アンチテーゼ・その2
ひつまぶしとひまつぶし、
全て自分の時間に合わせれば暇は作れるのですが、
決まりごとという観念的要請が時にそれを阻みます。
季節感を放棄してみたらどうなるだろう、と
ふと思います。
ここで言う季節感とは、
世界の時間は春、夏、秋、冬が
順に巡ってくる、という意味においてです。
宇宙の時間で言えば一時も同じ状態はありません。
なので、去年「春」と呼ばれていたある時間と
今年「春」と呼ばれているある時間は違うものです。
最近のニュースキャスターは
暑くなったり寒くなったりすると、
「異常気象ですね」と口ぐせのように言います。
観測史上一番の暑さが来たといっても、
観測は100年もしていないのだから、
特に驚くことはありません。
冷夏の年も旱魃の年も、
昔のようにたくさんの人がそれで死んではいないのです。
春だと観念的に思っているものがあります。
桜が咲くのはだいたい春ですが、
今年や以前に、秋の終わりに咲いた桜を見かけたことがあります。
冬でも夏野菜のトマトが食べられるなら、
季節感がなくなっても不思議ではないし、
頭脳労働の世界にはもともと季節感がありません。
季節で式が変わるような憲法や物理法則では困るからです。
自然という言葉の定義も気になります。
地球環境とか、野山、という意味での自然なのか、
普遍的に存在する‹この世>という意味での自然なのか、
これがよく混在しています。
季節感を大事にしよう、という表現はやや謎めいていて、
季節感とは気になるかどうかだと考えます。
意味がわからないものを大事にするといっても、
どう大事にするかがつかめないものです。
春夏秋冬なんていりません、
常に時間は戻らないのですから、というと
‹自然を忘れた現代人›と呼ばれるのかもしれませんが、
春夏秋冬のサイクルだけに縛られていることこそ
[自然]を忘れていることになります。
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