月曜日, 8月 25, 2008

5行日記

ありもしないもしもの話
もし私欲に駆られた人間の悼辞を頼まれたら
ありもしないほど精一杯の美事で飾ろう
最後まで真実に近づけないことが
物理学者の、あるいは人間の名誉に対する最大の恥であろうから

土曜日, 8月 09, 2008

立秋

大きな一人がけのソファーを買ってきました。

「暑い時期」のピークは8月だという印象があって、
しかしそれは平均気温の話で、
瞬間的に暑いのは7月だと思っています。

もし日本に梅雨がなかったら
日本人の心はずいぶん変わるだろうなという気がしています。
6月に晴れていれば気持ちのよい温度になるのは
9月に晴れている時期を思い浮かべれば想像がつきます。

8月に入って最初に感じたのは
朝の日の出が遅く、日差しが柔らかくなったことでした。
日照時間のピークが6月末、梅雨の時期にあるので
「日が長くなっていること」を感じるのが難しくなります。

「感情と看護」という本を読んでいます。

「心を支える者に必要なことは、何かを『与える』ことではなく、
支えられる者が向ける愛と憎しみの直接的な対象となり、
それでもなお生き続けること」という内容のくだりがありました。
そして心を支えるものは「共感」の感情を積極的に使うため
支える者自身が時折第三者に感情をチェックしてもらう必要があるのだと
書いてありました。

現象は常に理論に先立ちます:
「理論」は「現象」の観察から生まれるからです。
たとえ太陽の動きを調べる物理であったとしても、
理論で再現するためには「現象を測定する」必要があります。

人間は現象の発生する前に正しさを知ることができないから
ひとの「過ち」はこの時空の中では永遠に続きます。
ある時空は時間の軸が戻れるはずで、
その世界では「過ち」を定義することはありません。

今日は花火を見に行きます。

月曜日, 5月 12, 2008

使い古された問い

引っ越しして一か月が経ちました。

「人はなぜ老いるのか」を考えています。
それが生物的運命であるとか、DNAのテロメアが短くなるとか
そういうことではなく、
人は意識をそれぞれの体に固有に持たされているにも関わらず
なぜ老い病む苦しみを与えられなければならないのか、という問いです。

この世界は神の実験場でしかないとしたら
神とはずいぶん無慈悲な存在です。
ここで神を擬人化した表現を用いましたが、
人間は人間を超える知性について窺い知ることができないために
最上位の表現は人の行動になぞらえることになります。

証明していないものを信じることができないのが科学者の立場であれば、
実は自分の意識以外の「意識」が実在することを
直接的に証明する手段は現在までありません。
私が他人を「記憶と演算が可能な生物」とみなし、
そこに意識の仮定を置かないことも十分通用します。
これを「唯識」とか「クオリア」とか呼んだりしています。

「老人精神学」という本を取り寄せて読んでいます。
老人が「頑固になる」というのは世界的に共通な性質であるようで、
それには複数の理由が存在しますが、
外界からの刺激が脳に伝わりにくくなり、
代わりに自らの経験が刺激を補完するようになることで
本人は「正当に評価している」つもりであっても
外界への考慮がなされにくくなるのだ、と解説は続きます。

自らが愚かになっていく、ということを
自らわからなくなる日がくる、ということは
"無知は幸福なり"と直結すべきなのかどうか
わたしには判断ができません。

だからわたしはこう言い換えておきたいのです:
老人は自ら愚かになっていくのではなく、
神が人をわざわざ愚かにしていくのだろう、と。

老いの感覚は急激にやってくるものだ、と
さまざまな実験結果は伝えています。
人は人生のピークというものをどこかに持ち、
それが肉体的に成熟しているその時であるならば、
それを失うことは「奪われる」に等しい感覚です。

自らを飾るために必要であった色鮮やかな服が必要なくなり、
自らを支えるために必要であったたくさんの食物も必要なくなり、
世界の舞台には自らの居場所が減っていき、
そしてそれらは決して戻ることがなく、
そんな中で人はこの世界にどんな感情を持ちうるのだろう、と
考える日が続いています。

日本が悩みの最中にあるのは、
おそらく悩みの中にある人が多いせいで、
時のムードとはその時の人間の年齢の平均値で
ある程度決まったパターンがあるのではないかと思っています。

死は存在しない―それはこの世界が一体であるからですが、
しかし「意識」は生命に固有なのか、それとも人間に固有なのか、
または意識は非生物に固有なのか、と問われて、
しかし人間の意識はまさに「起きている時」にしか認識されず、
それゆえ永遠に眠る死は二度と意識が復活しないだろうという
予想をしてしまいます。

おそらく、かつても飽和した社会システムの中で
道徳性や友愛を振り棄てた時期が多数存在し、
そのたびに「改革」という名の断絶が発生してきました。
歴史が繰り返すのは、どんな社会システムを作ったところで
人が老い病むことが全く変化していないせいだ、とも言えます。

火曜日, 4月 22, 2008

逆説

芸術はたしかに生命生存の条件としては基本的レベルの社会の役に立たない―
しかし芸術がなければ極端に高度化・分化した社会を維持することができない。


芸術は分化した社会を維持するものであるが、

そのとき社会生命の存続条件を引き換えにし、

芸術の浸透により脆弱な社会へと変容する。

水曜日, 4月 16, 2008

上り坂と下り坂

赤城の山のそばは年中風が強くて、
風が好きなわたしは気に入っています。

人はどこかで下り坂に向かう、と
なぜか下り坂の心理を考えるようになりました。
人の脳は入力不足な状態で、
正常でありさえすれば年月がたつほど経験を増していくものです。
しかし肉体的限界は常に存在し、
人の機能は常に肉体的状態に依存するため、
人は得たものを少しずつ手放さなければならなくなります。

仕事がとても好きだった者が仕事を手放すというのは
子供が気に入ったおもちゃを捨てるのをかたくなに拒むようなもので、
人は目の前に生じ自らに起こる現象に対して
無条件で受け入れることがとても難しい生き物です。

果たして私はもし何かを得ていくとしたら、
得た後でそれをちゃんと後の世の誰かに譲ることができるだろうか、
その心構えはいつすべきだろうかと考えるようになりました。

