずいぶん後悔をしています。

後追いをかっこ悪いと感じるのは、
知識の量を勝った負けたと優劣で決める傾向のせいでしょうか。

物と知識の決定的な違いは、
物が使うと減ってしまうのに対して、
知識は使うほど増えていくことにあります。
100%満足する結果でなくても、途中であっても、
行動を起こしたことを評価する、
そんな気持ちがもっと広まればいいと願い、
そして自分の意識もそう近づけたらいいなと願います。

木曜日, 11月 24, 2005

コンビニ弁当をレンジ弱で7分

とかく「温もりが足りない」といわれがちな
電子レンジは、
早く温めるのとゆっくり温めるのでは
ずいぶん風味が変わります。
レンジ強2分のお弁当は
レンジ弱7分で加熱すると
芯から全体まで温まっておいしくなります。
時間のあるときにお試し下さい。

南無阿弥陀仏と、ひつじが一匹

カフェインの入ったコーヒーが苦手です。
体がとても緊張してしまいます。
たくさんは飲めないので、
小さなカップで飲むか、
カフェインレスのコーヒーを頼みたくなります。

自分の軸を時折見失うことがあります。
おおむね集中できないときに起こります。
ひつじを数えると脳が忙しく動き出して眠れなくなると
何かのメディアが言っていたようですが、
わたしはひつじを数えると良く眠れます。

想像、という定義は
頭の中だけで世界を作ることであって、
小さい頃はよくやっていて、
大人になるとなかなかしないものかなと思います。
この「脳を落ち着かせる」という方法に、
繰り返し脳の中だけの入出力を行う、という行為が
有効なのではないかと思っています。

全ての宗教に祈りという反復行為が伴い、
唱える言葉が存在します。
実在の論議を少し脇において話を進めるならば、
それはひつじが一匹と数えながら眠るのと
特に違いがないような気がするのです。

思考はひとつではない、というのは
かなり前に気がついたことで、
さまざまな感情が自由に表れたり消えたりしています。
これは脳の細胞が個別に活動できるからであって、
手と足を同時に動かせることの理由と
特に大きな違いはありません。
そして脳の中の協調動作が乱れると
混乱してしまいます。

脳だけでの入出力というのは、この乱れた動作を
もう一度まとめ直す意味があるのではないかと
最近思っています。

人の心を落ち着かせるのには「ひつじが一匹」で十分で、
神様を登場させるのは
概念としてちょっと強力すぎる施策じゃないかと考えます。
100mを10秒で走れる人が限られるように、
神様の概念をうまく援用できる人も限られているように
感じるからです。

火曜日, 11月 22, 2005

redundancy

パルス発生器の主電源が入らなくなりました。
予備機を当てて実験を続けています。

小集団の中での個人と、
大集団の中での個人は振る舞いとして異なります。
小集団でキャンプに行ってテントを持ってきた人が
誰なのかはすぐ分かりますが、
大集団で株の売り買いをして
値下げ傾向に導いた人は特定できません。

同じ集団のためとはいっても、
世の中のためになることをしようと考えたときに、
いきなり「汚職のない世の中を作る」とか考えても
うまくは行かず、まず自分が不正のない政治家になるところから
始めなければなりません。
そして自分も一人の人間であるなら、
「不正のない政治家とある政治家」のバランスを
ひとこま変えるのが精一杯かもしれないのです。

たくさんの集団の中では
良い意見ばかりもたれないことがあります。
amazonの書評などを読んでいると、
評論というのは感性によるところが大きいせいか
良いとか悪いとか好き勝手に書かれています。

良い意見ばかりもたれずに過ごしていくことの
難しさを思います。
それ自体はいつでも起こりうることなのですが、
好ましくない反応に対して
無視して過ごすわけにもいかず、
かといって自省ばかりして過ごすわけにもいきません。

何かの行動原理を最終的に興味へと結びつけることに
時折必要性と疑問を同時に感じます。
そこにある必要性があれば決めるのは楽なので
何らかの必要性を探してしまうことがあります。
50:50の大賛成と大反対があったときに、
それでも一歩を踏み出せるかどうかを悩みます。

この国の人らしい感情であれば
50:50の時に踏み出すのはきっとためらいます。
そして行動そのものにも正の側面と負の側面があるとすれば
行動というもの自体はリスクの大きなことです。

しかしためらうことというのは
重要であるけれども行動に移すには
まだ時間があると思っているか、
あるいはどちらでも構わないと感じるようなことかの
どちらかです。
しきたりやマナーというものでその場であたふた悩んでいるのは
それが「本当はどちらでもいい」ことの
明確な表れだと思います。

食器を持って食べてはいけない中国、
食器を持って食べなければならない日本、
それはどちらがよいという言葉では
本来説明をしてはいけないものです。
だからテレビで「マナーの先生」とやらが
偉そうに正負善悪の番人のようなご口上を述べているのを見ると
なんだか腹が立ってきます。

盲目的に従うことは極めて不自由でありながら、
他方で非常に心地の良いものだろうと思います。

月曜日, 11月 21, 2005

prohibited?

黒パンを食べるロシア、
とうもろこしを食べるメキシコと
食べ物は千差万別ですが、
人に関する歴史があるところには
なぜか酒だけはあります。
自分の意識という壁をなんとかして取り払いたいと思うと
何らかの外力が必要なのかもしれません。

気持ちの壁で思い出す話は象を飼いならす話で、
小さい頃に脚を紐のついた杭に縛られて過ごすと、
大きくなっても地面に打たれた小さな杭を見ると
動くのを諦めるのだといいます。

得意なことはいくらでもできそうで、
苦手なことはとても続かないものだったりして、
「持つものはさらに与えられる」の理由は
こんなところにあったりするのだろうかと思うこともあります。

心理学以外の心的効果を除けば、
占いやまじないの類には
まったく信憑性がないことは明らかなのですが、
夜の新宿駅前にはたくさんの占い師がいるし、
雑誌には星座占いが載っているし、
縁起を担ぐ人がたくさんいたりします。

非科学には幾通りもの「答え」なるものが存在するため、
できるだけ気持ちのよりどころに
非科学を持ち込まないようにしてきました。
しかし最近少し発想が変わってきて、
全てが正しく「固定された真実」であるという存在に
人というものは耐えられるのか疑問に思うようになりました。

固定された真実には逃げ場がなく、
好き勝手な行動が許されないことが増えてきます。
もちろん日々の出来事は現象として一つで、
その効果と解釈は関わった人の分だけ存在するのですが、
自分がおかれた状況の解釈を
丸ごと受け入れられない時が時折あります。

そんな時に、世の中的になんだか良く分からないが
受け入れられている「非科学なもの」というのは
その解釈に新しい可能性を残すことができそうで
なんだか期待してしまうのです。

川本真琴の歌の中に
禁止したって人類はぐんぐんはみ出してゆく、
というくだりがあって、
その表現はとても確かな感じがします。
果たしてこんなことをして何になるのだろうと
考えたくなる気持ちは、
生きるために一生懸命になっている時には思いつかないものです。

人間だけがこの世界で住む仕組みを変えてしまう、というのは、
考えることの1/10しか表現できない人間の脳の
せめてもの頑張りなのかもしれず、
そのためにいろいろな壁を感じるということ自体には
それが必要な何らかの意味がありそうだと考えます。

金曜日, 11月 18, 2005

教えてもらいたかったこと

デスクの中の余っていたペンが
最近増えなくなりました。
そういえば身の回りのものも増えなくなりました。
ちょっとした意識改革です。

情報に関して最近さまざまなことを思います。
会社に入るまで会社のことが分からないと心配する
卒業間際の大学生を見ながら、
それは会社が決して積極的には教えようとしないからだろうと
思います。
「門戸は何らかの方法で開いてるのだから
だったら知るよう努力すればいいじゃないか」と言われると
ひどく反発したくなるのは、
「情報開示」と言ってただ雑文交じりの膨大な資料庫の
鍵を開けただけの状態のお役所のある課と同じだからで、
それが誰にでも通じる積極的な開示ではないからです。
特殊な方法、先輩を頼るとか裏口から入るとか
そういう方法は決して「門戸が開いている」とは言いません。

メディア・リテラシーの重要性を思います。
「本人のためにならない」とか分かったような理由で
面倒な気持ちを隠しながらお茶を濁したりせずに、
読みやすく、分かりやすいということを
なぜもっと純粋に追求しないのかと思うことがあります。
禅の思想だか問答なのか知りませんが、
それはひどく人を不公平に、そして不幸せにします。

自分でやらなければ分からないこと、というのは
確かに存在します。
覚える過程で手を使い、頭を使うのですが、
しかし先に手順を聞いたからといって
それが中途半端になることなど少しもありません。
洗練された情報によってより早く理解できるだけです。
物理がここまで進んだのは、
遠回りせずに知識を積み重ねる方法を選択したからです。

これらがどこかで「きれいごと」と言われるのも
どこかで感じています。
人はその淘汰を乗り切るために
個人としては情報戦を繰り広げているからです。
しかしチームであるという意識があるならば
積極的に開示することがプラスになる事だってあります。

大事なのは、
何ができるかではなく、できるようになったことで
一体何が表現できるかにあります。
やってみなければわからない、という言葉は、
半分は本当で、半分は嘘です。
だから何も教えずにただやってごらん、と言うのは
少しも足しになりません。

自分が知らずに困り果てたことがたくさんあったので、
教えて欲しい、という気持ちに
可能な限り応えてあげたいといつも思います。
いざと言うときには
とにかく今自分が持っているものと知っていることを
総動員して事に当たるもので、
知るということはよりよい選択を導くための力です。

木曜日, 11月 17, 2005

階段建設屋

最近試している健康向上対策は
なぜかことごとく成功しています。
しかしそれはストレスそのものを感じなくなっているかもしれなくて、
ストレスがあるときには健康対策って
効果が殆ど現れないんじゃないかと思う今日この頃です。

結果が出て名を残すことばかりでしか評価されない、と
まことしやかに言われる風潮がいやで、
初期の苦しい段階でとても力になってくれた人を
どういう言葉で形容すれば確かな賛辞になるのかと
よく考えていました。
ボスの追悼文の中に
「道をつけてくださいました」という一言があって、
ああ、この言葉だと納得しました。

道を歩くことと道を開くことは別物です。
開いた道は誰でも歩けますが、
何もないところに道を開くことは限られた人しかできません。
このできないという表現にはかなり問題があって、
やればできるかもしれないけれどやりたくないと思う人は
少しぐらいやったらいいじゃないかと思ってしまいます。

この国に新しい宗教も文化も多分必要ないのですが、
正しい気高さ、ある種のプライドのようなものって
少しぐらいは必要じゃないかと感じることが最近増えます。
全く棘がなくて攻撃性のない人が
マスコットのように愛される、というのは
確かに理にかなっているような気もしますが、
多少手ごわくても芯がある人というのは
この国ではとても警戒されます。

ビルを作るには重機が必要で、
電力を作るには核燃料が必要です。
人が進み登る道を作るのであれば、
それに叶った強さを持つ人が求められます。

最近、同じような気持ちを
繰り返し違う表現で書いているような気がします。
こう思う気持ちののなかに何があるのか、
なぜそう思うようになってしまっているのか、
その理由はまだ聞かされていません。

水曜日, 11月 16, 2005

畑の概念

家では玄米茶を良く飲んでいました。
香ばしくて気に入っています。
時折塩を口に含みます。
冬は体が乾燥しやすいのです。

秋になるとさんまが一尾50円くらいで
スーパーに並びます。
安くて新鮮なので買いますが、
ふと一尾50円で経済はちゃんと回るのか
すごく不思議に思うことがあります。

供給が多すぎると値崩れする、
これは市場原理の講義の初期の頃に現れる
基本定理です。
人間の労力と機械の労力を足したものが
市場が求める量より多い場合、
労働が値崩れします。
しかし労働が続かなければ給料は得られず、
どこかで調整が必要になります。

一生懸命働くことは必要だと思いますが、
何のために働こうとしているのか時々考えていないと
労働過多の世界の調整ができません。

この間「叩き台」を作る難しさを話していて、
最も必要な仕事は「叩き台」にあるのではないかと
認識を持ちました。

叩き台は手探りで作られます。
そしてたいていの場合不恰好です。
叩き台があるからこそそれを純化して
より洗練した姿にすることができます。

どちらかと言うと、人は
叩き台を作ることよりも、
洗練させることのほうを好むようです。
楽に何か良い結果が出たような気分になるからです。

叩き台を作るのには
ずいぶん泥臭い手続きが必要です。
情報を集めて試行錯誤して、
それでできたものはその時点では
どこか垢抜けないものだったりします。

でも一度核ができてしまえば、
あとはその核の可能性に応じて
自由に発展させることができます。
それはおもちゃを作る人と、
おもちゃで遊ぶ人の違いでもあります。

どんなに面倒でも、
叩き台を自分で作る気持ちを忘れたくないし、
余剰の労働力は創造的な事柄に振り分けれたらいいなと思います。
それを横取りしたりちょっとだけ使おうとする人は抵抗を持ち、
別の場所で叩き台を作っている人は大好きです。
そして「荒野に畑を広げる」ことに相当するものが
「未知の世界に叩き台を作る」ことだと考えます。

火曜日, 11月 15, 2005

「野球が好きな人」

昨日はずいぶん外が暗くて、
午後4時半になると真っ暗になった感じがします。

野球が好きな人、と表現すると
野球をするのが好きな人、野球を見るのが好きな人、
その両方、という3種類に分けられます。

趣味で野球をする場合は、
観客というのはあってもなくても野球自体はできます。
仕事で野球をする場合は、
野球をする人には野球を見て楽しみにする人がいることで
野球が続けられます。

時折出てくる話の中で、
世の中には2:6:2の法則と言うものがある、といいます。
ある出来事、集まり、など多数のものの集合に対して、
最も重要な寄与をするものは全体の2割、
日によって変動する寄与をするものは全体の6割、
全く寄与しないものは全体の2割、
という風に解釈されます。

野球でも芸能でも、
熱心に応援へ馳せ参じ通うファンの存在が
その後の発展を決めるのだといいます。
彼らは自分自身が「応援するもの」をやるのではないけれど、
それと同じくらいの努力をして注目し応援しています。

ちょっと立ち寄って気の効いたことがひとこと言えて、
立ち寄るも立ち寄らないもその日の気ままで、
という「しゃれたお客さん」の立場でいる場所も
十分あっていいと思いますが、
そういう人もどこかの場所に「一生懸命さ」というものを
持っていて欲しいなとつい思ってしまいます。

お気楽で楽しくて、という感じが持てれば
もっと気持ちには余裕がたくさんできるのかもしれませんが、
そうすることを自分に許すことは難しいし、
そういうものに魅力を感じる感覚も発達していません。

ずっと楽できる生活にはなれないのかもしれませんが、
それでも一生懸命さというものを出せる意志の強い魅力を
自分にも相手にもどこかで求めていくだろうと感じます。
それは何度も自分を試してみて、
一度も変わらなかった部分の一つです。

月曜日, 11月 14, 2005

気持ちが枯れていないとできない仕事

小さなハードディスクを買いました。
USBメモリにしばらく慣れていたのですが、
中途半端に容量が多いとうまく使えません。

およそ力仕事を続けている時期に、
デスクに落ち着いて座って思考するのは難しいものです。
「素早い気持ちの切り替えを」とよく言われ続けてきたのですが、
もともと考え込んでしまう性格もあって、
切り替えろといわれると妙にへそを曲げたくなります。

意識すればするほど増していくものがあります。
タバコを吸いたい人が「タバコをやめろ」と毎日聞かされると、
逆にタバコを忘れられなくなってしまいます。

何か困ったことを手放すには、忘れてしまうことが良いようです。
逆に大事なことは何度も思い出す必要があります。
そういえば学校では覚え方は何度も繰り返し学びますが、
忘れ方を教えてくれることは一度もありません。
人は覚えにくく忘れやすい生き物だから、というのかもしれませんが、
時に忘れられないタイプの人間もいます。

脳を自在に使えるということは、
自在と言う言葉は双方向の意味を成すものであるため、
覚えたことを自由に取り出せるだけでなく、
不要なものは自在に忘れてしまえる能力も必要です。

もの想う秋、とはよく言ったもので、
デスクに座って考え事をするのは秋が向いています。
いたずらに活動的な時期より、
少し気持ちが枯れているほうが考え事は楽なのです。

日曜日, 11月 13, 2005

人にはそれぞれ「必ず理由がある」

秋の山をこれほど美しいと感じるようになったのは
関東に出てきてからです。
九州の紅葉はオレンジ色が多いのです。

タイトルはC&Aのブックレットの一節です。

ニュースとテレビを見ない生活を送っています。
概ね見なくても生活はできます。
しかし人と共通の話題を求めるときには
少々不便に感じることもあります。

この「不便さ」、国によって違いはないようで、
イギリス紳士は社交場のたしなみとして
新しいジョークと最近の話題を用意しておくことが
求められていたといいます。

生きやすさ、というのは
制約条件の少なさ、という尺度で測れば分かりやすく、
条件が増えれば増えるほど生きるのは難しくなります。

争いや矛盾や衝突や、
そういったものは生き物の中では脳の活動という「おまけ」の部分であって、
それらは単体では特に意味を成さないのかもしれないのですが、
しかしそれらが人という種を選び進化させるプロセスの一つで
あるとするなら、
それらには何かの理由があるのだろうと思います。

人間は進化の最終過程に生まれたという説がまかり通っていて、
しかし人間は進化し間違えた生き物かもしれないことは
あまり問題にしようとしないものです。

月曜日, 11月 07, 2005

食塩は体に悪いか

24時間以上起きていたので睡眠不足明けです。
旅する行と座禅の行があったら、
多分旅する行のほうが気分はいいと思います。

今日はすこし食べ物の話です。

食べ物の環境は遺伝します。
たとえば塩味の濃い食事が日常の場合、
体は塩分に慣れるように変わっていきます。
菜食主義と言う人がいて、
その人たちの体は野菜の成分の中から
必要な蛋白を吸収できるように変わっています。

