火曜日, 10月 30, 2007

見方の違い

宗教の概念があるから人がまとまるのではないのです。
人はまとまろうとするようにできているから宗教ができたのです。

同様に、宗教の概念があるから人が争うのではないのです。
人は争うようにできているから宗教の概念は対立するのです。

まとまろうとする働きも、争おうとする働きも
もう再現性のある科学の言葉で説明可能です。
それはこのわずか数十年の間に起こっていて、
ほとんど全ての「過去の推測」は棄却されてしまうほどです。

人は絶えずどこかでまとまろうとしていて、
そして人は絶えずどこかで分裂しようとしています。

だから
「すべての人がこれら全ての情報を知れば幸せになる」と
考えを結んでしまうのは性急です。
情報は正しい組み合わせで提供されなければならず、
そして情報を覚えておく力には個人差があります。

「お念仏」は、
「あまりに難しい経典を知らなければ幸せになれない」のでは
「不平等だ」と思う気持ちが作らせたひとつの技術です。
繰り返すリズムは確かに人を安心させるのです。

敬虔的感覚と科学的感覚は
等しい重さで持たなければならないのではないか、と
最近考えています。
どちらかが重すぎる場合、何らかのバランスが狂います。

もし民がたくさんの科学知識を持たなければならないとしたら、
そのときこそより強力な敬虔に対する感覚が必要です。

敬虔的感覚と科学的感覚は
どうやらシンクロトロンの集束電磁石に似ています。

集束電磁石には2種類あり、
片方は水平方向の集束で垂直方向は発散する磁石で
もう一方は垂直方向の集束で水平方向は発散する磁石です。

どちらか一方ではビームを絞ることができないのですが、
両方を組み合わせるとなぜか水平方向も垂直方向も絞れます。

なぜ科学と宗教があるのか、というのは
論理的な半分の脳と感覚的なもう半分の脳が作り出した
二つの見方、
意識と無意識の両方だといわれれば説明がつくのかもしれません。

しかしたとえどんなに「説明」がついたとしても、
「この世界はなぜできて、どうしてわたしはここにあるのか」を
説明したことにはなりません。
それだけが、この世界のただ一点の不思議として
昔も今も、そしてこれからも
全く変わらず存在し続けます。

木曜日, 10月 25, 2007

風と炎

風はそれ自体は燃えません。

でも風がないと薪は燃えないのです。

水曜日, 10月 24, 2007

盾と専守防衛

盾を持つのだと言います。
それは守るためなのだと言います。
しかし盾は無害ではありません。
盾があれば矛が傷つき砕かれるのです。

攻めるにしても守るにしても、
兵は「傷つく」ことを前提とした任務です。

ドイツの宗教心が保たれている理由は、
兵役の体験によって
「人は争いを起こさないためにどこかが力の保持を行う」必要を
民が認識するからであるように思います。

わたしはその理由を
「強い軍隊が必要である」や「兵役が必要である」
という肯定的理由として使いません。
しかし、人は見たことのないものや経験したことのないものを
決して肌身の感覚としては理解できないのです。

進化には何億年もかかるのです。
人間はまだせいぜい登場から数万年ではないかと言われています。
それはきっと気の遠くなるような話です。

土曜日, 10月 20, 2007

ショート・レポート

時折カップめんを買うと
ノンフライであるかどうかを気にします。
麺がおいしいのです。

「人は見たいものが見える」と言った人がいて、
「人間は都合のよいことだけを知りたがる」と言った人がいて、
そこから分かることは
「人はこの世界をどう扱ったらいいかは分からない」ということです。

先日雁の群れをみました。
魔女の宅急便みたいに、ほんとに逆V字を描いて飛び、
しばらくすると先頭が入れ替わるようすが観察できました。

魚の群れは「全体を知って」動いているのではなく、
「自分の近傍」に対する振る舞いだけが決まっていて、
それだけで群れで泳ぐ性質が保たれます。

遠隔相互作用の例は電磁力で、
近接相互作用の例は核力です。

人間にはひとつの脳幹とふたつの大脳があり、
ひとが「世界はひとつ」とか「二つの相補性」とか言いたがるのは
そのせいであるような気がします。
脳が二つのパーツで構成されている限り、
世界の争い、つまり自身の葛藤は続くのかもしれません。