社会的役割のピークと肉体のピークは必ずしも一致しない、
下り坂に向かう者にとって
過去に得たものや築いたものは後の世がそれを追い越してしまい、
神は「与える者」より「奪う者」に見えるとしたら、
それでもこの世界に生きるたよりをどうやって持てばいいのだろうと
ふと思います。

金曜日, 3月 21, 2008

日本化する世界

カフェインレスのコーヒーが好みです。
外でコーヒーを飲むときには、
しかしデカフェが日本には少ないです。

人口密度が高く、ゼロサムが長く続いたのが
日本の江戸時代です。
人々は物質的消費を可能な限り減らし、
どうすればそれなりの生活が営めるかを
何代にもわたって試行錯誤してきました。

同じころの世界は産業革命があり、
大航海時代があり、植民地政策へとつながります。
彼らは常に国土の外へと解決策を求めてきました。

ゼロサム・ゲームは実は不自由なゲームです。
どこかを増せばどこかが減るというシステムは、
その「どこか」に関わって仕事をする人が増えれば増えるほど、
減らされることに対して抵抗を試みる人が増えます。

世界中の経済学者が、そして経営者が、
ひたすら成長を謳わなければならないのは、
ゼロサム・ゲームでは
「スコープ内にあるすべての人の欲求を単純に満たせない」ことに
気が付いているからです。

世界中が、「外の国」に解決策を求め続け、
しかし世界中で人が増えてしまったため、
地球の外にでも出ない限りゼロサム・ゲームが続きます。

日本人は勤勉である、ということは
本来は日本の国土にあっていない思想ではないか、と
最近思います。
国土が狭いということは、労働を懸命にすれば
供給はあっという間に過剰になってしまい、
供給製品の値下がりが急激に生じるために
絶え間なく購買意欲を刺激しなければならなくなります。

もう一つの問題は、
都市における商品の製造は
主として人的エネルギーのみで律速されるため、
野菜などのように「最低この時間が必要である」というような
自然界がもつリズムの力が及ばない世界になっています。

そこで江戸時代の石田梅岩はどうしたかというと、
「細部にこだわった商品」を生産することを奨励しました。
そうすれば物質的資源の浪費を抑えることができ、
かつ民に仕事を与え続けられる、と考えたからです。

これが中国では、「太極拳」や「論語の暗記」などの
「まったく物質を必要としない活動の奨励」へとつながったりします。

日本が世界の理論を取り入れようと躍起になるのは、
やはり「ゼロサム」状態にある現状を少しでも打破したい、
あるいはその現実から目を逸らしたいせいで、
しかし日本人が「ゼロサムをどうやりくりしてきたか」については
ほとんどその知識を持たないようにも思います。

現在の日本人は、「飽和した過去の日本社会」を
世界に発信する役割を担う必要があるのではないか、と思います。
たとえそれが完全な解決策ではなくても、
技術が発展した現代であればよりよい施策に繋がるはずです。

ゼロサム・ゲームを回避するために最初に必要なことは、
可能な限り「人と同じことをよしとしないこと」にあります。
大衆の流れが画一化すればするほど、
会社は巨大な製造ラインのスクラップ&ビルドを繰り返さなければならず、
これが経済そのものを不安定にします。

ゼロサム・ゲームを回避するために次に必要なことは、
「新しいことや知識に価値を与える」ことです。
これは「知識を与えてくれる機械」に価値を与えることではありません:
もしそうであれば、機械が人間の仕事を奪うばかりになってしまうからです。
たとえば美術館の説明員のような役割の人をもっと事業推進すれば、
人々は知識の習得を喜んで行うことになります。

ゼロサム・ゲームを回避するためにさらに必要なことは、
「ある種の肉体的労働には大きな価値を与える」ことです。
福沢諭吉の「学問のすすめ」のなかに、
「心労の多い仕事は尊い」というくだりがあって、
これは確かにそうなのかもしれない、と思うのですが、
この傾向があまりにも顕著になると
「みんなプランを立てるのだが実行部隊がいない」という事態になります。

たびたび猫が襲ってくるのに困ったネズミたちが、
いい方法はないかと案を巡らせ、
「来たらわかるように鈴をつけたらいい」と提案し、
みんなが納得するのですが、
では「誰が鈴をつけるのか」という相談で
みんなが黙ってしまいます。

楽して経営者になりたい人は、大抵この部分をごまかします:
立場の弱いものに鈴をつけさせに行って、
しかし鈴をつけた功績は取り上げてしまうのです。

立場の弱い者がすべきことは、「仕方なく働く」ことでも、
「武力に訴える」lことでもありません:
「成長させてはならない事業」へ労働力を注ぐのをやめ、
空いた時間で「仕えるべき価値を持つ経営者」を懸命に探すことが必要です。
「働いていればそのうちいいことがある」は決して正しくありません。
労働を断つことで、経営者は経営が危機に立たされ、
「仕えるに足る経営者にならなければならない」との認識を持ちます。

重要な労働に対して高い評価を与えることで、
知識編重で実行のバランスを欠いた社会の形成を防ぐことができます。

競争や共食いで生きていければいい人はそうすればいいのです:
しかし協調して生きていきたいと望む者ほど、個人の力に頼るのではなく
共感する相手を懸命に探さなければなりません。
数はある種の力です:
「サムライ発想」のように、徒党を組むことは絶対悪だと短絡してはいけません。
その力は「あるべきもののため」に、集められなければならないのです。

火曜日, 3月 11, 2008

物語における真実について

引越しの準備を始めました。

物理における「確立しうる真実性」とは
再現可能な実験に支えられた数学的法則性とでも呼ぶもので、
しかしながら数学的法則性はトートロジーで定義された
基本的諸法則の組が無矛盾であることを基礎としており、
この世界の「現象」という真実と、
そこから演繹で導かれる真実とが混在します。

物語の世界を文字ではなく映画という映像で描けるのか、という疑問があり、
わたしはこれが「不可能である」という考えがあります。

人の心は「言葉」の連想でできているといいます:
映像は時間の一定の流れに縛られてしまいます。
文字で「5万年」と書くことを映像化しようとすると、
映像ではその重みを表現できません。