「人間」という単一の標準モデル、という概念が
どこまで通用するかを最近考えます。

個性には、頭で覚えたことから生まれる性格に根ざす面と、
体のつくりや環境・経験から生まれる実体に根ざす面があります。

極端に言えば、脳は単一世代で書き換えることができます。
脳はただのネットワークで、それに何を覚えさせるかで
結果が変わってしまうからです。

これに対して、環境が体の働きを変えてしまうことがあります。
イヌイットかエスキモーなどのカヌー生活をする民族は
生まれつき腕力が強いのだといいます。

食塩を多く取る地域の人たちは
自然と塩分を代謝できるような体になっています。

それでいろいろ考え直すと、
一人暮らしを始めてからしょっぱいものを
あまり食べなくなったような気がしたのです。

数日日常を変えたぐらいでは体は異常になったりしないので
たまに自分を試すことがあります。
そこで昨日から多めに塩分を取ってみました。
夜食の後も眠くならず、
眠い以外は意識ははっきりしていました。

実家にいたときの味付けの濃い食事は、
自然と自分の中に身についているのだろうかと
不思議に思った今日の夕暮れです。

木曜日, 11月 03, 2005

人は皆違っていく生き物

世の中的に平日か休みか、を
一番肌で感じさせるものは、
町の様子とテレビ番組です。
テレビを殆ど見なくなって、
世間と距離を置いてみるのもなかなか楽しいものです。

記憶にはある日不思議だと思って
心に引っかかった言葉が集まります。

「この業界は狭いから」と言う言葉は、
なぜかどこの業界の人からも聞かれます。
業界に広いところなんてあるのだろうか、という疑問が生じます。

「あの人とは根本思想が違っていた」ということが
仲違いの原因になったりして、
しかしある一時期は共通点を持っていたからこそ
そこに共通の時間が生まれたわけで、
果たして「違っていた」ことは
世間的に言われる「勘違い」ではないのではないかと
不思議に思っています。

年は取りたくない、と言いながら、
忙しい今週は早く終わらないかと思う気持ちは
よく分かる心境なのですが、
時間的に厳密なことを言うと矛盾しています。

キャバレーに通う紳士、
マイクを握ったら離さない後援会幹事、
立ち話に熱中する淑女、
共通するのは「話し相手が欲しい」という欲求で、
それは年を重ねるごとに増していくもののようです。

似ているものから始まると、
若者は個性が少ないとか個性を求める、と言う気持ちは良く分かって、
同じ時代環境で育てば多かれ少なかれもともと似ています。

このような連想から行くと、
よくブログの質問にある
「あなたと瓜二つの人が現れたらどうしますか」の問いに対して、
多くの人は「一生理解しあえる話し相手にする」と答えるのが
自然なような気がします。

違う個性に刺激を受け、同じ個性に安心を得るとすれば、
人が違い続けていくということは
安心ではなくなっていくということなのだろうかと
時々難しく考えます。

西洋では個の概念、東洋では集団の概念、と
区別したとしても、
人はいずれ違っていく生き物であることは
どの世界でも変わりません。

水曜日, 11月 02, 2005

頭に優しいノートの取り方、とか

薄い紙が好きです。

実は薄い紙のほうが安いらしいのですが、
値段と好みは関係がありません。

本は頭から読みます。
最後から読んだらお話にならないからです。
それでノートと言うのも本と同じように
最初のページに一番古い情報、
最後のページが一番新しい情報を載せるようになっています。

以前からこの「ノート」の使い方が苦手でした。
自分でメモを取るのに、後で読み返せないからです。

いくつか原因があることが分かりました。
ノートが「ある時間を基点に進む時間で記録される」場合、
一度記憶を「ある時間」まで戻した後、
そこから読み進める、という二回の操作が必要で、
私はこの「ある時点に戻る」際に混乱するのです。

そこでノートをバインダー型にして、
古いページが一番最後に来るようにしました。
こうすると、最近の情報はいつも上にあって、
過去に遡る一回の操作で目的の場所を思い出せます。

新しい情報ほど、最初は何度も復習する必要があり、
時間が経ってもたまには見ることが必要、とは
リビングストンとか言う人の学習曲線に繋がる話です。

ここまで書いて、
だったら今まで通りノートを書いて
逆からめくればいいじゃないかと思ったりするのですが、
こうすると「時間を遡る」ことがイレギュラーだと感じて、
あまりうまく行かないのです。

この方法、本がとても好きで、
お話として全体を理解できる人には向かないかもしれません。
しかし本に書かれたものを読む場合は、
実は現在から未来への時間を使っているので、
最初の情報が一番「古い」必要があります。

自分用のノートを書くという事と、
人に読んでもらう文章を書くことは、
実は頭の働きの方向が逆なのだと感じます。

story-tellingとは、
現在から未来に向かって行われる作業です。

日曜日, 10月 30, 2005

プラス1の処世術

マウスの一つボタンがMac、
二つボタンがWindows、
三つボタンがUnixと決まっています。
わたしはWindowsをメインに使いますが、
最近右ボタンをできるだけ使わないようにしています。
なんとなく思考の邪魔になるかもしれないと思ったからです。

相反することについて時々考えます。
「お金は後からついてくる」と、
「先立つものがないと始まらない」は全く逆です。
そしてこれらの言葉を、適切な状況の説明にも
諦めの理由付けを求めるためにも使います。

いくら大農場が効率がいいからと言っても、
大平原を一人で耕していたら
いつまで経っても作物は実りません。
といっても自分ひとりがやっと食べる分しか耕さなければ
いつまで経っても楽にはなりません。

どうもそこには「適切な大きさ」というものが
決まって存在するように思います。
アプローチの方法はひとそれぞれですが、
少なくとも大農場での農法と
小農場での農法は全く違うはずです。

量子論は確かに全ての物理の基礎を成しますが、
高エネルギーでの場合と低エネルギーでの場合は
基礎となる考え方そのものが違います。
そして複雑怪奇な量子論は突然生まれたのではなく、
もう研究することが何もないだろうと言われるまで
古典力学が精査された後に生まれたものです。

大きな事を為したいときに、
がむしゃらに無理をするわけでもなく、
かといって臆病さから行動範囲を狭めるわけでもなく、
今できることから一歩だけ先へ努力してみる、
そういう歩み方が必要だと思います。
そして、一足飛びではなく一歩ずつというのが
なぜか結果的には一番早く目的地へたどり着ける感じがします。

ただ時々無理をすることにはいい意味があって、
今までの自分の「方向」を変えたり、
日常に余裕を持たせる効果があります。
それは一歩ずつの歩みではもしかしたら得られないことで、
諸行無常の考え方で言えば
自分が生まれ変わることに等しいのかもしれません。

金曜日, 10月 28, 2005

朝日の当たる道

気分のいい朝は散歩をします。
おととい芝の畑の前に車が停まっていて、
助手席にバイオリンを置いて眠っている
作業着姿の男性がいるのに気がつきました。
そこには何か「おはなし」がありそうで、
なんだかいい気分でした。

ちなみに誰もいない野原に出ると
一人で歌を歌います。
好きな曲を最後まで覚えているというのは
こういうときに便利です。

火曜日, 10月 25, 2005

徹夜は意外とできるもの

もう若くないから徹夜が辛くなった、と
誰かがまことしやかに言い出したのは
20代の前半でした。

この話、一部には正しさがあるような、
しかし全体は正しくないような言葉で、
しばらく考えます。

20代前半は妙に体力がないような気がします。
それは、体力とは別に、
精神的な構造変化が起こるからではないか、と
最近考えています。

斉須さんの本の中に、
平気で3日ぐらいぶっ続けで働くフランスの料理人が出てきて、
血が違うなあと驚いたという表現がありました。
それは単に「血」ではなくて、
人間は体を動かし続けることに
慣れることもできるのだという表れのような気がします。

テレビで見たニュースで、飲み歩いて徹夜した後で
そのまま仕事へ行く、という話を見て、
徹夜する中身が話したり歩いたり、といった
体を使った時間の使い方であれば
意外と徹夜は簡単にできそうな気がします。

徹夜のコツ、みたいなものについても
時々考えます。

一仕事の前に腹ごしらえ、というのは
全く正しくないような気がしています。
食べたら内臓が運動するのが忙しくなって
眠たくなってしまうからです。
徹夜の時間帯には
できるだけ消化が良くて胃腸に負担の少ない
果物とか飲み物を少しずつとって過ごすのが
よいのではないかと考えます。

逆に眠りたいときには、
たくさん食べればいいのです。
良くないことがおこった時にやけ食いするのは
もしかしたら眠りたい連想なのかもしれません。

日本人は苦行みたいなのが大好きなので、
徹夜と聞くとなんだか辛くてすごいイメージを持ちます。
しかし徹夜することにも上手な方法があるのであれば、
飲み歩いて仕事したって特に苦しくはありません。

加速器は試験中歩きっぱなしで
一見体力勝負な印象で辛そうですが、
実はその事のほうが徹夜は楽だろうとも思います。
頭脳労働だけで徹夜するのは本当に苦痛で、
だから作家はわざわざ旅に出て
体を動かしているのかもしれません。

可愛くない顔

加速器試験はようやく終わりました。
最初にイメージした実験の理想的な姿に
だいぶ近づけたような気がします。

メールで大量に文書を書き、
何人もの人と会話をしながら仕事をする、という使い方をすると、
かなり精神的な体力が要ります。
人は人の中にいて生きていくものならば、
人付き合いが得意とか苦手とかいう感覚はあっても
必要なときに必要な人と情報をやり取りしなければなりません。

個人的なメールの中で使う顔文字の中で、
今まで一番多く使ってきた顔は笑顔の顔文字です。
自分がメールを送ることに対して
好ましい気持ちでいるということを表現したいのです。
もう一つは、他のいろいろな顔は
今ひとつ可愛げがない、と自分では思っていたところにもあります。

メールは会話のように言い直したり
説明を付け加えたりできないので
自分が笑顔でないメールを書いて
相手に良くない印象を与えるのではないかということが
内心すごく気になっているのです。

ところが、気分的には笑顔でない日というのも
実際にはあって、顔文字ながら
笑顔ばかりを使うことにたまに抵抗を感じることがあります。
同じ表情を続ければ顔だって引きつってしまいます。

笑顔でいなければいけないのだろうか、と
ふと思うことがあります。
「いつも笑顔で」とよく言われたとしても、
本当に毎日笑顔で過ごしているわけではありません。
人間は何にでも慣れてしまう生き物であるために、
笑顔にも慣れてしまう、というのは
笑顔だけではなく涙顔が豊かに出せる女優さんに
人気が出るというところでも良く分かります。

できるだけ笑顔、とか
ため息をついたら幸せが逃げる、とか思わずに、
できるだけ表現豊かでいようと思います。
自分が寝ぼけていてかっこ悪い顔をしていても
それはそれで自分の姿だったりするのです。

かっこ悪いに慣れる、ということが
どうしても心配だった時期があります。
一度かっこ悪いに慣れてしまうと、歯止めがきかなくなって
これ以上努力しようという気持ちを失うのではないかと
考えてしまうのです。

しかし人はどんなことにも慣れることができ、
一方で慣れるとどんなことにも退屈する生き物です。
退屈というのはなかなか面白い感情で、
新しい事を始めるのが楽しくなります。
毎日が新しいことばかりだと、
少しは落ち着きたくなるものです。

人からもらうメールの笑顔の顔文字は
いつ見ても飽きないものですが、
自分が書くメールの中にはたまには他の表情の顔文字も
少しずつ使ってみようかなと考えています。
ただの白と黒が作る「ある情報」なのに、
人は自分を表す方法をめぐらせているものです。

月曜日, 10月 24, 2005

制御不完全な脳

どんな環境であれ
新しい人に会うというのはいい刺激になるといいますが、
新しいものを受け入れるにはキャパシティーがあるようで、
会うには気持ちの体力が要ります。

土曜日に出た集まりの中で、
最近脳のことについてみんなの意識が高まっているのを
感じました。

社会の教科書では、
類人猿から進化するために脳が大きくなった、と
あるのですが、
生まれつき普通の人の1/10しか脳がない人でも
全く日常生活に支障がないことを知ってからというもの、
どうも脳が大きいことは進化の過程で
どこか間違った選択をしているのではないかと思いました。

哺乳類は体に対して
比較的大きな脳を持っていますが、
そのおかげで感情的な表現が行えます。
ただそういった表現は「種として生き残る」ためだけであれば
全く不要なのです。

社会性というものを獲得するのでさえも
これほど大きな脳が必要ないということは
蟻を見ていれば分かります。

制御工学の言葉で言えば、
自由度に対して可制御量と可観測量が十分用意されないと
システムの動きが不安定になることを
避けることができないとあります。

人の脳は体10個分以上を楽に動かせる、というのは
23人のビリーミリガンのような多重人格が
存在することでも良く分かります。

こういうことから考えると、
脳は体の全入力、全感覚を使っても
完全な制御ができない物体だということになります。
アインシュタインの言葉によると、
すべての人は目に見えない笛吹きの曲にあわせて
踊っている、という表現になります。

逆に言うと、脳は自分の体のあらゆるものを
自在に変えられるだけの十分な潜在能力があります。
志が表情に出るとか、
恋すると魅力的になる、というのは
脳に上手なスイッチさえ入れることができれば
本当はたやすいことなのだろうと思います。

自分のことが思い通りに動かせないという
現実的な問題は、スイッチを入れるのが
そもそも非常に難しいことにあります。
脳のスイッチを入れるために用意された入力端子が少ないのです。
身をもった経験が大事、ということが言われる理由は
もともと体を使って脳に送れる情報量が
脳が要求する1/10以下しかなくていつも不足していることで
説明がつきます。
「知りたい」という欲求を強く感じる人は
脳そのものが導く行動に従っていることになります。

考えすぎはよくない、とか言うのは
脳が暴走してしまったときに止める手段を持てなくなる、
ということに繋がっているのかもしれません。
そして時折聞かれる「愚直にやる」という表現は
実は脳の機能の一部を強制的に「使わない」ことで
自分の脳を制御できる状態へおく、ということの
表れと考えることもできます。

おはなしではありますが、創世記の一節には、
木の実を食べた瞬間から
自我と恥じらいというものが生じて
体を木の葉で覆うようになった、という箇所があって、
それが神が定めた罰の一部であるというならば、
この人間世界がいつまでも混沌としているのは
神が脳をいたずらに大きくしてしまったからと
思うのもまた納得のいく説明かなと思います。

水曜日, 10月 19, 2005

純粋にうまくなりたいと思う気持ち

雨の日はずいぶん暗くて、
しかし気持ちが落ち着きます。
雨上がりの空は美しい海の底を眺めるように澄み切っていて、
気持ちが洗われるような気がします。

もやもやした気分が生じたときに、
頭と心を洗ってさっぱりする確実な方法がないものとかと
時々思います。

野球用品メーカーの宣伝で
「もっとうまくなりたい」という一言を
いろんな少年が繰り返すCMが数年前にあって、
その宣伝がとても気に入ってました。
憧れから何かを始める気持ちというのは
無心に行動できる原動力になります。

行動が縛られることがあります。
自分ができることが大きくなっていくと、
誰かの行いと衝突してくるからです。
それで自分が行動することに対して
ある種の抵抗感を持つことになります。

自分がこんなことをしてみたい、と思ったときに
それが上手で、そのことで人を楽しませている人を目標にするというのは
良い方法だと思います。
上手になるということが自分の快い感情と結びつくからです。

仕事について最近はこんなことを思います。
仕事で成果を上げる過程も大変だとは思いますが、
その成果で人が幸せになっているところをイメージできないと
その仕事をする意味を失います。

自分よりも何かが上手な人を見ても、
どういうわけか競争心とか張り合う気持ちを持てません。
それが上手である人を見て満足し、
自分も少しでもそうなれたらいいなと思うところまでです。
切磋琢磨という表現をあまり受け入れられないので
あまり男性的ではないのかもしれません。

自分の年齢が上がってくると、
友達の活躍する場も大きくなってきて、
話すのがとても楽しくなります。
そこには自分がもう到達できない場所があって、
そういう場所にいてくれること自体が
良い目標になるのです。

幸せな気持ちというのは状態であって実体ではない、
だから日常の生活であればずっと幸せでいることはない代わりに、
ずっと不幸せでいることもないのです。

月曜日, 10月 17, 2005

人に表現し、人を集める練習

Windows Media Player9.0には
曲の再生速度を変化できる機能があります。
デジタルとは再現性に優れたメディアの記録法ですが、
毎度完璧なまでに同じ調子の曲を聞くと
どうも調子が悪くなってしまうようで、
いつも聞き慣れた曲を15%くらい遅くして聞いていると
とても気持ちが落ち着きます。
暇なときにお試しください。

毎度同じ調子が完璧に来るとどうにかなりそう、というのは
高校のときにピアノを教えてもらっていた
音楽の先生の話です。
MIDIを使って曲を直接弾いて録音する際に、
一瞬の狂いもないような指使いが求められて、
そのときにこの話を聞きました。

人の曲の中には、気持ちに由来した揺らぎがあります。
機械的完全な正確さではなく、
この揺らぎが必要であるというところに
人の面白みがあります。

完全なもの、完全なリズムを求めて
音楽を操る機械は頑張ってきたはずなのですが、
必要以上のところまで突き抜けてしまうと
やはり人は人を求めるのだなあ、と
人の進歩の限界点を見るような気分でもありました。

集まりの案内を出す係をしています。
出すこちらは一人か少数で、
返事があるあちらはたくさんの人がいます。

人が集まるところには理由があって、
その目的がはっきりしていると良いのですが、
あちらの人がたくさんになっていると
なかなかその目的がはっきりしなくなることもあります。

人が集まっているものの一番大きなものは
市場になるのでしょうか。
不特定多数の人が混在して存在している、ある場所に
何かのアクションを起こしてあるリアクションを得ます。

表現は何のためにあるのか、表現は何なのか、なんて
素朴かどうかさえ分からない疑問を持ちます。

現代的に使われている「表現」とは
「勝ち抜くためのアピール」としてほとんど使われます。
宣伝、歌、さまざまな表現が
「何かに勝つために」準備され競われます。

表現が競争と同一視されてしまうのであれば、
心優しい人にとって「表現」は実にやっかいな代物になります。
表現が他人を排斥するものでしかなければ、
それを好む理由になれないからです。

