月曜日, 1月 30, 2006

書き物考

大きなドラムです。

検出器の外側のようです。

書いていた論文、150pと予想していて、
できた量が最初130ページだったのですが、
レイアウトをやり直した結果149pになりました。
だいたい思った通りです。

書き物がほとんどなくなって
久しぶりに心は平和です。

しかしなぜ書き物が心を乱すのか、
時々考えます。

肉体的辛さというのは確かにあるのですが、
数日眠れれば元に戻ります。
精神的辛さというのはあまり元に戻りません。

いろいろな人に話を聞くと、
書類書きというものにはとても抵抗があります。
文字をたくさん見ると、多分意識が混乱してしまうのです。

火の玉を出す魔法はありませんが、
人の意識に訴える言葉は魔法のようでもあります。

月曜日, 1月 23, 2006

繋がっている、切り離されている

紙飛行機の代わりに、
封筒に切手をつけて飛ばしました。
研究者は一つの自営業だと思っている
今日この頃です。

会社が利益を得るための方法の見方として、
売り切りにするか継続にするかの区別があります。
お菓子のように売ってしまうと終わりなのか、
携帯電話のように一度もつと維持費がかかるものに
大きく分けられます。

売り切りでよいものは生産物で、
本や車や洋服、ipod音楽などのメーカーは常に売り切りです。
その生産物に対して維持するサービスは別にあって、
車の修理工場やファッションアドバイザーなどはそちらです。

物が売れない、というのは
景気が落ち込んでいるという比喩的な意味と、
売り切りタイプの生産物の購買が減少しているという
二つの意味で使われます。

必要不可欠な生活商品が揃うと購買が減るので、
方向としては単価の引き上げかメンテナンス型サービスへと
向かいます。

売り切りは商品さえしっかりしていて返品が少なければ
その後の面倒を見る必要はなく、
売れば売るほど利益が上がります。
その代わり売れなくなると商材の生命は終わりです。
維持型は一度顧客を囲うと継続して利益が得られます。
しかしメンテナンス料に足るサービスを提供し続ける必要があります。

飽和型社会を面倒に思う点は、
いろいろなものが連動し始めていて切り離せない点にあります。
それは集落型の人間関係と都市型の人間関係の違いと同じで、
結びつきが強くなればなるほど不自由感がでてくるものです。

エステだって売り切りのようにすると
サービスを買う側に自由さがあって楽なのですが、
エステの会社は継続して通ってくれることを求めてくるため、
とても不自由に感じてしまいます。

銀行やローンの会社も事情は同じで、
よく返してくれそうな会社には
その資金が必要であるかどうかに関わらず割増しで貸付を行って
継続的に金利を得ようと必死になります。

求める立場なのか、求められる立場なのか、
それは時間にも相手によっても異なり、
いろんな糸が立体的に交差しているようにも感じられます。

以前日本史の研究者から
「本当の自由とは何の制約もないものだ」という言葉を聞いて、
時折その意味を考えます。
以前も考えたとおり「自由」と「自由度」は違うもので、
「義務と権利」の「権利」に当たるものは自由度であって
自由ではありません。

自分の周囲には自由が少ないと雰囲気で思っている人は
きっとたくさんいて、
それは連動することのオーバーヘッドを
毎度解く必要があるからです。

自由をもてあまして不安になってしまう人は
何らかの外的条件に拘束されているほうが落ち着くもので、
ただそういう人が多すぎると
都市全体で村社会を作る結果になります。

自由になるということは、
制約条件を打破するという面が一方で必要で、
しかしもう一方で自由の頼りなさと本気で向き合うことで
相手を拘束する願望をもっと減らすことが必要です。
それは一人の人間の存在と頼りなさの源を同じにするもので、
実行はなかなか難しいものです。

plan, do, and see

食べるのも好きですが
作るのは同じかそれ以上に好きです。

スコッチウイスキーで香りをつけます。

バルサミコ酢はお醤油のような旨み調味料で、
付け合わせが楽に作れます。

木曜日, 1月 19, 2006

あれとこれを繋ぐもの

アンチモンの鉱石です。

人工の造営物に魅力を感じることもありますが、
石が自然に作る規則性に魅入られることがあります。

朝日新聞の絵本について語る一節があって、
鬼に峠の橋をかけてもらう代わりに目玉をよこせと言われる
話があって、つなぐことの難しさをふと思います。

あれとこれ、簡単に繋がるようでいて
実は繋がる部分がとても難しいものです。
たとえばエンジンとシャフトを繋ぐギアは台形歯車を4つ対向した
ディファレンシャルギアと呼ばれるもので、
見るからに複雑な動きをします。