「世界の定義」を「真実性に基づく」から「無矛盾である」に切り替えると、
「物語の世界」は「矛盾なく作られていればいい」ということになります。

わたしたちは現象という真実の大きさに
しばしば立ちすくみます。
それは現象に対する「わたし」の小ささを省みることでもあります。

「分からないまま」の世界はあまりに苦しいものです:
「わからないこと」の存在が苦しいのは「閉じていないから」です。

社会システムが大きくなりすぎて、閉じた世界にならなくなっています。
人はしばらくこの「大きくなりすぎた世界」で物質的には過ごさなくてはなりません。
しかし思想が必ずしも地球のサイズ以上である必要はありません。
錆びて動かない大きなトレーラーより、小さくてよく整備された自転車の方が
買い物には便利であるように、
世界を矛盾なく説明できるが、個々の現象についてははっきりしない計算機より、
「山が雲のかさをかぶったら雨」のような地点観測が
役に立つかもしれません。
そして大きく遠くなる世界と、今いる現実を埋めるためには
大きな想像の力が必要です。

わたしたちは誰一人として「全ての真実」など知りません:
しかしわたしたちは常に「全ての真実の総和」の中に生きています。
ちゃんと閉じたお話が作れたら、それがあなたの世界であり、
それがあなたの聖書です。

月曜日, 3月 03, 2008

淘汰は誰が引き受ける

バッティングセンターに行きました。
一度速度の速いコースで目を慣らすと
遅いコースで楽に見えるようになるのが少し不思議です。

わたしたちは相反するようなシグナルを受け取ることがあります。
「すべての人に食料を」と言い、
「このまま人口が増えれば地球が破綻する」と言います。

淘汰という言葉があって、
環境の変化によって特定の性質を持つ生物や事象が
選択的に優位な生存をする、という意味で用いられます。

人口飽和が今頃地球の関心事のようにとり上げられるのは不自然で、
小さな村の人口が飽和したところに旱魃が起こり
人為的に人口調整を行った例は数知れずあります。

ペストの流行、旱魃、厳寒や地震の猛威は
人の増加を阻んできました。
そしてこれらに対する対策から、医療や生活技術が発達していきます。

わたし自身が人間であり、生きることを望む限り、
わたしの言葉として「淘汰は必要であった」と言うことはできません。
しかしながら、人間は自然から力を引き受ける形で社会を成立させていて、
自然が生と死をもたらす力を持っていたならば、
引き受けた力で人間が生と死をもたらさなければならないだろうというのは
そこに「わたしの言葉」の領域を超えた真実があるのではないかと
ふと思うのです。
それはわたしが「リンゴは地面に落ちる」と言おうが言うまいが
現象としてリンゴが常に地面に落ちることと同じであるか、という問いです。

あくまで個人の生を望み、それを擁護する社会、
社会の最大公約数の人間を残すために選別を迫る社会、
わたしたちは神や自然から力を引き受けた瞬間から
この選択を私たち自身がしなければならないことになってしまっています。

生贄など未発達な文明が作り出した野蛮な習慣だ、などと
文化史は論じておきながら、
現代の人柱は「選択を下したもの」であり続けていて、
そこから一歩も進化していない、
だからそれに変わる選択法はないのだろうかと考えは巡ります。

「全てを捨てなさい」という言葉は思考の放棄ではないはずです:
それは変わり行く時と歩みを共にすることです。
自分が幸せになったからといって考えをやめてはいけないのです。

奪うと奪われるの別なく
あたたかい気持ちで過ごし、人と接することができれば、
それが最初の原点なのに、と春に思います。

木曜日, 2月 28, 2008

アナロジーがきかないもの

画面が光っているからなのか、
ディスプレイの文字はいつも読みづらく、
しかも画面は単一なのに内容が頻繁に切り替わるので、
それは「データ」ではあるのですが、
紙に書かれたデータと違い、どこか生き物のような
感覚を持ってしまいます。
コンピュータは決して紙に代われないのではないか、と
ふと思います。
たとえばコンピュータが架空の書棚を作り出し、
そこから「本を取ってノートに書く」ようなことをすれば
問題は解決したように見えますが、
結局のところそれは「現実の紙の概念」をコピーしただけであって、
紙の概念そのままだということになるのです。

アイグラスとグローブを使って、
情報の世界という「部屋」を作り、
コンピュータらしい複製や検索や演算の機能と
現実空間を混ぜてしまうと、
それは「魔法の世界」で遊んでいるのと同じことです。

結局脳は、脳だけで思考するにはもう限界があり、
体の記憶に助けを求めてきたような印象を受けます。
コンピュータで仮想空間を作るということは、
結局身体性が知性の方向を規定したことと同じです。

車と人は「システム」としてみると
とてもよく似ています。
心臓はエンジンで、エネルギーがガソリン、
循環器は水循環と油循環、
電気製の神経があって恒温調節のエアコンもついています。
最近は履歴や故障診断までする
高性能のCPUという頭脳もつきました。

心臓手術は精密なもので、
エンジンのシリンダーブロックをオーバーホールするのと
とてもよく似ています。
循環系の治療はオイルのフラッシングやクーラントの交換に相当します。
体の老化は酸化に由来するとされ、
抗酸化物や皮膚ケアをするように、
車のボディが錆びてしまうから
防錆したり塗装したりするのも全く同じです。

このアナロジーの中でがんはどうだろう、と
ふと考えました。
がんは正確には「細胞の設計図の故障」に相当するもので、
分裂が止まらなくなってしまいます。

がんが車のアナロジーではなかなか説明できないことに
意識が向いています。
そこでがんは極めて生物的な現象だろう、と
ふと思いました。

わたしたちは石や純粋な水や、いわゆる「非生物」に対して
特別の考慮を要しません。
動物愛護の問題にしても、環境保護の問題にしても、
考慮を要するとされるのは常に生物です。