木曜日, 10月 18, 2007

虚業の診断と治療法の開発

普段「すき屋」に行くことが多く、
夜中3時にめずらしく吉野家に行きました。
激しいコスト競争は一段落したのか、
夜中は牛丼を売らず代わりにすこし割高な牛焼肉丼を売っていました。
味が気に入ったのでしばらく通うかもしれません。

「内科学」はからだの内側の状態を外側からの観察と
なんらかの低侵襲サンプル採取によって診断を行います。
名医がその経験から苦痛なく診断を下せるように、
この国のシステムも名医を選んで低侵襲の診断を行えればと思います。

やぶ医者が診断を行います。

経済変動が大きい世界というのは通貨の保持と放出の量が異常であって、
言うなれば多血症と循環不良です。
通貨を何にたとえるかはいろいろなのですが、
よく血液にたとえられます。
血液の一部、栄養素が多すぎるとシステムは蓄積をはじめ、
人であれば血液そのものではなく脂肪を蓄積しますが、
通貨自体は何らかの要素に変換しなくても蓄積できます。
そして金本位制から離れた通貨は純粋概念に近い存在で、
その全量はもはや計算機上の数字として保持されるのみです。

虚業は経済のバッファ=緩衝材として機能するものであって、
それはあるサイズと能力を維持する限りにおいて、
経済全体というシステム保持の上で必要な機能です。

虚業が通貨を流通させないというのを何にたとえるかは診断が難しく
人で言えばメタボリックな状態か血腫ができた状態かがん化した状態の
いずれかに相当すると考えられます。

イメージとして持たされているのはがん化した状態で、
とにかくそれを消してしまわないと良くならないという向きがあり、
しかしその機能の必要性からがんと共存するわけではないと考えます。

いくら体に脂質のエネルギー源がついていたとしても、
いきなり食べるのを止めてしまうと生きられなくなってしまいます。
ダイエット中に食べたい誘惑が生じるように、
虚業の縮小化には「それに抗うような」誘惑、
贅沢や蓄財や快楽の誘いが出ることになるところも同じです。

ダイエットには二つの段階があって、
まず体重は変化せず脂質が筋肉質に置き換わり、
次に消費能力の高い筋肉質のスリム化が生じます。

消費能力の高い筋肉質に相当するのは
おそらく「人的財産」の活用、つまり物質生産を伴わない
サービスによる個人への直接的還元と、
「知的財産」の生産、つまり人的資源を多く必要とし、
かつ生産の量ではなく質を高めることによる
個人への直接還元が考えられます。
もちろん、それを支える骨格である一次産業の生産と地産地消、
知的財産を展開する二次産業の生産もある割合で必要です。

もし血腫だと診断された場合、治療法は複数あって、
蓋をして上手に焼き切るか、
一度体外に血液を移し総量を減らしてから
血腫を縮小させて戻すことになります。

見立ては焼き切った場合に失う血の量が多くて危険だ、という診断があり、
しかし瀉血は貧血になるという心配があり、
腫れ物のように慎重に扱われる傾向にあります。
この時血腫は蓋をして少しずつサイズを小さくし、
成分をバイパスして肉体に戻す必要があります。

おそらく虚業の人は「血腫」と見立てを欲しがり、
慎重な治療をするよう望むのかもしれませんが、
実施に当たっては「メタボ」と見立てておく方がよいように思います。
クランケが欲しがる見立てをあてても構わないのですが、
それではシステムが停止してしまい
元も子もなくなってしまいます。

火曜日, 10月 16, 2007

知識は無料か有料か

人によって「心地よい」と思う音があるとすれば、
話よりも声が重要である場面があります。
声はその人の「言葉」から切り離せないものであって、
鳥が歌を歌うように人は歌を歌うものかもしれません。

「知識」は授かりものであるから、惜しまず与えよ、という人がいて、
「知識」は人類の労苦の結果だから対価を払って当然、という人がいます。
これについていまひとつ結論が出ず、いろいろと考えています。

「知識」はそれがある精度を持っていれば力になりえます。
歴史自体にもしはないのですが、
もし大航海時代の前に何らかの海路図があれば事故は減っていたし、
もし百年戦争の前に電子通信があったら
百年もかからずに通信を持っていた側の国が圧倒的勝利をもたらしたでしょう。