インターネットが難しかったのは、
仕様も速度も違うネットワークを統一することで、
TCP/IPはいくつもの階層に分かれて差を吸収しています。

メーリングリストはある、けれどもそれが機能するには
文字以外の繋がりが必要だったりします。

カタログで構成部品は規格品がいくらでも買えるのですが、
それを繋いで機能化する段に独創性が現れます。

あれとこれの境界部分に自分を置く、
自分は頻繁にその作業を続けています。
繋ぐ作業は決して単調な仕事にはならず
頻繁に難しさを感じますが、
それらが機能として一体に振舞う瞬間というのが
とても嬉しいのです。

水曜日, 1月 18, 2006

EXPACK500

パッションフルーツが好きで、
トロピカーナ夏季限定のオレンジ+パッションフルーツを
見つけて1箱買って来ました。
研究室に非常食用のカップ麺をたくさん買って
置いているのですが、
思ったよりほんの少し予定が早まったので
食べ切らないかもしれません。

速達には手続きが必要、というわけではないのですが、
重さが分からなくて結局郵便局へ向かってしまいます。
その点EXPACK500は便利で、
ポストに入れるだけで無条件に速達扱いにしてくれます。
ちなみに、厚紙の封筒に入れば少々膨らんでいても良いのも
なかなか気が効いています。

封筒は248mm*320mmの厚みがないサイズですが、
20mmぐらいは平気です。
こうすると容積は1.5Lぐらいになります。

郵便局のHPには"30kgを超えて入れられません"と書いてあって、
1.5Lで割ると比重20g/cm2まで大丈夫という計算になります。
これは金の板を封筒一杯に詰めて送っても大丈夫という規格で、
全く心配が要りません。
しかしこんな封筒が30kgもあったら大変だなあと
真面目に考える一方、
30kgにした背景は上記と同じ思想で考えたんじゃないかと
なんとなく想像してしまいます。

金曜日, 1月 13, 2006

叶わぬ願い

ボスが生きていてくれていたら、
ここ一番で絶対に推薦状を書いてもらおうと
心に決めていたのを今さらながら思い出しました。
今日はなんだか悲しくて泣いてしまいそうな1日です。

水曜日, 1月 11, 2006

加速度

運動という言葉にはややストイックな修行のイメージ、
活動的で競技的なニュアンスがあって
もう少しいい言葉がないかと考えています。

物体の位置は見ることで分かります。
物体の速度も見える範囲で分かります。
ところが加速度は目で見ることはできず、
力として感じるものになります。

ニュートン方程式の示す式は
とても少ない文字で書けてしまうもので、
アインシュタインの質量とエネルギーの等価性も
とても少ない文字で書けてしまいます。
じゃあ世界は簡単かというとそうではなくて、
簡単な式は適用する場面に応じて無限にその姿を変えます。
質量の項が複数になり、行列になり、
加速度が積分されたり、相互作用が生じたりして
もともとの簡単な式とは似ても似つかぬほどになります。

速度が速いものは見た目に派手ですごそうですが、
抵抗のない系ではエネルギーが失われないので
一度加速してしまうとエネルギーが与えられなくても
飛び続けることができます。

それではあまりつまらないのです。

常に力を感じたければ加速度を与えるしかなく、
そのためにはエネルギーが必要です。
こう書いてしまうと読みようによってはただの物理の話ですが、
こんな人生でいたいなと願う自分のヒントのようでもあります。