自らへの愛の拡張が世界の愛の具現になるというのは
心理療法家や宗教家の中に共通の思想が見られます。

一方で生き物は種を残すために個体数の調整を必要とする場面があります。
象の保護区で増えすぎたことを心配する向きがありますが、
他の共生する生き物の中で相手の個体数を調整する場面というのは
存在するのだろうか、と考えることがあります。

車社会で程度の良い車が増えすぎると、
新しい車を作るためにはそれなりに走る車にあれこれと理由をつけて
スクラップにしなければなりません。
小さな村で食料の供給が限られた集落では、
養老孟司の本にあるように「生存調整」を行わなければなりませんでした。

人の機能と「意識」の分離について考えると、
人の機能は化学プロセスの上に成り立っていて、
気分の高揚や抑うつが化学的反応によって説明できることが
分かってきました。
一方で、その化学的反応と「意識」のあいだに
接点をいまだ見いだせずにいます。

人のニューロンモデルは多入力1出力の集まりで、
出力は0と1のような閾値を持ちます。
それらを繋いだ線の信号重率が変われば機能が変わり、
ある日人間をどう育てるかが科学的に決められるだろうと考えています。
それらを踏まえてもなお「意識」というものは分からないのですが、
しかし「意識」はつねに「脳の機能」の結果を観測しているとするならば
正確には「意識」を取り扱う必要はなく、「脳の機能」を取り扱えばよいことになります。

確かに「意識」は「人が機械である」ことを拒絶します。
しかし「人がよくできたマシンである」という説明には
なんの否定もはさむことができません。
車が何を考えているのか分からなくても、
油を差し手入れをすれば順調に動き出すように、
人の意識が何であるかわからなくても、
人という機械の手入れをしてやれば、
それにつながれた意識はそれで事足りる、ということになります。

いつか、人の機能についての疑問がなくなる日が来るでしょう。
しかし、その日が来てもなお、意識の問題だけは人の存在には残るでしょう。
その意識の問題は、人ではない存在になったときには
解決するのだという気がしています。

都会とは珊瑚礁の海

最近うどんをよく食べています。

土曜の昼にNHKを見ていると
グレートバリアリーフの話題が出てきました。

美しい、色とりどりの海洋生物と
透き通って澄んだ海は、
しかしえさとなるプランクトンが少ない海である、と続き、
それは食べるということからすっかり離れてしまった
都会のように見えました。

「清潔さとは他の生物を排した状態」というくだりは
従軍宣教師を研究している方の言葉で、
ふと「聖なるもの、美しいものと排他性」の緊密な関係について
意識が向くことがあります。

美しいものを希求するのは
何も人間だけではありません。
熱帯魚はその体の柄で自分をアピールし、
そして柄には「流行」があるとさえいうのです。

無生物は物理法則とは関係のない「美しさ」を希求しません:
私たちは宇宙の色や原子の形に「美しさ」を見いだしますが、
宇宙の色や原子の形は生物の認識以前に「ただあった」のであり、
それが「美しい」と感じるかどうかは人によります。

小さい頃、
この世界には二つの宇宙があり、
外的な物理的宇宙から小さなかけらを取り出し
ボトルシップの船を組み立てるようにして内的な宇宙を作っているのだろうと
考えたことがあります。

認識とは外界の宇宙の姿と、
内界の宇宙の姿が透明なスライドに重ね合わせて表現されているような世界だ、と
時折思います。

河合隼雄の本の中に、
自己の存在は絶対性をもつもの、というくだりがあり、
ここで「絶対」とは「相対的でない」という意味と
「二つの対ではない」という意味を持ちます。
あらゆるものが相対的だといったのはアインシュタインで、
そこから「相対性理論」の名前はついています。

この世界をいくら眺めてみても-
この世界の中は相対的であることを示しています。
古く言い尽くされた昼と夜の、天と地の、男と女の、生と死の対比は
どこまでも相対的存在です。

「二つの宇宙」はそれぞれが独立です:
外界の太陽とは別に体内時計があるように、
必ずしも生物は外界に順応しきっているわけではないのです。
それはもしかしたら、ある日太陽が消滅して
夜ばかりの世の中になっても順応できるようにと
意識してのことかもしれません。
隕石衝突で滅んだとされる恐竜の後を生き延びた生物は、
長い闇と吹雪の世界を経験しています。

人間は3と言う数字に特別な意味を見いだしてきた、と
河合隼雄の本は続きます。
世界には相対的な二つのものしかない、とすると、
どこかからもう「一つ」の独立要素を含めることで
この世界の「3」が揃います。

最後の一つを、人間は自我と呼んでいるのだろうか、とふと思います。

水曜日, 2月 20, 2008

ノートパソコンのそばのノート

帰りの運転で聴くFMでは「生と死」についての記事を集めていて、
ある地域では自殺した遺体をみんなで袋叩きにする、
それはその体には悪魔が取り付いているとみなされるからだそうで、
生命とは生命を維持する存在であるという認識を
優先させた思想だと感じました。

ひとつのツールで仕事がなぜできないのだろうと
時々不思議に思います。

ノートは演算とコピーに向かないし、
パソコンはメモ代わりには使えません。
「ノート」の代わりになるべく、という願いで作られたような
ノートパソコンには、
しかしながら仕事で使うために
傍らにノートをおく必要が生じます。

ノートパソコンから「ノート」の機能を奪うことはほとんどできず、
「教科書と電卓と電話」の代わり、といったところでしょうか。

火曜日, 2月 19, 2008

FMラジオ

おひさまがのぼって
あたたかいかようびのあさです。

iPodにラジオをつけてチューニングすると
建物の奥ではNHK FMが一番感度よく聴けます。

NHK FMは昔から外国のクラシックとかギター音楽を
よく流していて、
どうして日本発の曲ではこんな風に安らぐ曲がないのだろうと
複雑な気持ちになったりして、
しかしその感情が、
普段わたしが取り除きたいと思っているナショナリズムを
根底にもつものであることにふと気がつきました。

