火曜日, 1月 03, 2006

アンチテーゼ・その2

ひつまぶしとひまつぶし、
全て自分の時間に合わせれば暇は作れるのですが、
決まりごとという観念的要請が時にそれを阻みます。

季節感を放棄してみたらどうなるだろう、と
ふと思います。

ここで言う季節感とは、
世界の時間は春、夏、秋、冬が
順に巡ってくる、という意味においてです。
宇宙の時間で言えば一時も同じ状態はありません。
なので、去年「春」と呼ばれていたある時間と
今年「春」と呼ばれているある時間は違うものです。

最近のニュースキャスターは
暑くなったり寒くなったりすると、
「異常気象ですね」と口ぐせのように言います。
観測史上一番の暑さが来たといっても、
観測は100年もしていないのだから、
特に驚くことはありません。
冷夏の年も旱魃の年も、
昔のようにたくさんの人がそれで死んではいないのです。

春だと観念的に思っているものがあります。
桜が咲くのはだいたい春ですが、
今年や以前に、秋の終わりに咲いた桜を見かけたことがあります。

冬でも夏野菜のトマトが食べられるなら、
季節感がなくなっても不思議ではないし、
頭脳労働の世界にはもともと季節感がありません。
季節で式が変わるような憲法や物理法則では困るからです。

自然という言葉の定義も気になります。
地球環境とか、野山、という意味での自然なのか、
普遍的に存在する‹この世>という意味での自然なのか、
これがよく混在しています。

季節感を大事にしよう、という表現はやや謎めいていて、
季節感とは気になるかどうかだと考えます。
意味がわからないものを大事にするといっても、
どう大事にするかがつかめないものです。

春夏秋冬なんていりません、
常に時間は戻らないのですから、というと
‹自然を忘れた現代人›と呼ばれるのかもしれませんが、
春夏秋冬のサイクルだけに縛られていることこそ
[自然]を忘れていることになります。

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