競争原理を感じずに表現を学ぶ場というのは
一体どれだけあるのだろうとふと想像します。

岡本太郎の本を読んでいて思ったのは、
踊りや歌といった身体表現は
それ自体が生きるために存在するから美しいのだ、という
くだりを見て、とても納得しました。

競争が完全に不要だといっているのではないのです。
良いものが選ばれて世に広まることで
多くの人が生きやすい環境を得ることができるからです。

しかし表現の全てが競争である必要がない、
だから「競争とは無縁の表現」というものが
もっともっと広まらないといけないのではないだろうか、と
最近はこんなことを思っています。

営利目的ではないその集まりは
自由意志でできていて、どことも競争関係にありません。
肩書きや利益追求を外した表現ができます。
ところが最初に感じることは、
「集まりの案内を出して来なかったらどうしよう」と
思ってしまう感情とどう付き合うか、ということでした。

集まりには明確な目的がもともと存在しないので、
たくさん集まる必要さえ本当はないはずなのに、
「集まり=大盛況」であることが暗黙の了解になっています。

少し思うことは、
自分の行動を認めてもらいたい、というのは
誰しも思うことだな、ということです。
それで案内を出して断られたら、
親身にしている人の数が計られそうな気がして
一瞬怖気づいてしまうのです。

でも知り合ったばかりの人たちの中で
親身にしている人がそもそも多いはずなんかないので、
断られることもままあることではあります。
たくさんの人はそれぞれ複数の用事を抱えているので、
いつもうまく行くとも限りません。

そんなわけで、「断られることに慣れる練習」というのを
少しずつ始めてみよう、と思い始めた時期があります。
まずしなければならなかったことは、
断られることは悪いことであるという連想を解くことでした。
この連想が解けなければ、
断られるたびに自分の感情が傷ついてしまうからです。

たくさんの人が、
心をある意味で裸にして向き合っているのかなと最近思います。
それは科学のせいかもしれないなとも思います。
たった一つの真実がある世界、という観念自体が
心の逃げ場をなくすのかもしれないと感じるのです。

自分の意識が何もかも白日の元にさらされている、というのは
現実には錯覚です。
人はそのくらい分かり合うのが難しい生き物のはずなのです。

寒い日には厚着をすればいいのであって、
わざわざ裸になって乾布摩擦をするだけが能ではないはずです。
心も同じで、
深く痛んだときには時々温かい服を着せてやる必要があります。

漠然とみんなが思っていて、
しかしそれが表現になって出てこない、
それを見つけてちゃんと表現すると
ふと潜在的な緊張が解けることがあります。

表現が人を結び救うものである、
いつもそういうものであったらいいのにと
毎日思います。

火曜日, 10月 04, 2005

いまだにプリンタの類が信用できません

物理シミュレーションソフトにANSYSというのがあるのですが、
「アンシス」というチョコレートが出てたので
思わず買ってしまいました。

紙出力をあまり信頼できません。
目の前でよく詰まるのを見るからです。
詰まる原因はそれほど単純ではなくて、
部屋の湿度によって紙の状態が変わるとか
難しい要素も含みます。
だから雨の日はトラブルが増えたりします。

プリンタと同様にFAXも信頼できません。
相手のところが紙詰まりだったら読んでもらえないからです。
それでFAXを送った先には
一言電話をすることになります。

最近は電話だけの注文というのは受けてもらえなくて、
工業国際規格のISOに習おうとすると
ほとんど全ての作業を文書化することになります。
言った、言わないの揉め事は
水掛け論になる場合が多いものです。

たった一つのメディアで情報のやり取りが完結する、
ということ自体が
そもそもありえないことではないか、と最近思います。
それは人間を信用していないとかそういうことではなくて、
もともとそのようにできている、と考えるのがいいと思います。

水曜日, 9月 28, 2005

スパムメールのはやりすたり

デスクワークの日々が戻りました。
季節変わりの風邪が流行っている、と聞くだけで
どうやら風邪を引いてしまいました。
風邪を引くと頭の回転がよくなる、
どうもこのことは変わらないようです。

破壊型の幸せと、調和型の幸せについて
小さい頃ふと思いをめぐらせたことがあります。

破壊型の幸せというのは、
どちらかを幸せにするとどちらかが幸せにならないもので、
調和型の幸せというのは
どちらも幸せにできるものです。

破壊型の幸せが必要である場合、
すべての人が幸せにはなれないことが導かれます。

一見調和型の幸せを求めているようで、
破壊すること自体に幸せを見出してる人もいます。

時々思いますが、
食べ物を食べる喜びというのは
多くは破壊衝動によるものだと思います。
緻密な組織でできた食感を楽しむ、というのは
まさに何かを壊す楽しさから来ています。

世界は壊していいとされるものが減りました。
壊してはいけないようにできているとさえ思います。
それで破壊衝動は
どうしようもないベクトルを向くことがあります。

責任の重いアメリカの裁判官、外科医が
幼児偏愛や性的倒錯に陥る、などという話は
よく現れます。
彼らは「破壊することが許されない」ものばかりに
囲まれて暮らすからだと思っています。

破壊衝動自体が人の持つ避けられない本質であるならば、
法的に許されていて、しかも他の人間に害のない、
破壊衝動を満たす方法とは一体どんなものがあるのでしょうか。

長い寄り道をして
タイトルのテーマへと向かいます。

スパムメールは、メールができてすぐの頃から
やってきました。
携帯が受け取れる情報量が増えるにしたがって、
メールの数は突然多くなりました。

最初からあるのが
露骨な表現のタイトルと成りすましメールです。
法規制が整う前には
「間違って登録した可能性があり、
返信しないと違約金を請求します」などの脅しがありました。

法がある程度整備された後では、
「ご紹介させていただきました」とか
「あなたは特別です」とか
持ち上げるようなタイトルのメールになってきました。
確かに届いたときの印象は和らぎましたが、
スパムメールに変わりはありません。

ここ数ヶ月ぐらいは、男性がお金を払うタイプではなくて
女性が援助するタイプのものも増えています。
運営業者にしてみれば
収入になればどちらでもいい、ということなのでしょうか。

電子メールに代わる通信手段に
何が選ばれるかはよく分かりません。
ただ、それは音声や映像といった時間を要するものではなく、
やはり文字伝達によるものだと思います。

リテラシーの必要な時代は
これからも長く続きます。

火曜日, 9月 27, 2005

find a path to the dream

メーラーはMessage Managerというのを使っています。
送信機能が1MBまでしかないので、
大きなファイルを送るときだけメーラーを使い分けます。

辞書は人間が作ったもので、
言葉も人間が作ったものです。
夢の説明を見ると、
気持ちが想像したこと、という意味で一致しています。

充実した時間を過ごす、というのは
生きていること自体を忘れているときであるような気がします。
心配事というのは生きること自体を考えることで、
この気持ちが長く続くと気持ちが落ち着きません。

さんざん考えてみた末に、
いっとき考えるのをやめる、という方法もあるなと
最近思うようになりました。
今わからない答えはいつも気持ちの中に残るのですが、
だからといってすぐ分からなければ不安になるというのでは
いつも不安だらけだからです。

年齢を重ねて思考の自由度が増えてくるほど、
それを束ねるのが難しくなってきます。
パソコンをさわってうまく操作できない時に感じる
あのもどかしさと全く同じようなことが
自分の脳の中で起こるのです。
パソコンの複雑怪奇な中身に対して
入力装置はせいぜいマウスとキーボードなので、
重故障は入力装置だけでは直せません。

脳も同じで、
五感の入力を全て動員して調整しようとしても
悩みが深ければ直らないこともあるだろうと思います。

やっかいなのはこの世界そのものではなくて、
この世界に振り回される自分の脳なのです。

金曜日, 9月 23, 2005

街歩きの方法論

何も知らずに街に行く、
何かを調べて街に行く

書を捨てよ、街へ出ようの一節から考えると、
自分の目で見よう、という言葉が印象に残ります。

「自分の目で見る」という言葉は
分かったような分からないような言葉なので
少し説明を試みます。

自分ではない目というのは他人の目で、
主には聞いたり読んだりした「人の話」の印象の部分に
自分の印象が支配的に影響されることを指します。

歴史書には、
起こったことを書いた部分と、論や観を書いた部分とがあります。

起こったことについて書かれた場合、
その出来事に関連した場所に注目する能力が上がりますが、
それ以外の視点が忘れられがちになります。

論や観について書かれた場合、
感情の共有によって見るもの自体の主観的な印象に
大きく影響を与えてしまいます。

日常において、
言葉自体にとらわれる、という現象がよく起こっているのに、
なかなかそれを拭うことができません。
言葉が独り歩きする、それは
ものと言葉は必ずしも一対一で結ばれていないからです。

「花」という言葉があって、
最初は植物の花に対しての単なる呼び名であったものが、
そのうち華やかさを表す印象まで帯びてくると
使われ方が変わってきます。
かけことばや短歌の隠喩などは
言葉の持つ複数の意味を多面的に使った結果です。

日本にとって西洋から外的にもたらされたもっとも強い感覚は
「絶対観」だと思っています。
それは技術として受け入れ、非常に器用に操れるようになったのですが、
絶対観の欠点を補正する哲学の導入バランス、
つまり人間の不完全性への理解が不十分だったために
ある意味で人間性という感覚がつかめなくなってしまいました。

絶対観はしばしば単一観と混同されます。
本来は複数の観点が有機的に繋がっていても、
それらが全体として矛盾なく閉じていれば絶対なのです。

数学オンチな側面も大きく作用していると考えることがあります。
数学は演繹の方法によって解が変わることは
確かにありませんが、
数式がどう表現されるかによって
物理的表現の意味が大きく変わります。

めぐりめぐってこの話のまとめは、
街歩きの前に書を読む、
これがうまく行くためには
得た情報の力に対峙できる、ということが必要です。

水曜日, 9月 21, 2005

マッチポンプ、というわけではないけれど

西洋医学的に難しい症例には
漢方薬がいいよ、と言って
初めて人に勧めたのは10年前です。
最近になってやっと
自分も漢方薬を使ってみることにしました。
予後は良好です。

2度目の装置組み立てにあたり、
新しい試みを始めました。
と言っても「何かを増やす」とは逆のことで、
「前もって起こると自分だけが予見できたことでは
行動を開始しない」というものです。

これまでは、潜在的な危険性に気がつくと
先回りして全て手を打ち、スケジュールが円滑に流れることに
意識を全て集中していました。
これだと確かに狙ったとおりのスケジュールで流れるのですが、
現場を理解されず時間が過ぎてしまうことが
次第に分かってきました。

そこで今回は、
トラブルが起こりそうでも
重大な事態に至らないものについては
少しのスケジュールの遅れを容認し、
トラブルについては全体で対処する、という方角に
舵を切り替えました。

結果として理想どおりのスケジュールからは程遠くなりますが、
手を動かさなければ現場に対する認識を持てないという
人特有の問題からは
少しずつ解放されつつあります。

相変わらず思考作業の難しい部分は
負担が大きいのですが、
労働作業を肩代わりしてもらえるだけでも
成果は大きいのです。

木曜日, 9月 15, 2005

1分以内は全て「同時」です

近くのネットカフェには
最新式のマッサージチェアがあって、
腰の下のほうやふとももまで指圧球が付いています。

「同時」の概念を変える、という作業を始めています。

物理的な「同時」は
本当に小さな瞬間でも同一ではないのですが、
人間にとっての「同時」は
概念によってずいぶん変えられます。

毎年終わりごろになると聞かれる
「1年って過ぎるのが早かったよね」という台詞は、
1年という時間を瞬間のように扱っている証拠です。
1年前のことを思い出すことと、
昨日のことを思い出すことの間には
頭の働きとしては何の違いもないのです。

ところが1年という長い時間を「同時」と思うには
かなり無理があります。
1年の間では、活動的な日も、ふさいでいる日もあるからです。

かといって全ての瞬間が同じではない、と
真剣に思うと、思考がまとまる自信がなくなります。
少しずつでも変わっていく自分のどこに
自己同一性が求められるか自分で疑問になり、
まるで狭い空間の中で追い立てられて
逃げるように走り回るような
日々のイメージができてしまっています。

「いまを生きる」という言葉を読んでも、
「いま」の瞬間が非常に短い時間であったなら、
ナイフのエッジを渡るようなイメージにしかなりません。

人間は思考が前後できる、ということは
人間にとって「同一である」「いま」という時間は
過去と未来にそれぞれ1分ぐらいあると
みなしてもいいのではないだろうか、と考えた瞬間に
気分が落ち着いてきました。
思考が少しでも過去へ戻って、
方角を変えて再生できるのなら、
見てしまった嫌なことも少しだけなかったことにできるのです。

現実の世界でも時間は不確定です。
量子論から導かれた不確定性原理と呼ばれる現象では、
非常に大きいエネルギー幅を持つ不安定な世界では
時間のぶれが非常に小さくなり、
エネルギーの非常に低い状態である安定な世界では
時間のぶれは非常に大きくなります。

揺らぎ自身は不安定と受け止められがちですが、
揺らぎが許された世界はとても安定なのです。

火曜日, 9月 13, 2005

おめざとおやつを推奨します

二つの世界を知る、という作業は
下手をすると二つの逃げ場になってしまいますが、
うまく行けば相乗効果が得られます。
知るということはそれ自体が難しいと思う
今日この頃です。

朝ごはんにご飯と納豆と味噌汁、という
食事は栄養価的に見ると非常に素晴らしいらしいのですが、
どうもわたしの朝の胃には合いません。
食べ物を取り扱うのにもエネルギーが必要なせいか
起きてすぐにはたくさんの栄養価を取り込めないのです。

おめざという言葉を辞書で引くと、
子供が朝起き抜けに食べる甘いもの、とあって、
なんだか納得してしまいました。
ちなみにアジアのどこかの国では
朝冷たくて甘いミルクティーが出されるのだそうです。

朝の果物は金、とか言っていて、
ビタミンのせいもあるのですが、
多分甘いものは朝に合うことを指してるのだと
思います。

一時期友達が食事の代わりにお菓子を食べていたのを思い出して、
なぜ弁当ではなくてお菓子なのか不思議に思ったこともあります。

こういう断片的な記憶が繋がって
「朝は好きなお菓子を食べる」ということにしました。

やってみると胃は軽いし意識ははっきりしているし
調子がいいものです。
その代わり昼よりすこし早くおなかが空きます。

この間読んだ新聞記事で、
午後3時に食べたものは脂肪になりにくい、というくだりがあって
おやつは敬遠するものではなく歓迎すべきものかもと
思いました。

栄養学の世界というのは未開の部分が多くて、
定説になっているものが簡単に覆ることがあります。
コーヒーはガンを助長すると言っていたら
翌年にはコーヒー4杯でガン抑制なんて言っているのだから
鵜呑みにすると振り回されてしまいます。

オーダーメイド医療という考え方も、
カイロプラクティックの概念も、
漢方の証判断も、
人間が1種類の方法では取り扱えないことを指しています。
これは恐らく、人間も進化の過程であって、
さまざまな種類の人間の中から
「次の新しい生き物」へと緩やかに変わって行く途中の
試行錯誤の段階だからかもしれないと思っています。

聖書の中では、
人間は本来完全であったが、木の実を食べて不完全になったという
くだりがあって、
不完全であることは許されざる罪の象徴と捉えられるのですが、
もし最初から不完全に作られていたとしたら、
矛盾や葛藤も人間のために用意されたものかもしれないなと
ふと思います。

弱い相互作用にカイラル対称性がない、ということを
学者たちは「神が傾いた塔を作った」と表現しています。
人体も見た目は対称で内部は非対称です。
すべてが対照的で美しい世界がこの世の理想の姿ではなく、
もともとどこかが歪んでいるのがこの世の中の最終形だとしたら、
それはなんとなくほっとする世界なのかもしれません。

同時だと思っているものに対する、タイミングのずれ

「反省しないアメリカ人を扱う方法」という
アメリカ人自身が書いた本があって、
ちゃんと評価してあるのかな、と思ったら
だいぶアメリカ人を弁護した書き口になっていて、
やっぱり反省しないアメリカ人だなあ、と
少々おかしくなりました。

そういえば、
おかしいという言葉は
「面白いさま」と「異常なさま」を表すのに使います。
面白いと言う言葉は
「笑いたくなるさま」と「興味深い」を表すのに用います。
たのしいのなかにも
「楽しい」と「愉しい」があります。
"fun"や"enjoy"のように
純粋に楽しみを抽出した言葉が日本語として必要であるように感じます。

脳科学の本の話題が最近多いのは、
なんだか頭に残っているからで、
見ている現象を人間が感知するまでに
最低0.1秒かかるのだ、というのは、
どっきりカメラのスローモーション写真を見ていると
よくわかります。
顔にカエルが張り付いてから少し間をおいて
人が慌てふためくさまを
ちょっと不思議に思っていたところでした。

しかし、半導体産業のマザーマシンで使うような
表面粗さがナノメートルのすごい精度の平板を作る段階では、
人の手がどうしても必要になります。

人間には機械のような正確さがない、
人間は機械よりも精密である、
この言葉はどちらも正しいものです。
しかし時間に関してはあまり当てになりません。

音楽にあわせて踊るロボットを作ればわかることですが、
音楽と同時に手足が動いているように見せるためには
音楽よりもほんの少し早めに動力を発生させる必要があります。
ということは、
ダンスと言うのは現象を先読みして早く動いていることになります。

バッティングセンターでバットを振っていて、
なぜかボールにバットが当たらないときに、
ボールが飛んできたのを目で確認してからバットを振るのではなく、
飛んできそうなタイミングを予想してバットを出し始める、という
普通に誰でもできそうなことで悩み発見をしたことがあります。

言葉を認識するソフトでは、
まず数秒の音波を記憶した後で、
単語に直し、意味を考える動作を行います。
少なくとも人間はこれより高度なことをしていて、
音波を聞きながら先読みをして
残りを早く補完しようともします。

この話をもうすこし拡張すると、
人間がなにか現象として行動を起こすときには
その前に十分な気持ちの発生が必要であることがわかります。

最近の研究では、ちょっとうろ覚えですが
コーヒーを飲む動作をする数秒以上前に
「コーヒーを飲む動作をする」という指令が
脳からは発生しているのだと言います。

「今は一瞬しかない」というとき、
科学の言葉では
一瞬の定義は無限小の時間を指すのですが、
どうも人間はかなり幅の広い時間帯を纏めて取り扱っていて、
同時という言葉さえかなり緩やかな定義で済みそうです。