「物理的な力」に「価値」を見出すのはおそらく必要なことで、
それはこの世界がものでできていることに起因します。
一方で「知識」はいつも「諸刃の剣」であり続けました。
それが誰の手に渡され、どんな目的に使われるかが問題になります。

「正直」な人が「秘密」を保持しうるのか、
これは哲学の人が考えている命題です。
「聞かれたことに正しく答えること」をもって「正直」を定義するなら
「話さない」ということは正直ではありません。
これは「誠実」とは違うという意見が多分あり、
しかしそれなら
「何に基づいて話さないことを決定するか」を定めなければなりません。

盲導犬の試験で重要なものに「賢い不服従」というものがあり、
これは危険の迫る横断歩道へ主がゴーサインを出しても
盲導犬自身がその「言葉の命」に背くことを例として出されます。

この「直接的な命令への不服従」の論拠は短期的発想、
つまり「主に従うこと」が最重要である場合には成り立たず、
主という存在に対する長期的発想、つまり
「主を生かすこと」が最重要である場合にのみ成り立ちます。

個人を生かすということと社会を生かすということは
必ずしも一致しない場合があります。
個人すべてを生かせば社会を生かすことになるのですが、
社会システムを維持するためには
個人すべてを生かすようにデザインできません。

社会を生かすようなデザインは「最大公約数」であるべきで、
たとえばダムの建設などがその例で、
古い町並みを水の底に沈めるのだから、
それによって救われない人の悲しみを生みます。
しかしダムが必要なのは「それだけ人が増えすぎた」からであって、
増えたこと自体に問題があるのであれば
それは「増えた人間」を構成する人間すべてに問題の一端があります。

知識は循環をもたらすようにデザインする力として使われれば
よい効果として認められるのだろうか、とふと思います。
それは太陽の風によって飛ばされることなく、
月の引力によって奪われることのない、
地球の重力に抱きとめられた存在が繰り返し続けてきた
なんらかの循環の歴史をたどることでもあるように思います。

月曜日, 10月 15, 2007

ハンマー

同じ釘を打つある道具を見て「かなづち」と「ハンマー」と呼べば
これは同じ意味になり、
そのことば同士の「同じ」の保証は「同じ道具の存在」によって成り立っています。
ところが「かなづち」は「泳げない人」の比喩で使われ、
それでハンマーとかなづちは違う意味範囲を指すことになります。

「ハンマーで叩きたい」という台詞をよく覚えていて、
ブルーハーツの「ハンマー」という歌を最近知り、
こういう気分なのだろうか、とふと思いました。
元気にしてるだろうか、とふと思いましたが、
なにを「元気」と呼ぶの?と質問がやってきそうで、
それで「気にかけている」に相当する表現だけを表す言葉があれば
どんなに救われるだろう、と考えたりしました。

平井堅の「きみはともだち」のプロモーションビデオを見て、
まったく予想しない結末にふいに涙が落ちました。
天から伸びたその逆らえない「大きな手」は
破壊と再生の象徴のようでした。

ハンマーが「いたるところで」振り下ろされるのだ、と言います。
しかしわたしには「壊していく」ことしかできないようにも思います。
わたしが「大きな手」に導かれて何かを壊した後、その「大きな手」は
ちゃんと面倒を見てもう一度何かを作ってくれるのでしょうか。

金曜日, 10月 12, 2007

刺激の足りない都会

「お金と時間のかかっているものがよいもの」という表現があって、
これは複雑な装置であればとても正確な表現である場合があり、
これを食べ物に応用していくと
保存食や手の込んだ料理が「よいもの」の傾向を受けることになります。

一方で「新しいものほどよい」という表現もあって、
これを食べ物に応用していくと
生に非常に近いものが「よいもの」の傾向を受けることになります。

物質に対する「古い」「新しい」の概念と、
知識に対する「古い」「新しい」の概念は本来まったく異なるものです。
物質に対して「古い」のことばはある状態の成立から「変化して」
時間を経ると劣化する、という意味を持ち、
知識に対する「古い」のことばはその知識自体は「変化せず」、
変わってしまった世界に対して通用しなくなった、という意味を持ちます。

