日曜日, 12月 31, 2006

神はカオスに、仏性は遺伝子に

どんなものも福袋になるようで、
ハム詰め合わせの福袋を見つけました。
ハムはいつ食べても好きで外れがないので
一つ買いました。

仏教聖典を読む以外特に何の入力も意識せず、
空いた時間は散歩をしてひたすら寝ていました。
思考というのは醸成するものらしく、
断片的だった記憶にまとまりが生まれます。

この本、左側に英訳が載っていて、
日本語の漢字ニュアンスがぴんと来ないときに
訳を読むと雰囲気がつかめることがあります。

さて、いくら「一切は空」だからと言っても
見えるもの全てが「あるようでないような」には
やはりなりません。
量子論的に言うと物とは「存在確率」の広がりの中にいるので
厳密には確かに「あるようでないような」ではあるのですが、
1kgの鉄が突然消えたりはしません。
ただ全てが線形方程式で記述されるわけではないので、
基礎方程式の形は明確であっても
それを現象として観察する際に非線形性による未来予測不能の状態や
統計的現象を一つの結果に置き直した場合の
「運」とでも呼びたくなるような確率過程があります。
この意味で確率は上げられますが絶対ではありません。

ひとの苦しみとは無明と貪愛、と書かれていて、
無明を解決する方法は物の理、因果を知ることとあります。
確かに物理が分からないままでは
教典も呪文のように曖昧な感触しかつかめないと感じるからです。
西洋の現代物理はそう言う意味で
再現性に「明るい」学問です。

物理、それらが全て明らかになったとしても残るのは
貪愛、もし言い換えるならば「死の恐れ」です。
生き物はその基本として死を遠ざけるようプログラムされているので
ひとも生き物である以上死の恐れを持ちます。
そしていくら物理が分かっても「死の恐れ」だけは
今のところ別途扱わなければなりません。

本の中では「仏性」が生じる、というくだりがあって、
この言葉は読み進んでいくと
現代では違う言葉に近くなっているような気がします。
仏はひとではなく、形がなく、普遍的に人の世にあり、
しかし普段は隠されていて、
ふとした折に人の心から発動するもの、というくだりで
最初は「物理」かと思ったのですが、
「仏がなくても物の理はある」というくだりからして、
「仏性」と訳されたものは「良心」と呼ぶものではないかと考えています。
貪愛を治めるものは仏性=良心の発露によるものだろうと
考えるのはどうでしょうか。

犬に生まれながら性格の硬軟があり、
それが遺伝子によって書かれた性質であるように、
良心の作用する理由は遺伝子に常に書かれていて、
捨てることはできず、その発動を待っているとすれば
だいぶ理解ができます。

ジャンヌ・ダルクが「神の名を勝手に語った」として
改革を為し始めた後に陥れられますが、
何に根拠を持って神を告げたのか、と問われたときのジャンヌは
「ただ神と良心に拠って」と答えた、というくだりを
伝記で読みました。
死の恐れに打ち勝てるものがあるとするならば
何らかのよりどころが必要であり、
仏性とはそういう「発動」を求めるものであるように思います。

遺伝子の読み解きが始まって、
「仏性」に相当するコードの仕組みを見つけ出せるのか、
私にはまだ分かりませんが、
それを見つけ出した時「良心の発動」が
この人の世に救いをもたらすことを願っています。

瀬戸内晴美と瀬戸内寂聴

じっくりことことがよい煮物の鉄則、
という不文律のようなイメージを振り払って、
「実験的に」思い切って圧力鍋で
黒豆を炊いてみました。

煮方は黒豆を買った袋の裏に書いてあって、
水6カップ、砂糖150g、塩としょうゆが小さじ1/2をはかり、
水を沸かして砂糖と塩としょうゆをいれ、
沸いた中に黒豆を放り込み、
そのまま一晩おく、とありました。

袋の記述ではそのあと水を足しながら4時間煮込み、
さらに一晩おくようにとあったのですが、
そこまで待っていられないなと思い立ち
圧力鍋で沸騰後12分加圧して火を止めました。

豆がしわになるとか、ふっくら煮えないとかが
成功と失敗の基準点で、
豆はしわにならず、皮も破れず
つやよくふっくら仕上がりました。
来年から圧力鍋で黒豆を作ろうと自信がつきました。

瀬戸内晴美、とは瀬戸内寂聴さんが
仏門にはいられる前の作家名で、
「愛の倫理」という本を
18切符で神戸へ向かった時、
駅のガード下の本屋で手に入れました。

女性が働くことの難しさとともに、
結婚と離婚を経験し、道ならぬ恋をし、
様々な人の像を経験した中身が綴られています。

仏教の本の中に、
「迷いや過ちから仏の種が生まれる」というくだりがあって、
仏教では成功や失敗や善や悪と「決めてしまう」ことがなく、
縁起の不思議を説くその様は
強い迷いの中から自分の行いを元に身をもって一つ一つ確かめ、
道を求め続けた「晴美さん」だから
人の心に訴える優しさを持つ「寂聴さん」になれたのだろう、と
ふと得心したような気がしています。

安らかさ、という言葉を元に、
迎える年をよく過ごせますよう
いつも願っています。

木曜日, 12月 28, 2006

過ちと誤り続けることと

友達の話では、武蔵野線は地理的特性からも線路状態からも
止まりやすいそうです。
ダイヤが遅れるたびに社内放送で
「お客様にはお急ぎのところ
大変ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
という台詞が流れます。

日本人は急いでいることが前提で、
それは何かに一生懸命であるポーズになっていて、
しかし本音では誰も忙しいことなど望んではおらず、
ところが世の中に対して文句を言うときは
「私達は一生懸命やっているのに」と言い、
そして件の車内放送が文句に対する返答になっている、
という不思議な構図です。

忙しいのは臨まないのに
忙しさの呪縛から逃れられない、という理由は、
精一杯を続けなければ生きていけないという
潜在意識があるからで、
その気持ちが自分の喜びも人の喜びも
受け入れられなくしてしまうようです。

何かがうまくなるためには
人が好んで失敗と呼ぶ、
試みたけれど思う結果に至らなかった、
という体験をしておかなければならない、という
ある種の絶対的な定理によく戸惑います。

うまく行く結果は
それ以前の失敗経験を種としてのみ導かれるものなのですが、
失敗と呼ばれるその体験の最中は、
こんなに辛いなら試みなければよかったと
心の底から思ってしまうからです。

だからといって真剣にならず
最初から成るようになるという気持ちで望んだのでは
何もつかめないままです。

人が失敗と呼ぶ「それ」は一体何なのだろう、と
今日も思いを巡らせます。

「過つは人、赦すは神」という英語の諺があって、
それはその通りだとふと思います。
ここで神と呼ぶものは人のようなものではなく、
この世全てと訳し直したほうが適当なものです。

「神」が「難しい」のは、
それがあまりにも強力で複雑な概念であるために、
正しいバランスの元で用いるためには
受け入れる人の側に相当の容量が必要になることです。

火曜日, 12月 26, 2006

昔は良かった、にまつわるあれこれ

わたしたちは昔に向かっても夢を見るようにできているのかもしれません。
中島義道の本の中で、「昔は良かった」と語る人を
「その印象は正確ではない」と言い放つ一節があって、
しかし「昔は良かった」と多くの人が
共感して言いたくなる理由はどこかにあるのです。

未来に対して夢を描く場合、
現在の物事と今まで得た情報から連想する想像で世界を作るので、
比較的構成要素が少ないのですが、
未来には過去にはない
「現実化する可能性」という特性があるため、
楽しみが大きいのです。

一方で過去は現実化する可能性は
既に失われているのですが、
たくさんの情報があるために
その過程を自分にとってなじみのよい形に
変えてしまうことはさほど難しくありません。

近いもの同士が一番うまくいかない、というのが
世の習いのようで、
過去と未来は遠く、
しかし触れられずにいるから自由な想像ができ、
現在は近く、
触れられるほどの距離にいるから状況が縛られています。

過去の記憶、未来の希望、
どれも癒しや安らぎになれるとよいなと願います。

月曜日, 12月 25, 2006

素粒子の思想

たとえば素粒子でもっとも小さなクォークという単位は
分割しても必ず対で生成して
決して単体では観測できないとか、
真空という場は何もない場ではなくエネルギーが非常に大きくて
そこでは非常に短時間の間に
高エネルギーの粒子が絶えず生成・消滅しているとか、
なんとなく相通じる思想のようで面白いのです。

死の恐れは超えられるか

固い床に寝ると
なぜか目覚めがよくありません。
ホットカーペットで寝ても
やはり目覚めがよくありません。
しかし固い床やホットカーペットで眠ると
次の日は眠さより辛さが勝るせいか
起きていられるような気がするから不思議です。

神戸に地震が起こった日、
消火活動を行おうとした消防隊員は
救命活動を求める人の渦に巻き込まれたといいます。
常時であれば叶えてあげられる行動ですが、
非常時には要求が処理能力を超えています。

消火活動をしていると、
瀕死の妻や子供や夫を病院まで連れて行ってくれと
人だかりができ、
振り払うと「人殺し」と罵られたといいます。

それらの声に応じて救命活動にあった者があったといいますが、
結果として消火活動が不十分であったために
火事による犠牲者が増えてしまったと記事は伝えています。

私の中の今までの問いは、
「ではどうすればよかったのか」と考えていたことで、
消防士の視点からこの話題を考えています。

では自分が傷を負った者の立場なら、と考えると
恐れはあるのですが、応じてくれなかった人を責めるところへは
向かわないだろうと思います。

しかし自分が傷を負った人を見守る立場なら、と考えると、
わたしは必死になって誰かに助けを求めたくなるだろう、
そして応じてくれないものを責めるかもしれないと
ふと思いました。

今までと今の私にとってとても辛いことは、
私自身の身の上が辛いことではなく、
私が見守る人の身の上が辛いことです。
なぜそうであるのかはよく分かりません。
そして私が大事に思う人、というのは
自分の身の上の都合よりも優先できるかどうか、という点で
明確な区切りがあります。

仏教の最初には、死に至る過程は誰も助け合えない、
という内容を含んで書かれています。
教は死さえも、また愛着としてさえも執着してはならない、とあり、
確かにそうできれば心の安らかさは得られるのかも知れないのですが、
それはある日分かったような気がして安堵し、
しかしまたある日問題を引っ張り出しては悩みます。

発祥の地インドでも、それを伝えた中国でも、
一方はヒンズー教の台頭により、
もう一方は文化大革命時の訴追により
仏教はそれらの地から遠く離れてしまったと聞きます。
インドと中国に仏教活動を再建する努力をしているのは
実は日本のお坊さんなのだ、と聞いて
不思議な感じがしました。

それが何を伝えるのかは分からず、
それが広まったからといって善い解釈へと
みんなが向かえるようになるわけでもないのでしょうが、
以前誰かが解いてくれた問いというものは
素粒子物理学の基礎と同じように
脈々と語り継ぐ価値はあるなと認めています。

そして私と同じ思想を持つ特別な者が
私の姿を見せてくれたからこそそこに至れたので、
その不思議にとても感謝していますが、
一方でぬぐえない死の恐れを共有していたことを知っているので、
私自身のことのように心配しています。

水曜日, 12月 20, 2006

12/1に出会った一句

眠れず、ホテルの書机の引き出しを開け、
夜中に開いた仏教聖典に載っていた台詞で、
不思議と心が休まりました。

「例えば、蓮華[れんげ]が清らかな高原や陸地に生えず、
かえって汚い泥[どろ]の中に咲くように、
迷いを離れてさとりがあるのではなく、
誤った見方や迷いから仏の種が生まれる。」

「あらゆる危険をおかして海の底に降りなければ、
価[あたい]も知れないほどにすばらしい宝は得られないように、
迷いの泥海[どろうみ]の中に入らなければ、
さとりの宝を得ることはできない。
山のように大きな、我[が]への執着を持つ者であって、
はじめて道を求める心も起こし、さとりもついに生ずるであろう。」

今度1冊買おうと思います。

月曜日, 12月 18, 2006

たとえば、政治というものについて

普段お世話になっている人を呼び、
肉を2kg、野菜、きのこ、とほうとううどんを買って
豆乳しゃぶしゃぶにしました。
豆乳を入れるとあくが固まるので
スープが澄んでうどんもおいしく食べられます。

あっちを立てればこっちがたたない、というのが
どうも人の願いの原則のようで、
政治は何をやってもなぜか怒られています。
改革をすればついていけない人が困る、
保守的であれば腐敗や談合で困る人が出る、
とどんな路線に向かっても100%の結果が出ません。
ということは、選択する行為自体が罪になるのなら
人はみな罪を負うことにもなります。

税を上げれば今事業に困る人が出る、
でも上げなければもっと困る人が増える、
たとえばこういうことの繰り返しです。

ちなみに善と悪という概念は
結局のところ生と死を読み替えたもので、
自分が生きられるようになるものを善と呼び、
生きられないようにするものを悪と呼ぶのだろうと
ふと気がつきました。
だから「自己犠牲」を払う人は
「他人にとって生きる可能性が増える」から善だと
「自己犠牲を払ってもらった人」が呼ぶのです。

木曜日, 12月 07, 2006

優しい風に吹かれて

納豆に漬物、特に青菜を入れるのが好きです。
とてもよい食感と香りになります。

今必要なものが一体何なのかとふと考えます。
町の吊り広告は妙に偏っていて、
男性誌は欲望を前面に押し出したような内容で、
女性誌は愛されを前面に押し出したような内容で、
一体それで何が満たされるんだろう、と
ふと思ってしまうあたりに
自分は「強い」人ではないんだろうなと感じることがあります。

生きることの本質は生きることそのものであって、
欲があるから生きていけるのだとは思うのですが、
何を欲に選ぶかというところが実は任意性があって、
みんなが幸せになってほしいという願いが欲であると
昨今の時勢ではあまり欲が満たされていません。

幸せの定義は難しい、といいますが、
幸せなときには笑っていて、
死の恐れ、正確には死のイメージの恐れから
意識が遠ざかっているものです。

どうしたら心から笑えるだろう、と思うときに、
無心で助け合えたとき、という連想が浮かびます。
松本紳助の本にあった一節で、
友達とは助け合わないもの、というくだりがありますが、
もしそうであるとするなら
心から笑うための条件というのは
それぞれができるだけ助け合わないでいられること、
あるいは助けると助けられるを意識しないこと、となります。

ふと疑問に思うのは、
それなら溺れそうな時は一体誰に助けを求めればいいのだろう、
という点です。
ソーシャルワークが常に完全に機能していればいいのですが、
実際には荒いざるのように漏れがあります。

時々会う友達とは無心で笑えるのは、
それぞれの生活の実体部分が繋がっていないからで、
相互作用が生じる関係では
作用が強くなればなるほど
なかなか何もかも忘れて笑うというわけにはいかなくなります。

相互作用が非常に強く、しかも無心で笑える、というのが
ある種の理想で、
果たしてどんなロジックが頭にプログラムされれば
これが叶うのかと思いを巡らせています。

月曜日, 11月 27, 2006

そして神とは、時のことかも知れず

つくばは落葉樹が街にたくさんあって、
黄色やオレンジや赤の景色が続きます。
雨が降っています。
不思議と寒くはありません。

曲からの連想で
「ふぞろいの林檎たち」に行き当たりました。
ドラマといえばシンデレラ・ストーリーか
勧善懲悪ものか、ただの惨めなストーリーか、という流れの中で、
時の流れそのものに翻弄される「ふぞろい」のドラマは、
その「時の流れが発生した嵐」を正確に描いている点で
もっとも現実らしいのかもしれないと思います。

そういう意味では、ハッピーエンドにならなかった
「東京ラブストーリー」も
実は時の流れを描こうとしていたのかな、と
思うこともあります。

現代物理学では、
時の流れがなければ
すべての物事は止まってしまうだけでなく、
すべての物質が消滅することになっています。

でも、
本当は世界のモデルが何であるかなどはどうでもいいのです。
私に与えられた時の流れが私に望まれているかどうかが
ただ私が時という神に意味を見出せるかどうかの
分かれ目なのです。

金曜日, 11月 24, 2006

夢や希望の示す中身

夢や希望というのは、
「すべての人が幸せになる」という
共通点を持つもの、と定義できそうです。
言葉は正確でないのですが
「災害後の天国」という表現があって、
さまざまなものを失った人たちは、見ず知らずの人とも
助け合って生きていこうと協力することを指しています。

「すべての人に与えられる」という表現に変えると、
本当は地球のあらゆるものは
食べ物にしても石油にしても
太陽の熱か光かあるいはその変化したものを与えられていて、
夢や希望というのは太陽のようなものかなとも
ふと思いました。

雨上がりの空

ひたちなかで朝の5時まで
キムチ鍋を作りました。

ずいぶん遠回りして考えて、
怒ったり、悲しんだり、悩んだり、苦しんだりという感情は
すべてどこかで死に結びついているなとふと思いました。

生き物としてプログラムされた反応として
生き物は死から遠ざかるように行動します。
生き物の目的は「生きること」だからです。

わたしが恐れや心配なく生きるためには、
物があればいいわけではなく、人がいればいいわけではなく、
いつか自分も人も、あらゆる命が
いつか地に戻ることを恐れずに受け入れることが
必要なのだ、という所に至りました。
そしてそれは生き物としてのプログラムに反することであり、
難しいことだなという印象になりました。

月曜日, 11月 20, 2006

ある晴れた金曜日の朝

CHAGE&ASKAの歌で、
ビルの窓掃除をしていて転落して天に召された男が、
次の希望欄に「ビートルズ」と申し送りをし、
そして次の世でビートルズは5人になる、
というくだりの歌があります。
アップテンポでとても好きな歌です。

科学は生まれ変わりを証明できません。
科学の限界は人が一生分の記憶しか保持できない、と
されていることにあります。
証明されていないものは「存在しない」のではなく、
「存在の可能性が残される」です。
この空間では時間が戻らないことになっていて、
与えられるのは未来だけです。

今の世で救えなかったもの、
足りなかった時間のもの、
喜びを与えられなかったもの、
願いを叶えられなかったもの、
私はすべて預かっておこうと思います。
何万年、何十万年かかっても
私は何度でも「わたし」に生まれ変わり、
そのたびに新しい国の新しい言葉を覚え、
砂漠の真ん中、深海の底、切り立った崖の上、
眠らぬ都市の街角、向日葵の咲く丘の元、
何度も生を受けあらゆる場所に私は向かい、
出会い続ける人に喜びとなれるよう、
預かった願いを叶えられるよう
時間の旅を続けたいと次の世に申し送りします。
そして地上のすべての人と出会い、
そのすべての喜びになれることを待ち望みます。

もし今世でも来世でも私にできることがあれば、
遠慮なくご一報ください。

土曜日, 11月 18, 2006

私を成り立たせる3つのもの

寒いのでもつ鍋にしました。
もつは一度酒を足して煮ると臭みが取れます。

いつでも持ち歩いていたいものを
曲からひとつ、絵からひとつ、本からひとつ選びました。

曲はルイ・アームストロング「このすばらしき世界」です。
世の中には恋の歌、未来の歌、希望の歌などいろいろあるのですが、
どれも過去とか未来とかばかり歌っています。
スローなイントロから始まるこの曲は、
今見えるもの、聞こえるものを素敵だと歌います。
日本語でこういうテーマを歌うと
なぜしっくりこないのだろう、とも思います。