生物学者と話をしながら、
国の誇りというものが郷土愛に根ざすものであると
いうところでやや押し問答をしています。

優越、つまり他の国より勝っているとか
独自性、つまり他の国にはないものであるとか、
つまり誇りというのは一種のこだわりです。

世界の物質には境界がないといい、
しかし「わたし」はいつも現れるのです:
「わたし」の認識は食べ物や外界の刺激で
ある規則を持って変わってしまいます。

ケン・ウィルバー「無境界」を読んだ後なのに、
「わたし」は「わたしの体」の境界を出てはいけないのではないか、と
ふと思いました。
わたしにわかるのは五感と過去の記憶だけで、
木星の裏側は「わたし」ではないのです。

わたしが「わたしのからだ」の中に閉じている限り、
実はナショナリズムは「存在しない」ことになるのでしょうか。
しかしひとはその発生にへその緒を使うように、
生活を始めてもその糧を必ず海と大地に求めます。

海とは不安定な場所です。
人は海の中に住み続けたためしがありません。
しかし一人で立つようになった人間にとって
本当の母は人間ではなく海にその役割が移ります。

父である空の藍と母である海の蒼の間に、
きっと人はあるのです。

月曜日, 2月 18, 2008

モノズキ日本人

時折非通知の電話が携帯にかかってきます。
しかしそれで誰かすぐに気がつくほど
わたしは鋭くありません。
かけるのを遠慮するか名前入りでかけてくれるか
どちらかにしてもらえないだろうか、と
ふと思います。

高速の料金所がETCになるときに
特に従業員から反対の声が上がらなかったのだろうかと
時折不思議に思っています。

極端な例ですが、
フランスの役所では人減らしに反対するために
わざわざほとんどの書類を紙ベースにしているのだそうです。

日本人は多分日本が狭いと思っています。
しかし広く開けた田舎町に住みたいとはほとんど言いません。

都市化した社会の機能は
都市においてなされる、と言うのは都会人の錯覚で、
化学プラントも工場もみんな海のそばや郊外にあります。
都市は地域からの入力を消費するか加工するか転送するか
主にそれだけで成り立っていて、
書籍や映画などのメディア的機能が例外的に産物となりえますが
都市は物質的産物を基本的に持ちません。

高速道路や鉄道が高額であるというのも
遠くへ行く大きな障害になるとよく言われています。

自動販売機の設置密度がこんなに高い国が
他にあるのだろうか、と不思議に思います。
日本人は人にお金をつけません:
「自動化できる何か」には積極的にお金をつけます。
ロボットが流行り出している理由の一部はそのせいだし、
それはマッサージ機の延長でもあります。

30万円のマッサージ機と、
たとえば月1回3000円で人にマッサージをしてもらうのとでは
8年経ったら同じになります。
マッサージ器を買ったら
確かにいつでもマッサージしてもらえるのですが、
効果がずいぶん違います。

8年経ったときにマッサージ機が手元に残るという点で
マッサージ機は利点があるのかもしれませんが、
故障して5万円かかったらどうするのだろうとも
ふと思います。

壊れない白物家電のように
火加減まで気にしながら黙々とご飯を炊いたり
洗濯をする機械がいて、
「機械は人を便利にする」と思っています。
それは機械に仕事を奪われている過程でもある、と
ふと感じることがあります。

機械化は地方の生産者にとって福音かもしれず、
しかし「人的サービスによる労働」だけが仕事となる都会では
機械による自動化が人と争うことになります。

「たまに失敗するかもしれない」が
「時々すごくうまいものが食べられる」手作りよりも、
「ほとんど失敗しないが毎日全く同じ味」の既製品を好むのが
おそらく日本人のようです。

かさ地蔵の例ではないけれど
石でお地蔵さんを作ったら知らない間にいいことをしてくれた、というのが
日本人の思想には埋め込まれているのかもしれません。
人間にとって他人という人間は理解がややこしく、
日本人は炊飯ジャーの方が好きなのかもしれないのです。

日本には多分、仕事がないのではないのです:
ただその仕事を積極的に機械にやらせようとしています。
それはもしかしたら大航海時代に奴隷と言う制度を持とうと躍起になった
ヨーロッパ人からしてみると、
機械という奴隷を作り続けている日本人、と
見えるのかもしれません。

一神教のように扱われているキリスト教だと思う人たちにとって
信者以外はもしかしたら人間には見えないのかもしれず、
それはほとんどが宗教の名を借りたナショナリズムやエゴイズムであって、
科学者の中でも聖句を
適当な免罪符に使っている人をわたしはよく知っています。

人はそれを見分けることができないのでしょうが、
当の本人がその人自身と向き合う神に後ろ指を指されます。
自らの神に真剣であるよりも
人は楽するのが好きだ、という
ありふれた結論に向かって今日は結びます。

水曜日, 2月 13, 2008

モノローグな人間に出会う

曇り空の朝は明け方がいつもより遅くやってくる気がして、
季節が少し逆戻りしたような気持ちになります。

人が言葉を話す「もの」だとしたら、
本は「ずっと同じことを話しているもの」と考えてもよく、
時折いろんな文字が目に留まります。

医学界新聞の中に名越康文さんのコラムがあり、
小学校4年生のときに
「なんで人は死ぬのか。
死ぬのであれば、なぜ生まれてくるのか」と
悩んだ、というくだりがありました。

もちろん答えは書かれておらず、
また意見も述べられておらず、
ただ問いを発したままの文章ですが、
これが一番共感できる中身でした。

「なぜ人は死ぬのか」を確かに人は知りません:
しかし「なぜ人は生きるのか、なぜ死ぬのか」と人生をかけて問う人に出会った時、
わたしは一番ほっとするような気がします。

時折考えるくらいの人はたくさんいると思います。
ずっと考えている人もたくさんいるのかもしれません。
でもなんとなくこの問いを考え続けてくれる人は
とても少ないような心細さがあります。

たとえば、わたしのために祈ってくれなくてもいいのです。
救いの手を差し伸べてくれる必要もほとんどありません。
わたしが誰かに望むことがあるとすれば、
「なぜ生きているのか」への真剣な問いを
その人自身の問いとして持ち続けてくれること、
そして時々考えたところを聞かせてくれること、
その一点にあるような気がします。