一瞬を大事に、とは言っても
ほんとうの一瞬では何も思考できなくて焦り、
数秒から数十秒の自分がまとまった一瞬だと思えるだけでも
気持ちはなぜか緊張から救われる気がするのです。

日曜日, 9月 11, 2005

宇宙観

日を浴びると体力を使うので
今日は全身が倦怠感に包まれています。
たくさん汗をかいて体中の水分を入れ替えたので
実は気分が良かったりします。

TVチャンピョンの番組の最後に
「あなたにとって・・・とは何ですか?」と聞く場面があって、
優勝者がその競技テーマについていろいろな言葉を残すのですが、
「生きがい」と答える人や「人生」と答える人が
多くいます。

自分が深く関わったものの中に、
自分の人生や世界観を重ねてみる、というのは
人間学的にいえば連想の一つです。
全く同一ではないのですが、
しかし人間が為したことという点で共通しています。

この世界はこのようになっている、と
写真や数式でいくら説明されても、
それは真の姿の「ある断面」にしか過ぎません。

もし人間に電波でものを見る能力が備わっていたら、
全ての物体は二重に見えたり、
可視光では見えない障壁の後ろ側の物体を感じることができるので、
この場合かくれんぼをやろうとすると
全く違うルールを作ることになります。

美しいものを見ている、といっても
美しいのは可視光で見たものの姿であって、
こうもりのように音波でものを見る場合には
美しさの定義が変わってきます。

世界にあるありふれたものの中に
社会や宇宙の一部分を感じるというのは、
自分の中に社会や宇宙というものの詳しいモデルが
備わってきたことも意味します。

フランス料理を極めたシェフが
家に帰って食べる好きなものはただのキャベツの千切りだったりして、
しかし彼はただキャベツの千切りを食べているのではなくて、
そのキャベツが調理でどんな味に変わるかを
心の中でいくらでも想像し感じられるからこそ
キャベツの千切りが普通の人よりおいしく食べられると思っています。

日常のありふれたことを楽しく感じるために、
非日常の極まった部分の情報が必要というのは
逆説的で結構面白いことだと思っています。
平凡だからこそ日常を楽しめるのではなく、
極まったからこそ日常のありがたさが分かるのです。

前向きに行こう、という言葉があって、
どうしたら前向きになれるのかということについて
しばらく考えていました。
でたらめに「明るく楽しく」でも何とかなると言うのですが、
追い詰められたときほど「明るく楽しく」は叶いません。

真剣に成功させたいという強い思いと、
前向きな気持ちが矛盾なく同居するには、
「こうすればどうなるか」が分かっていることが大事じゃないかと
最近思っています。
ある物事が成功するにしても失敗するにしても、
分かっているなら覚悟ができるし、
次善の策を考えられるからです。

もう一つ大事なことは、
ここまでは大丈夫、ここからは注意が必要という
上限や続きをきちんと決められるようになることです。
高校野球のほうがペナントレースより人気なのは
確かに一瞬の輝きというものがあるからなのですが、
それが叶わなければもう次はないという世界より、
失敗してもうまくいかなくても続けられるという
しぶとい希望のほうが楽しい気がするのです。

先を考える上で一番怖いのは、
失敗することではなく、予想外のことが起こることです。
無知は幸せなり、でいうと
知ることを受け止めるのは力が必要なので
自分にあった分だけ世界を知ればいいのですが、
知ることができれば変えることも考えられるようになります。

毎日が退屈だという人と、
明日を心待ちにする人の前にあるのは、
どちらも同じひとつの世界です。

月曜日, 9月 05, 2005

あの人の真似事

日本海を渡っている台風なので
風だけ強くて雨が降りません。
強い風が吹く日が大好きです。

おととい、ボスの形見分けで
50冊ほどの蔵書を貰い受けました。
その半分が今の仕事に役立つもので、
残りの半分が読み通すのに20年以上ほどかかりそうな
レベルの高い物理の本です。

なぜ自分がその人のようになりたいのか、
論理立てて説明することはできません。
ただその人がいたことを本当に嬉しく思い、
その意志が少しでも現実のものとなることが
自分にとっての生きる手ごたえであると信じるからです。

多分、ボスの真似事を続けると
どうしようもなく苦労するだろうというのは
少し考えればすぐに分かります。
それでも自分は、
自分が何かをもらう時に感じる喜びよりも、
人に何かを与えられている姿を目にしたときの喜びのほうが
大きいのだと思います。

その意思を継ぐ、というのは
ボスをエミュレーションで人間の形に生き返らせる
たった一つの方法なのかもしれません。

土曜日, 9月 03, 2005

道行きの決め方

朝日を浴びた加速セルです。

10月から実験の新たな戦力に加わります。

なくなったのは終身雇用、という実績ではなく、
終身雇用で人集めができるイメージ、だと思っています。
戦後から高度成長の間が45年、
会社員の勤続年数は約40年だから
完全に終身雇用できた世代の数は5年間分だけです。

しかしイメージがなくなってしまったので
会社側が「もう終身雇用の努力はしません」と放棄してしまったのは
人を大切にすることよりも
会社が生き残ることを選択した結果です。
法人、とは法の上で全く人と同様に扱われ、
簡単に死ぬことが許されないものになっています。
そんな会社は信用や忠誠心の源も失っているわけで、
選択を誤った会社=法の人は
数十年のスパンで大きな変化が表れるだろうと考えています。

今日は道行きの決め方の話です。
ある日の日記には書いたのですが、
おそらくブログ引越し前の日記です。

世の中の事象は、
原因と結果が分かっていて、
その過程を調べるのを内挿と呼び、
現在までの結果から
未来の結果を調べるのを外挿と呼びます。

内挿にはいくつかの選択肢があるだけですが、
一般に外挿はあまり当たりません。
未来のことが分からないのは外挿をするからです。

外挿が分からないなら、誰か結果を出した人に
聞いてみよう、とその時に言葉になったわけではありませんが、
自分がなりたいものに困ったときに
知っている教授に片っ端から
「どうしてこの道を選んだのか」を聞いたことがあります。

電気の教授は
「小学校の頃の理科の抵抗の計算が得意だったから」と言い、
メカトロニクスの教授は
「こどもの科学の工作が誰よりも好きだったから」と言いました。

聞いて回りながら、
どこかで職業との運命の出会いをしたのではないかと
期待していたイメージからは遠く離れて、
普通の人でもあるような、ちょっとしたきっかけを
大切に温めたような話ばかりをたくさん聞きました。

ちょっとしたきっかけ、とは
人が聞けば小さなきっかけのお話で、
しかし自分に起こったきっかけは
自分の未来を変えてしまう出来事になるんだ、と
そのとき思いました。

それから始めたことは、
新しく何かを覚えたり行動したりすることではなく、
自分にとって何が面白くて、
自分は何が好きだと思えるのかを
小さなことまで思い出してみることでした。

仕事にはどんなところでもしんどい時があって、
それは人間関係であったり勤務時間であったり
将来性であったりさまざまなのですが、
その仕事に意味を見出すことができれば
ひとつづつ越えられると思います。

しかし越えられる、と書いてみたものの、
自分には物理も機械も本気で嫌いになった時期が
1年間以上ありました。
こんなことをやって数十年過ごしたところで
一体何のためになるのかさえ分からないじゃないか、と
心の底から思ってしまったのです。

社会にとっての科学は偏執狂の手中にある斧のようなもの、
とはアインシュタインの言葉です。
科学を進めた先にある世界が何をもたらすかは
それを用いる人たちに委ねられます。
人が科学を使う限り、その用途の一つに
兵器転用が必ず表れます。

仕事にはどこかで共通の性質があって、
それをやったからといって100%の純粋さで
世界を幸せにする方法というのがないと最近は思います。
どこかに反作用があって、時々によって
自分であったり周りの人であったり、
時にはライバルや商売敵と競り合ったりしなければなりません。

それでも自分は仕事をするのであれば、
選択によって最大公約数に近い人が
良い効果を得られるような方向に向かいたいと
今は思うのです。

これは大災害が起こったときの救命の方法で、
軽いけがの人から治療する、という決まりがあって、
それは最大公約数の人を生きながらえさせるための決断に
どこかで似ているような気がします。

非常時などないほうが本当は良くて、
できる限りの手を尽くすことが人道だと信じますが、
人ひとりの力はあきれるほど小さく、
懸命な選択を繰り返すことがせいぜいです。

その仕事によって、自分は誰かの罪を負うかもしれない、
そのことを申し訳ないと思いながら、
人である限りこの世界のすべての人に
同時に幸せや安息は訪れないけれども、
それでも世界には昼と夜があるように、
持ち回りで幸せな日々が迎えられるようにすることが
人として望める精一杯かなと考えています。

そして「自分の好きな道を選べる」ということは、
非常時ではない自分に与えられた幸せな選択であり、
幸せな道が何かの選択で選べると考えるよりも
その道を歩いていくことで人と自分を幸せへと連れて行く、
そんなイメージが持てればいいなと思います。

夢の大きさは持った本人にしか分からない、
だから、どうか自分が持った夢はつまらないなんて思わずに、
大切に持ち歩いてください。

金曜日, 9月 02, 2005

何者にもなれていないわたし

ボールペンは、なぜか
外国製の、イベントでもらうおまけみたいな
非常に安いものがとても書きやすいと感じます。


わたしは何者にもなれていない、
そんな気持ちがいつもあります。
なくなるのかどうかは分かりません。

とても強く意識したのは学部を出てすぐのことで、
目の前にある仕事というものの広さと
それに対して自分ができることの少なさに
ショックを受けています。

自信がもてればいいな、と思うのですが、
気持ちには影も形もないので
何かを成し遂げたということが自信になるのかなと
焦って過ごす日々がたびたび訪れます。

しかし本当に、
自分は相変わらず何もできないのだろうかと問うと、
あの頃できなかったたくさんのことができるようになり、
あの頃知らなかったたくさんのことを知っています。

自分を明かす何かを必要とするのは、
主に人と向き合うときに用意する盾のようなものです。
それが必要なのは、立派な飾りをつけて
いい印象を与えたいと願うためだと思います。

何もなくても、素のままの自分でいいんだ、という
台詞がありますが、
社交界に出るのにスーツなしではおさまりがつかないのであって、
華美ではなくてもそれなりの準備は必要です。

わたしにとって一番自信になったことは、
資格を取ることでも高価な装飾が似合うようになることでもなく、
自分がとても良いと思う人に認めてもらえた時であった様に思います。
あの人が認めてくれたのだから、と思うと
その自分を人に見せても大丈夫な気がするのです。

自分だけで自信を持つ、
これが非常に難しいことは良く知っていて、
果たして自分だけで自信を持つことがもともと可能なのか
証明された試しはありません。
人間はもともと社会性を持つ生き物だからです。
しかしストイックに自分で閉じた自信を求めるくらいなら
誰かに認めてもらって十分な自信を持つというのでも
全然構わないと思うのです。

詩を書き、時には論壇に立ち、絵画を残し、彫刻を施した
岡本太郎のコメントの中に、
あなたの本職は一体何ですかと問われるが、
わたしには本職などない、
わたしの本職は「人間」です、というくだりがあって、
強く印象に残ったのを覚えています。
もちろん各界で成果を残せたから言える台詞ではありますが、
しかし成果というのは人が決めるものであって、
自分が発したものではないのです。

人柄も優しく、たくさんの人に好かれそうな
建設会社の会長さんに会ったときに、
自分は、自分のことを応援してくれる人がどこかに一人でもいるなら、
その人のために生きていける、と話してくれたことがあって、
その言葉のどこかに思いつめたような気持ちを感じて、
しかしそれこそがいつか至る本質なのかも知れないと思いました。

自分というものが本当に一人だと思ったときに、
すべての人は「自分ではない」他の人であって、
すごい人も偉い人もなく、
正しい道も誤った道もなく、
それぞれが個別に思う人生の中に生きている不思議を思う、
そんなときに「自分ではない人」は「ただの人」に
なっていくのかな、と思ったりしています。

世の中には確かに何事かを為した人はいる、
自分にできることは大して多くない、
でも自分の毎日の積み重ねと専心は
自分にとってunknownであったことがknownに変わっていく、
そのこと自体が幸せなんだとよく考えます。

この世界全体を表す統一理論が見つかったとしても、
人は悩みながら生きる、それは
個別の事象に対しては
個別の取り扱いが必要だという明快な理由に依っていて、
世界は誰かが全て理解できるような代物ではもともとないのです。

木曜日, 9月 01, 2005

ご褒美をもらい損ねた人たち

小中学校で踊ったのは
ラインダンスじゃなくてタップダンスじゃなくて
なんだっけ、と思い出したらフォークダンスでした。
フォークダンスというとどうもぴんときませんが、
Folk=民族の、と感じると
なんだかおしゃれな感じがします。

バブルは、
途中で終わってしまったフォークダンスに
似ていると思っています。

意中のあの人とはもう少ししたら踊れるから、
今は我慢して待ってみよう、
先生もそう言っているし、
こんな気持ちに近い感情で
お城のような会社は新入社員が
お殿様のような上司の命に右左と飛び回っていたのでしょう。

自分にもいつか日の目が来る、
だから今は辛い仕事でも頑張る、というのは
自分自身でそう思うときはいいのですが、
人を説得する種にはあまりなりません。
将来はどうなるか分からないからです。

情熱や、感動という本来つかまえにくい言葉に対して
歯車のかみ合った明確な輪郭を与えるのは難しいものです。
ともすると情熱や感動の下支えになる実体が存在できずに
すぐに浮ついた言葉になるからです。
最近の啓蒙書は
・数年で数千万から数億稼げるか
・情熱を持って毎日を過ごす
かのどちらかに分類できる感触があります。

どこかで「我慢だけさせられて、
ご褒美にはありつけなかった」と思っている人が
たくさんいるのだろうか、と思うことがあります。
そういう人たちは世界が変わることなど望んではおらず、
せめて自分がご褒美をもらえるまでは
変わらずにいてほしいと強く思ってしまうのだと考えます。

後悔とは
「こんなはずじゃなかった」という言葉と同義です。

期待をしなければ後悔をしない、と
使い古された言葉の意味について考えたい時があります。

ブラック・ジャックによろしくの中で、
治る見込みが数%という患者さんと向き合うときに、
可能性はあるが保証はない手段が手元にあり、
しかし法や慣習に縛られて「ベスト」と思うことを尽くせず、
「期待しなければ辛くはないんだ」とつぶやく場面があります。

期待を上手に持つのは、
アクロバットより難しいことなのかもしれません。

ご褒美をもらい損ねた人たちは、
どうしたら溜飲が下がるのだろうかとしばらく考えます。
そのご褒美を何かの対象に求め続けるのか、
ご褒美のない人生の部分は諦めるのかと
大きく分かれると思いますが、
できればバブルは元に戻らなくても
皆の気持ちが満足するような方法が見つかるといいなと思います。

株価が回復しないかとすがるように報道されていた声は、
曲が終わって意中のあの人と踊りたい気持ちだけが残った
あの日の自分に似ています。

ここに、言葉の通じない魔物を連れてきて、仕事をさせなさい

お盆を過ぎると突然朝晩が涼しくなります。
深い眠りにつけるのはこの時期以降で、
気持ちが上向きになるのもこの時期以降です。

行き先の見えない仕事を任させる、というのは
言葉の通じない魔物を連れてこいと
言われてるのとちょうど同じじゃないかと
ふと思いました。

言葉が通じないので、
最初はどうしても格闘することになります。
しかも相手は魔物なので、
初めのうちは負けっぱなしです。

しかしいくつか通じる言葉が見つかってくると、
魔物はいくつかの動きをするようになってきます。
通じる言葉に対しては魔物は忠実なのです。

魔物の動きを掌握することができれば、
魔物に大きな仕事をさせることができます。

誰でもやればできる、は
可能性という意味で正しく、
現実的な能力という意味で正しくありません。
魔物を操れるのは限られた人たちです。

助けが少ない

倉木麻衣"Fairy Tale"を聞いています。
細かいことに文句を言い出すときりがないのですが、
夏の曲、ビーチボーイズ系バンドと
冬の曲、クリスマスナンバーが同時に入っていたりして、
しかしそれがいい感じだったりするのです。

助けるという言葉、
恐らく西洋文明による訳語製熟語が増える前からある
中世の日本語ですが、
助けるに近い表現の単語は
ほとんど見当たらない気がします。

これが英語なら、
help, support, rescue, save, ensureなど
そこそこの数が用意されています。
「助けを呼ぶ声」という表現がありますが、
「助ける」が抽象的過ぎて何をしたらいいか分からないのです。
「世界の中心で」の映画の中では
助けてください、と叫ぶシーンがありますが、
ここでの助けは"rescue"であって"help"ではないのです。

日本はhelpとsupportの少ない国だから、
転んではいけない、とは
松本紳助の本の一節です。

誰もが助けを求めているような気がして、
しかし助けてほしいという言葉はどこかへ追いやられていて、
さみしかったり心細かったりします。

~してください、という響きには、
敬体としての「ください」が使われているのですが、
耳で聞く限りでは要求を表す「ください」と区別がつきません。
敬体で話す限り、自然に言葉の中には
「ください」ばかりが増えていきます。

決まり文句のように使われる
「ヨロシクオネガイシマス」も
なにかをお願いして要求しているような気がします。
それで、この一文を見ると
なんだか気分が重くなるのです。

耳で聞こえる言葉を中心に考えて、
すこし日本語の使い方を変えてみようと思います。
目標とするイメージは、
さっぱりしていて、自立していて、ほがらかな感じです。

月曜日, 8月 29, 2005

現代うた考

つくばエクスプレスの駅に設置されている椅子です。

なぜFRPでなく、高価なカーボンファイバー製なのか
とても気になりました。

ちなみに「エキスプレス」と「エクスプレス」、
どちらを使うべきかいまだに迷います。

身も蓋もあったもんじゃない、とは
なんでもあけすけに物を言うときのセリフで、
何でも伝えればいいかというと
どうも言わずにニュアンスで伝えて欲しいと思うことがあるようです。

古い絵巻には恋の歌を詠みかわすくだりがあって、
読み手の解釈を間違ったためにすれ違う、ということも
起こっています。
解釈の違いは機械で言えば「あそび」の部分であり、
この部分で滑らかさと不確実さが同時に生じます。