絵はパブロ・ピカソ「科学と慈愛」です。
臨終の床にある婦人に対して、八方手を尽くしたけれど
死を止めることができない医師は脈を取るだけの姿、
向かいにいる修道女は渇きを癒す一杯の水を差し出し
子供と共に祈りを捧げます。
科学の進歩や技術だけが決して人を幸せへ導くのではない、
人は決して無力ではなく、
精神の座においてその最後まで何かできることがある、という
訓戒と希望を与えてくれる絵です。

本はミヒャエル・エンデ「モモ」です。
「灰色の男」なる時間泥棒が、人の時間を奪っていく様子は
都市社会の忙しさ、心が奪われるプロセスを
とても正確に描写しています。
時間が奪われるのは灰色の男と
「無駄な時間を減らして時間貯蓄をする」契約を結ぶからで、
貯蓄した分だけ後で何倍にもなって戻ってくる、という
約束を交わすからなのですが、
効率を追い求めることで人は「仕事をする機械」になってしまい
人間ではなくなっていきます。
効率よく働き、事業が成功し、貯蓄をし、
美しい服装、豪華な食事、大きな家、あふれる名声、
手に余る文化的生活と情報、
しかしそれら全てをもってしても幸せとは程遠い気分から
抜け出せないのです。
資本主義がもつ「拡大再生産」の罠を指しています。

仕事の中に喜びと生きがいを見出すのなら構わないのですが、
成功と富を見出すのなら多分違うものになるのだと思います。

「この時間は、本当の持ち主から切り離されると、
文字通り死んでしまうのだ。人間というものは、
ひとりひとりがそれぞれのじぶんの時間を持っている。
そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、
生きた時間でいられるのだよ」というくだりがあります。

「もし人間が死とはなにかを知っていたら、
こわいとは思わなくなるだろうにね。
そして死をおそれないようになれば、
生きる時間を人間から盗むようなことは、
だれにもできなくなるはずだ」ともあります。
物語の中では輪廻が説かれていて、
もう一度新しい生を受けるのだ、あるいは
神の国へと加わるのだとも解釈できる説明もあります。

モモが心の中で見た世界は、
咲くたびにこれが一番美しいと思う花がひとつずつ現れ、
そのたびにモモは心から喜び、
しかしそれは必ず枯れてしまう、
そのたびにモモは心から悲しむ、
そして美しい花はまた必ず咲き始めるという光景で、
それがこの世界なのだという説明です。

時間を守るとか、約束は絶対だとか、
ある意味では人間的美徳とさえされるそういう縛りそのものが
この世界を狭くしてしまうのです。

いつもこの3つのものがあれば、
心の座標は同じ場所へ戻せるような気がするのです。

水曜日, 11月 15, 2006

宇宙人になりたいわけ

カーペンターズの
"CALLING OCCUPANTS OF INTERPLANETARY CRAFT"という曲があって、
最近よく聴いています。

リクエストで曲を流すラジオ番組の周波数帯を通じて
宇宙人が地球人とコンタクトを求める、というイントロで始まります。

宇宙人になれれば
地球人とは争わなくて済むのだろうか、という話は
なんとなく「最終兵器彼女」の最終話にも似ている気がしています。

土曜日, 11月 11, 2006

うまくは言えないが、ある雰囲気について

久しぶりに日記を書こうと思いました。
書きたい事がなかったというよりも、
読み返して良かったと思うような話題を思いつくのが
難しかったからかもしれません。

電車で仕事場に通うと時の雰囲気が良くわかります。
使われている文字をみると、
横文字はすっかり消えてしまって日本語だらけです。
もしくは日本人に読める程度の中国語が増えています。
恐らくイラク戦争や牛肉問題などの影響で、
日本がアメリカを敬遠しているからでしょう。

スタンダード=基準となるべき男性像について、
この国は迷います。
社会の仕組みには大きく2種類あって、
女性系の社会と男性系の社会があるのだそうです。
日本は女性的社会と呼ばれます。
アメリカというリファレンスをなくしてしまったことは、
ある意味で自分たちが主体的に社会を作る権利を得ることになりましたが、
どういう社会を作るかについて少しもまとまりません。

禅や道はストイックなものが良いとされていて、
地震雷火事の続きは怒った親父です。
そうでなければ卑屈な立ち回りか、
古狸のような悪代官みたいな老獪さばかりが目立ちます。
自己犠牲的に命を捧げ、
あとは涙ばかりが残る、そういう人生は
「意義深い人生であった」と思い返すことができるのでしょうか?

ルイ・アームストロングのCDを聴きながら、
日本にいないのはこういうタイプの男性なのだ、と思いました。
それは自信に満ちた明るさであり、
現実と生命を肯定して微笑む懐の深さです。

神の存在が関係しているのだろう、とふと思います。

日本や中国には強い神がいないために、
人がルールを定めることになっていて、
風が吹くたびに人間が揺らぎます。
居心地のいい環境ではないのです。

日本は西洋から技術ばかりを輸入したので
「和魂洋才」なんて言葉になってしまいましたが、
本当に輸入すべきだったのは肯定的な「魂」なのではないか、と
ふと思いました。

日本とアジアを見渡す限りルイのような人物には
ほとんど出会えないような気がするので、
わたしがなりたい人物像を見つけた、ということで
今日は納得しておこうと思います。

土曜日, 10月 21, 2006

人間は神様ではない、といつになったらちゃんと理解するのだろう

筑波山途中のおまんじゅうやさんで
出来立てあつあつの栗饅頭を買いました。
黒糖色の皮のふくよかな香ばしさ、
荒く挽いた飾り気のない控えめなこし餡、
黄金色に染まった丸一個の栗が
とても美味しかったです。

この国はいつしか転んではいけない国になった、
とは島田紳助、松本人志「松本紳助」の一節です。
知り合いの会社員は話の端に
この社会は減点しかしない、とつぶやいたのを
ふと覚えています。

何かの本で読んだうろ覚えの記憶は、
たとえば犯罪の責任が個人にある、という考え方が
普及したのは
たしか17世紀に入ってからなのだそうです。

日本では死んでしまうと許されて忘れられてしまうのに、
中国では死んでも許されないのだそうで、
逆賊の汚名を着た歴史上の人物の記念碑には
今でも訪れる人がつばを吐いて罵るのだそうです。

日本、中国、東南アジアのいくつかの国に共通するのは
主体的な神様がいないことで、
責任の終着点は人になっています。
ヒンズー、イスラム、キリストなどの教義がある国は
責任の終着点が神になっています。

19件搬送を拒否された事件を報道したフジテレビで、
「誤診の疑いもあると見られています」という
裏を取っていないような台詞が現れて、
なんともやりきれない気持ちになりました。

現場の医師が患者を救おうと懸命であることと、
状態から疾患を見抜く見当を外してしまうこととは
まったく別問題です。

切迫した事態の場合、
医師はわずかな時間と情報で判断を下さなければなりません。
呼吸、血圧、体の状態、黄疸、浮腫の有無、
バイタル、既往歴、連鎖的症状の発現順番などから
患者の疾患を「推定」しますが、
情報が分かれば一義的に疾患が特定されるわけではないのです。

熱があって胸が苦しい、という訴えには
風邪から肺炎、結核、心不全、肺気腫までさまざまな
状態が考えられるのです。

間違いを責任だと責める風習がなくならないから
いつまでたってもミスは隠されて
自らが改善されないのです。
外国の人が事故報告などを纏めて
苦労して対策されたガイドラインを買ってくる、
自らの手をかけずに進んでしまう傾向は
島国だから直らないのかもしれません。

どんな人でも必ず間違う、
どうかそのことだけは絶対に忘れないで欲しい、と
いつも思います。

金曜日, 10月 20, 2006

わたしたちが「地球市民」になれないわけ

安倍晋三「美しい国へ」を読みました。
地球市民、という概念がひとつの理想であるように語られるが、
実際にはどの国にも属さないということはできない、という
くだりを読んで、しばらく考えました。

地球市民が作れない理由は
哲学や宗教が違うというだけではなく、
その本質的な理由は人が有限の大きさを持っているからで、
たとえば今日作った出来立てのパンケーキを
地球の裏側の人とは共有できない、という直感に基づくものです。
人が協力し合う、というものの中には
世界の資源をやり取りする過程とともに、
日々の生活を協力するという過程があります。

たとえば共同体の大切さを説いてもらうのは
一面で必要なことですが、
仕事でさまざまな土地を渡り歩く人にとって
「属するもの」の概念とは何だろう、と
ふと思います。

火曜日, 10月 03, 2006

パソコンの置き場所

久しぶりの加速器試験で徹夜明けです。
今までデスクの上にパソコンを置いていたのですが、
どうも音がうるさいのか電磁波が出ているのか
近くにいると気分が良くなりません。
というわけでパソコンを床に置き、
デスクと引き戸で見えないところへ置きました。
なんとなく気分も良く気に入っています。

水曜日, 9月 20, 2006

既に物語は書き終わっている

夏が戻ったような日差しの色です。

以前見たイミダスのページ下コラム集の中に、
「名医という言葉がある限り、医学は科学ではない」
というくだりがありました。

人は自分に自由意志があることを
自分にとっての人間性の根幹として認めています。
「人の意志」が本当は自由ではなく、
物理的プロセスによって既に決められたもののはず、
それならこの世界の全てがどうなるかは
「分からない=決まっていない」のではなく、
人が知りえないだけでもう決まっているはずだと
昨日帰りの電車の中でふと思いました。

現代物理学が示したのは、
この世界には時間軸のある一点でビッグバンという「始まり」が生じ、
全ての現象はそこからの時間発展で起こっている、
という事実です。

高エネルギーの世界では時空のねじれがありますが、
人間が生きる時空では時間が元へは戻らず、
あらゆる現象は、瞬間ごとの厳密解は分からなくても
基礎となる物理法則の組み合わせで動いています。

人の理解が進み、現象論的空想が減り、
人の精神活動も生命も脳が化学的プロセスに従っていること、
そして化学的プロセスが物理法則に従っていることを
そのまま演繹すれば、
自分も人も、実は「今何を考え、次に何を考えるか」は
既に決まっているはずなのです。

人間はどこかでこの物理的世界と切り離された存在があると
勝手に思っていて、
だから「自分の人生を自分で決めて生きている」ことになっていて、
意志と現実は違うもの、
神様はリアルタイムに筋書きを書き換えるものだと思っていますが、
「意志」という何かさえもこの世界が作り出したものであり、
基本法則に一度も手を加えられていないのであれば、
全ての物語は「始まりの時」に書き終えられていて、
時間の流れに沿って現象=プロセスが進行しただけということに
なります。

たとえ神という存在を信じようと信じまいと、
人の心に生じる感情を含めた全ての出来事は
この世界の必然として生じていることは
物理学が証明していることになっています。

かつての全ての文明が滅んだことも、
世界中で戦争が止まないのも、
地球の裏側から食料が届くようになったのも、
そして人が地球上に非常に増えてしまったことも、
たとえば生きがいを持つ人と持たぬ人がいることさえも、
既に物語の中には描かれていた話です。

自分が自由意志で物語をずっと作っていき、
全て自分という存在が
全ての現象とは独立に判断している、としたら
それは未知の只中にずっと放り込まれたようなとても苦しい話なのです。
しかし自分が誰かに合い、さまざまな境遇にあうことさえ必然なら、
私の心がどう振舞うかもまた必然の元にあるはずで、
私に会う人が何を話し何を感じるかもまた必然の元にあります。

自分の体と心は常にある物理法則に従って動いている存在で、
自分が思いこんでいた「自由度」というものは自分にも他人にも一つもなく、
世の中の現象と解釈は時間発展的に必然として起こっているのであれば、
私があることも私が考えることも既に決まっていて、
私が何を為し何を知り、どこにいるかも本当はもう決まっていて、
迷うことが必然なら実際にはもう迷う必要がなく、
人の感情について難しく考えることはなくなります。

この考え、一見「自由度」がなくて不便なように思いますが、
実はその逆で、非常に安心できて意味のあるものです。

火曜日, 9月 19, 2006

都市生活的「自給率」の定義

弁当を詰めてみました。

料理を作ると不思議と心が落ち着きます。
自分が食べる=生きていくということを
自分でまかなえているという実感が
はっきり持てるからかもしれません。

実家には田んぼと畑がありました。
柿や栗やびわがなり、
いくつかの野菜は畑から採れたものでした。

あらゆるものを「買う」ということは、
物を手に入れる流れの中に自分ではない誰かが
仲介していることになります。
そして「買う」という行為に
自然とつながっていない心細さを感じることがあります。

もちろん自然というものがいつも優しいわけではありません。
台風がくるし、旱魃が起きるし、
夏もあれば冬もあります。
それらを安定化するために農業と科学が発展し、
以前より安定した生活ができるようになったのですが、
生きるために人の手を借りなければならないことが
次第に増えていきます。

都市生活者は自給率がゼロなのだろうかと
ふと思います。
農業用機械があるから農業がうまく行き、
よい肥料が作れるから農業がうまく行き、
よい医療があるからお百姓さんが健康に働くことができ、
そういうよい循環は間接的な自給率なのでしょうか。

どうか、自然の力が人に多くを与え続けてくれますように、と
今日も願います。

金曜日, 9月 15, 2006

座禅は目を「閉じない」

ハウスみかんは緑色のまま出されます。

小さい頃読んだ事典の中に、
眠っているほうが静かに座っているより
エネルギーを消費する、と書いてあり、
子供ながらに不思議に思っていました。

眠ることは決して脳を休めるわけではありません。
むしろ忙しく記憶の整理などをはじめます。
ダイナミクスとしては眠っているほうが変化が大きいのです。

最近、目を見開いた状態にせず、
軽く開けた状態にすると気分が楽になるような気がしています。
座禅は「目を閉じる」のではなく、
「うすらぼんやり開いている状態にする」のだそうです。

幸い目は良いのですが、
見えすぎるのも困り者だ、とふと思います。

水曜日, 9月 06, 2006

悲しみの遺伝子も大切に

カフェインは苦手ですが
お弁当と一緒に飲む熱い日本茶は好きです。

特に大きな問題もないのに
なんとなく気分が悲しめな日がかなりあります。
いつも笑顔、というのが
世間としては喜ばれるんだろうなと思いながら
なかなかそうもいきません。

平安時代は男も女も
喜びにつけ悲しみにつけ涙を流したといいます。
その後は無常観、諦念へとつながります。

戦後の復興があって、
笑顔でみんな乗り切ってきたかというと、
なぜか激動の時代を歯を食いしばって、という感じです。

たとえば犬は血種によって性格の傾向が
決まっているように、
体つきの違いと同じように
感情の持ち方は遺伝するような気がしています。

笑顔だと免疫が高まって長生きできる、
そんなニュースが流れていたりして、
じゃあ今日本のご長寿の方がみんな快活で笑顔な
人生を送ってきたか、というと
決してそうではないと思うのです。

良いか悪いかとは関係なく、
この国が持っている一番大きな感情は
悲しみである気がします。

これが大陸のほうへ向かうと、
一番大きな感情は「怒り」だったりして、
戦うことで生きているような感じです。

自分の中にふと生じる悲しみは
ずっと昔から受け継がれてきた
感情の続きなのかもしれない、と思い、
そういう悲しい自分をうまく表現できると
自然と心は休まってきます。

火曜日, 9月 05, 2006

既得権益という壁

理屈の上では問題ないように見えるシステムに
何らかの違和感を感じ続けていて、
それが「既得権益」というものであることに気づいたのは
今朝のことです。

程度の問題はありますが、
一度自分が手にした権利を守るために
他人を排除する、という行動を基本的に好みません。
全体として助けあって生きようとしない者を
人間として理解することは難しいと思います。

「労働貴族」という言葉があって、
縮小しようとする経済の中で
最も問題となる存在だと思っています。

水曜日, 8月 23, 2006

とても矛盾した要求の試み

人は何かを認識する生き物です。
認識すると同時にそれは「存在」へと変わります。
ということは、普通に生きて覚えているだけであれば
認識の時間が増え、つまりは
「その人にとって」存在する事や物の量が増えます。

何かのメッセージを自分の中に残したくて読んだ
ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」の
最後に書かれている言葉は、
「私の話は忘れて生きていきなさい」という意味で、
徹底的に記憶し証明した過程を
最後に捨ててしまえという点がとても意外で印象的でした。

世界に悲しいことはいつでもたくさんあるはずなのですが、
悲しくないとき、というのは
「悲しいこと」がなくなっているのではなく、
悲しいことを忘れているときです。

一つの仮説ですが、人が戦争をしないとき、というのは
「戦争」という概念がなくなっているのではなく、
戦争自体を忘れているときと解釈できないでしょうか。

世界は、どうも覚えるほうが好きらしく、
知識も歴史もあればあるだけ覚えよ、
忘れることなく問いかけよと要求し続けられます。

人はどこかで自分が決めた特定の事柄を「忘れる練習」
をする必要があるのではないかと考えています。
特定の事柄、を「意識的に選び出して」
しかもそれだけを忘れよというのだから論理自体は矛盾しています。

記憶は思い出す限りその人にとって存在します。
新しいこと、美しいこと、もともと目的や価値を持たないものに
意識を向けることは、
縛り付けられた記憶を積極的に忘れるために必要です。

役に立たないものに触れ喜んでいる時間が増えること、
音楽や芸術や自然の景色、が
人の心に「忘れる」という効用をもたらしてくれるような気がします。

I'm not "the only one"

朝の通勤にあわせて
ココア味のプロテインを飲み始めました。
アラビアかどこかの諺で、
「腹が満たされれば精神は肉体になり、
腹が空けば肉体は精神になる」というのがあって、
体と精神は互いに支えあっているという印象を受けます。

まだら模様の世界の続きです。
確かに世界中からいつまでたっても
争いはなくなりません。
哲学の本によると、
「取得可能と思っているものを求める限り
世界全体が幸せになることはない」とあります。
富も権力も恋愛でさえも、
それ自体を追い求めるなら争わなくてはなりません。

世界がどういう状況であるか、ということと、
自分が何をどう解釈し何を願うか、ということは
本来別物です。
自分という「独立したもの」が世界のありようを、
全体として矛盾が生じない解釈ができれば
どう解釈しても自由です。
そして世界の解釈や向かう方向と私の希望が違っていても
本来は一向に構わないはずなのです。

確かに欲や希望だってたくさんありますが、
自分のありたい自分の中で一番強いものは
「全ての人が争いも欲も競争もなくして
静かに幸せに生きていけたらいいのに」という願いです。

現実を解釈する限り願いとはいつも違っています。
欲を信じて生きていきたい、
傷つき、傷ついてもそれで構わないという人にとっては
ずいぶん迷惑な願いであるだろうからです。

時々自分が現実と違う願いを
持ち続けていることに苦しくなります。
ただ儚い夢を追う者かもしれないと感じるときは
時に無力感を強く持ってしまいます。
そしてなぜか世界から
一人取り残されたように錯覚してしまいます。

今朝、Keiko Leeのカバーで
"Imagine"を聴きながら、
"You may say 'I'm a dreamer',
but I'm not the only one"という言葉が流れてきました。

世界のどこにいるかは分からないけれど、
この世界でこう願う仲間が必ずいる、という一言は
内なる自分のもっとも深い部分を満たします。

世界の争いを争いの衝突によって消滅させるのではなく、
争い自体を
「自らも争わずに、そして自らも苦しまずに」
消滅させたいのです。

http://www/sitesakamoto.com/wtc911/20010926-j.html

成果主義、生産性の増加、拡大再生産、
声高に叫ばれる競争原理はいったい誰のためなのか、
社会は「あなたのため」だと言っているようですが、
それは本当なのでしょうか?