そのときだけ、なぜかはわからなくても
「生きていてよかった」とは思えるのです。

考え続けることは保存して取ってはおけません:
わたしはいつまでも考え続けています。
それがわたしに似た誰かの願いに似ていればいいなと
時折思います。

火曜日, 2月 12, 2008

人間は原理的に人間の問題を解決しない

白いものばかりで鍋を作ろうと思いたち、
白身の赤魚、鱈、カレイ、手羽元、
えのき、豆腐、白菜、かぶ、うどんを材料にしました。
さわやかな食後感でした。

この世界に人間がわたしひとりしかいなければ、
法律が定めるところの罪の問題は生じません。
罪とは人と人の間に生じるものだからです。
宗教的には自殺を罪に規定しますが、
その場合天国に行けないことと墓で弔ってもらえないという
「社会的死」が認められないだけで、
一人しかいない人間がいなくなったところで
それを裁く別の人間はいないのです。

安藤昌益は集団生活を必要とする社会は
その構造自体に問題が生じると考えました。
自分が住むよりはるかに遠くで採れ作られる物質を
必要とすれば世が大乱を起こす、というのです。

地産地消ということばがあって、
その土地でできたものをできるだけ取り入れようという思想で、
これを究極的に突き詰めると安藤の思想になります。

たとえば日本人にとって
バナナが不可欠な食物であるかどうかはわかりませんが、
日本がバナナを輸入することで地球の遠い国との接点ができ、
そのシステムにまたがって生活する人が生じることで、
ある地域とある地域に物質的接続を生じます。

人間に「意識」を抜きにして考えれば、
人間の知覚は全て体という物質を通して生じます。
たとえばほとんどの人にX線は見えません。
いくら太陽系の動きが計算できたからといって、
太陽の一区画で生じる
フレアの発生時間まで予想できるわけではありません。

人間が脳のサイズで規定された分以上の能力を
人はもっていないのです。
だから脳が限界まで複雑になったとしても、
この世界の複雑さを再現することはできないのです。

分子コンピューティングという技術があって、
計算体系にDNA様の鎖になる物質を使います。
問題に相当する鎖をビーカーに放り込んで混ぜると、
答えだけが長い鎖になって現れる、というのだそうです。

世界全体をシミュレートするには
つまり「もうひとつの宇宙」をどこかにつくり、
その様子を非干渉的に測定すれば完了します。

人間はどうにかして人間の問題を解決しようとしているのは
実は集団あるいは都市に生きる人間に固有の現象かもしれません。

冬のない国、たとえば赤道に近い国では
働かなくても食べ物が採れ、
その地域における集団の役割は
より環境の厳しい国での集団の役割よりも緩やかです。

ひとは「母なる大地」と名づけましたが、
天が父で海が母である、と最近思っていて、
多分地は父でも母でもありません。

人間の問題が一向に解決しないのは、
あなたやわたしが人間であるからであって、
人間ではない上位概念になれたときには
人間の問題を「解決したもの」として取り扱えるでしょう。

あなたは人間であると自らに認める限り
人間の問題を背負う必要はありません。
解けるかもしれない問題は解く努力ができますが、
解けないとわかっている問題を解くことはないのです。
自分の体の問題を解決するのが人間の意識の目標であるように、
人間の問題を解決するのはあずかり知らぬ上位概念の目標です。

光速以上の速度を持つ世界は
光速以下の世界からは到達できませんが、しかし禁止されておらず、
上位概念は光のカーテンの先にあるのかもしれません。

木曜日, 1月 31, 2008

書きっぱなし

ハリアーハイブリッドを選びました。

ホンダという会社はたいへん不思議な会社で、
独創性が非常に高いにもかかわらず
「エンジンに取り憑かれている」としか思えない方針に
しばしば出会います。

「エンジン」がなければイノベーションが大変強いのです:
航空機もロボットも作ってしまいました。
コンセプトも設計も大変見事です。

しかし「エンジン神話」が常に二の足を踏みます:
エンジンの最適化にこだわりすぎて
V10の複雑システムを F1に持っていったために
トータルシステムを犠牲にして
ホンダは勝てなくなっていったし、
車はエンジン以外の性能、
ボディ剛性とか質感に車間の個体差を感じにくいのです。

確かにホンダのエンジンは
文句なく世界一の確信があります:
しかしハイブリッドシステム「IMA」を作ったとき、
「ハイブリッドシステムでアイドリングストップをしない」というのは
あまりにエンジン主体の意思が見えます。

ホンダは「モーターアシスト」という用語を捨てません:
モーターは「アシスト」、補助であるというのです。

「インサイト」の設計を知ったときに、
エンジンシステムには大きな改造を加えず、
全アルミの高価なボディと軽量化、
空力改善の追求で
確かに世界一・35.5km/Lの記録を作りましたが、
修理に高等な溶接技術を要求するアルミボディと
加速感に乏しいパワートレイン、
4人乗れず荷物が詰めない構造は
「車としてのロバスト性」を全く考慮していないことに
目が留まりました。

回転数に対するモーターのトルク域とエンジンのトルク域は
理想的な相補的関係があり、
「ハイブリッドシステム」が「エンジンシステム」を
一切妥協せず全方位的に超えられる理由はそこにあります。
しかしそのためには
「エンジン中心主義」を「捨てる」必要が発生します。

ハイブリッドシステムは
エンジンがもつ「連続回転体」と「エネルギー発生源」の主特性から
「回転体」としての特性のみを積極的に失わせる、
いうなれば 「エンジンをデジタル的(不連続)に使う」技術であって、
もはやエンジンが「回転の主役」ではないのです:
エンジンとは「効率の良い回転数」が決まっています。
それは「エンジンをアナログ的に使う」アプローチの延長では
導けないのです。

エンジンを不連続に使うからこそ
低回転では非効率である 排気量の大きなエンジンを採用でき、
モーターを主役とみなすからこそ
出力の大きな電力システムを積極的に開発して
大きなエンジンとのバランスを取ることが可能になります。
ホンダの最大の革命のタイミングは
「みずからのエンジン音の呪縛を超克する時」に重なるはずです。