物理学のひとつの特徴は、
新しい理論がこれまで通用してきた理論を矛盾なく内包し、
かつこれまでの理論では説明できない現象を同じ視点から論じられること、
つまりその「普遍性」を最も重要な拠りどころとしている点です。

物理学は「この理論は正しい」と言っているわけではないのですが、
「再現する」という「時間に拠らないもの」をもって「確からしい」を積み重ねていきます。
そして「確からしい」の精度は際立っていて、
10桁以上の精度を持つ測定結果が得られるものまであって、
これを「正しいかもしれない」と呼ぶのは適当ではありません。

新しい理論の登場によってこれまでの法則が捨てられるかというとほとんどそうではなく、
実用的な範囲では言うなれば「古い」近似値の方がはるかに計算しやすいことがあり、
また精度も問題のない場合が多く、そのまま使われるものがほとんどです。
たとえば量子論と相対論が明らかになり、時空のゆがみが生じる、といくら言っても、
F1のエンジンと筐体の設計で相対論が必要になることなど全くなく、
それらはすべて「古典力学」の範囲で間に合います。

つまり「古い」知識はその普遍性が「新しいものの内包」によって保証されているために
「役に立たない」とは異質のものであることが分かります。

人がたくさん集まって分散型機能体となったものを都市と呼びます。
コンクリートの堅牢さは石にはかないません。
建物を石で作るのとコンクリートで作るのは意味が異なります。

都会人は刺激と欲望が好きだ、なんていう言葉がありますが、
わたしは都会には「刺激」があまりにも少ないから求めているような気がします。
そして都会の刺激とはほとんど「人の活動」のことであり、
だから「都会の孤独」はどこよりも孤独なのです。

水曜日, 10月 10, 2007

すべり台を怖がってはいけない

構成員の性質が非常に異なる集団があって、
その集団にはひとつの名前がついている場合、
わたしたちはこれを大きい分散と呼びます。
この場合、「アメリカは」とか「ヨーロッパは」という表現から始まる説明は
文書上限りなく無効に近いことになります。

わたしたちが望むと望まざるとに関わらず、
「性質の似た、似たような容姿と服装と言語をもつあつまり」があり、
環境が人間の生活様式を多様化させてしまうので、
「国境」はなくても「国」の概念は存在します。

「国=くに」が必要なくなったとしても、
今のところ人間という種は単細胞生物のように
単一と環境の組み合わせで生きることができず、
集団で生きるような能力と結果が淘汰の結果生じました。
人間に「何らかのまとまりが必要である」のは意識の分裂が理由ではなく、
ただ人間が単細胞生物ではないという理由から生じるものです。

昨日生物学者と話をしていて、
人間にはたとえそれが仮にでも目に見える方向や指針が必要であって、
たとえば敬虔の表現を偶像と動物と人間と文書から選ぶなら
一体どれが一番ましなのだろうかというような話題を出してみました。

どれもこれも欠点はあるのはよく分かっていて、
偶像なら破壊や劣化や宝物化などが問題になり、
動物なら穢れや生態系のアンバランスが問題になり、
人間ならその代の継承や悪意性の排除機構が問題になり、
文書なら理解の程度や誤訳や時代背景の喪失などが問題になります。

導くもの達の一部は、必ず形に限界があるを知りながら、
それでも「知覚可能な方向」を表すために偶像を作るひとと、
その作られた偶像によって「それに無上の価値を感じる錯覚」を引き起こす人が
この世界には同時に現れます。

知覚可能で強力な方法がなければ人は決して纏まることができず、
しかしその方法自体が時間が経つと今度は人を振り回してしまいます。

わたしは特に数学のエッセンスを聞いたことのない人が、
仏教の言う「カミハデタラメデアル」という台詞を誤用することをとても心配します。
でたらめとは「まったく何の相関もない」のではなく、
確率統計のように「集団の性質を規定する法則は厳密に存在するが、
個別の現象に対して、特に連続性に対しては無相関な抽出結果を持つ」
という理解がなされないまま、
そして法則を少しでも明らかにする明確なひとつの方法は
「数多く試してみる」であることも理解されるはずであるのに、