積み上げられた技術の成果として作られた
「仕事をする」機械や計算機の山、
空を飛ぶ銀の翼や地を駆ける鉄の馬、
それらは心あるものが使えば人の役に立ち、
心無いものが使えば人の存在を追い込みます。

大人は子供に戻ることはできない、
つまり力のない存在、権利のない存在へと
戻ることはできません。
どうか、自らの今を自ら自身の心で満たせますように。

http://www.sitesakamoto.com/wtc911/debrisofprayer/index.html

日曜日, 8月 20, 2006

体を冷ます水

暑さ寒さも彼岸まで、という言葉があって、
暑さの峠もあと一月です。

暑くて、というよりも
体が熱くて眠れなくなるときがあります。
小さいころからどうも体が熱いのに慣れることがなく、
夏はプールに行ってました。

半年振りぐらいにプールに行き、
しばらく泳いでいると、
自然と体の芯が冷えていきます。

ほかの運動、たとえばジョギングとか散歩とか、は
だんだん体に熱がこもってくるのですが、
プールだけは例外で、
泳ぐスピードが上がるほど体の周りに流れる水が増えるので
それほど体温が上がりません。

まだいけるな、まだいけるなと思っているうちに
自分の体力を使いきっていることに気づくのも良いところです。
ジョギングではたいてい辛さが先に来て、
体力を使い切るところになかなか行かないのです。

一昔前までの世代は
体を動かすのがほとんどの仕事だったのに、
今はオフィスで頭脳労働がメインになってしまっています。
体を動かさないと体が弱るからいけないのではなく、
体を動かさないと入力のバランスが悪くて脳が困ってしまうのではないかと
ふと思います。

都会の人が気軽に水に触れることも減ったのでしょうか。
プールに行くと、エアコンでは冷えない体の芯が冷えます。

火曜日, 8月 15, 2006

ほとんどの場合、逆演算してはいけない

停電の影響はもうありませんが、
お盆で人が少ないせいか電車が空いていて
慌しさを少し忘れます。

人はいろんなことを知るほど
「未来予測」をしようと試みます。
鉄が1500℃位で解けるのは何度も実験された結果で、
知っていく知識は「普遍的に使えるもの」が多いものです。

未来予測とは逆運動力学の逆演算と同じです。
あるべき将来の姿を定め、
それに必要な手順を割り出すものです。
手順には複数の方法があります。
「将来」の予想は10分先のものもあれば
2年後とか3年後とかいうものもあります。
そして逆運動力学というのは
答えを出すのに非常に長い時間がかかり、
場合によっては解けないことさえあります。

「どのくらい普遍的か」ということには
相当に程度の差があります。
りんごを手から離せばすぐ落ちるのは
地球の上ならどこでも100%に近い確率ですが、
電車が今日も順調に乗り継ぎできる、ということは
りんごの確かさとは程遠いものです。

分からないことに対して
「どうしたらいいのだろう」という問いがあります。
未来に関して言えば、実は打つ手がないことが多いものです。
このとき、「どうしたらいいのだろう」は逆演算で、
逆演算する限り不安定な気持ちはなくなりません。

逆演算が安定に行える、推奨される条件は二つあり、
一つは目標である「何をすべきか」が明確であって、
もう一つはその途中を埋めるプロセスに無理がないときです。

1年はあっという間、という表現が苦手です。
去年と今年はあまりに違いすぎるからであり、
去年思っていた1年先が今年その通りだったことがないからです。

順運動学の演算というのもあります。
現在のプロセスを見て、一つ思考し一つ試み、
一つ振り返ることです。
この方法の利点は、
逆運動学に比べて非常に解が簡単なことです。

世の中にあふれたHow-to本は
「何をすべきか」が分かっているときに役に立ちますが、
分からないときには役に立ちません。
そこで分からないときに
何かしなければと焦ったり不安になったりしますが、
「何をすべきか」分かっていないのでは
何をしても何を思考しても=いくら逆演算で解こうとしても
答えには行き当たらないのです。

人が生きる中で、逆演算が必要な瞬間と、
逆演算をしてはいけない瞬間があることが分かります。

未来予測に逆演算は通用しないとすれば
何をすればいいのか、と考えると、
そんなときこそ順演算をすればいいのです。
遠い未来を見て現在のベクトルを考えるのではなく、
過去と現在を見て近い未来を観察する作業に当たります。

未来が不安なときに現在へ視点を移せ、というのは
非常に難しいことだと思います。
確かに過去起こったからといって
もう一度それが起こる保証はないのですが、
その中でも比較的「普遍的」と思っていることは
もう一度起こる可能性は高いものです。

未来が不安になったら、「どうすればいい?」という
逆演算を強制的に止めることが必要です。
未来について考えることはやめ、
過去と現在から「ヒントを得ようとする」のではなく、
どんなことがあるかだけを観察してみましょう。

「どうなるかわからない」という時は
大抵不安なときの台詞ですが、
もしかしたら
想像以上に良いことが起こるのかもしれないのです。
逆演算の欠点は、
「欲しい目標」への達成度が100点満点になってしまうことで、
ミスすれば原点しかないような気分になることです。
順演算はもともと目標がないために、
良いことがあれば、少し行動できればプラスだと思えます。

過去と未来の大きな質的差は
「逆演算が求められる量」の増加に由来すると思っています。
リクエストに答えることは逆演算が必要で、
もしかしたら逆演算をする脳の機能は
ひどく疲れてしまうと動かなくなるのではないかとも思っています。

日曜日, 8月 13, 2006

100点満点で10点を出しても許される場所が欲しい

土曜と日曜は
ハンバーグと豚の角煮にしました。
ハンバーグがとてもよくできました。
付け合せのポテトもおいしくできました。

料理の美味しい香りを大切に出せるような
作り方が少しずつ身についたように思います。

褒められることは一般に嬉しいものです。
褒めようとしてくれる人も特に悪気がありません。
むしろ良かれと思ってくれています。
ところが褒められることを
どうしても断りたい気分になることがあります。

褒められることの中に「期待」が含まれていると、
なぜか叶えなければと緊張してしまうのです。
期待をされる、ということは
がっかりされる危険を伴うことでもあるからです。

人がどのくらい期待しているのか、
なんとなく感じる力が強くなっていると感じます。
本当は期待に応えるかどうかは自分の権利であるのに、
期待はその権利を時に使えなくしてしまいます。

私が望む「本当の安らぎ」は、
実は期待で振り回さずにただ向き合って欲しい、
特に何も望まずそっとしておいて欲しい、
という一点にあります。

自分が何か結果を出せば出すほど、
だめな自分がどこかへ置いていかれるのです。
そしてその「だめな部分」は消えることはなく、
置いて行かれた時間だけ増えていきます。

時に非常に強く自分を苛む感情は、
「期待に応えなければだめになってしまう」というものです。

本当は期待に応えられなかったら
次がある、と思えればよかったのですが、
たった一回しか訪れない出来事に対して
「また次がある」と思うことは難しいことです。

そして人の「期待」というものが
私というものの成り立ちを難しくしてしまいます。

私は神様ではないのだから100点は取れない、
では何点だったらみんな納得してくれるだろう、と思ったときに
私が考えた点数はなぜか95点で、
これでは生きていくのは非常に難しいな、と
いつも思っていました。
これは常識的に考えれば理不尽な話で、
意識を修正する必要があります。

失敗は許されないという思いは、
時に非常に強い前向きの力となって
一心に行動に向かわせる原動力となることがありますが、
他方で非常に強いストレスになり、
できなかったときの自分を責め続けることにもなり、
また失敗したらどうしようという強い不安も呼びます。

「失敗しても大丈夫だよ」という安心があれば
もっと前向きに挑めるのに、とも思いますが、
人間は未来が見通せないので
「失敗するかどうかは分からないね」と言うのが関の山です。

失敗をたくさん経験した人は
「失敗しても何とかなるもんだよ」と言ってくれます。
ふと「失敗恐怖症」の連鎖に入ったときに、
そういってくれる人が必要だなと感じます。

「成果主義」という表現があって、
私の最初の解釈では「90点以上をとり続けること」が
その意味だと漠然と思っていて、
実は日本人のかなりがそう感じたのではないかと考えたのですが、
その解釈はあまりにも間違っています。

この解釈、試験制度に強く由来する連想でしょうか?
そうであれば一刻も早く
理不尽な連想を修正する必要があります。

野球のバッターは3割打てれば賞がもらえる、
つまり30点でいいのです。
成果主義も試みの30%が成功すれば
もうそれで十分すぎるほどなのです。

とにかく、人生の評点に対する印象は
「赤点」ラインの60点でも高すぎます。
がんばっても24点ぐらいで、
「よくできたね」というところにしたいものです。

そして「期待の量も24点まで」ということで
自他共に納得しておきたいものです。

土曜日, 8月 12, 2006

一人になって読む本

たとえアマゾン奥地への探検でなくても、
何年も週刊誌を読まなかった自分が
思い切って「週刊文春」を買ってみたのは
かなり大冒険です。

よりによって「週刊文春」である理由は、
通勤電車の吊り広告にびっしりと載せられた
「他人の醜聞」にいつも腹を立てていたからです。
芸能界、皇室、政治、風潮など
話題のねたはいくらでもありそうです。

そこまで悪く書けるんだったら
どこまで徹底的にやっている覚悟なのか
試してやろうじゃないか、と決心し
買って読んでみました。

実際には吊り広告は「張子の虎」で、
日本人らしく良心的な記事も載せながら
署名記事でさえない「マイルドな書き口」の文書が
わずか数ページ並んでいるだけでした。

ジャーナリズムがワイドショーが、と騒いだところで
徹底的な追及のレベルが低く、
西洋のタブロイド誌のように
これでもかと醜聞を煽るようなことはありませんでした。

醜聞以外にも地味で良心的な読み物があって、
それらのタイトルを前面に持ってきた吊り広告を作ったら
違う雑誌になるんだろうな、とさえ思うほどです。
今度タイトルを並び替えてみようかと思います。

久しぶりに良書を見つけました。

鴻上尚史「孤独と不安のレッスン」です。
もちろん共感する部分も多く、
さらに著者自身がきちんと不安について語っていることが
何よりの慰めになると思います。

自分で考え、自分に身についた思想だけが
どんな場所でも通用するたった一つの「拠り所」です。

たった一人でいること、そのときに考えていること、
誰でも不安と孤独には向き合わなければならないこと、
それを優しい書き口で教えてくれます。

しばらく持ち歩く本になりそうです。

ちなみにわたしは
「曲は比較的ゆっくり、明るめで
しかし歌詞が悲しい歌」がとても好きです。
悲しさが惨めさではなく歌で美しく表現されるからでしょうか。
または世界には悲しいことがある、ということを
忘れず、しかし優しく諭してくれるからでしょうか。
それとも悲しいときにやってくるものが「絶望」ではなくて
穏やかな喪失感や緩やかな感情の高まりになりうることを
示唆してくれるからでしょうか。
何度聞いても暗い気分にはならず、
むしろリラックスできます。
前向きで明るく前進的、もちろん自分には
そういう日もありますが、それは「他人向け」の自分であって、
自分本体には人と抱えることが困難な悩みがあります。

木曜日, 8月 10, 2006

問いかけを「忘れていなければならない」問い

自分の読んだ本の「内容」が理解できる段階と、
いくつかの本の内容を比較できる段階は
違うものです。

哲学あたりの本、
ショーペンハウエル「幸福について」、
ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」、
カント「純粋理性批判」、
大乗仏教、坐座仏教なんかを読んで
現在までに思った共通認識は、

「なぜ生きているかという問いだけは
可能な限り忘れていなければならない」

というものでした。

カントはそれが
「生きることには理由と意味を持たない」という言葉で、
ヴィトゲンシュタインは
「生の問題の解決は、問題自体の消滅によって為される」という言葉で、
大乗仏教は
「生きているそのものこそが生きる理由である」という言葉で、
坐座仏教は
「現在にのみ集中した自分のみが全てである」という言葉で
それぞれ共通した思想を語っています。

私たちは数式を解く際に確かめられた公式を使って
便利に生きています。
もちろんその公式が正しいかどうかを自分で考えることが
一度は必要ですが、
証明がすめば後は安心して使うことができます。

命がけで哲学研究というものをした
過去たくさんの人の「公式」を使わせてもらうことにして、
この問いを可能な限り忘れることにしようと思います。

火曜日, 8月 08, 2006

魔女の血、絵描きの血

久しぶりにメカ設計始めました。

時々頭の中が矛盾だらけになります。
客観的にみれば何も変わっていないようで、
実は1秒1秒をやり過ごすのがやっとであるほど
存在とか意味とかに強く囚われていることがあります。
それが解けていくと、
落ち着いた自分を取り戻すことができます。

「魔女の宅急便」を買って観ました。
飛ぶこととそれに自信を持っていること以外取り柄がなくて、
でも飛べることだけを頼りに街へ出る
13才の女の子の話です。

素直な田舎で育ち、疑うことを知らず、
正しいと思った方向へまっすぐ進みますが、
最初はなぜか世間と歯車が合いません。

孫を想うおばあちゃんの「にしんのパイ」に心から共鳴し、
壊れた電気オーブンの代わりに薪のオーブンを提案し、
パーティーに遅れそうになり、大嵐の中で届けたのに、
受け取った孫は「あたしこのパイ嫌いなのよね」と
冷たく返事をされてしまいます。

一生懸命やってきたことは何だったのだろう、
そう迷う気持ちが魔法の力を弱め、
ある日たった一つの「飛べる」自信さえなくしてしまいます。

なにも取り柄がなくなってしまった自分を
絵描きの女の子が訪ねます。
自分の中にある「力」は不確かなもので、
そんなときはどうするの?と問う小さな魔女に
「じたばたするしかない、
それでだめならしばらく諦めるしかない」と告げます。

絵描きも決して悟っているわけではないし、
苦しまなくなったわけではないのです。
ただ何度も壁にぶつかり、
その度に問い直した結果なのだと思います。

この映画が特に好きなのは、
「世間から見るとありふれたものかもしれないけれど、
自分に備えられた、好きで大切な何かを
生きる糧にする」ことが
描かれているからかもしれません。

与えられた仕事をひたすらこなし、
評価基準が比較的明確である段階から、
自分が発想して環境を作っていく段階へと
時間が経てば全ての人が移行するように
この世界はできているのです。

そのときに社会の瞬間的な流れに沿うのか、
それとも沿って行かないのか、
答えのない判断を絶え間なく続けなければなりません。

先達がいるところは楽です。
でもそこに自分だけの場所はありません。
生きる辛さは分からない辛さと同じで、
人は一生かかっても全てを知ることはできず、
しかし自分を知りたいという声を
ごまかすことがなかったものだけが
至ることのできる感覚や意識があると思います。

世界に対する感覚を鋭くし、
たくさんのことを知れば知るほど、
世界は矛盾だらけで混沌としていることも分かり、
自分も人も理不尽で不条理な存在であることも分かり、
そんな日は生きる意味が見出せず
気持ちが大雨になります。

しかしそれら全てを超えて
優しく受け入れたいと願う存在だと至りたい、
生きていること自体に意味があると思っていたい、
気持ちが晴れた日にはそう思います。

なんだかカップ麺が食べたくなってきました。

土曜日, 8月 05, 2006

お酒を規制する必要のある人と、むしろ勧める必要がある人について

お酒は健康を害するものである、
だから基本的に節制しなければならない、
こんな台詞ばかりが世に並びます。

さて、先進国の中で
実は日本はお酒の消費量が少ない国です。
http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/1970.html

大人のたしなみとして同列に挙げられるのは
酒とタバコです。
どうも表向きの声は「酒はできるだけ控えましょう」なのですが、
酒はタバコと違って重要な薬理作用があります。
http://www2.health.ne.jp/library/5000/w5000392.html

処方箋なしで買えるある意味で非常に強力な薬であり、
タバコはなくなっても酒はなくしてはいけないもののはずです。

依存になるかどうかは難しいのですが、
私には酒を「嫌いでも意識的に飲まなければならない人」が
少数ですがいると思っています。
思考回路が循環してしまう人の場合、
自分の思考回路だけでは発振してしまう人の場合は
発信を減衰させる役目として酒が有効です。

酒は判断力や明晰を鈍らせるから
車に乗るためにはもっとも向かないものですが、
思考回路が循環して苦しんでしまう人にとっては
これほどありがたいものはないはずです。

池谷祐二「進化しすぎた脳」の観点から言えば、
肉体労働から頭脳労働へと移行するに当たり、
複雑に構成された脳こそ不安定性は非常に高まります。

脳の負荷と能力は非常に高められているのならば、
それを何であれ安定に動作させなければなりません。

ブラックジャックの一節に、
一杯飲んで忘れましょう、というくだりがあるのですが、
もし辛いことや苦しいことが
たとえ一時でも心から忘れることができるなら、
逃げられない牢獄のような意識から開放されうるなら
それは必要なことかな、と思います。

私は酔ってうまく動けなくなる自分が好きではなく、
それで意識的に飲まないようにし続けてきたのですが、
私は実は定期的に「飲むこと」を要請されなければならない
タイプかも知れないと思いました。

酒を飲んで理性のたがが外れ、
我知らず何かをする人もいますが、
私の理性は酒を飲んで酔ったぐらいでは外れそうにもなく、
酔ったままでも意識を纏めて日記を書き続けられます。

決して表からは聞こえない「必要な言葉」

せみが鳴いています。
アブラゼミの鳴き声は
なぜか暑さを増していく感じがします。

哲学書を読んでいてふと思ったことは、
「人間は何であるか」はとことん追及できても、
「人はなぜ生きる意味があるのか」は追求できない、
という一点でした。

「あなたはただ生きているだけで素晴らしく意味がある」
この言葉をとても必要としている人がいます。
もしかしたらその数はとても少ないのかもしれませんが、
それが満たされていれば自らは進んで譲り、
人にたくさんのものを喜んで与えることができるタイプの人です。

ところが、その声は現在の社会では厳重に隠蔽されています。
「あなたはただ生きているだけで素晴らしく意味がある」
とこれを自由に解釈されてしまうと、
奪い合いも殺し合いも何でも構わないのだ、と
非常に極端な発想を止めることができなくなるからです。