巡り巡って書きたかったことは、
もしホンダが真の「ハイブリッドシステム」を作ったら
必ずCR-Xからの後継機にしようと願っていたのに、
ということです。
CR-Xはそのくらいエンジン音が好きな車でした。

水曜日, 1月 30, 2008

笑うとは何か

橋があるとその橋は大抵渋滞します。
昔の人が川を隔てて街の区分を決めたのは自然で、
たかが川ひとつで生活が極端に異なるのだから
海を隔ててしまった場所の生活は全く別だという気がします。

人の死がとても嫌いで、
ホラー映画も仁侠映画も全く観ないのに
がんに関わる研究をするようになったのは複雑な気分で、
本当はとても苦手な分野です。

苦手であるからひとつひとつのプロセスを
意識に乗せ、自らに承認を求めながら作業をこなす必要が生じ、
それは別の視点での理解に近づきます。

哲学がいくら「死」は存在しないといっても
外的な「死」は存在します:
それは肉体的に不可逆的な機能停止です。

葬式で笑ってはいけないのはなぜだろう、と
ふと考えています。
「笑う」のは不謹慎だ、と人は言います。
しかしなぜ人が「笑う」のかと問われて、
「笑う意味」について考える人がどれだけいるのだろう、とも
思います。

しばらく書きながら考えます。

愛する家族を失った者にとって死は悲しむべきものであり、
笑うことは悲しみの対極にあるもので、
共感をそぐから、というのが多分一般的な意見になりそうで、
しかしここで「死」が「悲しむもの」である前提は
疑われる必要があります。

苦痛にさいなまれてベッドに縛られているものにとって
死は唯一絶対の解放ではないか、と思うのです。

死別と言う言葉があるように、
死は別れだとされています。
別れとは「コミュニケーションが不能になること」であって、
死んだ人とは話すことができず、
それは遠く別れ離れた人と話せないのと同じです。
そして生きて別れた人とはコミュニケーションの可能性が残されますが
死んだ人とは対話としてのコミュニケーションを失います。

しかしそれらを差し置いても、
葬式で笑ってはいけない理由とはなりえません。
非常に極端な例を持ち出せば、
「死んだ後も人に笑い転げて欲しい」と願った落語家の葬式で
笑ってあげなければ、
まわりの家族にはともかく本人の意思には背きます。

このことから、
死の意味は社会的関係性の中に
多分に存在することがわかります。

自分が死んだら悲しんで欲しい、という気持ちが
人に葬式で悲しみを表現させる原因となっています。

悲しむとは「現前した状況の否定」です。
そこから、笑うとは「現前した状況の肯定」であることがわかります。
「死を受容しない」「死を受容したくない」という気持ちが
「笑ってはいけない」に繋がります。

笑いが「肯定」を表すのであれば、
「笑わない日本」は「肯定していない日本」と同じです。

それでは「死」を「肯定する」ことが可能だろうか、と
考えの焦点は移ります。

笑いは「全面的な受容」に相当する、
そうすると笑いが「一部分だけの受容」を表すことはありません。
「全面的」という言葉には特有の響きがあり、
「全部」は完全に汎用である必要を求めます。

この世界を見て笑っていられない、と感じ、
それは「受け入れられない」ものがあると感じるからです。
たとえば目の前で人が死んでいなくても、
「人は死に続けている」こと自体が逃れようのない普遍的な事実で、
これを拒否することはできません。

生物は本態的に死を恐れる存在です。
たとえ動物に感情があるかどうか不明であっても、
何の理由もなく命を絶とうとはしないのと同じです。
脳に欠陥が生じた場合はこの限りではありません。

単細胞生物にアポトーシスはないが、
動物の細胞にはアポトーシスがあるのだそうで、
自らの存在確認機構というのは
集団としてのシステムに特有の機能であることがわかります。

もし人間が一人で生きられるとしたら、
もうすこし正確に言うと、人間の細胞がひとつでも生き続けられるとしたら
本来死ぬことを心配する必要はありません:
個々の細胞が離れて生存すればいいからです。
人間の細胞が単体で生きられないこと、
人の意思に「自殺」=アポトーシスが組み込まれていることは
人間は最初から「人間社会」というシステムの一部であることに対応します。

人間とは「個体で生きることを選択しなかった」生物に
分類されます。
そして社会システム自体はそれが生き物であるならば
「死」を受容できません。
社会システムは常に、それ自身の死を選ぶぐらいなら
その構成要因である人間の一部の死を選択し続けます。
それは人間が焼けた山肌を登るときに、
手をやけどして手の細胞を犠牲にしてでも生き残るのと同じです。

人は常にただ生きているのではありません:
自らの中でさえ常に死と再生を伴わせて生きています。
そして不要な細胞を「殺し」、必要な細胞を「生かして」
システムを維持しています。

「笑い」の積分量が
「生存と死」を分ける引き金になっているのではないだろうかと
考えは進みます。
もし「笑う」が重要なシグナルだとしたら、
「笑う」力とは社会システム自体が発動する感覚であるはずです。

平均寿命を延ばすことによって、
人は死から「ただひたすら遠ざかって」きたのです。
戦後の人口増加が「生」を増やし続け、
「生物学的生」がその生命単体で保証されていたために、
これまでは「笑う」という秩序を必要としなかった、と考えます。

人間はいうなれば「自らの細胞というシステム」の管理者であり、
「社会システム」の被管理者です。
社会を構成するためには人間は生きていなければならず、
この観点から「人間の死」は基本的には否定されます。
しかし「社会システムの死」はそれよりも強い否定を要請します。

生物的死と社会的死を独立した象限としてとると、
死には4つの意味があることが分かります。

人間としての死が社会システムの死を遠ざける場合、
人間としての生が社会システムの死を遠ざける場合、
人間としての死が社会システムの死を近づける場合、
人間としての生が社会システムの死を近づける場合です。

1番目が社会的役割を終えたものの死、
2番目が新たに生まれ社会的役割を果たすものの生、
3番目が社会的役割を果たす能力があるものの死、
4番目が社会システムを破壊するものの生に対応します。

このうち、両方の生を選ぶことが理想ですが、
人間の死は避けることができません。
一方で、生き始めた人間にとって生も避けることができません。

がんの患者はこの象限が混在し始めます。
完治の見込みを失う場合が特に複雑です。
人間としての生は確かに続いていますが、
その生の維持のために大きな社会システムの力を
必要とするようになります。

患者を治すというのは
「社会システム」の生と
「人間」の生を維持する両方の意味があります。
個人としての人間は、この二つのシステム、
生物的人間と社会的人間のシステムの両方に通用する
回答を見つける必要があります。

「娯楽」や「享楽」の笑いではなく、
豊かな微笑みの発露としての笑いとして、
社会システムの秩序レベルと「笑いの総量」は
強い相関があるような気がしてなりません。

「笑い」とは社会システムに秩序をもたらす原動力でしょうか?