現代の歌は短歌ではなく歌謡曲ですが、
それでも"music"に当たる音楽表現に歌という漢字をあて、
短歌に相当するはずの"poem"に詩という別の漢字を当てたということは、
歌詠みが持っている役割が詩ではなく曲に託されたということだろうと
解釈しています。

カセットテープがあった頃は、
46分なり60分なりの長さをどんな曲のどんな並びで埋めようかと
あれこれと悩んだものです。
それは自分が曲を組み合わせて持たせるイメージで、
短歌の引用と同じような使い方になるのだろうと思っています。

今はMDができてしまって、
曲のアレンジをすることは減ってしまいました。
好きな曲を好きな場所から聞ける、という特性が
続けて聞く方法から手段を遠ざけたのです。

「こんな曲が好きです」
そこに今の自分というものを重ねて伝えるのは、
ヤマトの時代から受け継がれてきた
現代の歌詠みだと思っています。

金曜日, 8月 26, 2005

Certified

語学が好きだったのを思い出してきました。

8年ぐらい前に買って、誰かに貸したまま行方不明になった
語源辞典をアマゾンで見つけ、
中国語検定問題集と一緒に取り寄せました。

メーラーが不調で、LANケーブルも信号が弱くなって、
すこし電化製品が風邪を引いています。

見た目が変わらない、中身も変わらない、性能も変わらないという
二つの品物があって、
しかし値段がまるで違うものというのが存在します。
一つは作っただけのもの、
もう一つは耐久テストが済んだものです。

このての品物は検査されることに手間がかかるので
検査証なるものが付いてきます。

試験に受からなくても仕事はできる、は
確かに本当だと思いますが、
試験の意味合いというのは一種の耐久テストのようなもので、
大丈夫だろうとなんらかの保証が得られることに似ています。

生産の立場と開発の立場で
検査の意味合いは大きく異なってきます。
生産では既知の手順を用いてたくさん作ることを目的にし、
検査とは省略可能であれば飛ばしてしまいたいものでもあります。
しかし検査によって価値を高めることもできるのであれば、
生産サイドでは積極的に検査を導入します。

開発では未知の手順を早く既知の手順にすることが目的なので、
検査の中でも動作試験はしますが長期試験はあまり行いません。

技術が未開の分野では
まず道筋をつけるところに労働が集中するため、
検査の時間をあまり取らずに開発速度を上げます。
しかし一度道ができてしまうと、
安全に、早く、安くを求めるようになり
検査の時間が長くなります。

問題はここからで、
技術が飽和してくると
開発さえも安全にできるはずだという錯覚が生まれたり、
これまでわけも分からずやってきたことが
危険なので検査を増やしなさいと勧告されたりして、
技術が飽和したらスピードを上げないといけないのに、
飽和した技術自体が開発速度を下げてしまいます。

ブレーキだけではいけない、アクセルだけではいけないというのは
本田宗一郎の言葉です。
それは「どちらかに捉われてはいけない」という、
人間性を特定の事象に固執させずに
自由な立場でいること、と読みかえられるかもしれません。

日本では保証はどことなく「標準添付」されて
当たり前だと思っているところがあって、
それが日々の生活を安全にしているところもあり、
一方で物に対して呆れるほどの労働を求められているところもあります。

水曜日, 8月 17, 2005

モード変更の距離

春雨スープが好きなのですが、
カップで売っているものはカップ麺位の値段がするので
もっと手軽に食べられないかと考えたところ、
わかめスープに市販の乾燥春雨をそのまま足しても
おいしく食べられることがこの間分かりました。

終戦の日に、
努力して終戦を意識しない1日を送りました。
そういう1日が送れるかどうかを試してみたかったのです。

8月15日だけは日本は敗戦の国になります。
しかし、負け、くじかれたものが何であったかというと
国家としての意志であって、
人々の思いというのは別にあると考えています。

「あの当時、あなたは戦争に賛成でしたか」と問う
国勢調査をやれば少しは「民の意志」がわかるはずなのですが、
国がこんな調査をしてくれた試しはなく、
ぼんやりした印象のまま「敗戦」であることだけが
この国の印象であるように伝えられています。

民主主義によって作られた国なら
戦争は国民の意思になりえますが、
もともと将軍だ天皇だという象徴支配体制の元で
民意によって戦争を回避できる手段があったとは
思っていません。

戦勝国からは
悪いことをして負けたのだから反省せよ、と言われています。
秩序が崩壊すること自体に端を発して
目を覆うような惨劇が生み出されるのだから、
戦争を選んだがゆえに反省せよ、と考えなければならないわけで、
応じた国も本来同罪なのですが、
戦勝国は自らの行いを正当化しています。

アフリカ、アジアのヨーロッパ支配については
何の感情的解釈もなく世界史で紹介されているのに、
同じ目的を達成しようとした日本の外交だけが
凄惨な言葉で綴られているのか、ということに
もう少し焦点を当てても良いと思います。

日本が何かの問題で非難されている、というときに、
日本が戦後の焼け野原からほんの少し脱したぐらいの状態のまま
現在を迎えていたら、
こんなに非難されるだろうか、と考えることがあります。
海の向こう側にいる人たちも、
行為と悪意がない交ぜになった同じ人間です。

2年前と今年のアメリカの人の気持ちを比べると、
テロによる恐れから外国人を排除する雰囲気と
イラク戦はどう評価されても正当化できないと感じて
彼らなりの申し訳ない気持ちを表現しようとしている雰囲気の違いが
印象に残りました。

バブルの頃は、
経済的には豊かになったのに、
どうして精神的には貧しいのかという問題について
さんざん議論がされていました。
戦争という大病にかかったような日本が
精神的に豊かになるためには50年とか100年ぐらいの
戦争のない時間がもともと必要だったのかも知れず、
どうしてに当たる答えはもともと存在しなかったかもしれません。

日本に500兆円の国債があると言う話で、
一人当たりの額に直すと、という話が良く出てきますが、
返すために死ぬほど努力して
這いつくばって生きていかなければならないようなイメージは
持っていても意味がないと思います。
国の政策をあてもなく恨んで結果が出ないぐらいなら、
少しずつでもせめて返す方法を探しながら、
何代もかけて緩やかにに歪みを取っていけたら良いのではないかと
今は考えています。

映画「ボーリング・フォー・コロンバイン」では
アメリカ人は常に死への恐怖におびえている土壌があって、
だから銃が手放せないんだという一節があり
確かにそうだと納得したことがあります。
アメリカから輸入されたものが文化だとしたら、
恐怖心も一緒に輸入しているはずです。

時間が経ってしまって多くの人は、
戦争の経験も罪の行動もないのに、
なぜ自分たちが謝り続けなければならないのかと
どこかでわだかまっていないのだろうかと
考えることがあります。

それは右寄りな考え方とか言う問題ではなく、
戦争や戦争犯罪の評価がアンフェアである、
許されるための手段さえ示されておらず、
終わりなく保証や賠償にたかられている、
ということを無意識に感じるからです。

失敗したら、平身低頭したまま一生を送る、
こんな世界観でいたら
堂々と非を認め謝ることだってできません。
敗戦の国であっても、心優しく誠実で立派な民であり、
生き生きと生きながら他の国のためにも尽くしていく、
そんな風に世界へ顔向けしたいと思うのです。

火曜日, 8月 16, 2005

多元連立方程式

野生の生き物は
薬効のある野草を食べたり、土を食べたりして
時々調子を整えます。
五木寛之「養生の実技」では
できるだけ何の外科的・内科的療法も加えないのが
素晴らしいことだと書いていましたが、
野生の摂理に少しだけ合っていない面があるのではと
いろいろ考えています。

テツガクの言葉で「止揚」というものがあって、
一見対立する概念をよりソフィスティケイトされた見地から眺めると
矛盾せず存在する、というくだりについて
時々考えます。

物理にはパラメタライズという手法があって、
ある結果を表す方程式に影響を及ぼす要素を
ひとまず分からない関数として導入だけしておいて、
関数の形を探しながら使いやすい一般解を導く、
という作業を時々やります。

ある関数形がさまざまな現象に応用できると、
その関数は根源的な自然の決まりごとを表したものとして
重宝されます。

ニュートン力学以前の物理というのは、
さまざまな力学実験を行って、
それぞれにパラメタライズした近似的な方程式をつくり、
個々の現象にのみ使っていました。

微分という概念が用意され、
人間の目に見えるのは速度までだったものが、
その一段下の「加速度」というところへ踏み込んだところで
ばらばらだった現象説明の統一が始まりました。

物理の進展はこういう経緯をたどっているので、
最終的に「全ての物理が統一される」ということを
期待してしまうのです。

しかしふと、
最終的な統一式が仮に二つのパラメーターになると
何らかの方法で証明されてしまった場合は
科学者はなんと見解するのかと気になります。

このあたり、一神教の教義にも全く通じるもので、
無理やり二つのものを一つにしようと努力するかも知れず、
科学はガリレオの頃のように
再度人々の審判にさらされるかもしれません。

連立方程式、というものがあります。
いくつかの分からない数字があって、
それらの数字がいくつかの規則を作っているのを与えられ
その数字を当てる、というものです。

ただ四則演算を繰り返すだけなのですが、
とても面倒だったりします。

分からない数字が少し増えると
考えるのは急速に難しくなっていくので、
大きな連立方程式の中に含まれる
小さな連立方程式を解くだけで
満足してしまったりします。
解ける式を作るにはそれなりの力が必要です。

この方程式、
全ての場合について解けない場合もあります。
ただ、
局所的に解けていたり、未知の数がいくつか残ったままでも
使い道は結構あるものです。

人の世界も同じで、
いろいろな人の願いを多く叶えるための方法は
人が増えるほど難しくなってしまいますが、
小さな理解の満足で目をつぶるのではなく、
大きな理解が得られるような方法の組み合わせが
自分の中に用意できたら良いなとよく願います。

選択できることに意味がある

アルコール依存症はalcoholicで、
仕事中毒はworkaholicです。
今までワーカホリックを肯定的に受け止めていたのですが、
中毒であることに変わりはなく、
休みを取ると決めた2日目は
仕事に戻りたいと思う自分を止めるのが大変でした。

精力的に仕事をすることと、
ワーカホリックであることは同義ではない、というところから
仕事との向き合い方を考え直します。

研究室のデスクで使っている椅子を
部屋の中にある別の椅子に変えました。
この椅子、以前に使っていたもので、
その時はすわり心地が悪いと思って
昨日まで使っていた椅子と交換し
良い心地だと思って仕事をしていたのでした。

「良い椅子」というものについて考えます。

良い椅子はいつも心地が安らぐもの、と
どこかで思っていたりします。
ところがどんな椅子に座ったとしても
なんとなく飽きてしまったりします。

「良い椅子」は「飽きない椅子」、であるとは
限らないのです。

旅に出るとさまざまなものに
腰を下ろします。

公園の真ん中の噴水へりの石段、
プラスチックで格子に編まれた背もたれのついた
カフェテラスのアルミ椅子、
やや固い乗り心地の山手線のソファー、
日差しで熱く焼けた浜辺の砂地、
夜遅くなった通りのガードレールと
いろいろなものに体を支えてもらいます。

旅先で考え事が新鮮にまとまっていく、というのは
座るものが変わっていくからかもしれないなと
ふと思いました。

人間の背中にはあまり感覚神経が通っていない、とは
小さい頃に読んだ事典の一節で、
座るところはなんでも構わないと思っていたのですが、
座るというのは直接人が触れている箇所であって、
気分を変えるために椅子の交換は必要かなと
ふと思い立ちました。

クッションも背もたれもない
コンクリートに座る、とだけ言うと
丸の内のビルの真ん中の道路に座らされているなら
禅行のような辛いイメージがありますが、
静かに凪いだ浜辺の防波堤に座って、
月明かりに照らされた海の表面を眺めているなら
実に幸せな気分だと思うのです。

水曜日, 8月 10, 2005

「ワルモノ」の定義

住む場所から学校までの距離が近い方が
寝坊する、という話を聞いたことがあって、
車で40分の温水プールから
歩いて3分の所内プールに活動が変わった途端に
なかなか通うのが難しくなってしまいました。

堀江貴文「会社の作り方」、を読んでいて、
あまりに嫌気がさして
ゴミ箱に本を投げ捨ててしまいました。

強烈な嫌悪感が何から生じているのかさえ把握できず、
それでどこに嫌気がさしているのかを
しばらく考え続けていました。

それは、
自分は良いことばかりはしていない、ワルモノだと書いておきながら、
「多くの人がハッピーになって夢が叶うなら別に良いじゃないか」と
最後の最後で自分を肯定しているところに
あるのだと気がつきました。

何かを為すときに反対に合うというのは
よくあることです。
全てを満たす決断ばかりではないので、
決断をした後には決断しなかったほうの可能性について
何らかの後ろめたさのような不協和音が残ります。

決断はあくまで自分が望むものに対して
良い結果を得るために選ぶことですが、
自分が望まなかった結果や犠牲にしたものに対して
申し訳ないという気持ちを同時に持っていなければ
ならないような気がするのです。

日によっても違うかもしれませんが、
自らに対して、主に
肯定的な気持ちを持つ人と
否定的な気持ちを持つ人がいます。
自分はどちらかといえば否定的な気持ちを持ちながら
日々を過ごしてることがありますが、
ワルモノだと思われても、
これではいけない、もっとよい方法があるのではないかと
探す毎日を自分に課すことだけは
忘れないでいようと思っています。

Field-Multiply

佐賀放射光シンクロトロンのRF管です。

銅の筒から突き出した銅のパイプ、
マンガに出てくる実験装置そのままです。

考え事をしていて、
なんだかもやもやとしたところに
行き当たることがあります。
今までに知ったことや感じたことの中に
繋がりが見出せそうなときだと
自分では思っています。

実家の仕出しの手伝いをしながら、
どんなに忙しく動いても一人では前へ進まなくなったときに、
自分がどれだけ素早く仕事をこなせるかではなく、
仕事場全体のスピードをどれだけ速くできるかに
考えを移し始めた時期があります。

最終的に至ったそれは、
自分というものが行う仕事が
表立ったものになるかどうかは気にせず、
必要な箇所があれば
どんな場所でも自分をそこへ向かわせる、
というだけのルールで出来ているものでした。

結果として仕事は速くなりますが、
後で自分がした仕事は何であるかと問われると
「下準備と後片付け」と答えるのが適当だったりします。

コーディネータの仕事は
仕事という場に自分の意志を投影した
「意志の方向」を持たせるということであり、
明確な形がないのです。

コーディネータの数は
たくさんは必要ありません。
あまり多いとまとまりが悪くなってしまうからです。

それぞれの人がのびのびと仕事をしながら、
自分はその空間の中で形のない意志として存在している、
地味で面倒な仕事だったりするのですが、
自分の居場所はそんなところにあると考えています。

最近ずっと引っかかっていることは、
なぜ人には体の10倍以上の制御能力を持った脳が
与えられているか、ということです。
本には「無駄な要素」として取り上げられていることもありますが、
わたしには「何かの理由がある」と
どうしても感じられてならないのです。

ある人は千年統治を越えて生きられるため、と
説明するのかもしれませんが、
それなら人間は1000年生きるように進化するはずで、
的を得た理由付けにはなりません。

数字の分母と分子をさかさまにすれば
意志の1/10しか現実には叶えられない、ということであって、
かなり体というのは不便な装置です。
実体としての体に意志の量を合わせる、という試みが
ストレスの少ない生活をもたらしてくれないか調整中です。

月曜日, 8月 08, 2005

夏の1冊と読書感想文

音楽を自分に感じさせる方法は二つあって、
一つは音楽を流すことで、
もう一つは曲を思い浮かべることです。
調子が良いときには
自分の中の曲と流れている曲が
同時に聞こえます。

「すごいもの」に対する意識というものを
人はそれぞれ異なった形で持っています。
「すごいもの」は敬意の対象であったり、
力の象徴だったりするのですが、
科学で言えば最初の「すごいもの」は
「超高エネルギー」か「超大出力」などで、
次のステップの「すごいもの」が
「超微細」とか「ナノテクノロジー」といった
極大・極小の二つの無限に関連したものです。

無限というのは
イメージしやすい「すごいもの」なのですが、
正確に「無限の量」を見積もるのは難しいことで、
無限に至る過程を探すのも難しいことです。

ドラゴンボールの話は強くなっていく過程が面白い、
というのですが、
最後は宇宙を飛び出してよく分からないところまで
強くなってしまって、
結果的に面白くなくなってしまったりするのです。

ステップアップする喜び、というのは
確かにあって大切なことだと思いますが、
人には羽根さえ生えていないから
どこまででもステップアップできるわけではありません。

ステップアップすることだけが
喜びの全てであったとしたら、
人はどこかで喜びが終わってしまいます。

国語辞典の表紙に、
「大切なことは、ありふれた言葉で
非凡なことを表現することである」
という一言があって、
この表現がとても気に入っています。

料理をしながら、
世界にはどれだけの種類の料理があるのかと
楽しみにしてみてみると、
すごいコース料理であっても
材料はたまねぎとかジャガイモとかで、
作り方も焼くか蒸すか揚げるか煮るか、
あるいはそれの組み合わせで、
バラエティーには結構早く限界が来るんじゃないかと
思ったことがあるのは10歳ぐらいのときです。

高い材料があったとしても、
100万円もあればこの世の材料は買えてしまうわけで、
やっぱりどこかに限界があります。

この考えが外れていったのはそれからしばらくしてからで、
値段にして100円のジャガイモは、
作り方によって味がとても変わってしまう、と
感じることができた時であるように思います。

それは素晴らしいジャガイモに出会ったのと同時に、
自分が味の小さな違いに
気がつけるようになってきたことが大きく作用しています。
すばらしいジャガイモが味の違いに気づかせてくれて、
違いに気づいた自分が普段のジャガイモを
より楽しめるようになっていって、という循環によって
感じる力は深くなっていくようです。