現に紀元前後の特に西洋世界というのは
戦いに明け暮れ、都市が成立しては崩壊する繰り返しを辿ったので、
ひとまず生命だけは確保できるようにと
道徳、風習、宗教が便宜的に
「社会的意義によって生きる意味」を持たせようとしました。
その台詞は
「社会的に尽くすことができなければ生きてはいけない」
という強い表現で表れます。

社会的意義がなければ人が存在できないとしたら、
それはなんと残酷な世界になることでしょうか。

何らかの期待にどうしても応えることができず、
それでも赦された者は、
社会的意義とは別に自分自身に意義を見出すチャンスがあり、
区別ができるのですが、
偶然が重なって様々な要請に応え続けることができてしまった者は
社会的意義がそのまま自分自身の意義になってしまう可能性が
非常に高く、
社会的意義がなければ自分が存在してはいけないという
極端で解きにくい錯覚に陥ってしまいます。
これは決して幸せなことではありません。

王監督ががんから2週間で復帰したといいます。
人間として王監督を見るならば、
2週間で社会復帰すれば体に無理が来るのは必至で、
どうしてもしばらく休ませなければならないと思います。
即座に現場復帰したからといって、
プレッシャーの中で自らを傷つけて欲しくはないのです。

正確に表現するならば、
社会性が不足していて、
宗教や道徳や社会性の規制による社会性の醸成と
尽くす活動をより推進することが必要な人もいれば、
社会性が過剰にあるために
自らを省みて自己犠牲への希求を和らげ、
自分自身を大切にしなければと許すことが必要な人もいます。

社会的システムの中では
後者が望まれているはずなのですが、
ところがその社会が「通常出している」メッセージは
主に多数存在する前者に向けたものであるため、
後者が社会の表向きのメッセージだけを正面から受け止めると
彼らにとっては社会に尽くし望まれていながら
皮肉にも非常に生きにくい世界になってしまいます。

日本社会が「社会性」側を極めて重視する構造であることは、
実はある意味で日本人が「強力な社会性」で縛らなければならないほど
ただ自由意思で生きている存在だろう、と
お互い思いあっているからかもしれません。
そしてその構造自体に苦しむ、「社会性がもともと強い人」が
かならず少数ですが存在するのです。

宗教も哲学も倫理性も法も社会的プロパガンダも、
ある人にとっては必要でありある人にとっては必要ありません。
実は普遍的に広める事自体に問題があり、
恐らく多くの人を救えますが少数の人は救えません。
しかしこのことを公に認めてしまうならば、
実はそれぞれの存在意義を強く揺らがせてしまうために、。
「ある人にとっては必要である人にとっては必要ない」という一言は
極めて強く隠蔽されます。
「良いことだから広めなれば」というのが
それらの存在意義の大前提になっているからです。

社会の表側からは聞こえない台詞であるとするならば、
優しいを善とするとかそういうことではなく、
社会性と自己犠牲を非常に強く持った人たち、
存在意義を見出そうとしている人に対して、
「あなたは生き、存在意義を探そうとしているだけで素晴らしく意味がある、
だからもっともっと一人の人間として自分自身を大切にして欲しい」
というメッセージを
わたしは社会の裏側から大きな声で発信します。

それは社会とは多数派の意思によって流れが決まるだけの存在であり、
多数派が良いわけでも悪いわけでもなく、
しかし生きやすい人と生きにくい人を必然的に作ってしまう、
そういう構造のものだからです。

自分がもし多数派になれないのであれば、
多数派に逆らうわけでもなく離れるわけでもなく、
少数派であることは認めてしまって、
社会的「中心」の教義は丸呑みにできないのだけれど、
折り合いをつけてうまく付き合っていけばいいのだろう、と
今は思います。

金曜日, 8月 04, 2006

ほのかに嫌いあうことを認めること

理系には理系の本ばかりが与えられ、
文系には文系の本ばかりが与えれる、
という枠を少しはみだして
哲学の本に触れる機会ができました。

読む本が難しいと思うかどうか、という点では
いろんな要素が作用します。
慣れ親しんだ用語が少ない本はつまづくし、
興味がない話題は頭に入らない、
それはまるで話の合う人と話の合わない人がいるように
ある意味自然なことです。

もう一歩話題が進んで、
”共感できる本は好きで共感できない本は嫌い、
でも嫌いな本でも役立つから置いておく”、
こういう経験はあります。
しかしここで「本」を「人」と置き換えた場合、
その中身が成立しないことがどうも頻繁にあります。

「村社会」という独特の表現があって、
和を保つことが生きることより優先される、という雰囲気は
人の移動が少ない社会で起きる
ありふれた現象なのだろうと感じます。

人は嫌い合う生き物である、
この表現を自然に出して受け入れられるかどうかは
多様性を認めるかどうかの試金石として作用します。

中島義道の本
「人を嫌いになるということ」の中に、
「ほのかに好き」があるなら
「ほのかに嫌い」もあっていいのではないか、
という表現に目が留まりました。

好きなものがあるからこそ嫌いなものがあり、
嫌いに段階があることを認めることができなければ、
仲間か仲間はずれかの極端な2極しか現れません。
自然と生じてしまった感情を単純に押さえ込んでしまえば、
「和をもって」という言葉は調整役にならないのです。

「嫌い」が「生命の危険」と分かちがたく結びついた場合、
「嫌いの表現」を抑圧することによって
「肉体的に生きてはいるが精神的に歪んだ世界」ができます。

村社会が健全であるためには、
極端な「和への束縛」は好ましくなく、
感情的には緩やかに繋がっていれば十分です。

しかし「人は嫌い合う生き物」ということを
何の補足もなく単純に野放しにし、
多様性を原理主義的に肯定してしまうと、
主観で見ることや違いを放っておくことが増えていく心配があります。

極端な例がアメリカで、
コミュニティの中ではやはり村社会らしいのですが、
表向きには成果主義が認められていて、
ある意味で出来ないものはできないままだったりして、
相互扶助の精神が成り立たない場面が現れます。

田原総一郎の番組では、
よく政治家に「では理想の国家像とは何ですか」と問う場面があって、
しばしば一緒に答えに詰まっていました。
ある人はスウェーデンだと言い、
ある人はスイスだと言い、
そういう人は
時代がマルクスの頃ならソ連だと言ったのでしょう。

対比して考えれば考えるほど、
どんな国家スタイルにも弱点があるのです。
ということは、理想の国家へと変容する果てしない試みとは
現実的にほとんど意味を成しません。
それは虹のふもとに宝物があると信じて
虹のふもとを目指す試みに似ています。

現在の国家にあまりに弱点があり、
その弱点は未来永劫消滅できないことをせめて正直に認め、
それを単純に排除するか忘れてしまうよう動くのではなく、
その弱点による被害が可能な限り押さえられるには
どんな対策があるだろうか、と
現実的な行動へと移すほうが有用です。

「人生において重要なのは
役立つことと適切であること」と言ったのは
イギリスの哲学者アラン・ド・ボトンで、
「日常使う全ての言葉を
市場でのやり取りに限定できたら」といったのは
モンテーニュです。

西洋でなぜ哲学が生まれたのか、
それは一神教的宗教がもたらした「精神の極端さ」の弊害を
宗教を排除することなくいかにして和らげるか、
そんな切実な願いがあったからなのかもしれません。

人間とは、極端では生きられない生き物のようです。

「多様性の拡張」

仙台へ行く新幹線やまびこは2階建てで、
少し景色が高く見えます。
会場裏手にはしっかり月日の経った公園があって、
木々に触れ不思議な落ち着きを感じました。

人間の多様性を認めなければならない、
こんな言葉が出始めたのはバブルが終わって
一極集中型の社会、
つまりみんなが同じものを求め、
それを集団として好ましい概念とし、
それが最大の利益を生む構造であった社会に
一つの区切りと変化がついてからのように思います。

それで街が大きくなったのですが、
いくら街が多様で文化がどうだとかいっても
生き物といえば所詮人間しかいません。

駅にあった広報誌に、
森を歩くことによって落ち着きを得られる感覚に関する研究が
始められたという記述がありました。

その公園を歩きながら、
寄り添う「生き物」は人でなくてもいいのではないか、と
ふと思いました。
最近の研究では、植物は頭脳がないけれど
「全体として」意思を持っていて、
水をあげてくれた人や葉をちぎった人を覚えているのだそうです。

多くの人が遊園地やバーやデパートなどに足を向ける代わりに、
森へ足を運ぶような雰囲気ができれば、
喧騒と混沌で混乱する世界の歩みは
少しだけ食い止められるのではないか、と思います。

火曜日, 8月 01, 2006

新聞をやめてみました

久しぶりに少し頭痛がします。
ただ頭痛薬は胃が荒れるので控えています。

本を読む量が増えました。
本は確かにさまざまなことを教えてくれますが、
基本的には特別な人の特別な記録です。

大人がきちんと参考に読む本ってちょっと難しい気がします。
大偉人と呼ばれることはないだろう、
わたしを含めたたくさんの人たちが
世界のトップの話を読んで実行したとしても
必ず成功するわけではないからです。

本は時々便利で時々不便です。
一度読み慣れてしまうと、本にはなんとなく
任意性の高い世界があって、
何冊も読めば自分の味方になる台詞がどこかに載っています。
最近本の量が増えていたのですが、
本が時に逃げ場になってしまうことを知って、
しばらく読むのを控えてみようと思いました。

社会人になったら新聞を読む、
なんとなくそんな意識で新聞を始めましたが、
世界の裏の必要かどうかわからない情報まで手に入れて
心配の量が増えるのではどうも納得がいきません。
新聞を片付ける手間も相当なものなので、
定期購読をやめてみました。
情報源は違うものを探してみます。

朝のニュースも同じです。
情報が生ものなのは知っていますが、
ニュースは「毎日流す何かを探している」状態で、
流すべき情報が他のニュースに埋もれてしまったり
何もねたがないときにある事件の追及ばかり行われたりして
見る意味を感じません。

情報に鼻先をつかんで引きずり回される、
株の世界はまさにこんな状態です。
生き馬の目を抜くように生きるペースを上げなければ
成り立たない、
みんなはそんな世界が本当に欲しいのでしょうか?

株の短期投資は1/1000ぐらいしかうまく行かないと言います。
さまざまな使い方があるのは知っていますが、
それでも自分は儲かると思っているのでしょうか?

国政は国の基本で大切ですが、
みんなそろって小泉さんに届かぬ一人文句を言うくらいなら
自分の町の市長さんとか町長さんとかに
具体的な相談を持ちかけたほうが良いような気がします。

巷の雑誌が喧伝するように
聖人君子に名を連ねなくても、
どこかの会社の上役にまで上り詰めなくても構わない、
自分には自分の人生があって、
全ては自分の足元から始まる、
そんな風に思いたいのです。

月曜日, 7月 31, 2006

何をpainに選ぶか

どうやら梅雨明けしたらしい、という一報を聞きました。
この知らせ、さわやかな風の匂いで先に感じるのです。

CHAGE & ASKAの曲に
"NO PAIN NO GAIN"という曲があります。
何かを得るためには何らかの痛みが伴う、という意味は
漠然と分かっているのですが、
何を痛みに選ぶかは今ひとつ検討の余地があります。

日本人的発想ではpainを
忙しさ、苦労、辛さと解釈して
とにかく仕事を前に進める、という解釈になるでしょう。

しかし会社の中で自分が必要だと思うことを推し進めるときに
同意が得られずに感じる疎外感、だって
立派なpainだと思います。

できるだけ痛みは感じずに前へ進みたい、
それはきっと誰もが思うことです。

少し意味は違うのですが
win-winの関係、というものがあって、
これはお互いがよい関係でいるようなもので、
このときのpainはどこに発生するのだろう、と思います。

人との関係、財産、一見何も失わないようですが、
経験と引き換えに時間は失われていくもので、
それが過去の郷愁に繋がったりします。

永遠という概念、を手に入れようとするならば、
限りある命が終わった後に手に入るものかもしれませんね。

金曜日, 7月 21, 2006

役立つこと、適切なこと

透明のビニール傘は安物だというだけじゃなくて、
太陽の少ない雨の日には空の光が入る明るい傘で
そのことが気に入っています。

物にはさまざまな評価の基準がありますが、
哲学者アラン・ド・ボトンの言葉の中に
人生で重要なのは、役立つことと、適切なことというくだりがあり、
ふと立ち止まって考えます。

役立つことと適切なことが同時に含まれている、という解釈は
自分の心を調整するうえでとても重要なことのように思います。
必要か不必要かという判断よりも
役立つかそうでないかは個人らしい視点であり、
正しい、間違いという判断よりも
適切かそうでないかという判断はより人間らしい指標です。

がん治療に関する加速器の研究を始めましたが、
どこでもそうですが現場では目標が収束しないことがあります。
アメリカでは医学物理士が5000人もいて
技術スタッフが非常にたくさんいて
翻って日本には500人しかいないとかで、
さあ増員、という流れのようなのですが、
アメリカの医療は基本的にお金がかかり過ぎていて、
皆保険のない国なのに放射線治療費は大体日本の3倍で、
その制度の下で医療の質が保持されているのだそうです。

一方で皆保険で充実した医療が行き届いている日本では、
医療スタッフの数が極端に少なくてとても忙しいのに、
一方で薬剤による出費が非常に多く、
こういうところに日本らしいモノ社会の一端が
問題を現しています。

どちらの状態も、
役立ちはしているのですが何かの適切さを欠いています。

皆保険であるか、皆保険でないかは制度の問題で、
どちらにも欠点はあります。
それぞれの状態が生じる不適切な場面を
どのようにして改善していくかが重要です。

月曜日, 7月 10, 2006

「気楽」を正確にイメージする

久しぶりに良い休みになりました。

仕事場では真剣に取り組むもの、
という気持ちばかりが増えてしまって
気楽に楽しむということをほぼ完全に忘れていました。

求道精神、なるものがあって、
日本人は極まったことが大好きです。

さまざまなノウハウ本を読んでいても、
ただひたすらつらいことに立ち向かう、というくだりばかりで
行間が埋められています。

この原因はおそらく、
求人超過でバブル期に就職が楽にできた時代と違って、
難しい事柄をこなせないと、特殊技能がないといけないという認識から、
安易さに逃げず、少々の辛い事があっても我慢して乗り越え、
風雨に負けず花を咲かせましょう、
というメッセージが込められているように思います。

しかし根が真剣にものを考え、極めて忠実に実行する人にとって、
このメッセージが続きすぎるとバランスを崩します。

しかしここで、好ましくないとされる「安易さ」と
現在の社会に極めて必要な「気楽さ」は非常に似た概念であり、
正確に分離して取り出す必要があります。

少し真面目に考察してみようと思います。

どちらの言葉でも、
「なんとかなる」という表現が伴います。

(三省堂辞典)
安易
(名・形動)[文]ナリ
(1)困難がないこと。たやすいこと。また、そのさま。
「―な問題」
(2)特別な工夫や努力のないこと。深く考えないこと。また、そのさま。

気楽
(形動)[文]ナリ
(1)気兼ねや心配がなく、のんびりしているさま。
「隠居して―に暮らす」
(2)物事にこだわらず、のんきなさま。

辛い事がこれから続くからこそ、「気楽」の具体的方法を
強く意識して開放してやる必要がありそうです。

よく「人事を尽くして天命を待つ」ということわざがあって、
以前何かで読んだ本の中には
(天命を待つだけの状態にするまでには
これでもかというぐらい努力が必要である)
という言葉ばかりが載っていた記憶があります。

しかし努力して、すべてが報われるわけではない、というのは
水木しげる(水木さんの幸福論)にも載っています。
社会がルーチン化から解かれた以上、
尽くすべき人事が思いつかない時だって
多分にあるのです。

では努力しすぎて燃え尽きてしまう人、
現状を真剣に打破しなければならないと思っている人の
「心の固さ」を上手に受け止め、
柔らかくする方法はないのでしょうか?
この問いは人に向けたもの、というより、
かなりの部分で私に向けたものです。

一生懸命に念じている人は
何かを諦められないものです。
諦められない理由はいくつかあって、
ひとつはそれでなければならない、
そうでないと生きていけない、と思ってしまうことにあります。

これは、さまざまな作業や仕事のプロセスが
「忠実に履行される」ことを前提になっていて、
しかもそのプロセスが非常に長くなりつつあることにも
問題があります。
そういう思考様式ばかり取らされれば、
おのずとその思考様式が身についてしまいます。

仕事、という言葉の中に、
忠実で長いプロセスの実行、という側面と、
分からないことに試行錯誤する、という側面があって、
どちらの概念も強力に必要で
かつ渾然一体となって来ている、ということが
顕在化したのが現代社会のようです。

「天地人」という言葉があります。
すべてのことに、天命、地の利、人の努力が揃っていないと
物事は前へ進めない、という意味です。
とてもよいバランスの言葉だと思います。

地の利まではある程度検討の余地がありますが、
天命の流れ、運命の流れだけはどうにも変えようがないのです。

ひとしきり十分な努力をしたあとで、
「今はその時じゃないな」と思える、
自分を解放できることもまたとても必要です。

知識と手段は非常に強い力で、
何らかの解法を与えてくれることも非常に多いのですが、
それらは有力ではあるけれど万能ではなく、
分からないときこそ今の自分の決断の方向性を認め信じ、
思い切って天=この時の流れに委ねる勇気を強く持てることが
安易さに流れず「気を楽にする」有力な方法だと考えます。

戦後経済が右肩上がりばかりというのは、
世界的に見ても異常な状態だったのです。
ある一定の安定状態に落ち着くためには、
景気と不景気が同じ強さで循環しなければなりません。
経済成長、ばかりが謳われますが、
世界がひとつになり、富の不均衡が急激に解消される中で
世界中が世界中を巻き込んだ循環経済へと移行するでしょう。
決して成長ばかりは望めない世界です。

そんな世界の中で「ハイリスク・ハイリターン」は非常に危険です。
日本人が生活に必要とするコストが非常に高いのであれば、
これは「ハイリスク」以外の何者でもありません。
儀式のようなお歳暮や義理チョコがなくなったのは
非常に喜ばしいことだと思っています。

人間が生きていくには、
好景気のときに生きられることではなく、
不景気のときにも生きられることのほうが重要です。
もちろん時には強さも必要なのですが、
強くなくてもそれなりに生きる安心が必要なのです。

好景気ばかりしか知らずに育った上の世代では、
環境のせいでもしかしたらそういった類の知恵が
十分に醸成されなかった可能性があります。
こういう世代に対してもし訴えかける必要があるとすれば、
富をきちんと分配しようという動きだと感じています。
そして不景気だからこそ
さまざまな「欲」-それはたとえ愛や希望や夢のようなものであっても-を
上手にコントロールできるようにならないといけません。

一生懸命な人にとっての「気楽」は、
人事の及ばない天の動きがあることを認め、
欲を小さくし、
勇気を持って不安を世の流れに積極的に預けることから始まるようです。
結論としては、
「気楽」は「無為」ではなく、
積極的な心の働きである、と感じました。