笑いは受容であるならば、
がんであることを受容することはどこから生まれるのでしょうか?
それは可能でしょうか?
めぐりめぐってがんの患者と向き合うとき、
わたしは「笑い」をどう取り扱えばいいのでしょうか?

私自身にこれを置き換えるならば、
人間の最後の仕事は「自らの死」を「受容する」ことになります。
これは人間の生がある限り本態的に不可能なことです。

人にこれを当てはめるならば、
がんの患者に「笑いかける」ことはまったく可能であって、
不謹慎でも何でもありません:
それが-「存在の受容」が
「人が死ぬ尊い存在であると受容する」と表現する限りにおいて、
「微笑みかけること」が意味を持つのです。

人間という意識にとっての幸せとは、その終末の間際まで
「存在の受容」を受けることであって、
もっと拡大すればこの世界の終末の間際まで
「存在」を受容されることだろうと思います。

過去に生を受けたものすべてが「その生の受容」を望んできたのです。
だから私たちはこの世界を受容して次へ送ります。

自らの死に対してなお「笑う」ことができるならば、
それは社会システムの生へと意識を移行する準備が進んだことを意味します。
人間は社会よりも小さく、その定量的判断はできません。
しかし自らのアナロジーから、
その「定性的判断」が可能です。

他者に対する「存在の承認」としての「笑い顔」が必要です:
それは常に社会秩序をもたらすからです。
世界は対称にできています:
人はすべて「泣いて」生まれるのであれば、
人は「笑って」その生を閉じることが対称です。

月曜日, 1月 28, 2008

霜柱

8センチほどの長さの霜柱を見つけました。

金曜日, 1月 25, 2008

本からのひと言

「花には枯れる自由がある」、というくだりが
春日武彦さんの本に出ていて
ふと目に留まりました。

花はいつまでも咲いていたいだろう、
美しさを全うせず早く枯れてしまってはかわいそうだろうというのは
わたしの思い違いなのかもしれない、と
考えを改めることにしました。

咲こうとみずから宣言する花にのみ、
雨は降り注ぐ意味を持ち、
そのとき花が求めるから
日の光は降り注ぐのかもしれません。

火曜日, 1月 15, 2008

今は何度目の開闢だろうか

今朝は海沿いの町にも霜が降りたようです。

極端で非現実的な状況を仮想することは、
混沌とした現実の中から特徴を取り出すことです。
加速器は「非現実」のエネルギー世界を作ることで
この世界では縮退した4つの力を個別に取り出して観測します。

この操作を人に当てはめると、
人の混沌とした日常を観察するためには
人にとって極端で非現実的な状況、
つまり人が生を終えるという状態を仮想することで
日常の生に含まれる要素を観察します。

昨年の年末は
仏教の本とクリシュナムルティの本を集め、
今年の年末は
がん医療のコミュニケーションスキルの本を集めました。

死について時折思うことがあります。
それは「死」という文字のほうが恐ろしくて、
実際に生を閉じる人を間近で接するときには
同じ恐ろしさはない、ということを不思議に思います。

死にゆく者のひとつの役目は、
生きている者に対して
それが恐ろしくないことを
証明して見せることではないだろうか、と思っています。

死というものが恐ろしいのではないのです:
わたしたちが恐れる「死」が表現するものは
ほとんどの場合の死に伴う苦痛と
自らの制御がままならない不全感に対する恐れです。

自然界での生活にとって苦痛とは主に死に近づくことであるから
階段は気をつけて降りることを覚えます。
ひとという生き物は苦痛を避けるよう
何十年もかけて必然的にその術を学んでいきます。

人間より大きな単位の生き物=システムとして「町」があります。
そして「町」はそれ自身の消滅を恐れます。
だから都市機能はその機能を果たす人が入れ替わることで
正常に生き続けます。

都市が生き物であるならば、
都市にはその終わりがあります。
それは「会社の終わらせ方」と同じような問題で
「都市の終わらせ方」というものを考える必要もあるだろう、と
思いました。

終わりを決めて何かを始める、ということは
言い換えるとゴールを決めてスタートを考えることと同じで、
目標とは「終わり」のことです。

生き物はその役割を
その生きているうちにだけ引き継がせることができます。
人の目標や都市機能や会社の方向は、
それらが生き物のような性質を持っているのであれば、
ある目標を目指している途中のエネルギーから次の目標は「新たに生じ」、
新たに生じたそれが
次の主軸となって走り出す、という性質を必ず持つはずです。

適切な長さの期間を持つ目標が必要です:
短すぎては次の目標を生み出す土壌が育たないし、
長すぎてはそれ自体の目標が叶わないまま終わってしまいます。

ボスという人としての形がいなくなってもうすぐ3年になります。
しかし意志を引き継いだ人たちによって
彼の願いは確実に叶いつつあります。
彼は人という形を失っただけのように思います。
彼の「意志」はそれ自体、立派に「生きている」のです。

宇宙は0秒が分からず、
今の宇宙が160億年ぐらいだと言われていますが、
この世の対称性から考えると負の時間があるはずで、
この宇宙は何度もビッグバンが起きていて、
その何回目かが今の宇宙である、と考えるのが
妥当ではないか、という気がしています。

たとえ人が自ら滅ぶ道を選んだとしても、
宇宙はそれ全体が開闢から「やり直す」のです:
そして次の宇宙が開かれたとき、
もう一度あなたにもわたしにも形が与えられるでしょう。