水曜日, 10月 03, 2007

刹那と歌は相容れる存在か

ブログで日記を書くもともとのきっかけは
家にIBMのパソコンが来たときにメモ帳で日記を書き始めたのが最初で、
手書きの文字が感情移入しやすいのに比べて
キーボードで綴る文字はやや他人行儀な感じがして、
それが言いたいことの近くまで至れる理由かもしれません。


求めていると与えられるのだという人がいますが、
正確には求めたからといって与えられるとは限らず、
求めなくても与えられることはあり、
求めなくて与えられないこともあるのですが、
与えられたものをすぐ役立つ状態に出来る条件は
求めていて与えられた場合だけです。

わたしにないものをもつ、それが分野の遠い人であるほど
それは実り多いものになります。


この世界は時間と空間で成り立っているといい、
しかし物理の解釈では時間がなくても空間があるということはなく、
時間の消失は空間の消失を招きます。


私たちは東に行くか、その反対の西に行くかを
決めることができ、それは「選択の任意性がある」という意味で
これをパラメータと呼びます。
わたしたちは未来=時間の東と過去=時間の西を行き来できないので
時間はパラメータではありません。

現代のわたしたちは多少の不便さはあっても、
東に行くことと西にいくことは同じ意味だと思っていますが、
地球が丸いということが分からなかった時代には
東の果てや北の果てに地球の端や異次元があると思われていて、
東と西に異なった印象を持っていたことになります。

そしてわたしたちは望むと望まざるとに関わらず、
時間と呼ぶものの流れを止めることも進めることもできません。
ある瞬間だけを切り抜いて「それが世界の全て」というとき、
世界中のあらゆる物とその状態を含めることができ、
しかし定義した「世界の全て」に「歌」の存在を含めることはできず、
文字通りの「世界の全て」にはなりません。

わたしたちは歌を「くりかえし」歌うといい、
それは確かに「同じ歌」だと認識する、
宇宙の始まりには何らの分離もなかった世界は、
十分大きくなり十分に冷えて、
そして「光の速さ」が宇宙始まって以来一度も変わったことがないように、
わたしたちは「変わらないもの」をいくつか知っています。
そして変わらないものを認識するもっとも身近な手段が
わたしたちが「歌」と呼ぶ存在だったのかもしれません。

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