水曜日, 7月 05, 2006

幸せ感の原因

時差で少し眠れずにいます。

創造性を発揮して生きる、ということは、
そして「創造性」に込められた意味とは
どういうことかとふと考えました。

人と違っていなければ仕事にならない、
そしてその違いが人よりも優れていなければならない-
大量消費社会が終わった時に求められたのは
こんなことでした。
競争の苛烈感、のようなものは
すべての人が何らかのプロになることを要請する風潮から
来ている気がします。

自分がどれほど平凡であるかというのは
非常によく分かっていて、
平凡でも生きていく手段が欲しいと思っているのです。

現場の、会社の、人の輪のどこに行っても
「その場所でがんばる存在を」
「若い力でこれからを支えて」と矢のように聞きます。

経済規模が縮小する世界は、
激烈なまでの個性の表出と
単なる競争の世界になってしまうのでしょうか。

生きていくこと、それ自体が生き物の目的なら
人間は本来、「共生」ができればよいはずなのです。

本態的に恋愛は競争を含みます。
優れた人を選びとる、ということ自体が熾烈な競争であって、
選び選ばれるが相思相愛であっても
見かけ上競争に見えないだけです。
恋愛が与えるものは「究極の幸せ」ではないのです。
もちろん、個性によって選ぶ基準は違うのですが、
どういうわけかその基準は驚くほど画一化していて、
将来性があるとか包容力があるとかばかりです。

個性を好きになる、ということは
決して優れた面を好きになる、とか
何かを与えてくれる、ということとは関係ないものです。
個性とは本来的によいとか悪いとかでは表せないもので、
それがその人そのものなのです。
だから少し頼りなく、仕方がないところもあるけど
この人がいい、というような選び方は自発的で、
きっと幸せ感に通じるでしょう。

十分な幸せ感をもたらすもの、それは
「今の自分で十分である」という意識が満たされることでしょうか。
小さいころ、上手に本が読めるようになった、
それだけで褒められ幸せになった記憶は
きっと多くの人が持っていると思います。
背伸びせず、自分ができることで喜ばれる、
ということで得られる喜びが
これからの人の意識の根底を支えていく気がします。

使命感に突き動かされる心の良い若者が、
今非常に疲れています。

これからの社会に望まなければならないこと、
それは「24時間背伸びを強要されるような社会ではなく、
せめて人生の過程で平凡に休むことが十全に許された社会にしてほしい」
ということです。

お受験、投資、選別、私のため、我が家族のため、
これらはいかようでも結構ですが、
それが「個人」として生きようとする社会に
強烈な不安定性を持ち込んでいることを
もっともっと強く認識して欲しいと思います。

私ができること、それは
今いる、今あるものを「それでいいんだ」と認めてあげることであり、
それが今の自分に一番必要としているものです。

火曜日, 7月 04, 2006

風凪ぐ海に帆を上げて

小さいある日、ふと思ったことがあります。

「孤立、死への不安、悩み、
憎しみ、争い、奪いあい、殺しあい、
とめどもない精神破壊、環境破壊から、
個人や人類が生き延びるためにはどうしたらいいのか」、
これはずっと考え続けてきたテーマでもありました。
ただその答えが単なる「慣習」「宗教」ではないことも感じていました。

医療において、ようやく「精神」を超えた「Spilituality」が
意識されるようになって来ました。
嬉しい、楽しい、悲しいといった「精神」の面から発展し、
「生きる喜び、生き甲斐感、達成感」というものこそが
生きているうえでもっとも大切なものである、という思想です。
そして自然の力、絶対的なものの存在などを
受け入れていくことが自我を支える助けとなる、というものです。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C8%A5%E9%A5%F3%A5%B9%A5%D1%A1%BC%A5%BD%A5%CA%A5%EB%BF%B4%CD%FD%B3%D8?kid=48025

それを考え続けたのが宗教なのですが、
その体系は複雑なためどうしても解釈の誤りが生じていきます。
組織として成り立ったから正しい、ということは決してないのです。
その強烈なノイズの中からSpilitualityを読み取れるか、
それが悟りと呼ばれるものである気がします。

金曜日, 6月 30, 2006

見知らぬ街に落ち着くまで

観光地に向かって、綺麗な場所ばかりを見ていると
なぜか不安な気持ちになってしまいます。
人間がいる、と思えなくなってしまうのです。

人の姿をしたものは歩いているけれど、
知らない街は降り立った途端
何の問題もない街のように感じられて、
そしてガイドブックはその町の「とっておき」を見るだけで
時間を一杯に埋めてしまうので、
そんな良い面ばかりの街には
様々な感情を持ち込んだ自分の居場所がなく、
困った人や辛い人の居場所もまたないような気がしてきます。

人の住む街には
多かれ少なかれ何らかの問題を抱えていて、
いつもそれが見えていればいいというわけではないのですが、
人間が一片の曇りもないと無心に信じ切ってしまう世界より、
人にはこんな面もあるよね、と思えるほうが
不思議と安らぐのです。

見知らぬ街に落ち着くまで

観光地に向かって、綺麗な場所ばかりを見ていると
なぜか不安な気持ちになってしまいます。
人間がいる、と思えなくなってしまうのです。

人の姿をしたものは歩いているけれど、
知らない街は降り立った途端
何の問題もない街のように感じられて、
そしてガイドブックはその町の「とっておき」を見るだけで
時間を一杯に埋めてしまうので、
そんな良い面ばかりの街には
様々な感情を持ち込んだ自分の居場所がなく、
困った人や辛い人の居場所もまたないような気がしてきます。

人の住む街には
多かれ少なかれ何らかの問題を抱えていて、
いつもそれが見えていればいいというわけではないのですが、
人間が一片の曇りもないと無心に信じ切ってしまう世界より、
人にはこんな面もあるよね、と思えるほうが
不思議と安らぐのです。

火曜日, 6月 27, 2006

この世界を知りたいと思ったものに対し、
科学が変えてしまった点が一つあります。
核兵器の存在によって、
人がその意思の選択によってこの地球を壊せるような
可能性と印象を初めて持った、というものです。

この事実はあらゆる物事を見る時の印象を変えてしまいます。
どんな時でも人は自然の現象にひれ伏すだけの状態から、
人は吹き飛ばし形を変えてしまうというたとえわずかな一瞬でも
自然より優位に立つ事ができるのだと
感じてしまうからです。

もし自然の力の前にただ為す術がなければ、
我々はその力に対しての恐れや不安と共に、
それらを敬い、人間の小ささや不完全さに対して
もっと謙虚に、もっと穏やかに受け入れることも
できていたのだと思います。

しかし科学は人間が常に必要としている
「不完全な自己」に対する許しを少しずつ奪っていきます。
驚異的な能力を持ち、
不可能だと思われていたことを可能にした過去の英雄たちの名前が増え、
人のチームワークによって
自然の中の制御できないことが人の制御下に納められていきます。

たとえば地震や火事などの災害に対してさえも、
人、機械、物資のネットワークがしっかりしていれば
生き延びることができる、と思われています。
生き延びることができない理由は決して
「自然の力が大きくて
人にはどうしようもないという原因」からではなく、
「必要なことはわかっていたのに
人の不注意で対策を怠ったため」、
という原因とする見方が大勢を占めます。

これらのことは、人が意識の上で理解しておかないとならないこと、
以前に誰かが分からないことは明らかにしており、
「努力によって」知ることができたはずのことがあらゆることに用意され、
それらは選択を強要し判断の誤りは許されることが難しい、とされると
人は罪の意識から逃れられなくなってしまいます。

病気が悪霊からもたらされると信じられていた頃、
そしてそれらに対して為す術を何ら持たなかった頃、
たとえ病気から救う事ができなくても
人は自然の圧倒的な力をどこでも感じ信じることができたのです。

あらゆる症例に名前がつき、その原因、探し方と対策が明らかになると
「目の前の現象を見つけられない間違いを犯したから
治すことができなかったのだ」と責める可能性が生まれます。
一方で、その対策に多額の費用がかかる、ということになれば
治るかどうか分からない症例に対しては
一家が破産してもどこまでも有効な対策とされたものを行い続けなければ
誰かが見捨てた罪を負ってしまう、ということになってしまいます。

これほど極端でなくても
類似した問題はいくらでも存在し、
仕事の決定で誰が責任を負うかということが
常に無言と沈黙の中で議論の対象になります。
この責任の示す意味がこのままではあまりにも重く、
失敗すれば職を追われ死ななければならないようにさえ思われ、
不確定性と不完全さに対して
人が受け止められる量を超えてしまうように感じるのです。

生きていく上で、私から離れなかったものは
自分に対する罪の意識でした。

私には物心ついた頃から、
世界の裏側で絶え間なく起こっている戦争や貧困に対して
何の行動も起こせていない自分というものを感じ、
様々な幸せや喜びをこの世界で与えられ感じるたびに、
いつも罪の意識が伴いました。
ただ人としてできる限りの生き方をしよう、という目標は
この罪に対して完全な解決を与えないのです。

全ての人が生きる上で生じる辛さや苦しさから開放されて欲しい、
それは強い辛さや苦しさに打ちひしがれそうになってきた
自分が感じる何よりも強い欲求です。

自分にできることを増やし、たくさん与えられるよう努力することは
この問いに対するせめてもの抗いでもあり、
罪や自責の意識に対する償いの形でもありました。

しかし、それでも
全てのリクエストに応えることなどできず、
行動するほど反作用も生まれ、
自分に対する罪の意識の苦しさはいつまでも募るばかりでした。
そしてそれらの観念と無関係にまわっている様に見える他の人の世界-
芸術、楽しみ、自らの欲求の追求に対して
それを受け入れる方法がずっと分からずにいました。

日本は西洋的な哲学や思想の理由を持ち込まないまま
科学や法律の手腕だけを生活の中に取り入れましたが、
果たしてその状態は正常に続けられるのでしょうか?

私にはいずれ続けることができなくなるだろうと感じています。

興味や好奇心という人の心から発したものだけでは
科学の実際的で強力で反作用さえ持つ明示的な力とその結果を
正常な感覚を保ったまま受け入れられなくなる日が来ます。
そしてそれらから「離れて」生活することができれば
明示性を突きつける問題とは正面から向き合わずに済むはずですが、
一人で山にでも住まない限りその方法は選べません。

役立つから、という理由で科学を学ぶ者が増え、
その力と思想の一端に触れるものが増えれば、
必ず一度は私が突き当たった問題に触れるはずです。

人間を罪という概念から解放できるのは
人間が生み出した物の中にはではないのではないか、と思います。
私たちが「人間は取るに足らぬほど不完全で小さな存在だ」と感じられるものを
より身近に、より強く意識しなければならなくなっているのです。

宗教は「人に限界がある」という一つの指針を示します。
しかし宗教で語られる言葉は全て「人が作った」ものです。
そして言葉は人によって解釈が異なるものです。
一番の問題は「限界を超えた何か」に勝手に呼び名をつけ、
「人の限界」以外にも生きる方法にまで決まりを示してしまいます。
この決まりごとについて宗教は罪や死へと繋がる禁止を示し、
また「一つの神しか信じてはいけない」ということさえ言い切ってしまいます。

信じるもの同士が正しいと信じ切って争う背景には
常に人間の限界があるため、
争わないと決め、常に赦していることを根拠にして
我々が信じる宗教の解釈こそが唯一正しいと言う論理は
罪を救うためには何らの力も貸しません。
それなら「人間の限界を認め」「争わない」事を抱えているものなら
何の宗教だっていいのです。

人を全て平等に扱いたいのならば、
霊感を受けた特別な人などというものさえ一切作るべきではなく、
人間の力では「人間を超えた存在」について
どの誰であるかを特定することは本来できない、ということだけが
常に正しくあるものであって、
それが何であれ特定した瞬間に、
特定したという理由によって間違いになってしまうのです。

地球を壊せるようにさえなってしまった今、
宗教の力を使わずに
それを思い出させるものがまだこの地上にあるのでしょうか。
手付かずの自然、厳しく巨大な風景でさえも
人の手によって歪めることができてしまうなら、
残された場所は人の住む地、には既になく、
この空と天と、地球を離れた宇宙だろうと感じます。
幸いにしてこの宇宙全体は
地球のように探してまわることすらできないほど
大きくて未知であることが十分に、そして永遠に保証されています。

人も、人の浮世で起こる
喜び、悲しみ、怒り、慰め、過ち、誤解、悩み、苦しみ、そして死さえも
人として大切ではあるけれど
遠くから眺め返せば本当に取るに足らぬ一つの過程である、
まだそう本気で信じられるものが見える場所にあった、ということ、
その中で人としての不完全さ、無力さを認め赦してもらいたいと
今は強く信じていたいのです。

空はいつでも、どこからでも見ることができます。
どこか遠くへ行かなくても、
いつも無限に遠い物、手の届かない大きなものを
その体で感じることができるのです。

私はこれからいつも、時間の許す限り
空を眺めて暮らします。

火曜日, 6月 13, 2006

金ではなく鉄として

街の賑やかさが
時にカンフル剤のように感じることがあります。
カンフル剤は一時的に効くのですが、
次第に疎ましくなってしまいます。

テレビ番組というのは少し哀しいもので、
喋ってないといけなくて、賑わってないといけない、と
何かに要請されています。
どの番組も元気で溌剌で、
しかしどことなく無理があるのです。

中坊公平という弁護士の半生、
「金ではなく鉄として」を手に取ったのは、
とある漢方薬を出してくれる内科のロビーでした。
森永砒素ミルク事件を被害者の立場になって弁護した人です。

大きなことが為されると、何か人間まで特別なように
扱われてしまいがちなのですが、
取り柄や評価が欲しい年頃に行動では認めてもらえず、
自らを行動で明かすことができなかったのだと綴られています。
しかしそれでも認めてくれた家族や友人の特別な支え、
無償で与えられることを強く感じられた彼は
幾多の困難を自分なりの方法で一つずつ乗り越えていきます。

わたしのやり方は時に問題があります。
でもその人の人生に無償であげられるものがあればいいと
いつも思っています。
それらは時折「特別な何か」という枠で括られてしまい、
その関係が永続的になるよう少しずつ縛られていくことがあります。

無償で手渡すことが新たな欲を呼ぶ、というのであれば、
わたしは無償で与えることを控えなければならないのでしょうか。
それとも無償で与えていい大きさには限度があるのでしょうか。
そのときに残ったさまざまな関係は、
すべてgive & takeであったりするなら、
片手に自然、片手に人をつないでいた手の一方を、
人ではなく「かみさま」という何かに繋ぎ換えてもいいな、と
ふと思うのです。

火曜日, 6月 06, 2006

アイデンティティが自動的に失われる社会

39℃の熱が出ていて、
しかし意識は比較的はっきりしています。

どこにいても落ち着かないことがあります。
その原因が何であるか分からず、
熱っぽい頭でしばらく考えていました。

部屋中にあるものは、
主に「それと同形同機能のものがある」ものばかりです。
CDも、テレビも、本も、住んでる家も、
世界のどこかには完全なまでに見分けのつかない複製品があって、
自分だけの何かを象徴してくれているわけではありません。

この悩みは一度解決しようとしたことがあって、
その組み合わせの中に自分自身が見出される、
ということで纏めたかったのですが、
時折うまくいかなくなります。

労働力として役に立つならば、
自分でなくても構わない、という精神があったとすると、
個人のアイデンティティを保つのはさらに難しくなります。

デジタル化と工業化の問題についてふと思います。
なるほどそれらは人の生活に完全なまでに平等な恩恵を与えたのですが、
まったく意識されないところで自分を見失う機会が与えられています。

情報化はさまざまなケースの分類を可能にしました。
病気はほとんど名前が特定されるし、明日の天気は既知のもので、
人という要素は内臓と器官と骨格でできていて、
すべからく平等ということになっています。

地図は世界中の地形を表してくれていて、
自分しか知らないことなんてまるで無きに等しく、
何もかもが「分かったような」気になっています。

分からないことを恐れながら、
しかし分からないことに挑むから自分らしさが現れるとしたら
この世界の「分からないこと」の二面性を思います。

分からないことに挑むこと、
それは恐ろしいことであり、
同時に誰のものでもない自分をつかむことです。

水曜日, 5月 31, 2006

職務質問

日常的に心に浮かぶことがあって、
思ったときに書き留めておかないと忘れることがあります。
忘れてしまった「あのこと」は
自分の頭の中でどうなっているのだろうと
ふと想像します。
釣り逃した湖の魚のように、
自分の無意識の中で泳いでいるのでしょうか。

一般的な性質として、
あるものの境界に近付くほど事態がややこしくなります。
ややこしくなる、とは考慮に含む事象が増える、というもので、
個人の存在に関わるもの、
俗に言うプライベートの部分が境界の限界です。

プライベートという日本語の言葉には
今現在は「普段は見せない秘密」というニュアンスを含みます。
公的なものと私的なものは、
公開と秘密とは異なるもののはずですが、
なぜか私的なものは秘密ということになってしまっています。

個人として思い考えることを私的として、
それに周りを見回して考えたことの影響を考慮したのが公的なら、
公的と私的の間には繋がりがあり、
情報の隔絶が起こっているわけではありませんし、
また公的と私的が反対要素であるわけでもありません。

秘密の取り扱いについてふと思います。
秘密が人を守り弱くするだけのものであれば、
守秘義務が課せられた法律家や医師はすべからく弱くなるはずですが、
実際はそうなっていません。

わたしの印象では、秘密という言葉のインパクトは
日本ではとりわけ大きいと感じることがありますが、
一方で一定の条件の下では見せてもらって当たり前だという概念も通っています。
ただ日常的に生じている秘密はいくらでもあって、
着替えている最中は席を外すことだって秘密のひとつですし、
美しいレストランで食事をしているときには
調理場の流しで皿洗いをしているところは見せないものです。

本当の秘密が守られるとは、
情報が鍵をかけて保管されることではなく、
これは公開したくないと宣言したことが
正当な事象として十全に認められなければなりません。
秘密の捉え方と個人の概念とは緊密な関係がありそうです。

秘密が当然として認められて初めて、
個人という概念も成立するように思います。
日本人は純粋で生でピュアなものが好きだと公言して憚りませんが、
本当の純粋さは非常に複雑な世界を経験して内包しているはずで、
単極で居続ける無知さを肯定するものではありません。

情報公開で何もかもガラス張りで、
日本の芸能人のようにどこまでも個人を失うのか、
それとも秘密結社や汚職や談合のように
すべてが闇の中に包まれるのか、
こういう極端なケースばかりの極端で稚拙な状態から進歩して、
公開と秘密のバランスをどこかで上手にとっているようなケースを
もう少し追求すべきだと思っています。