もし物質としての世界が本当に一つだったとしたら、
世界をどれだけ豊かなものに感じられるかは、
それぞれの感受性に委ねられているということになります。

ジャガイモはこれからもずっとジャガイモで、
高エネルギーにもナノテクノロジーにもなりませんが、
それでも日々愛されていけばいいのです。

めぐりめぐってこの話は、
毎日の中にあるすごいことのイメージを
少し広げてみると良いのではないかと思うところへ
行き着きます。

時々大きな事を計画するのは大切なことで、
人の行動限界が広がる楽しみがあります。
しかし全ての週末が宇宙旅行が旅行企画にならなくても、
暑さが和らいだ夕方に冷たいお茶を片手に
他愛のない話が出来るだけでも
それはなんだか「すごいこと」だと思うのです。

暑い日も散歩をする

この世には自分に生き写しの人が3人いると言いますが、
一体誰がこんなことを言い出したのか気になります。
見かけがそっくりな人にはまだ一人も出会っていません。

博多駅に戻ったときに撮った
ゆふいんの森号です。

九州の列車はデザインも機能も良いものが多いと聞きます。

木曜日, 8月 04, 2005

言葉と世界観

FMトランスミッターです。

ラジオがあるところなら
どこでもヘッドホン音楽がスピーカーで鳴らせるところがみそです。

暇になったり文書を書いたりするときに
時折「言葉の守備範囲」を探すことがあります。

たとえば「華」と「花」の違いであるとか、
「緑」と「翠」の違いという
日本語のわずかな違いに注目したり、
英語で"flower"と言った場合に
イメージされるものがどれくらい「花」に似ているかという
比較をしたりしています。

言語の違いが何をもたらすのかについて
しばらく考えていましたが、
英語と日本語では対応する言葉の守備範囲の違いばかりが
気になっていました。

最近の脳科学の本で
言葉が意識を作り出す、というくだりと、
「英語を話すと冷静になる」という話を聞いたところが
結びついて、
「英語には感情表現の言葉が少ないから
ドライな人間関係が生まれるのではないか」という
仮説に至りました。

以前偶然見つけたテツガクのページには
「虹が7色である理由」についての言及があることや
http://www.law.keio.ac.jp/~hagiwara/pph1-05.html
「オペラ座の怪人」を観て涙が止まらなかったときに、
隣の女性はけろっとした顔で「美しかった」と言うのは、
一体どういうことだろうと考えていたことに
ようやく決着がつきそうです。

これらの結果から、
イタリアの女性は情に厚いというところを聞くと、
イタリア語には感情表現が豊かなのかなと考えたりします。

以前は感情こそがその人の本性なのだから、
表現する言葉はどれでも同じだという意識が外れて、
違う人間になりたい、と思ったら
違う言語を習ってみるというのは
とても的を得た方法であるように思います。

火曜日, 8月 02, 2005

たとえば、3割引の商品を買う

出張に行ったときに
ショッピングモールのブースで
VHSのミュージッククリップのセールがあったので
まとめ買いしてみました。
布袋寅泰のギターがかっこいいです。

太宰治「人間失格」の中に、
日本中で食べずに処分しているものの量があれば
どこかの国が救えるという仮説に対して、
それを集め、保存する仕組みが作れないから
いまだ実現しないのだ、という
話が出ているのを時々思い出します。

物理の世界には
原理的には可能であるが、実現されていない、というものが
たくさん存在します。
以前は政治自体をどことなく毛嫌いしていましたが、
政治がなければ社会が動かないのであれば
嫌いでも付き合うしかないなと考えたりしています。

節約の本を見ながら、
スーパーの特売チラシには毎日目を光らせて
安いものを買うようにしましょうと書いてあったとして、
個人の生活としては好ましいとされる事象でも
それを社会全体で実践してしまうと
スーパーは成り立ちません。

時々は定価で買うことの意味について
思いをめぐらせます。

多少「まあいいや」でお気に入りの物を
買ってしまう、というのは
全体として成り立つために必要なことだと思っています。

機械設計にも同じようなことが
成り立つことがあります。

オーバースペックの部品をつけていると、
普段は無駄だったりするのですが、
いざ改造するというときにとても楽だったりします。

設計には「最適化」という作業があって、
大変好まれて使われる用語なのですが、
「何を」最適化するかが問われることは少なくて、
無意識のうちにパフォーマンスだけの最適化が行われます。

「余裕度」の最適化を行うという意識があれば、
物の見方がだいぶ楽になるんじゃないかと
期待して試している今日この頃です。

金曜日, 7月 29, 2005

ネクタイ姿でケーブルを張る

文書を作るときにWordをなんとなく使いたくならないのは、
文字を打ったときの反応がコンマ数秒遅れるからだと思っています。
反応の遅い装置で仕事をすると、
なんとなく発想も遅くなってしまいそうな気がするのです。

仕事の効率、という言葉と一緒に
よく「時間単価」という言葉が出てきます。
労働作業は続けると気持ちがすっきりするので
ケーブル張りをしたりするのですが、
「任せられるものは任せてしまいなさい」と
時々上のほうから指示が飛んできます。

確かにケーブル張りは
電工の専門家に頼んだほうが早くて正確です。
ところが電工さんを頼むのに手間がかかり、
細かくケーブルの経路を説明するのに時間がかかり、
日中のスケジュールの調整をするとあっという間に
数日なくなってしまいます。

つまり外注にすると
小さな仕事ではオーバーヘッドが無視できなくなるのです。
見積もりの時には
このオーバーヘッドを勘定に入れることが大切です。

「プラグマティズムの徹底した国」とは
ある先生の言葉ですが、
アメリカでは分業すると決めたら徹底的に分業していて、
これは「相手の仕事をしてはいけない」という意味にもなります。
それで膨大なオーバーヘッドを抱えることになります。

なんでも自分でやる、
なんでも外注する、のどちらにも最適解はなく、
その判断に多くの知性が要求されるようです。

月曜日, 7月 18, 2005

週末記録

寸胴鍋いっぱいにスープを取り、
半分に煮詰め、
デミグラスソースを加えて
ビーフシチューを作りました。

奥行きのある味にするには
いくつか鍵になる材料があります。

日曜日, 7月 17, 2005

新しいことを覚え始めた時に、なぜか弱くなる

JR鳥栖駅のかしわうどんです。

薄めのだしにかしわが乗って290円です。

今日のタイトルは
自分の中では結構いい表現を見つけたと思っています。

「知は力なり」「ペンは剣より強し」といっても、
それより知ることの難しさを思います。

漫画が好きで見よう見まねで描いていたら
クラスの話題になった男の子がいたとして、
勢いでアニメーションの世界に飛び込んだけれど
うまく行かなくなった、とかいうのに似た話が
ちらほら聞かれることがあります。

お笑いの番組を見ながら、
きっとクラスの人気者が嵩じてこの職になったのかな、と思うと
意外とそうではなかったりします。

中国語を真面目に始めています。
それまでは漢文調のイメージで中国語が書けていたらしいのですが、
文法をやり始めると途端に書けなくなってしまいました。

恋をするまでは、どんなことも
涼しい顔で通り過ぎることができたのに、
恋をし始めた途端にいろんな感情につまずく自分がいて、
恋は人を支え強くするものだと思っていたのに、
なぜ恋をすると弱くなったような気がするのだろう、と
思ったことがあります。

自分が弱くなってしまう、と感じることが怖くて、
恋の感情を心の隅へ押し込めてしまう人も
きっといるのだと思います。

自転車は乗れるようになるまでに
ずいぶん転んでけがをしますが、
ちゃんと乗れるようになると
今まで行けなかったたくさんの場所へ
自分を連れて行く助けになります。

新しいことを始めること、というのは
言い換えると「不安定性を受け入れる」
ということかもしれません。

機械では新しい自由度ができるたびに
共振の周波数が一つ以上発生します。
この共振点を通過するまでは不安定な動きをする機械ですが、
より高い周波数では安定になります。

一度新しいことを始めたら、
それが自分にとって強くなるためのものになるまで
少し時間をかけてみると良いのかもしれません。

ブルートフォース

研究テーマを出してくれた
弓道が趣味の60代の先生がいて、
最近の仕事スケジュールの忙しさを
「昔は学生と一緒に弓を引く余裕があったのに」
と表現していました。
今思えば先生の「昔」は30年ぐらい前のはずなので、
1970年代ということになります。

どうも日本には戦後のどこかで
一息ついた時代があったようなのです。

ジュリアナに行ってみたかった、と話す先輩もいますが、
忙しくて何かに追われて幸せではない日本のイメージ、とは
バブル期にちょうど重なるのではないだろうか、
そうするとバブル自体が幸せな時代ではなかったのではないかと
最近思っています。

「ブルートフォース」という言葉を
聞いたのは研究所に来てからのことです。
わたしのアプローチを見る人は、
それはブルートフォースなやり方だけれど、と
意見をもらうことがあります。

ブルートフォースを調べてみると、
「全ての組み合わせを試すこと」という意味が含まれた言葉で、
ネットワークに侵入する時のパスワードを
全ての場合について力技で試すところからきているそうです。

国語の教科書に載っていた一節で
チンパンジーとオランウータンの行動パターンの違いが出ていて、
ある課題が与えられると
チンパンジーは総当りで試すけれど、
オランウータンはじっと考えてから試す、というところを見て、
わたしはチンパンジーのタイプだろう、と
友達に言われたことがあります。

思いついたらまず動いてみる、というのは
熟考して一手を打つ方法よりも
ずっとスマートではないのだと思います。
でも、できればこういうブルートフォースなやり方にも
何か良いところがあればいいなと願います。

たった一人の心理戦

ホットケーキを焼く匂いが好きで、
不思議と自動的に幸せな気持ちになれます。
そんなわけで出張先の朝ごはんで
パンケーキが出ていると嬉しくなります。

この数ヶ月、
一人だけで考えていることがいくつかあります。
悩み事、というのは
ある程度方向が見えるときには人に話せるのですが、
自分でもどう扱ったらいいか分からないときには
話せないものだったりします。

人から見ると考え事をしている時は
ぼんやりしているように見えるのだそうですが、
本当にぼんやりしている時も半分ぐらいあります。

自分の心と戦うことがあります。
臆病になって逃げたくなる気持ちが出てくると
無理やり押さえ込んで一歩前へ出ます。
本当の敵は自分自身の中にある、という言葉が
最近特に現実味を帯びて感じられるようになっています。

しかしもう少し踏み込んで考えると、
戦って勝つよりは戦わないで勝てる方法があればより良いのであって、
恐怖心そのものを小さく消してしまえないかと思ったりしています。

木曜日, 7月 14, 2005

中に入れているものと鍵の大きさ

書きたいテーマその8。

月曜日, 7月 11, 2005

表現するために勉強する

在庫管理という考え方があって、
「できるだけ多く持つ」ことが必ずしも
良い結果を生まないという前提で行う考え方が
結構気に入っています。
どんなに高級な飛行機でも、
プライベートビーチまでは積んでいないのです。

なぜ勉強しなければならないか、を
問われて、きちんと答えられるか?という「質問」が
よくメディアには登場します。
そのメディア自体は、実はその「質問」に対する
「回答」を準備していない場合がほとんどで、
なんだか禅問答のように考えさせられ続けるが、
答えが曖昧で勝手に申し訳ない気持ちにさせられてしまう、
どうにもたちの悪い質問です。

比較として少し違う点を挙げると、
禅問答にも何らかの回答は準備されています。 
そしてその回答が準備されたものと異なっていても、
筋が通っていれば正解です。

わたしは「大人のひと」からよく
いたずらにこの類の質問をされてきた気がしますが、
あまり当を得た回答を聞いたためしがありません。

ずいぶん前に知り合った友達の話で、
「いい人間」という表現はあるけれど、
「大人」という表現はない、ということを
聞いたことがあります。
大人といっても良いひとも悪い人もいる、
だから大人と呼ばれるからといって
それ自体にあまり意味はない、という
表現だったと思います。

勉強する意味については
現時点では次のような答えを持っています。

生きるというのは情報の受け渡しでできているもので、
それは遺伝子であったり文化であったり
さまざまなのですが、
地球に対して十分小さな個々の存在が生きていくためには
その仕掛けが分かっているほうが生きやすいのです。

第1次産業だったら勉強はいらないというのも
全く正しくなくて、
自然を観察する力が必要で、
よく実る方法を蓄積していかなければなりません。

芸術だったら勉強が必要ないというのも
全く正しくなくて、
個展を開くには社会のシステムと
少なくともコンタクトを取る必要があるし、
予算を集めるのには企画力が必要です。

他人と「何らかの方法で」情報をやり取りする手段として
文字の取り扱いは必要だし、
物の取り扱いのために数学が必要です。

そしてそれらの結果を伝える表現方法が必要なのです。

「社会契約論」という言葉がありますが、
社会を人が創造によって作りだし、
それに縛られるようになったのではなくて、
人はもともと社会を作って生活する性質のために
さまざまな関係性が勝手に生じてしまう生き物なのです。

知性のため、ホワイトカラーのため、の
いずれも正解ではなく、
人という生き物がその時代で生きていくために
世界の仕掛けをその都度覚えていく、ということが
「勉強」をする意味なのだと考えています。

日曜日, 7月 10, 2005

新聞記者が大量のメモを取る

Bloggerの日記は便利で、
自分のブログには
「閲覧ページから書き込める」アイコンが現れています。

TBS「文化遺産」を録画していたら
20話分ぐらい集まりました。
お気に入りはイスファハーンです。
瑠璃色の石細工で埋め尽くされたドームを見てみたいです。

おばあちゃんの知恵袋は、
聞いたら何でもそらんじて教えてくれるイメージがあるし、
物語のヒーローが
何か行動を起こす前に調べ物をしているイメージはありません。
その場ですぐやってくれる、
この姿に人はいつも憧れるものなのだろうと思います。

大量の情報を扱う仕事、で
思いつくのは新聞記者で、
とんでもない記憶力を持った人たちが
魔法のように言葉を紡いでいくという
印象しかありませんでした。

仕事場を見せてもらって思ったのは、
彼らは「スクラップブック」で情報を集め、
自分の得意な情報を集めている様子でした。
スクラップブックを作る過程で情報が選ばれ、
集めることで仕事の源になっている様子が
良く分かりました。

なんでもメモを取る、ということに対して
結構抵抗はありました。
会話中では話の流れを妨げるわけにはいかないし、
そらで覚えている方がかっこいいのです。

でも新聞記者でさえメモを取るのだから、と思うと
余計なこだわりは少しずつ消えていって、
自分もメモやスクラップブックを用意できるようになりました。

何かを既にできている人を目の当たりにすること、
それは何かを始めるときに生じる
心の抵抗のような壁を取り除いてくれるのに
とても良い効果があります。

金曜日, 7月 08, 2005

小説家=シミュレーションプログラマ

一日計算機でコードを書いていると、
それは日本語として読むことができず、
ほとんど言葉を話すことがありません。
これと同様に、
数式を展開している間も表現できる言葉になりません。

脳科学の本では、
感情は言葉によってできているという
一見逆説的な結論が導かれていて、
言葉にならないものの取り扱いは
もともとかなり難しいのではないかと最近思っています。

「ライフゲーム」とか「セルゲーム」と呼ばれる
自己発展型シミュレーションコードがあります。
格子のます目の中には一つずつライフを入れることができて、
人は初期状態を決められます。
一度決めてしまうと、後は3セル×3セルの情報を1単位として
その単位中にライフが1つだと消滅、
2つだと現状維持、
3つだと増加、
4つ以上だと消滅という決まりに沿って
1プロセスずつ処理されていきます。

このゲームが面白いのは、
うまい初期条件を設定すると、
ライフの発展が見事な幾何学模様を描いたりすることです。

小池真理子「恋」のあとがきを読みながら、
「突然ひらめいた人物設定」のくだりは
このライフゲームの話に良く似ているなと思いました。

小説家はシミュレーション・プログラマと同じだと思います。
短く終わる初期条件もあれば、
長編になる初期条件もあります。
途中で人物に手を加えて設定をかきまぜることで
さらに混沌とした状態を作ることもできます。

しかし小説には終わりがなければならないので、
混沌とした模様の中から最後には規則的な絵柄が現れてきて、
綺麗に消滅するか、
無限維持状態を保つか、
循環状態にするかをしなければなりません。

「人物が活きている」小説は
まるで作者が演者の行動を描写している感じがして、
作者が操り人形のように演者を動かしている感じがしません。

小説家はその心の中で彼らが生きる場所を与え、
あとは脳が自己発展的にそれを追う、
その様子を作者が書きとめていく、
こんなイメージを持つようになりました。

シミュレーションが実験よりも良いところは、
どんなパラメータも意のままに覗けるところで、
小説がドキュメントより優れるとしたら、
日常では覗けない全ての人物の心の動きが
明示的に表現されることにあるのだと思っています。

単色の20世紀

不二家ネクターがとても好きです。

ネクターはnec-が表すとおり不死のニュアンスがあって、
「神様の飲み物」という意味が語源です。
よくこの言葉を見つけたものだと感心します。

日本の夏休みは原爆と終戦で色づいています。

高専にいた頃の歴史のテストは大学のようで、
あるテーマに沿って論を展開しなさい、というものでした。
あるテストで終戦60周年について、という題が出ました。

戦争解釈というのは主に戦勝国側の意見ばかりが通ります。
「レキシ」は人という主観を持った観測装置が
自分のいる立場を含めて人間の動きを記述していくもので、
天体望遠鏡のような主観を持たない観測装置が
天体の動きを追跡するのとはわけが違います。

物理的解釈では
「事実が人の数だけ存在する」ことはありえませんが、
歴史的解釈では容易に成り立ちます。

それゆえ、わたしは今でも
「戦後とは関係のない8月」という意識を
取り払えずにいます。

しかし他の国の1945年をみると、
たとえばバウハウスなどの建築改革が起こっていたりして、
活気にあふれた人々の生活があります。

戦後を見つめることは確かに大切なのですが、
果たして「日本から見た1945年」だけを頼りにして
過ごしていくべきなのかどうかは
改めて考え直さなければならないと思います。

これを思ったのは、
日本が戦後の特需に湧いていた1960年から1970年にかけて、
ベトナム戦争が起こり、文化大革命が起こり、冷戦が起こりと
世界のあちこちで心を痛める出来事が起こっていて、
しかし多くの人が「受験のための暗記物」ぐらいの感覚しか
もてないのではないかと考えたからです。

この傾向は日本に限ったことではなくて、
実際、北朝鮮の拉致事件が大きく取り上げられていたときに、
アメリカの何人かの人にこの事件を聞いたところ、
「その事件は何だ」と聞き返されてしまいました。