「分からないからどうしようもない」と簡単に思考放棄してしまうことが多いからです。

しかしだったらなぜこの世界には「揺らぎ」や「広がり」などという
妙なものが存在するのか、とそれでもわたしは思います。
「人格神がいる証明はできない」というのはアインシュタインの台詞ですが、
この世界が「人格」を持つかどうかは分からなくても
人間は「人格」以上の知性を一切思いつくことができません。

この世界の「なにか」を擬人化してしまうのは
もし人間がその存在に価値を置くならば不可避に起こる現象で、
そしてアインシュタインが「神はさいころを振らない」、つまり
量子論の説明に最後まで「信じない」を貫いたのは、
彼がそれを理解できなかったからではなく、
「この世界の最後がでたらめであるという結論などあってはならない」という
信念がそうさせたのだと思っています。

わたしには思考を放棄することはできません。
できることは生ある限り「分からない」を「分かる」に変えていくことだけです。

金曜日, 10月 05, 2007

ブラインドタッチで作文は作れない

先日、意識的には何の脈絡も何の悲観もなく
ふと遺書を書いておいたら安心するだろうか、と思いました。
もちろん書いたからといって文字としてはありふれていて、
それが本人のもとへ届くかは分かりませんが、
すくなくともそのありふれた言葉は自分が選んだものであることと、
「言い足りなかった」とは思わずに済むことがよいところです。

それはある「おわりのしるし」だったのかもしれず、
不思議な気持ちがしています。

たとえ手書きであっても構成に悩むように、
報告書でも作成するような速さで文書は書くことができません。
もしかしたら作れる人はいるのかもしれませんが、
自分にとって真に新しいことである場合は
大抵その表現に迷うものです。
アメリカやヨーロッパで計算機を人差し指だけで打つ人がいて、
しかしその人たちのほうが真に新しいアイデアを持っていたりして、
社会の急激な変革とも言うべき大変化や大発見が
なぜその当事者にとって歩くような速度でのみ綴られるのか、
その不思議について考えています。

水曜日, 10月 03, 2007

刹那と歌は相容れる存在か

ブログで日記を書くもともとのきっかけは
家にIBMのパソコンが来たときにメモ帳で日記を書き始めたのが最初で、
手書きの文字が感情移入しやすいのに比べて
キーボードで綴る文字はやや他人行儀な感じがして、
それが言いたいことの近くまで至れる理由かもしれません。


求めていると与えられるのだという人がいますが、
正確には求めたからといって与えられるとは限らず、
求めなくても与えられることはあり、
求めなくて与えられないこともあるのですが、
与えられたものをすぐ役立つ状態に出来る条件は
求めていて与えられた場合だけです。

わたしにないものをもつ、それが分野の遠い人であるほど
それは実り多いものになります。


この世界は時間と空間で成り立っているといい、
しかし物理の解釈では時間がなくても空間があるということはなく、
時間の消失は空間の消失を招きます。


私たちは東に行くか、その反対の西に行くかを
決めることができ、それは「選択の任意性がある」という意味で
これをパラメータと呼びます。
わたしたちは未来=時間の東と過去=時間の西を行き来できないので
時間はパラメータではありません。

現代のわたしたちは多少の不便さはあっても、
東に行くことと西にいくことは同じ意味だと思っていますが、
地球が丸いということが分からなかった時代には
東の果てや北の果てに地球の端や異次元があると思われていて、
東と西に異なった印象を持っていたことになります。

そしてわたしたちは望むと望まざるとに関わらず、
時間と呼ぶものの流れを止めることも進めることもできません。
ある瞬間だけを切り抜いて「それが世界の全て」というとき、
世界中のあらゆる物とその状態を含めることができ、
しかし定義した「世界の全て」に「歌」の存在を含めることはできず、
文字通りの「世界の全て」にはなりません。

わたしたちは歌を「くりかえし」歌うといい、
それは確かに「同じ歌」だと認識する、
宇宙の始まりには何らの分離もなかった世界は、
十分大きくなり十分に冷えて、
そして「光の速さ」が宇宙始まって以来一度も変わったことがないように、
わたしたちは「変わらないもの」をいくつか知っています。
そして変わらないものを認識するもっとも身近な手段が
わたしたちが「歌」と呼ぶ存在だったのかもしれません。