晒されるか閉ざされるか、という選択は
昼は摂氏150度、夜は零下数十度の月の表面のようで、
それでまともで美しい生命など育ちようがないのです。

火曜日, 5月 30, 2006

仮想質問

歩く機会が増えました。
道にはよく花が咲いていて、春の季節は目に快いものです。

テレビを時折見ていて、わたしなりに解釈に困る言葉があります。
「あなたは私が望むことを何もしてくれないじゃない。
私のことを大事に思っているの?」

この「大事に思う」という言葉、落ち着いて考えないと何かつかめないので
しばらく考えます。

望むことをしてくれるという行為が大事に思うことであるか、と考えると
そうではないだろうと思います。
何らかのサービスなら職業で受けることと同じで、
多少の抵抗はあっても大事に思うかとは別に行動があるものです。
同様に、大事に思うことの表現は煩わしく面倒なことを
自分の代わりに解決してくれることと等価だろうか、と考えると
そうでもないだろうと思います。

では、大事に思うことは
私と自分が同じことを望み好んで同じ場所にいることと等価だろうか、と考えると
そうでもないだろうと思います。
好みは個性を表しているものであって、強要はできないものです。

私のことを思っているのならこれをして欲しい、という台詞があって、
多分そんなもので思いの量を測られるのなら、
思うこと自体をやめるとふと思います。

自分がやりたいことが
人まで巻き込まなければならないと分かった場合、
やりたいこと自体を考え直すことがあります。
他人を目的達成の不可欠条件にすることは基本的にないし、
自分と他人の区別をつけない人を時に不思議に思います。

わたしが心から望むことは、
あるべきものがあるべきように保たれ、
たくさんの人の中で純粋に大切にしたりされたりして生きることだけで、
家族であれ組織であれ、
特定の何かだけを選び続けることは
どうしてもできないと思っています。
自分が選び出した少数の人だけが幸せであれば、
後の人たちへはただ幸せになっていたらいいねと願うだけで
地球の裏側がどうなっても特に気にしない、というような人に
自分がなりたいとは思えないし、
そういう人に心が惹かれるとも思えないのです。

わたしがいつも大事に思う人は、
自分の意思でたくさんの人に幸せを与えようとしている人で、
その人は特別にこちらを向いていなくてもいいし、
何かを与えてくれなくてもいいと思っています。

自分には何もくれないのに変じゃないか、と
思われるかもしれませんが、
自分の意思でたくさんの人に幸せを与えようとすることを
現実に見せてくれていることが一番満たされるのです。
何かが欲しいわけではなく、
なぜかとても与えたくなるような気持ちで近づきたいと思うのです。

どうしてと言われてもなにもうまい説明はできず、
ただわたしはそう思うだけだとしか言えませんが、
そう思うことはとても確かなのです。

火曜日, 5月 23, 2006

無心といけにえとばば抜きと

ちょっとおどろおどろしいタイトルですが、
言語化せず雰囲気でコミュニケーションし、
難しい仕事を負担する段になると
社会はこういう現象になります。
魔物なんていない、と科学はすっかり
社会システムを明らかにしてしまったように触れ回りますが、
とんでもない、とふと思いました。

魔物とはつまり、非言語で投射される人の心です。

月曜日, 5月 22, 2006

人間にとっての距離とは、精神的な近しさの度合いである

地図を見てびっくりするぐらい遠いなと思った道のりでも、
なぜか歩いてしまうと簡単に着いてしまいます。
これは歩かないことで距離の感覚が分からなくなっているせいで、
メンテナンスも必要です。

隣町でも行ったことがない場所は遠いものです。
「知らないこと」と「知らない場所」の概念は
まったく一致します。
どちらも、初めて通過する直前での想像では
途方もなく遠く長く感じるのです。

知らないこと、知らない場所へ行くためには
どんな人でも最初は勇気が必要です。
知らないことを何度も繰り返すうち、
「知らないこと」という一般的な事象に対して
どのような姿勢で向かえばいいかが分かってきます。

ふと冒険がしたくなって、でも躊躇して諦めてしまっても
特に自分を責めることはありません。
にわかに冒険に行きたいと動かずに息巻くぐらいなら、
行けない自分を認めてしばらく閉じこもっていれば、
退屈して出たくなるものです。

冒険が要請されることがあります。
仕事においては未知のものに挑むことで新しい市場を開くため、
対価を受け取って冒険をすることになります。
そのうち冒険が嫌いになってしまうこともあります。

未知の世界へは要請されていくものではありません。
自分が望んで冒険を挑んでも断念することさえあるのだから、
人に頼まれたぐらいの動機付けではエネルギーが足りなくなるのです。

冒険にだって練習が必要です。
チュートリアルのように分かっている場所を数回めぐって、
自分で探すべき項目を覚えていきます。
小さな冒険ができるようになれば、
大きな冒険をするチャンスも生まれます。

小さな場所での小さな失敗は、
大きな場所での大きな失敗を避けるために便利です。
失敗が悪のように決め付けてしまわず、
どのくらいの失敗までは起こりうることにするか、
それは物を作る人間にはいつも気にかかっていることであって、
この話題を問いかける、というのが
意識に対するひとつの試金石のようだと感じています。

金曜日, 5月 19, 2006

光っていると、輝いている、の違いについて

話題を思いつく時期は不連続に訪れるので、
そのときに書き留めておきます。

今朝道を歩いていると、
雨の中で明るく光る場所を見つけ、
そこに花があることに気付きました。
それは「輝いている」という表現がぴったりでした。

雨の日はたくさんあって、
花はそのときいつでも光っているのだから
輝いたという表現になったのは
その日の私の状態の違いに拠ることになります。

自分の気持ちの状態が良くないときは、
光を見ても輝いているという表現にはなりません。
蛍光灯は白い色で、夕日はオレンジ色というだけです。
白もオレンジも、絵の具のそれとさほど変わらないように
感じてしまうのです。
ところが輝いているなと思うときには、
光を放っていない物体でさえも不思議な輝きがあるように思われるのです。

日常が平板になった、という表現があって、
これは物が実際に絵を見ているような状態になることだとしたら、
輝いている、と輝いていない、の違いがはっきりします。
平板になったときは絵の具のようで、
いきいきとした時は立体的に感じるのです。
脳が疲れると2次元的処理、
活発だと3次元的処理になったりするのでしょうか。

光っている、ではなく輝いている、という言葉を使ったのは
実に何年ぶりかで、
それがどうしてなのかはあまり理由が分かりません。

木曜日, 5月 18, 2006

散文的日記

Although all the people have a lot of knowledge and wisdom,
some does not have a knowledge to share each other.

パソコンにソフトをインストールしている間は、
パソコンの潜在的能力が上がりますが仕事は為されていません。
ドイツの諺に「万書を読んだ愚か者」というのがあって、
本だけ読んで何も行動しなかった人のことを言います。

深く考えることと追求を深めずに行動することの
両面は、このような関係に良く似ているのではないかと思います。

日本的な基本精神として求道があり、
道を究めることが美徳とされています。
しかし究める道には原理的に終わりがありません。

求道のもつ問題点は、
周りの人より十分達者である、という外的要因によって
行動できるかどうかが変わってしまう状態に陥りやすいことです。
下手を見せたら「恥」ということになるからです。

それを懸命に逃れようとして、
僭越ながらとか若輩者ですからとか
さまざまなカウンターを用意することになります。

深く追求すること自体はとても重要なことです。
自分の進む軌道を変えるからです。
しかし軌道が変わっても進まなければ前へは動けません。

それはまるで地球を回る月のように、
月が周回し続けるためには、
軌道半径を大きくしたらより速く進む必要があるのと同じです。

深く考えることと、迷いを振り切ってたくさん行動することは
まったく違ったものではなく、相互補完された要素と感じます。

今日世界が終わってもいいという日もある

小さいキーボードは打ちにくい、と
ピッチの違うノートパソコンを触って思います。
DELLのキーボードはピッチが小さいのです。
固いキーボードも苦手です。
キーボードが柔らかいと不評なVAIO S[SZ]ですが、
個人的にはとても気に入っています。

今日はこんなことを思いました。

思いつける限り十全に満たされて、ふと
今日みたいな日は世界が終わってもいいなと思う瞬間が
たまにあります。
それは全てを為した事実から来るのではなく、
多分自分の状態が勝手にそうなるのですが、
死はある日にとって非常に怖いもので、
しかしある日にとっては怖くないものになっているはずです。

そういう日に痛みがなく生命が終わるものだとすれば
了解する人は割といるのではないかと考えます。

世界が相互作用するためには物質的なやり取りが必要ですが、
その一部を写像した脳の中はあらゆる情報が近接しています。
現実に嵐を起こすのは莫大なエネルギーシステムで、
簡単には嵐を作れませんが、
その写像である脳の中では
脳の中の地球一つを消してしまうほどの嵐、
つまり感情の急激な変動が比較的簡単に作れます。

多くの人が語るように、
一度問題を十分自分に覚えこませ、
良く打ち込んだ後であれば、「全く関係ないことをする」時に
価値ある発想は生まれると言います。
この「十分に」というところが大切で、
不十分ではいけませんが、
いつまでもしがみついてはいけない類のものです。

「全く関係ないこと」は
実世界の現象として関連を持たない、という意味ですが、
脳にとっては刺激が別の角度からやってくるだけです。
実世界では関係ない二つの事象は関係ないことのままで
それぞれが時間発展し続けるだけですが、
脳にとって入力された全ての事柄は単独は存在できず、
相互に作用を起こします。

脳が一部分興奮すると、
それが脳の全く関係ない箇所へと波及できるということは、
ある一つのことに自信が持てると、
様々なことに自信が持てるひとつの理由になります。

コーラの炭酸に刺激されて新発明を思いつく、
たとえばこんなことが本当に起こるので、
人はひらめきを呼ぶ何かを楽しみに待っています。

火曜日, 5月 16, 2006

自信を見せる、を仕事にする

昨夜と今朝は妙に調子がいいなと思っていたら、
物理的身体は行動した分だけ反動が来ます。

仕事に関するいろいろについて、
手技はいろいろな人から何度も学びました。
しかしなんとなく人と接しながら学ぶ回数が少なかったものがあって、
それは「どんなときも自信を見せること」かもしれないと
ふと思いました。

正直である、ということの捉え方というのは、
自分の心に従うことではあるのですが、
しかしそれは揺らいだ自分も含めて
何もかも見せてしまうことなのだろうか、と
考え直そうとしています。

喜びと悲しみに比較的強く連動して、
自信があると自信がないが今は存在しています。

静かな自信を見せることが
重要な仕事として認識できるのであれば、
ひとつ自分に課してみようと思います。

わたしは少ない休みでよく働くものでいたいのです。

赤ペンを標準に

駅の中にテナントが増えるようになりました。
月替わりのお菓子屋なんかもあります。
国営から企業に変わると自由度が増えます。

メモを取るペンの色、
何かによると赤、青、緑の3色ペンを使うように、とか
書いてあります。
ちなみに男性は赤い色が見えづらい人がいるのだそうです。

3色をノートに使うとどうも落ち着きません。
黒と一番合いそうなのが赤い色です。
それで自分のメモを赤い色で取ってみることにしました。
気分の緊張が和らいだ感じがします。
赤い色は危険な色と言われながら、
なぜ気分が落ち着くのか不思議に思います。

身に纏う色が赤では落ち着きませんが、
見る色として赤は安らいで良いと思います。

月曜日, 5月 15, 2006

どんな力であっても

最近の好きな数字は「2」です。
二つの視点が自分に必要なことがよく分かる気がするのです。
車も二つの動力がついているものを希望します。

およそ力と名づけられたものは
作用と反作用が生じます。
文字にしてしまうとたったこれだけのことなのですが、
案外反作用を考えないことが多いのです。

人が信じ頼ってしまう全てのもの-
それが神だったり法だったり鰯の頭だったりするのですが、
溺れて寄りかかった時点で反作用に負けてしまいます。

人と人が真に支えあうのであれば、
もたれあうことではなくて
まずそれぞれが一人で立っていなければと思います。

空を飛び、核で電気を作り、
高エネルギービームで癌さえ治してしまう時代、
人にとって向き合わなければならない最大の力は
人であるように思います。
もし自然の災いが人を結び立ち向かわせる重要な要素であったとしたら、
近代文明は災害によって命が奪われることを防いできましたが、
人を結束させるための手段もまた失ったといえます。

木曜日, 5月 11, 2006

丁寧語に含めるニュアンス

久しぶりに日記を書く気分になりました。
見てもらうというより、書くのは「ある日の自分」に
今の意識を届けるためだろうと最近思います。

人と話すとき、どんな言葉にしようか
時々考えます。
丁寧語、尊敬語、謙譲語などがあって、
常体を殆ど使ったことがありませんでした。

常体を使わない、あるいは使えない自分は、
多分時々人にどんな印象を与えるか心配になっているのだと思います。
それで少しずつ常体を言葉に取り入れることにしました。

これは一つの「心をあまり揺らさずに会話をする」練習かもしれないと
思っています。

一方で、丁寧語で会話するときにも
幅広いニュアンスを含めることがあるということに
意識が向き始めています。

「常体に近い」丁寧語というのがあって、
メールなどでは気持ち的に(+1)ぐらいのニュアンスが出せないかと 
ちょっとした努力をしています。

月曜日, 4月 24, 2006

環境のみ引越し

久しぶりに日記を書きます。

環境が変わって疲れてしまうのは多分頭です。
違うものが一瞬で通り過ぎれば忘れるのですが、
見るものが変わったまま戻らないと
人の記憶が変わらざるを得なくなるからです。

本当に慌しい3月と4月を過ごしました。
少しずつ様子は日記に残していきます。

日曜日, 4月 09, 2006

3行広告

Citibank、三井住友visa、クレディセゾンでは
クレジットカードに敬称をつけることができませんでした。
宣伝どおりの国際化を願います。

木曜日, 4月 06, 2006

大氾濫した時計群

デジタル装置は周波数を出す発振器が付いていて、
そのクロックで演算をします。
発振器とカウンタがあれば
あっという間に時計が作れるため、
ほとんど全てのデジタル装置に「時計機能」が付いています。

少し部屋を見渡すと、
携帯電話、パソコン、iPod、壁の時計、電気ポット、
炊飯ジャー、ビデオ、オーディオのアンプ、固定電話、
洗濯機、果てはエアコンのリモコンにまで時計が付いています。

捨てられないと思っているのか、
企業の販促やプレゼントにはやたらと時計があります。
駅などには時計が必要ですが、
それ以外の場所で時計が「必要とされる場所」は少ないはずです。

商談では約束の時間が大事、確かにそうなのですが、
商談の中身よりも時間が大事になっては本末転倒です。

時計は一見罪のない便利サービスのようですが、
時間が気になって仕方がない、という点で
潜在的には大きな問題だと感じています。
現代人が時間に追われている気がするのは
もしかしたら時計の存在にあるかもしれない、と思いました。

時計や時間のことを考えているとき、
それ以外のことを考えないのですから、
時計が気になる人ほど生産性が下がることになります。

外国に行った先では
ここまでたくさんの時計を見ることはありません。
レストランに行っても探さないと分からないほどです。
これが落ち着く元かもしれないと思ったのです。

それで不要な装置に関しては
腕時計以外の時計機能表示をOFFにしました。
もうすこし発展させると、
時計ではなくてアラームを使うといいかもしれません。
時間を確認することに意識を奪われなくて済むからです。

この作業が良い結果を生むのか面倒になるのか、
しばらく試してみます。

欠けていた何か、埋まる何か

ようやく新しい研究室のネットワークに繋がりました。
まださほど荷物を持ち込んでいないのですっきりしています。

3月末までの実験は目標どおりの結果が出ました。
肩の荷が下りた気がします。

前の研究所に来てから、
理解されないまま進まなければならないことが
とてもたくさんありました。
説明だけでは志を分かってもらえず、
結果を出さなければ理解されない、
それがただの外部の他人であれば落とし所もあるのですが、
自分に近い人であるほど分からないことからくる反発が大きく
難しい思いをしました。

分からないことはたくさんあっていいのですが、
分からなくてもいいと居直ってしまうことは問題です。

結果によって分かってもらえたことは
わたしが3年位前にイメージした姿であって、
現在のわたしはまた違うイメージを持っています。
それが理解されるのも時間がかかるものです。

一番良い方法は「まず反対されないこと」で、
賛同しなくてもいいから放っておいてくれたら上々です。

結果が出る前に自分の志を認めてくれた人が
とても大事だと思います。
どんな結果も志がないと求まらないからです。

今の研究所はまだつながりが薄い分
なんとなく放っておいてくれていて、
それがとても心地良く仕事が進む原動力になります。

水曜日, 3月 29, 2006

社会と呼ぶものは具体的には何か

黒い色が好きです。
小さい頃緑が好きで、
しかし洋服として緑は難しいのですが、
黒のアクセントとしてきれいだと最近思います。

社会と呼ぶ厳しかったり不正が多かったりと呼ばれるものについて
時々考えます。

社会と呼ぶ実態のひとつは
「集団心理」の存在だと言えます。
個人ではできないことが集団ではできる、
中心的な意見に共鳴し同調してしまう、
このことが人の集まりに対して
良い作用だったり悪い作用だったりします。
個人としての人間と社会的な人間との乖離が強まると
「社会は冷たい」と「個人」の人間が表現するのです。

社会通念、モラルなどの一切は
どんなに偉そうなことを言っても集団心理の形成です。
どのような社会モデルを形成しても、
それを取り扱うのが人間である限り
社会モデルの全てがすべての人に当てはまるわけではなく、
現実的な問題は生じます。

木曜日, 3月 23, 2006

新聞を読みなさい、と人生の気忙しさの相関について

個人的にとても気分を害してしまう状態の一つに
「ついでに」と「ちゃっかり」があります。
そういう付き合い方をされると一緒に行動できません。

この二つ、なぜ嫌なのかをずっと突き詰めて考えると、
頼むほうに良いことがあるけれど
「ついでだから特に難しくないでしょう」というアプローチで
親切心を無言のうちに強要されるからで、
一人前に頼む責任を自分で負っていないからです。

親切心は要請されて出すものではなく、
その人への感謝の発露として自然に現れるものです。
貯金のように預けたり引き出したりするものではありません。

味噌っかすのような情けない頼み方をせず、
自分の願いを「ついで」や「ちゃっかり」で済ませようとしないことが必要だと
良く感じます。
社会的に一人前に扱って欲しいと思うのであれば
自分が要求したという責任を自分で引き受けることです。

新聞を毎日良く読みなさい、
社会のことがよく分かるから、とは
いつでもどこでも良く聞いてきた話です。
新しい情報はかなりエラーが多くて、
取捨選択も深い洞察も為されない生のものです。

