刺激の足りない都会
「お金と時間のかかっているものがよいもの」という表現があって、
これは複雑な装置であればとても正確な表現である場合があり、
これを食べ物に応用していくと
保存食や手の込んだ料理が「よいもの」の傾向を受けることになります。
一方で「新しいものほどよい」という表現もあって、
これを食べ物に応用していくと
生に非常に近いものが「よいもの」の傾向を受けることになります。
物質に対する「古い」「新しい」の概念と、
知識に対する「古い」「新しい」の概念は本来まったく異なるものです。
物質に対して「古い」のことばはある状態の成立から「変化して」
時間を経ると劣化する、という意味を持ち、
知識に対する「古い」のことばはその知識自体は「変化せず」、
変わってしまった世界に対して通用しなくなった、という意味を持ちます。
物理学のひとつの特徴は、
新しい理論がこれまで通用してきた理論を矛盾なく内包し、
かつこれまでの理論では説明できない現象を同じ視点から論じられること、
つまりその「普遍性」を最も重要な拠りどころとしている点です。
物理学は「この理論は正しい」と言っているわけではないのですが、
「再現する」という「時間に拠らないもの」をもって「確からしい」を積み重ねていきます。
そして「確からしい」の精度は際立っていて、
10桁以上の精度を持つ測定結果が得られるものまであって、
これを「正しいかもしれない」と呼ぶのは適当ではありません。
新しい理論の登場によってこれまでの法則が捨てられるかというとほとんどそうではなく、
実用的な範囲では言うなれば「古い」近似値の方がはるかに計算しやすいことがあり、
また精度も問題のない場合が多く、そのまま使われるものがほとんどです。
たとえば量子論と相対論が明らかになり、時空のゆがみが生じる、といくら言っても、
F1のエンジンと筐体の設計で相対論が必要になることなど全くなく、
それらはすべて「古典力学」の範囲で間に合います。
つまり「古い」知識はその普遍性が「新しいものの内包」によって保証されているために
「役に立たない」とは異質のものであることが分かります。
人がたくさん集まって分散型機能体となったものを都市と呼びます。
コンクリートの堅牢さは石にはかないません。
建物を石で作るのとコンクリートで作るのは意味が異なります。
都会人は刺激と欲望が好きだ、なんていう言葉がありますが、
わたしは都会には「刺激」があまりにも少ないから求めているような気がします。
そして都会の刺激とはほとんど「人の活動」のことであり、
だから「都会の孤独」はどこよりも孤独なのです。
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