都会とは珊瑚礁の海
最近うどんをよく食べています。
土曜の昼にNHKを見ていると
グレートバリアリーフの話題が出てきました。
美しい、色とりどりの海洋生物と
透き通って澄んだ海は、
しかしえさとなるプランクトンが少ない海である、と続き、
それは食べるということからすっかり離れてしまった
都会のように見えました。
「清潔さとは他の生物を排した状態」というくだりは
従軍宣教師を研究している方の言葉で、
ふと「聖なるもの、美しいものと排他性」の緊密な関係について
意識が向くことがあります。
美しいものを希求するのは
何も人間だけではありません。
熱帯魚はその体の柄で自分をアピールし、
そして柄には「流行」があるとさえいうのです。
無生物は物理法則とは関係のない「美しさ」を希求しません:
私たちは宇宙の色や原子の形に「美しさ」を見いだしますが、
宇宙の色や原子の形は生物の認識以前に「ただあった」のであり、
それが「美しい」と感じるかどうかは人によります。
小さい頃、
この世界には二つの宇宙があり、
外的な物理的宇宙から小さなかけらを取り出し
ボトルシップの船を組み立てるようにして内的な宇宙を作っているのだろうと
考えたことがあります。
認識とは外界の宇宙の姿と、
内界の宇宙の姿が透明なスライドに重ね合わせて表現されているような世界だ、と
時折思います。
河合隼雄の本の中に、
自己の存在は絶対性をもつもの、というくだりがあり、
ここで「絶対」とは「相対的でない」という意味と
「二つの対ではない」という意味を持ちます。
あらゆるものが相対的だといったのはアインシュタインで、
そこから「相対性理論」の名前はついています。
この世界をいくら眺めてみても-
この世界の中は相対的であることを示しています。
古く言い尽くされた昼と夜の、天と地の、男と女の、生と死の対比は
どこまでも相対的存在です。
「二つの宇宙」はそれぞれが独立です:
外界の太陽とは別に体内時計があるように、
必ずしも生物は外界に順応しきっているわけではないのです。
それはもしかしたら、ある日太陽が消滅して
夜ばかりの世の中になっても順応できるようにと
意識してのことかもしれません。
隕石衝突で滅んだとされる恐竜の後を生き延びた生物は、
長い闇と吹雪の世界を経験しています。
人間は3と言う数字に特別な意味を見いだしてきた、と
河合隼雄の本は続きます。
世界には相対的な二つのものしかない、とすると、
どこかからもう「一つ」の独立要素を含めることで
この世界の「3」が揃います。
最後の一つを、人間は自我と呼んでいるのだろうか、とふと思います。
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