この言葉に含まれる「本当のような嘘の部分」を
正確に表現できないかと時々考えます。

同じ情報を伝えるなら新聞だけ読めばいいのか、と
以前考えたことがあります。
週刊誌とか機関紙とか単行本には
どんな意味があるのか不思議に思った時期があります。

思考に関する二つの極を挙げれば、
早く知らなければならないことと、
熟考しなければならないことに分けられます。

速報が役立つのはたとえば台風の話、交通事情の話など
行動そのものに影響が出るものです。
隠されていた悪事などもいち早く引き抜かれなければなりません。

熟考が必要なものの最も普遍的なテーマは
行動が長期にわたるもので、
突き詰めれば自分の生き方に関わるものです。

速報で株の情報を知らなければ損をする、
このシステムを受け入れるならば人生はせっかちになります。

芸能情報が速報で「なければならない」理由はありません。
興行なんかは十分な宣伝の元になされるもので、
準備に大きな時間がかかるからです。

世の中には、原理的に早く動かなければ存在できない
宿命にあるシステムがあります。
銀行は通貨の循環量が増えることで手数料が増えるため、
経済がどういう状態であっても「激しく変動する」ことを要請します。
この要請に実体経済が連動してしまうのです。
資金余裕がなく開業した会社は
収入と支出の量がともに大きい必要があればあるほど
維持するのが難しい会社になります。

最近は銀行もただ資金を貸すだけでは成り立たなくなって、
コンサルティングで手数料を取ろうという向きに変わりつつあって、
この改善は好ましいものだと感じます。
しかし今度はコンサルティング技術の秘匿が問題になります。
お金がなければ情報が得られないことになるのです。

情報を売っている産業は大きくは新聞やテレビのメディアで、
小さく見るとガイドツアーの添乗員さんや結婚相談所などもあります。
芸能雑誌に載る「スクープ記事」と言う表現は
時々当たりで時々外れています。
紙面には「賑わっている」ことが強要される傾向にあるため、
ねたに困ったときなどはどうでもいいことが一面にやってきます。

無一文から巨額の富をなした人を
「アメリカンドリーム」と呼んで、
商社の人なんかはこれを夢見る傾向にあります。
この「アメリカンドリーム」に含まれるニュアンスは
「非常に短い期間で」たくさんの額の「お金を得る」ことにあります。

20年位かかって十分裕福になる、でいいと思います。

こんな話を年上の人にすると、
「最近の人は競争心や向上心がない」と揶揄されることがかなりあります。
競争して富を奪い合うことが競争心ではなく、
ただ地位的に上り詰めることが向上心ではないはずです。

自分を高めるための努力に競争心は必要ない、というだけです。

向上心がない、と言う人たちのある種の本心は、
「誰かが頑張ってくれたらおこぼれで生活できるのに」という
コバンザメ的な卑しい発想を多分に含んでいます。
夢を持て、希望を持てと大きな会社の社長が謳う言葉には、
若者ががむしゃらに走ってくれれば
我々は左団扇で暮らせる、という意味を含有しています。

若者はもっと十分に賢くならなければならず、
これらの嘘を自発的に徹底的に見抜いていかなければなりません。
ファラオ王が何よりも知恵が欲しいと神に頼んだのは、
嘘は見抜けば破壊できることに気付いたからです。
情報の秘匿ではなく
知らないものにもっと生きる知恵を与えること、
そんな意思に基づく活動を広めて行きたいと思います。

金曜日, 3月 17, 2006

電波ぐらいの繋がり方

何か曲が聞きたい、しかし聞くと頭に響くというのは
最近のオーディオは猫も杓子も音質が良すぎることにあります。
カセットテープやラジオのFMで聞いていた頃は
ノイズも音のひずみもあったのですが、
もう少し何かほっとしたものです。

繋がることは絶対善ではないとふと思います。
継続サービスを謳うものは全て
繋がることの効用を説きますが、
それは拘束条件であって、使い方によっては
長屋の五人組のような不自由な思いをすることになります。

一般に、有線に比べて
無線は品質がよくありません。
受信条件があやふやだし、送れる情報量に限りがあります。
しかし無線は何かが自由です。
無線が不安定だから有線化するというのは
なんとなく何かに信じて寄りかかってしまう心の問題に
極めてよく似ています。

心と心は無線で繋がっているようなものです。
受信条件があやふやだし、送れる情報量に限りがあります。
この世のあらゆる手段をもって有線化しようとすると
心は自由ではなくなってしまいます。

自由で平等な社会があるとすれば、
それは心が自由でなければなりません。
確かに心は不安定なのですが、
不安定なのが嫌で自由を放棄するような姿勢は
そろそろ改めなければならないと思います。

水曜日, 3月 15, 2006

反復性に対する疑問提起

異動の春になると書類書きが増えます。
何枚もの書類に名前を書く疑問を感じることがあって、
その疑問は「不要なことを繰り返している」という感覚に
根ざしたものです。
現場を見て分かったことは、
書類というのは「情報を物体化して積み重ねる」という側面を
利用したものなので、
人間が手記という「一回性のもので」書いていく必要があります。
印字というのは誰でもできてしまうものなので
便利だけど危険でもあるのです。

この例は分かりやすく、
もう少し分かりにくい例もあります。
テレビは録画せず電波を受信したときの映像が好きという
彼の言葉にどこか納得しています。
では歌手が全国公演をしていて
何度も何度も歌う歌が一回性かどうかは
その場の人間の状況によります。

聞いている側にとって一回性であり、
歌う側にとっては反復なのです。

反復性にはふと疑問が起こります。
空気感まで再現できるほどのオーディオまで出てきて、
自分の歌う姿まで記録されるのでは、
では歌う自分が一回性を保持できるかと不安にもなりそうなものです。

一回性とはアイデンティティに結びついたものです。
それを揺るがすのが人だけではなく、
機械や積み重ねられた社会知識、本やメディアも含まれ、
さらには人間が増えてくると似た状況の人も増えてきて、
自分は自分であるはずなのだけれど
それを証明する手段が分からなくなってしまいます。

誰が悪いわけでもなく、
しかし現在の状況は一回性をより強く意識して行動しなければ
自分がわからない悩みに連れて行かれそうです。

火曜日, 3月 14, 2006

ロバの耳

童話には大抵教訓めいたものがありますが、
秘密が言いたくて地中で叫んで穴を埋めたら
そこから木が生えてきて、その木で作った笛を吹くと
秘密がメロディーに乗せてやってくる、という童話は
何を教訓にするのでしょうか。

日曜日, 3月 05, 2006

アナロジー

時折ガラスが気になることがあります。
透明で錆びなくて適度な重さがあって、
石と同じ物質というのも魅力的です。

ガラスには結晶構造がありません。
固体で透明ですが非晶質で、液体と同じです。
ガラスは非常に長い時間が経つとその重みで
勝手に変形するのだということを聞いた時には
不思議な驚きがありました。

非晶質であるがゆえに等方的でもあります。
塑性の自由さはコンクリートと同様に
建築に重要な役割を果たしています。
それは「自由に曲がる石」と「透明な石」の存在であり、
石造りかレンガで建築を続けてきた西洋人にとっては
新しい石造りなのだと思います。

日本人は石を使い慣れていないし、
あまりなじみもありません。
長屋は木製だから江戸時代はたびたび火事になるのです。
見るものがいとも簡単に変わってしまったせいか
永遠性への理解もあまり深くありません。

永遠性とは本来の定義では永遠に届かない場所であるが、
同様に永遠へ向かうものであっても、
そのスピードには差がある、という数学の先生の一言が
ずいぶん心に残っています。

仏教の説く涅槃は永遠に届かない場所である、
この表現に疑問を持ったことがあります。
永遠に届かないものをなぜ追い求めるかという点で、
結果が出ず自分で確認できないものへと向かうことが
とても奇妙に思えたからです。

これと同じ感触をもった事例は
イタリアの完成までに数百年かかるという塔の建築で、
関わっている人たちが大勢いると言う驚きと、
なぜ完成しないものを作ろうとしているのかが
やはりうまくつかめなかったのです。

この問題は今でも時折立ち表れます。
ふと気が抜けると演繹の方法を忘れてしまうのです。

数百年かかったとしてもそれは有限の時間です。
一人の人間にとっては永遠よりも長い時間のように思いますが、
この場合人間は永遠を
自分の一生と同じ長さだと捉えていることになります。

人間が永遠性の概念を獲得することは
人間の文明の発達度合いとは関係がありません。
永遠性はインドで為されたゼロの発見よりも先にあるのです。

一つの人間の中には
個人と社会というものが存在していて、
そのどちらも本能です。
最近思うことは、人間の脳には
相反するものが多分に含まれているだろうという想像です。
たとえば男脳、女脳と言われたところで
それが実体としての性別とは関係がありません。

社会的に生きるのであれば、
どちらの性別も良く理解できなければならず、
「中性的な脳」が必要なはずです。
男らしく、女らしくという議論は
あくまで外見に結びついた話なのかも知れません。

端的に、蟻には知性がないといいます。
崖に続く場所でも砂糖の道を作っておいたら
どんな状況でも勝手に蟻の列ができてしまいます。
これは人間が砂糖の道を人工的に作っていて
こちらはそれが何かを理解しているが、
当の蟻はその全体を理解できずに動いているために
そう呼ばれるのです。

同じ演繹をするならば
いくら社会システムや宗教、習慣、道徳と呼ばれるものがあっても、
その全体が理解できずに動いてしまえば、
どんなにそのシステムを遵守したとしても
それは知性がないと呼ばれて仕方がないと思います。

人間は全てを知ることができない、
けれども知識とアナロジーによって
共通した現象をカバーできます。
その適用範囲がどこまで広がれるかで
それぞれの世界の広さが決まって行くように思います。

地球の広さが理解できたとしても、
地球の裏まで飛行機で行けたとしても、
それは地球をぱらぱらと
流し読みしているようなものかも知れません、
だからと言って一つのことに執着しているのでは
少しも世界が広がりません。

何かを深く知るということは
アナロジーの端緒として不可欠であり
知ったことを展開して新しい世界を広げていくことも
また勇気が必要なことです。

脳が計算機のように何でも覚えないのは、
すぐに書き換わって現状を把握できなくならないように
するためであるように思います。
脳を書き換えるには
おそらく相当なエネルギーが必要なのです。

限りなく小さいが、しかし0ではない

最終段階のデータを取り終えました。
目標を達成した瞬間というのは
現在形であって実は本人も何が起こったかよく分かりません。

事実というのは本来起こった瞬間に発生しているものですが、
人間の認識はある時間を伴って完成するために
事実は常に過去形でのみ語られます。
このことは話題になることをした自分と、
その影響が遅れて伝わる側との時間差に気がつけば
簡単に認識されます。

COURIER JAPONを初めて読みました。
メジャー・レビュー誌をさらにレビューしたような
おいしいところだけつまみ食いするような本かなと
思って読んでいますが、なかなか分かりやすく面白みがあります。

アメリカ大統領が盗聴をしていた話と
CIAが核兵器開発の偽情報を中東へ流そうとしていた記事があって、
以前ならわたしが驚きとともに迎えるところなのですが、
記事になって大衆が知る頃には
現場では未知の現象が次々に起こっているだろう、と
今はそんなことを思ってしまいます。

この世界はいつでも人間の限界に突き当たっています。
いくら文明が発達したところで、
人間が違う生き物に進化しない限りは
さらに多くの事象を把握できるようにはなりません。

一人の人間は多数の人間のある組織の前では
対抗するのが難しいものです。
個人として生き方の筋があることは必要ですが、
だからと言って孤立無援で戦っても動くものは少ないです。

組織は同程度に大きい組織でなら対抗できます。
何かを動かしたいときに、組織という存在が意味を持ちます。
中国の歴史物語はこの辺を良く踏まえていて、
三国志でも西遊記でも、
まず同じ志を持ったものを仲間にして旅を始めます。

日本にとって組織と言う言葉はなぜか後ろ向きな意味を持ちます。
それを表す象徴的な一節は、
元寇との戦いでは日本の侍が勇ましく名乗りを上げてから一人ずつ戦うのに、
敵はただ無鉄砲に集団で襲ってくるというくだりに示されています。

個人というものが非常に成り立たなかったからこそ
美化されて個人での行動が半ば伝説化された日本と、
個人という小さな単位でしか評価されないからこそ
集団での行動に必要性を感じたいくつかの外国、
どちらが理想ということは余りありませんが、
あるものをあるように捉えるならば
集団と戦えるのは集団であり、
社会性が本能であるならばこの問題は常に立ち上るものです。

文化や主義のバリエーションというのはあって当然のもので、
しかしそれが人間の性質をひどく歪めたもので
あってはならないと強く感じます。
そして集団の中で個人は無力と言う表現をされますが、
非常に小さい力ではあるにせよ、それは0ではありません。
忘れてはいけないことのように思います。

土曜日, 3月 04, 2006

特殊なスイッチ

日本語の原稿を書いている最中には
日本語の曲が聞けません。
頭の回路で干渉が起こるみたいなのです。
ところが英語の曲はすんなりと聞けてしまいます。
同様に英語の原稿を書いている最中には
英語の曲は聞けません。
自分の頭は時々メカのようで、
自分の説明書を書いてるような気分になります。

時々、不意ににあるスイッチが入ることがあります。
そんな時は自分が自動装置のようになってしまいます。
自分のことでありながら
自分を大まかにしか制御できないのです。

あげるので欲しい、という連鎖や
自分のためという欲という感情から遠く離れ、
純粋に楽しみのみを伝えようという気分だけで
人と向かい合うスイッチが入ることがあります。
そういう時は不思議と自分の輪郭を失います。

自分らしいこと、というのは
イメージとして形があるように思ってしまいます。
意識と言葉による定義ができそうな気がするのです。
自分が何であるかを手放した瞬間は
逆にイメージがありません。
しかし自分の輪郭がなくなった自分でいる間が
なぜか一番自分らしいと感じる矛盾があります。

意識が位置や速度であるなら、
無意識は加速度に相当する量のようにも思います。

自立についてちょっとした考察を思います。
雇用と被雇用の関係と
自立と依存の概念は本来別なもののはずなのですが、
非常に近い概念なので混乱が起こります。

想像力や発想はとかくすばらしいもののように呼ばれますが、
違いを正確に弁別できないアナロジーというのは
形がないだけに外から書き換えることができず
極めてやっかいな道具でもありそうです。

「自立の概念」を求めて起業する人がいます。
会社に勤める方に多いのではないかとふと考えます。
会社の違いというのはさながら同じ言葉が通じる外国のようなもので、
そのシステムによってずいぶん印象が違います。
民主的な会社もあれば、社会主義的な会社もあります。
分権が成り立っている場所も、一党独裁な場所も、
象徴で動いている場所も、絶対王政の場所もあります。

日本にとって「外国」の定義には
「言葉が通じない国」を暗に含みますが、
世界を見るとアメリカとイギリスは
言葉が通じても外国です。
ということは、外国の本態的定義は「制度が違う場所」であって、
日本の中の会社は十分外国的に違っているのです。

人の大きさと行動範囲、影響範囲、寿命などを
軽く頭に入れてみると、
この地球全てを網羅できる存在にはなれないだろうと
想像がつきます。

例え「これが単一の国で王は私だ」と宣言したとしても、
野球チームのオーナーが選手と観客と球場のドラマを
一人ではどうにも制御できないのと同じで、
宣言すること自体にあまり現実感がないのです。

会社の社長になったといっても
それは社会という大きな入れ物の中で
役割を果たすために預けられた場所である、というのが
会社のもともとの定義であって、
それが自分の所有物であるという実感に結びつくとしたら
錯覚であるような気さえします。

5000万のロールスロイスを100台持っていても、
エンジンのシリンダから自分の手で作ったわけではないので
「自分のもの」という実感は
本当は湧いていないのではないかと思います。

所有するという感覚がもし実感として成り立つとしたら、
それは人間以外のものから
得たものであり、
自分の体を使う必要がありそうです。
野菜を作るといっても種は買ってくるし、
畑を耕すのだってガソリン動力の機械がやってくれます。

じゃあ人間性を回復するためには
分業をやめて個人の単位へ戻せばいいかというと、
これは論点として違います。
分業によって生産性が累乗に増加する恩恵によって
人は余暇を得ることができていて、
そこから人間性を生み出す素地が発生するからです。

文化はさらに加速され続けなければ
ならないのかもしれません。
もし進歩というものがなかったとしたら、
システムは改変の機会を得ることができず、
会社に必要とされるのは「人の言葉が分かり、
忠実に任務を遂行する機械」のような
存在であって、人間性ではなくなってしまいます。
生き物として生きてはいるけれども、
人間としては生きていないのです。

経済成長が長く続く世界は、
おしなべてこの危機に直面します。
「良い時代」といわれた経済成長期が、
人間性にとって危機であった理由、
富によって不幸せになると宗教が説明する事象は
このようにすれば具体的に説明できるかもしれません。

文化が加速すれば、システムは改変の機会を得ます。
つまり、人間は機械のような忠実なマシンではなく、
それぞれの発想とその総和によって現状を開いていかなければ
ならなくなるのです。
このときには「殿様と家来」のような、
社会制度的な上下関係を破ることができます。
全くの個人が個人の発想によって位置を変えられる、
そういう時代が訪れるのです。

安定というものが「不変」であることならば、
人が生まれて死んでしまう不変を破った存在である限り
原義に忠実な安定はありません。
これが富の差を呼ぶのだと危惧されています。

すべての人が生活できるようにすることは
社会の意義として必ず必要だと思います。
しかしどのようなことをしても生活できるようにするなら
それは社会主義であって、
人間は怠惰することが歴史的に証明されています。

やはり頑張るものが認められるように
制度が整うのが理想として良いとは思うのですが、
問題は「何を判断基準にして頑張ったとするか」が
多くの人にとって可観測な状態にないことが多いのです。
人間は他人の心が読めるわけではなく、
24時間追跡調査をしてるわけでもないので、
判断の誤りが生じます。

今の自分ではこの付近ぐらいまで思考すると
問題の問いが最初へ戻ってきてしまいます。
自然が作ってきた生命のシステムによれば
それは自然淘汰という大きな流れの中にいるもので、
それを改変することはできないと思いますが、
もう少しましな方法はないのだろうかと
いつも考え続けています。

この考察、小休止しながら当分続くテーマになります。

火曜日, 2月 28, 2006

イルカに芸を

イルカには人と同じかそれ以上の知性がある、
だから芸を教える方法は知的なやり取りで行うのだろう、と
思っていました。

イルカには知性があってもそれに相当する感覚入力がありません。
皮膚は硬いし高周波しか聞き取れないのです。
表現は体が大きくて細かな作業ができません。

芸を教える、知的やり取りのみによらない方法としての
良い感覚入力はえさをあげることです。
本能に直結している分だけ分かりやすいのです。

もしかしたら人も同じなのかも知れず、
自分を把握でき、状況を細やかに観察できる感覚入力がない場合、
本能の統御によって導かなければならない状況もありえます。

人間という生き物が「人間」という社会的に認められることは
もしかしたらかなり難しく、
生物の成り立ちには何らかの理由があるという連想によれば
人間になれない人間がたくさんいる、とまことしやかに言われるのには
恐らく何らかの理由があるのです。

金曜日, 2月 24, 2006

甘くない酒、甘くない曲

我を忘れるという心地よさと、
自分と向かい合い手ごたえを感じる満足感があって、
それは甘い酒を飲んだときの陶酔感と
甘くない酒を飲んだときの覚醒感に似ています。

人生にはこの両面があって、
どちらにもこの世界に求められるだけの価値があります。

さわやかに飲めるウイスキーの水割りを除けば
最初から最後まで甘い酒ばかりを好んで飲んでいました。
口に入れたときの馴染みがやわらかくて心地良いのです。
しかしいつまでも飲んでいると何かがもやもやとして、
次第に割り切れない気分になってしまうことがあります。