自らの地で五感を使って得た情報を元に
人は動いていくものだと強く思います。

ロンドンで起こっているテロがニュースで放映され、
直後にふるさと町便りのコーナーがあって、
その町へ観光へ行くことのほうが現実味を帯びていたりするもの、
それが人間の大きさを表す印なのかもしれません。

ヨロシクオネガイシマス

赤は興奮の色、と
色彩の本には書いてあるのですが、
赤は色温度が低く、
瞳孔に入ると目の緊張が緩む側で焦点が合うのだそうです。

パソコンの壁紙を探していたら
青いものばかりしかなくて、
赤い壁紙を探しています。
なぜか「赤」は仕事場で好まれない色なのかとも思うのですが、
仕事の緊張を解くために赤い壁紙を使ってみます。

メールの書き出しには結構迷わなくなって、
相手の名前と自分の名乗りを入れてから
要件を始めるのですが、
メールの末尾に何を書くか、は
いまだに少し悩んでいます。

「よろしくおねがいします」という一文があって、
なんとなく使いやすくて書いているのですが、
一体何を「よろしく」してもらおうとしているのか
はっきりしないままでいました。

申し送り、作業の指示などのメールの末尾は
「よろしく」でもいいのかもしれません。
ところが事務報告や提案などでは
「よろしく」の意味がぼけてしまいます。

最近不自然な文体で「よろしく」と自分で書く時の心境が
どうも不安定だと思っています。
恐らく何かに息切れしているのです。

画面に現れる文字は全てデジタル文字なので、
形も色も同じなのですが、
書く人の個性がはっきり出ます。
自分を表現するのは難しいけれど、
自分を隠してしまうこともまた難しいと感じます。

「最重要」と「リスクメーカー」

沖縄そばです。

沖縄は豚肉をおいしく食べる文化なので
脂の部分に旨みを感じられる食感が必要です。

今日は似ているものの話の続きです。

最重要課題、とされるものの取り扱いが、
なぜいつも厳重に鍵をかけて閉じ込めた後で
腫れ物をさわるような方法しかないのかが
気になります。

最重要であることと、それが内包するリスクが高いこととは
必ずしも一致しないと思っています。
たとえば、官庁の仕事が止まってはいけないのであれば
普段から組織業務を冗長化してバックアップを作っておけば
何とかなるのであって、
責任を負った人が倒れないようにする、は
あまり優れた解だとは思いません。

長嶋さんが五輪野球の監督になって、
ほとんど神様のように扱われてたのは
別に構わないのですが、
倒れるまで責任を負わなければならない、というのは
やっぱりかわいそうな気がします。
そこまで尊敬するのであれば、
なぜ彼の肩代わりをしようとしないのかが
わたしには理解できないのです。

困ったときの神頼み、とはよく言いますが、
日本人には「人間を超えた存在」としての
神という概念はほとんどなく、
「神技」的な能力を持つ「現人神」のような人間、
というのが知覚できる最高の存在だと思います。

信じる存在としてよく似ているのですが、
西洋的な神は形がないゆえに心を支えて、
信じる者自身に力が与えられるのに対し、
現人神は形があるゆえに現実を変える力が与えられていて、
信じるもの自身の願いを本当に叶えてくれないかという
即物的な願いになってしまいます。

この国が「他人に」求める人間の質は
西洋よりもはるかに高くて、
人間以外のものに心の支点を置かない限り
人間そのものが苦しい思いをすると感じています。
かといって西洋的な神を取り入れたところで
それは木に竹を接ぐような作業だとも思っています。
なぜそういう神を作り出すまでに至ったかが
日本の中だけで知覚できる発想では
理解できないと考えるからです。

「科学信仰」という言葉があって、
科学の援用結果を丸ごと信じてしまうことを指します。
「絶対に正しい」というのが日本人には安心される言葉のようで、
深夜のテレビショッピングなどは
まさに「科学信仰」にぶら下がったような商品説明をしています。

西洋的な発想では、
「科学」を通して「神は本当にいるのか」を探しているのであって、
科学はその道筋に至る為に積み上げる階段のようなものです。
それゆえ、実験が今までの理論を否定すれば
科学は容易に考えの変更を迫られます。
しかし科学そのものを信仰してしまった場合、
「変わり行く科学の姿」をただ信じて受け入れるような
安易な結果を招きかねません。

と「西洋」について良さそうな事ばかり挙げましたが、
彼らが神の概念を捨ててしまった場合は
もう誰にもその行動を止められない
危険な人間が出来上がります。
欧米文化がやってきて凶悪犯罪が増える、と
ニュースは脅したりしますが、
日本人はすべての人が
「他人をリファレンスにする」という
モラルの鎖をつけられているので、
彼らのように常軌を逸するところまでは行けません。

他人をリファレンスにする、といえば
魚の群れや鳥の集団が作る行動は
「近くの仲間とつかず離れずし、
移動の方向を合わせようとする」という規則性だけで
まるで統一した意思による命令があるように感じるほどの
複雑な動きをするのだと言います。
これは考える各単位に意思を持たせた
複雑系の概念を持ち込むことになります。

小学校の頃の1年の目標には
「自分で考え」という一文があったのですが、
本当に自分で考えると
日本では異端視されるか象徴になるかの
どちらかしかないんじゃないかと心配する
今日この頃でした。

火曜日, 7月 05, 2005

mixture

麦ご飯が好きです。
食べたときにあまり甘みを感じず
さっぱりと食べられるところと、
麦粒のつるつるとしたぬめり感が楽しくて、
麦とろご飯はよくおかわりします。

似ているものほど区別がしにくい、ということに
最近注目しています。

連想、というくらいで似たようなものは覚えやすい、
というイメージがわたしにはあるのですが、
似たようなものはそれが似ている度合いが強いと
どう区別していいか分からなくなることがあります。

これは以前色の話で、
国によって表現豊かな色の種類は違うのだと
聞いたあたりで強く意識しました。
確か日本は緑色の表現が多かったと記憶しています。

表現が単語として違わなければ、
特別な表現をつけて色を修飾しなければなりません。
「天使の銀色」という表現をした人がいて、
おそらくそれはプラチナシルバーのことだと思うのですが、
一事が万事こんな感じです。

どこまでか行くと人は必ず違っているものなのですが、
似たところを見つける嬉しさと
違うところを見つけた可能性は
どちらにも良いところがあります。
ドリカムのアルバム「MAGIC」の一曲「go for it!」には
あまりにも違いすぎる彼とは合わないと思っていたら
実は自分が広がるチャンスだったんだ、と気づく歌で、
結構気に入っています。

似ているところと違うところ、
やはり相補的に必要なのだと思います。

似ていることを求めるのは
人の社会性からくるもので、
違うことを求めるのは
人の進歩性からくるものだと思っています。

土曜日, 7月 02, 2005

最良の「選択」を

わたしにとってちょうど良い大きさの
シミュレーション・サイズという考えがあって、
概ねそれは1時間ぐらいで終わってくれるものです。
3分で返事が戻ってくるものは気が落ち着かないし、
1日かかるものは退屈なのです。

なんでも最速で解く計算機だけじゃなくて、
ほとんどの計算を1時間かけて終わるように
調節してくれるプログラムがあったら
人間と付き合いやすいかなと思ったりします。

ラジオ中国語を聞いていますが、
1日のうちに少ない話題を繰り返し聞くようにして、
多くの話題を聞き過ぎないようにしています。
記憶は似ているものを入力されると
かえって混乱して覚えられなくなるのだそうです。

プールのおじさんと話していたことがあって、
わたしは進歩のために今の限界を見定めることが必要だと言い、
おじさんは諦めに繋がる限界はないと信じていたいと言いました。
恐らく良く似た「目標の立て方」だと思うのですが、
表現はさかさまです。

徳間書店「プロ論」のなかに、
直感を信じて動いていこう、というくだりがあって、
しばらく考え続けています。

直感が「世の中に沿う」結果を出す場合には
それを信じるとうまく行きますが、
「世の中に沿わない」結果を出す場合には
信じるとうまく行きません。

直感も訓練だとふと思います。
人間は最初から固定された世界観を持って
生まれてくるわけではないからです。
そして直感を信じて動いた結果が
いつも散々な結果だったら、
直感を信じたくなんかならないはずです。

直感を信じるのではなく、
信じられる直感を持つ、のほうが正確な感じがします。

難しいのは、
「瞬間的に決める」直感は
一体どうやって訓練されるのかが分かりにくいところだと
考えます。
分からないものは分からない、のままでは手も足も出ないので、
一歩踏み出す方向が必要です。

直感は、それを思いついたずいぶん後になって
その理由が説明できるようになることがあります。
直感と、それに基づいて動いた結果をよく考えれば、
自分の直感は無意識のうちに何を思ったのかが
分かると考えます。
これを繰り返すと、自分の無意識を
調節できそうな気がしています。

直感で動く場所にも注意が必要です。
たとえばいくら大志を抱いているからと言って、
いきなり手持ちのお金を集めて、
ラスベガスに飛んで大儲けしようと思っても
それはほとんどうまく行きません。

直感で動いていい場所は、
十分に経験が得られるが、
動いた結果どうしようもないことにならない所、だと
思っています。

この「どうしようもならない」場所の意識が
人によって大きく違うのですが、
直感を良く調べたいときには
自分が普段ブレーキをかける一歩先までは
踏み出すといいと思います。

日本人は安全が好きなので、
大抵、自分が限界だと思う一歩先だったら
どうしようもないことには到底ならないからです。
そして経験が積まれる事で、
直感で動ける範囲が広がっていけば、
次第に限界自体も広がっていきます。

ある局面において、
すぐに決めなければならない箇所というのは
多く存在します。
「ザ・ゴール」の本の文章ではないのですが、
散発的でも瞬間負荷が最も大きいラインが
ラインの成否を決める生命線で、
ここに相当量の余裕を持たせておく必要があるのは
人も同じです。

散発的でも瞬間負荷が最も大きいライン、というのが
人間で言えばちょうど直感が要請される局面であり、
そうすると
直感は相当チューニングされていなければならないと
考えが導かれます。

加速器にはチューニングと呼ばれる作業があって、
これは目的のビーム出力に近づけるために
さまざまなパラメータを調節することです。
多変量の最適化が試行錯誤で行われる、
これは実際の現場もシミュレーションも全く同じです。
線形方程式は確かに最初から最後までが
矛盾のない一つのストーリーになりますが、
人生は線形ではないのです。

マネーロンダリング

日本語は英語のアルファベットを
ローマ字読みしたり発音読みしたりするので、
ゲルマン帝国とジャーマンポテトとドイツワインは
同じ場所のものであることがひと目では分かりません。

マネーロンダリングと言う言葉があって、
launderingと書かれれば
ランドリーと同じだと分かるのですが、
なぜ読みが違うのか分からないままでいます。

資金洗浄、と訳されてしまっても
何のことだか分からない「マネロン」ですが、
流通ルートから外れて取引された健全ではないお金を
公の消費購買や店舗運営、貯金などを通じて
正規のルートの取引に乗せてしまうことを指します。

「白い猫でも黒い猫でも、
鼠を取る猫が良い猫だ」と言ったのは
毛沢東で、
実利があれば手段は問わない、という意味なのですが、
この実利の意味をただの経済的な富ではなくて、
もっと良いことに割り当ててみるのはどうだろう、と
ふと思うのです。

民事裁判の最後はお金の話になる、
これはお金の単位を「言葉」のようにして
扱っていると考えると分かりやすいです。
さまざまな事情で生まれた「理由」を
「金銭的価値」に翻訳して積み上げます。

夜遅く銭湯に行った時のニュースで、
沖縄に基地を作ると言うので、
代わりに1000億の予算投入がされた、という
特集を見ていました。

受け入れている人は、
それによって仕事が作られるからという理由であったり、
受け入れていない人は、
基地ができてしまえば当分撤去できないからであったりします。

自分の町に基地がやってくる、としたら
自分は何をするだろうかとしばらく考えています。
結論に至るかどうか分かりませんが、
演繹を始めます。

核燃料処理施設でもそうですが、
できればおぞましげな現場というものは
近くで見たくない、というのは心情だと思います。
しかし平和とは確かにその半分を戦力で維持していることは
間違いのない事実であって、
基地は戦力の拠点として必要です。

この点だけを考えると、
どこかが受け入れなければならない基地であれば、
人に押し付けるぐらいなら自分たちが受け入れても
良いのではないか、と考える余地があります。

ところが「基地を作る理由」という点へ行くと、
「政府の方針だから」という
理由になっていない説明を押し通されている、と
ニュースは続きます。
納得がいかないから受け入れられないのです。

わたしには公務員になった友達が何人かいますが、
彼らはとても心優しく、誠実な人柄です。
自分の町のことを昼も夜も大切に考え、
できる限りの努力をしてくれていると感じます。
だから「政府に問題がある」という言葉を
できれば彼らには使いたくないとも思っています。

「政府の方針だから」と口にした役人さんや、
明らかに質問とずれた回答を続ける広報の人は
どんな気持ちでその台詞を口にしているのだろうと
考えをめぐらせます。
彼らにも答弁が矛盾していることは分かっているのに、
それをしないとくびになるからなのか
本心は取り出すことができません。

三菱自動車の設計を担当していた人で、
力学的に見ると仕様の耐久年数を満足しないことが
十分予想できていたのに、
問題のある部品を作り続けていた部門に対して
異議を唱え続けていた人がいて、
しかし会社の圧力で左遷されてしまったと言います。

共通することは、
「言うとおりにしないとくびになる」ということが
足かせになっている、ということです。
「言うとおり」というのは、
人のためになる指示にも
人のためにならない指示にも
従わなければならないということです。

この傾向を未来永劫変えることは人である限り不可能で、
それは保身や名誉、自己顕示の感情は
誰にでもあって、それが何かの理由で行き過ぎると
社会のためにならない事をし始める、というところに
問題の発端があるからです。

ならばこの矛盾を抱えたまま
人のためにならない指示を減らしていくには
どうしたら良いのかを考えてみます。

まずは「言うとおりにしないとくびになる」という恐れに
何らかの方法で対処する必要があります。
方法はおそらく二つあって、
「くびになっても構わないように対策する」か、
「くびにできないように対策する」かを検討します。

我慢していれば明日がある、は
それが本当に必要なときもありますが、
だいたいは純粋に思考停止しているのであって
どう考えても人間的な答えではないと思うのです。

前者のほうは、
次の仕事場を探し始めることかもしれないし、
貯金や投資を始めることかもしれません。
相手が準備しているのなら、こちらにも準備が要ります。

後者のほうは、
相談機関や評価機関の存在を探すこと、
あるいは社内で同じ気持ちを持つ仲間を探すことに
繋がります。
くびにする人間を説得できるのが一番良いのですが、
心に風邪を引いてしまっている人には話が通じないので
もっと極端になれば、相手の生命線を握るような
情報か行動があれば良いと思います。

外資系のリストラでは、
日本で訴えを起こすのではなく本国で訴えると言うと
見たこともないような和解案が
出てくることがあるのだそうです。
使えるものは何でも使わなければならず、
使えるものは探さなければなりません。

正しいことに敢然と立ち向かう、
聞こえは良くて潔いのですが、
抽象的なイメージのままではいけないし、
丸腰で勝てない戦いをしてはいけないと思います。

戦後行われたのは財閥解体で、
これは大きな集団が持つ力を恐れてのことであり、
大局的にみた会社は
労働組合を縮小させようとしているし、
「言うとおりにする」労働力を求めるという
傾向もやはり変わらないと考えます。

良いものは残らねばならず、
そのためには動かなければならないと思います。
大声を張り上げてやりあうのが苦手であれば、
水面下で始めれば良いのです。

陰徳という言葉があって、
これも行動はしているのです。

木曜日, 6月 30, 2005

おしゃべりなプログラム

雨が降りそうで降らない曇り空は
なんだかはっきりしなくて、
ぱっと降ってくれたら良いのに、と思います。
関東地方の涼しい梅雨が体に合っていて好きです。

printf("")という命令があって、
これはプログラムが画面に文字や数字を出すためのものです。
この命令、処理が重いのであまり好まれない、と書いてある
解説書を良く見かけますが、
とても便利な命令です。

計算コードを作るときには、
計算機が「今何を考えているか」を知りたくなるときがあります。
ダンプ=dumpと呼ばれる作業で、
最終的に得たい結果ではない
プロセス途中のある数字や分岐を画面やファイルに出力して、
うまく処理が進んでいるかを人間が確認します。

dump作業では、
「何をしゃべらせるか」を決めるのが大切です。
でたらめに処理の結果を全て出力せず、
特徴的な変数に絞ってチェックしないと、
たとえば100万回のループの結果は人間が読めないからです。

普通の計算機はおよそどんな変数でもdumpができますが、
実時間計算機の場合は、
dumpすることで遅延が生じて
処理結果が変わってしまうことがあります。

プログラムを作るときには、
できるだけ「おしゃべりな」プログラムを作るようにしています。
しばらく時間を空けてしまって久しぶりに使うときでも、
おしゃべりであれば思い出させてくれるからです。

水曜日, 6月 29, 2005

作用と反作用

目から入る情報の方が多いはずなのですが、
どうも耳で聞いたことのほうが
覚えやすいのだそうです。
会話は大事だと思う今日この頃です。

太極拳のようなゆっくりとした動きを見て、
なぜゆっくりとした動きがトレーニングになるのかと
ずっと前から考えていました。
陸上競技をしていた友達の話を聞くと、
筋力というのは全力の80%で10回反復を繰り返すとか、
とにかく力が入るトレーニングが必要だと言うのです。

わたしは体が固くて、
あまり屈伸ができないのですが、
曲げられないのは文字通り【固い】だけではなくて、
伸ばすべき筋肉にまで力が入るのを
止められないからではないかと
考えるようになりました。

純出力とは、
作用と反作用の差で表されていて、
どんなに作用が強くても
抵抗するものが大きければ外に出力されないものです。
そこでゆっくり体を動かすと、
力を入れてはいけないほうの筋肉は
抵抗しないように調節することができるような気がしています。

