月曜日, 6月 27, 2005

人生を一単位

週末は恵比寿へ出かけました。
恵比寿には福岡にいるころ旅行で来たことがあって、
一人ビールを飲んだのを覚えています。

近頃、「実体化する」という言葉が好きで
自分のキーワードのようになっています。
今の意識を人に伝える、
理想を見つけて行動にしてみる、
そのことに今はよく集中しています。

ここ数日、家で朝を迎えていないせいで
ニュースも新聞も頭に入っていなくて、
ネットのニュースにもアクセスしていなくて、
今日世界で何が起こったかを知りません。
ところがいつもより心は穏やかです。

この意識になったのは外国に出張したときで、
3週間何のテレビも知らず、事件の話もしらない
自己評価では「世間ずれしている」状態のはずなのに、
特に困ったことが起こらなかったことに
端を発しています。

本当に大事な出来事と、そうでない出来事が
いつも幕の内弁当のようにバランスよく用意される朝晩のニュースを、
社会人になったらちゃんと見ないといけない、と
よく思っていました。

しかしニュースの中には
殺人事件とかが大きく取り上げられるわけで、
その事件は局所的に起こった「ある話」であって、
国家政策のような「自分に関係のある話」ではないのです。

政治に不満があれば、
毎日憤懣やるかたない思いを抱いて生活するよりも
数年に一度の選挙で
地元の代表者を良く調べて選びなおすほうが大事だし、

酒税のバランスが変わって困ったことになったら
安い酒を買うようにしてしまえば良いし、

フランスの核実験に文句をつけたかったら
輸入商品を買わないようにするか
新聞社に投書を殺到させれば良いし、

どこかの殺人事件が起こったら、
自分には気のおけない友人がいてくれて
よかったと感謝すればそれで十分だ、と
最近思っています。

ニュースは世界の「ある情報」を提供しますが、
「それを聞いたら行動に反映できる」とは限らないのです。
そして何かをしなければならないと思っているのに
自分には何もできないという無力感を蓄積する必要は
特にないんじゃないかと最近考えています。

人は自分にできることしか実体化できず、
どんなに頑張っても自分の一歩先までしか
行動を拡張できません。

日本が揺れていて、エネルギーがあったと評されている
安保闘争の1970年でさえ、
大局的に見れば
都市に住む一部の若者が蜂起した話です。

徒党を組まなければ行動ではない、
もしそんな意識があったとしたら、
いつまでたっても人は集まらないような気がします。

最近の人には団結力がないと評されたとして、
それが本当であったとしても、
個人ができることを選択して行動すれば、
その結果は勝手に積分されて民意になっていくのです。

人間は世界のサイズに比べれば小さいので、
一人で世界の全てを知ることも、
世界の全てを救うこともできません。

地球の裏側の事件にまで神経を張り巡らせようとして
毎日心を痛め続けることも大切かもしれませんが、
目の前に流れている一つの曲を聴きながら
自分の思い出をそっと取り出してみることも
同じくらい大切なことだと今は思っています。

世紀末思想では
自分は明日にも死んでしまうのではないか、と
毎日思いながら本気で心配を募らせた時期もありました。
今でも明日はないかもしれない、と思い、
同時に明日はあるのかもしれない、とも思っています。

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