木曜日, 1月 05, 2006

3冊選びなさい、といわれたら

今日は妙に血が頭に集まっているようで、
めまいがします。

信教の自由、というものがあって、
「公共の利益に反しないように」と定められています。
受刑者が希望する持込図書は
経典として認められれば別枠扱いされるそうで、
オウム説法集は3冊までと定められた「一般図書」とされたことに
訴えが起こっているのだそうです。

いろいろと考えを巡らせます。
一般図書とされた理由は、一種の「危険思想」であって、
読み進めた場合犯罪やテロを招く恐れがある、という解釈が
言外のうちに進められているはずなのですが、
それを言うなら他教を排除するキリスト教やイスラム教だって
立派に犯罪やテロを招いています。

「公共の利益に反しないように」という言葉は曲者で、
さまざまな解釈ができるからこそ問題が起こります。
言論統制が行われようとしている国会インタビューの話を見ると、
人権を盾にとって悪事を隠そうとしています。

それぞれの名前のついた個人にプライバシーはあります。
しかし国会議員という公人に秘密は必要ありません。

信教の自由というのは
それ自体がリスクの大きい権利なのだろうと思います。
人が決めた全てのことには
完全な正解や間違いが定義できないからです。

ただ衝突のない画一化された世界を理想とせず、
自由な言論が確保された上で常にせめぎあいの中にある、ということこそ
本来は揺らぐ世界の健全な姿であるのかもしれません。

もし3冊選べといわれたら、
最初の1冊に岡本太郎の本を入れ、
残りは適当な物理の辞典と厚い英語大辞典を選びます。

火曜日, 1月 03, 2006

前衛と、モダニズムと

「今日の芸術」からの一節で、
芸術の側面には前衛とモダニズムがあるといいます。

モダニズムは心地よくて好まれる、
前衛は理解されにくい、この図式は
量産技術と先端技術の構図にも当てはまります。

ちなみに、前衛はモダニズムの領域を開きますが、
その逆は成り立ちません。
つまり、スマートさを身につけたいと願うのであれば
まず前衛に立つ必要があります。

そしてこの「前衛」と「モダニズム」とは
人によって分けられているわけではなく、
一人一人の時間配分によって分けられています。
前衛に立つ時間を生涯にどれだけ確保できるか、
これがモダンを自分に身につける鍵となります。

アンチテーゼ・その2

ひつまぶしとひまつぶし、
全て自分の時間に合わせれば暇は作れるのですが、
決まりごとという観念的要請が時にそれを阻みます。

季節感を放棄してみたらどうなるだろう、と
ふと思います。

ここで言う季節感とは、
世界の時間は春、夏、秋、冬が
順に巡ってくる、という意味においてです。
宇宙の時間で言えば一時も同じ状態はありません。
なので、去年「春」と呼ばれていたある時間と
今年「春」と呼ばれているある時間は違うものです。

最近のニュースキャスターは
暑くなったり寒くなったりすると、
「異常気象ですね」と口ぐせのように言います。
観測史上一番の暑さが来たといっても、
観測は100年もしていないのだから、
特に驚くことはありません。
冷夏の年も旱魃の年も、
昔のようにたくさんの人がそれで死んではいないのです。

春だと観念的に思っているものがあります。
桜が咲くのはだいたい春ですが、
今年や以前に、秋の終わりに咲いた桜を見かけたことがあります。

冬でも夏野菜のトマトが食べられるなら、
季節感がなくなっても不思議ではないし、
頭脳労働の世界にはもともと季節感がありません。
季節で式が変わるような憲法や物理法則では困るからです。

自然という言葉の定義も気になります。
地球環境とか、野山、という意味での自然なのか、
普遍的に存在する‹この世>という意味での自然なのか、
これがよく混在しています。

季節感を大事にしよう、という表現はやや謎めいていて、
季節感とは気になるかどうかだと考えます。
意味がわからないものを大事にするといっても、
どう大事にするかがつかめないものです。

春夏秋冬なんていりません、
常に時間は戻らないのですから、というと
‹自然を忘れた現代人›と呼ばれるのかもしれませんが、
春夏秋冬のサイクルだけに縛られていることこそ
[自然]を忘れていることになります。