とかく気合と根性が大好きな日本人ですが、
物理屋はロジックで攻めてみたいと思います。

月曜日, 6月 27, 2005

人生を一単位

週末は恵比寿へ出かけました。
恵比寿には福岡にいるころ旅行で来たことがあって、
一人ビールを飲んだのを覚えています。

近頃、「実体化する」という言葉が好きで
自分のキーワードのようになっています。
今の意識を人に伝える、
理想を見つけて行動にしてみる、
そのことに今はよく集中しています。

ここ数日、家で朝を迎えていないせいで
ニュースも新聞も頭に入っていなくて、
ネットのニュースにもアクセスしていなくて、
今日世界で何が起こったかを知りません。
ところがいつもより心は穏やかです。

この意識になったのは外国に出張したときで、
3週間何のテレビも知らず、事件の話もしらない
自己評価では「世間ずれしている」状態のはずなのに、
特に困ったことが起こらなかったことに
端を発しています。

本当に大事な出来事と、そうでない出来事が
いつも幕の内弁当のようにバランスよく用意される朝晩のニュースを、
社会人になったらちゃんと見ないといけない、と
よく思っていました。

しかしニュースの中には
殺人事件とかが大きく取り上げられるわけで、
その事件は局所的に起こった「ある話」であって、
国家政策のような「自分に関係のある話」ではないのです。

政治に不満があれば、
毎日憤懣やるかたない思いを抱いて生活するよりも
数年に一度の選挙で
地元の代表者を良く調べて選びなおすほうが大事だし、

酒税のバランスが変わって困ったことになったら
安い酒を買うようにしてしまえば良いし、

フランスの核実験に文句をつけたかったら
輸入商品を買わないようにするか
新聞社に投書を殺到させれば良いし、

どこかの殺人事件が起こったら、
自分には気のおけない友人がいてくれて
よかったと感謝すればそれで十分だ、と
最近思っています。

ニュースは世界の「ある情報」を提供しますが、
「それを聞いたら行動に反映できる」とは限らないのです。
そして何かをしなければならないと思っているのに
自分には何もできないという無力感を蓄積する必要は
特にないんじゃないかと最近考えています。

人は自分にできることしか実体化できず、
どんなに頑張っても自分の一歩先までしか
行動を拡張できません。

日本が揺れていて、エネルギーがあったと評されている
安保闘争の1970年でさえ、
大局的に見れば
都市に住む一部の若者が蜂起した話です。

徒党を組まなければ行動ではない、
もしそんな意識があったとしたら、
いつまでたっても人は集まらないような気がします。

最近の人には団結力がないと評されたとして、
それが本当であったとしても、
個人ができることを選択して行動すれば、
その結果は勝手に積分されて民意になっていくのです。

人間は世界のサイズに比べれば小さいので、
一人で世界の全てを知ることも、
世界の全てを救うこともできません。

地球の裏側の事件にまで神経を張り巡らせようとして
毎日心を痛め続けることも大切かもしれませんが、
目の前に流れている一つの曲を聴きながら
自分の思い出をそっと取り出してみることも
同じくらい大切なことだと今は思っています。

世紀末思想では
自分は明日にも死んでしまうのではないか、と
毎日思いながら本気で心配を募らせた時期もありました。
今でも明日はないかもしれない、と思い、
同時に明日はあるのかもしれない、とも思っています。

金曜日, 6月 24, 2005

本能に「従う」

かなり夜型の生活になっているようで、
夜中と明け方に起きています。
その代わり夕方6時ぐらいに一度眠ります。

時々本能というものについて考えます。
特に気になっているのは、
欲の中に本能は含まれるが、
本能の中に欲は含まれないだろう、という考え方です。

本能の説明で出会うのは、
例えば道徳や生物学、心理学などで、
人間には生まれながらにして持つ本能的な欲求がある、
例えば食べることとか眠ること、性に興味を持つことというくだりで、
この付近だけを読んでいると
本能=欲求のような気がしてきます。

しかしいろいろ調べていくと、
生き物は「その種が生き続けること」に忠実であることが
本能の意味であると思い至るようになって来ました。

たとえば、
食欲は欲求であるけれども、
野生の生き物は食べ過ぎたりしないのは
行動力がなくなれば生き残れないからだという認識であって、
食べ物が少ないから、という理由ではないと思うのです。

たとえば、
社会性や知性というのは高次の理性だと思われていますが、
社会性は種が生き残るための手段であって、
発明のようなものとは異なります。

種が生き残るための条件として、
種が進化して強くなるか、
環境を変化させて生き残りやすくするかを
選択している、と考えると、
恐竜は前者で人間は後者です。
少なくとも人間の体は特別な進化をしていません。
そして環境を変化させる能力を得ることこそが
進化の過程で選ばれた一形態なのかも知れず、
理性とはやはり本能の一部だと思っています。

欲とは人間が生きるために必要でないことさえも
目的化してしまった事まで含みうるので、
欲に従うことと、本能に従うことは
本質的に異なるように思います。

生きるために一生懸命考える、
これは本能に忠実に従っていることであると思っています。
そして難しい時代と言われている中で、
欲ではなく本能に従う必要が増えてくれば、
もっと人は自由な気分になれるかもしれません。

木曜日, 6月 23, 2005

グリコのおまけ

太陽の塔です。

「建築を語る」の本の中に出てくるもので、
最初は変なイメージだと思っていたのですが、
だんだん面白みがある印象に変わってきました。
大阪に行ったときには見てみたいなと思っています。

火曜日, 6月 21, 2005

Mr. Steak

出張先でレーザーが出力されたときに
夜9時からすごい勢いで作ったステーキです。


一人400gあります。
新鮮な夏野菜とマッシュルームのソースを添えました。
3人とも見事に完食でした。

いつからかわたしは「肉料理役」になっているようで、
といってもステーキを焼くだけなのですが、
それ以外の料理番が回ってきません。

日曜日, 6月 19, 2005

「動物」実験 後編

日本なのに「その家のカレー」というべきものが
各家庭あるいは各個人にあります。
わたしの「カレー」は
ゴールデンカレーの中辛で牛すじ肉を煮込んだものと
決まっています。

ゴールデンカレーはほとんどCMに出ない商品で、
これが一番という人を聞いたことがないのですが、
この間偶然ゴールデンカレー中辛好きの同志を見つけて
大変嬉しくなりました。

さて後半です。

■5/8case1:試験的治療における医療の現場から
「脳低温療法」片岡喜由を読んでいると、
試験段階にある治療である低体温療法についての
記述がありました。
文中で、重篤症状に陥った患者の状態回復に
脳低温療法が有効である確証があり、
これを正式な保険適用医療にするために
治験を行わなければならないが、
治療が成果を上げていることを数値的に示すには、
「コントロール群」と呼ばれる、
治療のための手段以外の条件を等しくした群での
結果をあわせて測定しなければならない、というくだりがありました。
このとき、コントロール群には
重篤症状でありながら脳低温療法を「意図して行わない」ことになり、
最善を尽くすのが医療である趣旨に反するから
治験が成立しなくて苦労している、と続いていました。

有効な確証があるのなら
治験を例外的に免除できないか、と
考えるかもしれませんが、
脳低温療法にしても
「なぜうまく行くのか」「どれくらいうまく行くのか」を
定量的に記すことができない限り、
リスクを見積もりながら応用することができません。
試験段階で新しいことに挑戦しないのは失敗ですが、
応用段階で新しいことに挑戦するのは準備不足です。
情報を残す、ということは、
後の人がリスクを負わないよう責任と検証義務を負う事です。

■6/8case2:放射線安全において被爆者が果たした役割
現在医療や放射線物理で広く使われている
放射線の安全規定は、
原爆によって受けた放射線量をシミュレーションで検証し、
被爆した方の治療成績と照らし合わせて、
安全な被爆量の上限を定めています。
わたしたちは陰に陽にこれらの方々の恩恵と、
その現場でデータを集め続けた方の努力を受けているからこそ
大きな事故がなかなか再発しないのです。

「おかげさま」という言葉があって、
これは自分に良い影響を与えてくれたけれども
自分の意識に及んでいない方全てを指すと思っています。
そしておかげさまは現在生きている人だけでなく、
過去に結果を残してくれた人を含めていたいと思います。
そのうえで、現代の人間は
「後世の人間のために」何らかの結果を残さなければなりません。
安全に暮らし、罪に手を染めない行動に終始するだけでは
責任を果たしたことにはなりません。

■7/8人間と動物の優先度に差をつけるか
どのような宗教であっても、
人は生きていく過程で罪を負う、ということを
説明しています。
これは神の存在を証明することで説明するのではなく、
生きるために食べる、という具体的行動の中に
血を流して動物の命を頂く事に対する
厳粛な気持ちを持ちたくなる、ということなのだと思います。

この意味で、動物だから知性が低い、
人間だから高尚である、という意識を一度外して、
人も生き物であり、
生き物は生きること自体が目的化した存在である、
だから人間は生きるために他の存在を使わせてもらう、という
事実に正直に向き合うことができれば、
欲や美という「人間が定義したもの」から
距離を置くことができると考えます。

8/8結論:賛成と反対という2極を超えて
最後にこのテーマに対する
自分の結論を述べなければなりません。
動物実験は賛成か反対か、
どちらかを必ず選べと聞かれたら
わたしは賛成をとります。
動物でなく人自身で実験をするわけにはいかないからです。
それが、「生き物はその種が生き続けることを目的とする」ことに
忠実に従い、人という生き物が性質として持つ
社会性に沿うことだと考えるからです。

しかし賛成をしたからといって、
文字面だけ見て、どんどんやりなさいと
奨励しているわけではありません。
わたしたちは動物の命によって自らの命を
安心させていることに感謝しなければなりませんし、
自分たちが厳粛な気持ちをもって
生き物の命を使わせてもらう事実の重みとその痛みを
自らが進んで引き受けなければなりません。
それが「共感する」という性質を持った人間の意思に
矛盾しない方法だと思っています。

動物実験を行う部局には慰霊碑があり、
決まった時期にそれらの命に感謝を捧げます。
気持ちには形がないからこそ、
こういった目に見える表現も必要です。

そして科学という、
再現可能な事実のみを残していく
使命を負ったものは
捧げられた命から最大の結果を引き出すよう
努力しなければなりません。
その結果は世界に対する偏見や疑問から
自らを解放し、一人の人間として
この世界を見つめる手段を提供するでしょう。

以上、動物実験に対する意見を終わります。

水曜日, 6月 15, 2005

「動物」実験

普段あまりテーマに沿った思考はしないので、
議論が広がりそうなテーマ「動物実験」について
考えを展開してみようと思います。

目次:
1/8「動物」でなければいいのか
2/8化粧は必要なのか
3/8動物「愛護」の立場から
4/8動物実験の必要性
5/8case1:試験的治療における医療の現場から
6/8case2:放射線安全において被爆者が果たした役割
7/8人間と動物の優先度に差をつけるか
8/8結論:賛成と反対という2極を超えて

■1/8「動物」でなければいいのか
動物実験反対の運動というのは、
主に都会の駅前などで展開されているものを目にします。
刺激性の実験のために角膜を観察されるウサギや、
毒性実験のために大量の医薬品を注入されるマウスなどの写真は
どれも目を背けたくなるものばかりです。

目を背けたくなる理由は、動物は人間と「同様の」
生体システムを持っているため、
刺激や痛みに対して反応する動作が
苦しそうに感じられるためです。

ベジタリアンという、動物食をしない人たちは
野菜を食べるか、ガンジーのようであれば
果物とミルク以外を口にしないと言います。
しかし野菜や果物の細胞は生きているわけで、
殺生をしていないかということにはなりません。
細胞で実験をしても、植物で実験をしても
生命を利用していることに変わりはありません。

「せめて動物での実験はやめておこう」という意識と、
「動物は明らかにかわいそうだからやめておこう」という意識は
分けられなければならないと思います。
「動物だから可愛い」というのはあくまで人間の主観です。

■2/8化粧は必要なのか
主題が「化粧品の動物実験」に限定されているので、
「化粧品はあくまで生存に必要ない嗜好品であって、
人間の都合のために生命を犠牲にしてはならない」という暗喩を
どう捉えるかどうかが論点のひとつになると考えます。

生存の意味には2種類あって、
人間という種で現在生まれているものが生き残る、というタイプと、
自分の遺伝子を後世に引き継ぐ、というタイプがあります。
社会的立場からの人間は前者として捉えますが、
生物的立場からは後者として捉えます。

女性が美しく飾りたいと思うのは
自分の種を残すのに理想の相手を捕まえたい
欲求に動かされている側面を持っており、
理不尽と呼ばれていても美しいものを
選別するシステムが機能し、
それに命をかけている人がいる以上、
化粧に対する欲求が失われることはないと思います。

■3/8動物「愛護」の立場から
可愛がる、という感覚は擬人的なもので、
動物なら何でも可愛いと心から言える人が
動物愛護というのは当を得るのですが、
マスコットのような動物だけを愛護することを
現実には指しているのではないかと思います。
クジラを保護しようという理由は、
クジラには高い知性があるからと答える人がいますが、
知性の定義は人間が定めたものであって、
学習能力は崇高さの指針でもなんでもありません。

■4/8動物実験の必要性
それでも動物で実験を行わなければならないのは、
試験管実験や非生物実験では
どうしても分からないことがあるからです。
人間でさえも治験という形の人体実験が
日々行われています。
そして人間そのもので医薬品テストができないと
決めてしまうからこそ、動物が援用されるのであって、
動物実験を廃止してしまうなら
健康にリスクの高い物質に囲まれ、
悲惨な結果が起こることを覚悟しなければなりません。

およそ全ての実験には二つの種類があり、
ひとつは「何かが起こる可能性」を調べること、
もうひとつは「何かが起こる確率」を調べることです。
ある薬品が毒物であると発見される段階が最初ですが、
その後は「毒であると分かっているもの」を意図的に試験体に与え
どの程度の影響があるのかを定量的に調べなければ
科学的に何かを解明したことにはなりません。
一般に動物実験で「無用に大量の動物が試験される」と
喧伝されるのはこの精度検証に使われる動物たちのことです。
また、役に立つが毒であることが分かった場合、
それを無毒化する方法を探しているうちに
新しい使い方が見つかることもあります。

続きは次回。

社会は厳しいと誰が決めた

いつも取り扱いに困る書類が出てきたので、
手動式シュレッダーなど買ってみました。


情報の取り扱いを今になって「情報化社会になった」と表現されるのですが、
人の歴史はその始まりからすべからく情報化社会です。
人間が自然に対する本能的な記憶を消してしまったのは、
狩猟時代から宇宙時代まで、劇的に変わりうる生活スタイルに
いつも「その世代が」生きている間に順応できるよう
固定観念を振り払ったからではないかと思っています。

小さい頃から、自分よりも年上の人たちは、
本当に口を揃えて「社会は厳しい」という言葉を話していました。
そしてわたしは、「だったら厳しくしなければいいのに」と
ずっと思い続けてきました。

人は共通のある目標に向かうときには
協力者として人を求めますが、
拮抗するような目標が与えられた場合は
挑戦者として人を排除します。

機械や電子頭脳がする仕事を人の数に直すと、
おそらく今の地球は6兆人分とかそれよりはるかに多い
労働力があります。
人が工場制手工業を思いついた時点で、
人の労働力が人数の一次に比例しないことに気がついています。

人は集まると、
あっという間に労働力が過剰になってしまうのです。
だから機械がなくても
巨大なギリシャ文明もエジプト文明も成立したのです。

そうすると、本当は
生きていくだけなら厳しくはないはずなんです。

自然淘汰のシステムはこれと別に機能します。
住む土地が変わっても、文化が変わっても、
生きていければ良いと決めてしまえばいいのに、
自分の文化や過去や、たくさんのものに
自分のよりどころを求めようとします。
「できるだけたくさん持とう」とするのです。

物を捨てるのが苦手だったわたしが
物を捨てられるようになったのは、
もう生産力は過剰であること、
簡単に生産力は過剰になることが身にしみて分かったからです。
捨てないと作っている人が困るのです。

競争はしない、自分はただ興味のためにやっているのだと
時々話をすると、
それはできる人が言うきれいごとだ、という返事が
時々返ってきます。
この言葉はある種の正しさを含んでいて、
それは自分が下手でもずっと続けられるだろうか、と自問するときに
もしかしたらやめてしまうかもしれない、と
どこかで感じるからです。

自分は勝つことが喜びではない、と
表現しなければならなかったのかもしれません。
めぐりめぐってこの話は、
社会は厳しくないようにしよう、という目標を立てたいなという
わたしの願いになります。

火曜日, 6月 14, 2005

受け入れられなかった

麺は蕎麦が好きなのですが、
うどんと蕎麦を売っている店ではうどんを食べます。
解凍を経るとこしが少ないそばは食感が変わってしまうので、
冷凍そばはまだまだ生めんに及ばないのです。

かといってうどんの生めんも
おいしいものに当たれば
実は冷凍とずいぶん食感が違うことに気がつきます。
小麦の香りもほんのりするのです。

危機的状況から奇跡の再建、という記事を
時々目にします。
奇跡という言葉が使われていますが、
最近はなんとなく奇跡ではないような気がしています。

レトリックのようですが、
危機に陥った組織を作るには、
まず、とにもかくにも人が集まって組織を作ることで、
作ること自体が大変です。
人が集まっていて、指令系統があって、
動きは鈍いけれどインフラがある、
つまりお金の面では足りないけれど、
その他の面ではたくさん持ちすぎてさえいるのです。

まず危機的状況からの回復をするには、
まず社員全員が[危機であり、自分が対処する]という
認識を受け入れる必要があります。
危機の兆候を感じられないために
気がついたら回らなくなってしまった、ということはあります。
主に「あの頃は」という気持ちがいつしか固定されてしまい、
現状が見えなくなってしまうのだと思っています。

外国の社長、新しいアイデア、組織の改変は
それが普遍的な力を持つことよりも
「皆が新しくなったことを受け入れた」ことが大切だと思います。
組織というのは縦割りだろうが横割りだろうが、
もともとどちらにも弊害はあるのです。

終身雇用がなくなって将来が不確定になった、
転職したら給料が下がった、ということは
自分にも起こりうる話だと思いますが、
それでどうにもならないと行き詰まりに思ってしまうのではなくて、
受け入れた上でなにか考えてみるということが
いつもできたら良いのになと思います。

何かを受け入れるというのは、
ずいぶん難しい話のようです。