それは一時の落ち着きが得られる場所が欲しくて
他愛のない話題で盛り上がってしまった場に顔を出して
最初は居心地のよさを感じながら、
十分さと退屈さがない交ぜになった感情になって
自分の形がなくなるほど埋もれてしまう前に離れてしまいたいのに
なかなか席を立てないでいる自分の割り切れなさに
とてもよく似ている気がするのです。

永遠や、恋や、あなたがいないと生きていけないとか、
それは言葉なのになぜ味と同じ「甘い」という表現をするのかと
ふと思います。
それは甘い酒と同じニュアンスを多分に含むからかと
考えていたりして、
でもきっとそれは今までたくさんの人が至った
ある感触でもあるのだろうなとも思います。

じゃあ最初から甘くない、
ドライなものばかりで良かったのかというと
それには一抹の疑問が残ります。
手ごたえや厳しさは生きる刺激ではありますが
豊かさや感情的な共感からはずいぶんと距離があります。

後ろ向きな側面を取り出せば
甘さの只中から抜け出せない怠惰、
苦さの只中で感じる消耗感があって、
どちらも万能ではありません。

年月が経つとなぜ甘くない酒が良くなるのだろうと
ずいぶん不思議に思っていました。
自分と向かい合うもう一人の自分ができていくからなのか、
それとも小さな刺激に慣れてしまったからなのか、
いくつかの理由が混在しているようです。

前向きな側面を取り出せば、
甘さの中に浸る優しさと陶酔感、
苦さの中で感じる瞬間の手ごたえや輝き、
それら全てはこだわりや偏りを多分に含んだ
アンビバレントを矛盾なく内包し、
全人間的で豊かな性質を獲得するために
十分すぎるほど経験したいものです。

社会という大きな入れ物を俯瞰するならば
甘さや苦さという要素はひとの個性差から生じる
マーブリングを施した絵のようになっていて、
それぞれの人が深く関わっていくことで
必要なときに甘さや苦さを得られるように
できているような印象を受けます。

全能の神のような完全性など持たない、
だから物事は豊かで複雑という
不可分な両面を背負います。

月曜日, 2月 20, 2006

運命について

メールは見たくない、
メールを見ると仕事が始まるから、と言ったのは
亡くなったボスで、
時に電話を非常に煩わしく思うわたしには
その気持ちが良く分かります。

本来メールは読むことと返信に時間の余裕があることが
一番の利点だったのですが、
10分以内に返事をしないといけないようなメールは
電話と同じです。

一人の時間が好きで、
一人を楽しめる人といるのを心地よく感じます。

数回しか経験がありませんが、
仕事で外国に一人で行くとほっとして心が落ち着くのは
誰にも手が届かない自分が
比較的簡単に手に入るからです。

運命という言葉を
自分の表現として使ったことがありません。
「それは運命だ」と人間という存在が話し
認めてしまうことはあまりに心許ないのです。

人間は自分の五感以上の感覚がありません。
世界の動きが手に取るようにも分かりません。
だからもし運命があったとしても、
本来それを知覚することができないのです。

運命という言葉を使わないのは、
それがしばしば自分に都合のいい解釈の理由付けとして
使われているからです。
自分に降りかかった苦難や悲しみを
これがわたしの運命なのかと問いはしても、
それをわたしの運命だと受け入れる人はごく稀だからです。

運命は思い込みとは違います。
世界はこのまま変わらないと感じることも、
世界は変えられるはずだと感じることも、
どちらも思いの中にあるもので
変わらないこと、変わることのどちらも運命ではありません。

だから人が今まで信じていなかったことが
ある事実の表出と一緒にがらりと認識を変えると、
今まで起こらなかったような現象になりますが、
人の意志の総和は社会の流れであって、
社会と自分との関係性は運命ではないのです。

しかしそれなら、と思います。
全てが世界のある一点から時間発展的に成り立ったのなら、
全ての現象を含めて運命と呼ぶ限りにおいては
納得ができるように思います。

わたしという存在が自由に表現することも、
また時に制約を感じることも、
運命を信じないことも、またその認識に変更を加えることも、
それら全てがある必然の元にある、
それがわたしなりの運命の解釈なのだと思います。

金曜日, 2月 17, 2006

たった一つだけ、アドバイスを残すなら

デジタル・デバイスが好きで、
デジタルカメラやPDAやタブレットを買ってみたのですが、
使いこなせるようになるまでに何年もかかっています。
呆れるほど物覚えが良くないです。

手引きというものがあって、
横断歩道の渡り方から税金の納め方、
パソコンソフトの使い方から大気圏突破に必要なエネルギーの求め方まで
実にたくさんあります。

人生の手引きをしようとするものもたくさんあって、
幸せになる方法から悩みの解決法、
果ては自分探しに至るまで
実に細かく示されています。

ところがいくら読んでも役に立つ気がしません。
パソコンソフトの使い方が分かったからといって
それを何に役立てればいいかはそれぞれが考えることです。

ほとんどのものは行動の前に動機を必要としますが、
動機よりも行動を求められることが次第に増えています。

動機という未知なものが人間の本性につながるものであれば、
たった一つ役に立つアドバイスは、
あなたがあなた自身の動機に忠実に従い、
自分の人生を生きなさい、
という一言で十分な気がします。
しかしこのアドバイスさえ必要ないのかもしれず、
アドバイスなんて何もないのかもしれません。

動機は欲望でも独りよがりでもありません。
人の意見に従いたければ従えばいいし、
違うと思えば違うと思っていいのです。
自らが自らの観察をして制御するなら、
自分に必要な人付き合いの量を選ぶでしょうし、
意識になくても助け合って生きることが行動に出るでしょう。

社会のシステムに従うかどうかより、
自らの動機が分からず、それに従えないということこそ
個人の生きる手ごたえにとって重大な問題なのです。

自らの動機には人を助けることで幸せを得るもの、
人と競争して切磋琢磨するもの、
自らの洞察によって思想を深めるもの、
人を幸せに率いることが自らの使命と定めるものなどが
動機という個人の特性として含まれています。

どんな強烈な外乱の中にあって、
どんなに人の意見を考慮して動いたとしても、
どうしても持ってしまっている特性だけは変わりようがない、
これがこの数年で一番強く意識されたことでした。

言葉にすればわずか数言で済んでしまうようなことですが、
それがわたしの本性だという実感があります。

この世はある一点から時間発展によって生じたとすれば、
その全てが必然の元にあるのであって、
わたしがどう生きたとしてもそれはわたしの「特別な自我」ではなく、
人間という容器と能力の範囲に収まるものであり、
大きく見れば世の必然にしかならないのです。

信じる宗教がなくても林檎は木から落ちるのであり、
どんなに頑張っても
この世の仕掛けというものを逸脱することはないのです。

制御が好きで

自分の好きなものとは、
それを続けても苦にならないものを言うようです。

制御の難解な点は
自分だけのルールを押し通すのではなく、
あるいくつかの定められたルールをまず理解することが
必要です。
しかし理解するだけに終わってはならず、
それを役に立つよう導く所までが仕事になります。

人から見ると不連続で独創的なものというのは、
作る本人にとっては何らかの系譜に沿っているものじゃないかと
最近考えています。
何らかのきっかけがあって事態は生じるもので、
時に誇張して「神のひらめき」などと表現されるのですが、
本人にとってはある流れがあって、
独創とは思えない場合も多いのです。

謙虚であることは大切ですが、
だからといって自信まで失うことはないのです。

水曜日, 2月 15, 2006

変換装置を通過して

2日間、48時間試験が終わりました。
ほとんど朝夜の習慣ごとを抜いてしまったので
月曜が終わったばかりとさえ思う
浦島太郎の気分です。

気持ちの良い人は多分たくさんいます。
ただしその人が快く紹介されるとは限らない、ということを
ネットの記事を読んでいて思いました。

有名人はいろいろなものに紹介されます。
紹介というのは他人がその人について述べたことであって、
信憑性を上げるために取材を載せますが、
その内容は肯定的にも否定的にも「解釈」できます。

古いということに対する安定と退廃の2重定義、
新しいということに対するエネルギーと不安定の2重定義などは
いつの世でも飽きもせず繰り返される議題です。

ネット記事というのは紙面広告と若干違って、
同じ画面でそのまま自分のサイトや商品紹介、注文へと
誘導することができます。
類似のサービスは送料無料の葉書広告ですが、
これはポストに行く手間がかかります。

ネットで買い物をするかしないかより、
買い物の結果何ができたかが概ね重要なのは買う側で、
相手の都合が何であるかよりも
買い物をしてもらえたかが概ね重要なのは売る側です。

売ると買う、ただそれだけのことに
感情という大きなノイズが乗っています。

仕事のある側面が嫌いです。
何でもお金で判断してしまわれることがあるからです。
主に広告によって欲望を煽られています。
広く思想を伝えることも物を買って欲しいと訴えるのも
ともに広告の漢字的な意味です。

宗教観がない、ということは自由なようでいて、
固定概念を変えるための外力も失った状態になります。
包丁がないと料理ができないわけではありませんが、
手づかみばかりでは進歩もしないのです。

それぞれの時代にあった先鋭的で常識を逸脱した思想は、
固定概念を変える可能性があるために危険視されるか、
行き詰まりを変えるために歓迎されるかします。
少し時間がかかっても、次第に世に受け入れられ、
長く効果が出るような仕事をしたいと思います。

宣伝が嫌いなのは、
自分の欲求を操作しようと彼らが試みるからです。
煽られ、挑発されて手に入れたものは
自分の満足と共に心静かに持つことができず、
誰かにそれを見せたくなってしまいます。
長い文化を持った国は
そういう情けないことをしてはいけないと
自省しなければなりません。

ネット広告やバナーには転職関連の記事、
特に年収がどうだといかいうものが
常に目に飛び込んできて
なんだか目障りに感じます。

確かに年収というのは人が共通に持つ
出来事の側面なのですが、
それの大小を測るというのは
小学生が珍しい牛乳のふたの多少を測るのと同じです。

お金にも流行り廃りがある、と考えれば
「価値観の転換」という言葉には意味があります。
およそ共通と思われている物欲、金銭欲とは別に、
個人があり方を考えて意味を見出すことが
価値観を変えるという表現で表されているように思います。

お金というのは現場で使う際に便利ではありますが、
その概念のプロパーな取り扱いが非常に煩雑です。
簡単な面ばかりが強調され、
実体にある二つの側面が自体をややこしくしています。

めぐり巡ってこの話は、
あるものそのものが良いか悪いかに関わらず、
それを誰が伝えたかの方が受け手に重く意味をもつ、という
結論に至ります。

木曜日, 2月 09, 2006

メールは実体か否か

スケジュールが再び詰まり始めて
妙な緊張感が高まっています。

ほとんど信用していなかった装置の中に
FAXがあります。
紙が詰まったら読み取れないし、
いつ読まれるかも不明だからです。

FAXよりは電子メールは信用しやすいものでした。
当初は配信遅延が相当多かったのですが
現在は特に困ったことが起きません。

電子メールより携帯メールは信用できました。
相手の手元に届くし、
vodafone同士なら送られたことはちゃんと通知されるからです。

FAXを日常的に使い始めて、
送ったり受け取ったりするうちに
不思議と信用するようになりました。
エラーが出ることもあるのですが、
それでも「まあこんなものか」と気楽に感じるのです。

状態として何も変わっていないのに、
ないと思っているものは存在せず、
あると思うものが存在します。
幽霊は私にとってない存在ですが、
どこかの誰かにとっては実在です。

人のつながりはこのFAXに不思議と似ています。
あると思えばあり、
ないと思えばないのです。

水曜日, 2月 08, 2006

じゃあ、お金で買える物は何なのか

シュガーパウダーを振り掛けるように
粉雪が降りました。
コメントくれた方がいるのに
サーバーエラーで読めません。
良かったらもう一度コメント下さい。

マスターカードの
pricelessをキーワードにした宣伝があります。
具体的に買ったものの値段を挙げていって、
その結果何かpricelessなものへ至るという流れです。

自分の中の理解が未分離なので演繹してみます。

買うという行為はお金を自分が出し、
物かサービスか権利を自分が受け取ることです。

物に値段が付いている内訳は
開発費回収のため、宣伝に使った分のため、会社を大きくする分のためなど
複数の理由によっています。

値段に納得すれば買う、
この言葉は何に納得するかで異なります。
服であれば、自分に似合うという納得と、
値段が高いものを身につけているという納得、
作りの丁寧さや流行に合っているという納得などが混在していて、
人によってその重み付けが違います。

納得して欲しくても買えないことがあります。
お金が十分にあるというのは、この買えない壁を
取り除く意味を持っています。

買ったものには何らかの使い道があります。
服なら着るし、デザートなら3時に食べます。
何もしない「置物」も置いて見ています。
人に見せなくても、自分が持っているという意識があります。

買って持つ、という行為が
人によって意味合いを変えます。

物と対話するように何かを買ったり所有する人は
持っているだけで喜びを感じます。
そこに他人は必要とされません。
しかし人に見せるために何かを買ったり所有する人は、
持っているだけでは喜びを感じません。
そこに他人が必要になるのです。

自立と孤立、
この言葉を最近2冊の本で相次いで見つけました。
自立のためには対話する「もう一人の自分」が必要である、というくだりで、
物を擬人化することでも間接的にそれは得られます。
しかし物に依存してしまうと
一種の偶像崇拝になります。

じゃあ物があれば人間には迷惑がないかというと
それは別の問題です。
人を必要とする人が人を失うと嘆き悲しむように、
物を必要とする人が物を失うと同じように嘆きます。
物に傷が付いたり失われたりしてひどく怒り出す人は、
それを自分の分身か愛する誰かのように捉えているからです。

仏教の解説に「無権利の確認」というくだりがでてきます。
自分が持つもの、意のままにできるものは何一つないことを
改めて知りなさい、という意味なのだと考えています。

ここまで考えてみて、
個人として生きるということは可能であっても
人の中で生きるということは可能になるとは限りません。
社会性は人が獲得した本能で、
自分が社会的に意味があることを確認していたいものなのです。

社会的な意味を作り出すために、
人はいろいろなアプローチを考え出します。
見た目が美しいほうが受け入れられやすいという判断をすれば
着飾ったりすることに集中し、
人のために尽くすことが受け入れられやすいという判断をすれば
ボランティア活動や仕事に力を注ぎます。

ここでお金と仕事の接点が現れます。
社会的に受け入れられる仕事の評価や対価としてお金をもらう、
ということだけが単一概念として受け入れられていると、
仕事の評価の代わりにお金の多少を参照します。

参考程度にしているうちはいいのですが、
そのうち仕事の評価のほうがなおざりにされて
お金の多少だけが一人歩きし始めることが多くあります。

仕事の評価がお金の多少へ反映することも、
お金の多少が仕事の評価の反映であることも、
その双方向の流れがもともと絶対的ではないのです。

水木しげる「水木さんの幸福論」では、
「努力は報われず裏切られることがある」という一言で、
この双方向の流れが絶対的であるという概念を
固定しないよう説かれています。

お金を多く持つ人の中には、
たくさんの人のためになったと認められた結果の人と、
そうではない理由による人とが混在しています。
それでもお金を欲しい、お金があることを示したいと思う人は、
お金の多少によって「ためになった重要な人」と思われたいのだと
ふと思います。
これが「お金で買えると思っているもの」のある人たちの結論です。

VIP待遇って何のことだろうと思っていると
Very Important Peopleなのだそうで、
お金持ちな人と重要な人はイコールではないのに
呼び名がそうなっているのでは
認識が混在するのも無理はありません。

問題は、真に人に認められる満足というものが
実際にはお金では買えないということにあります。
建設的な提案には、自らが他人となって自らを認めるという
方法があります。

この省略形が「自己満足」であるようなのですが、
なぜか自己満足という響きは肯定的に用いられることが
少ないようです。
これは「自己中心」とか「利己的」と
混同されがちだからなのでしょうか。

他人からの承認が絶対的な価値を決めるものではない、
この意識が自らに自信を持たせるために必要なはずですが、
これを広めようとすると抵抗が起こります。
ブランド屋さんはその「普遍的に認められる存在」という意識で
命脈が繋がっている面があるためです。

小さく、あまり認知されてないものは信用を得るのが大変です。
特に日本人は誰も知らないものに
自らの判断で興味を示しにくい傾向があります。
おのずと結果ばかりが重視されるようになります。
一生懸命結果を出すと認められるようになるのですが、
今度は認められることを足がかりに事業を展開しようとします。

asahi.comのネット広告で
「松下だから安心です」というくだりがあったのですが、
実績は長いとしても
工場をあちこちで閉鎖し、賃金カットをして
ファンヒーターの修理に奔走している、
こういう現実はどんな会社にも起こりうるのですが、
しかし「松下だから」とはちょっと言い切りすぎてないかと不安になります。

人にも良い影響を与えるような自己満足とは
どうやって作ったらいいのでしょうか。

まず「人に良い影響」が何であるか考える必要があります。
一義的には言えないが抽象的解ですが、
生き物は生き続ける事がその目的であるとすると
長い目で見てその人の生活や行き方に満足が得られる、というのが
一般的に良いかと思います。

しかし生きているだけでは人間的に満たされないと考えた場合、
短い目で見て、結果が出ない時点であっても
その方向へ向かうこと自体に満足が得られる必要があります。

競争原理が人の限界能力を伸ばすと言いますが、
それは分かりやすく過ちやすい目標だと思っています。
競争は他人を使って満足する方法であって
自己満足ではないからです。

先生という職業を難しいと思うのは、
生徒を教えた結果、有名大学にいけたという数が
評価の対象になってしまう点にあります。

入学の時点で概ね進学欲のある人を選別するのですが、
本人たちが進学を望まないと途中で気が付いても
自らの評価が必要なために生徒に
大学を受けさせようとしてしまう先生が出てきてしまうことになります。

もっとも、それは畑作りが上手な人と同じようなもので、
できる人はできるし、
できない人はできないものだとも思います。

ここまで考えると、競争原理を発動したがる側というのは
人の行動を管理する側だということにも気がつきます。
なるほど競争原理というのは簡単な麻薬のようなもので、
数字で判断ができるため見た目に分かりやすく、
早く結果が必要な場合に誰でも使える思考です。

競争ではなくて人を動かすことは
管理側の人間にとってかなり負担になります。
やる気とかモチベーションと呼ばれるものを引き出すには
試行錯誤が必要になるし、
人徳とか信用というものを人の心に発生させるには
かなり時間がかかるからです。

見た目に分かりやすい、
これを絶対善としてはいけないという結論になります。
まるで偶像崇拝のアナロジーのようです。

管理側の人間が挑まなければならないことは、
競争原理を使わずに組織をつくり、
かつ非常に強力な競争原理の組織よりも
実りある結果を出して存続することです。

相手の組織に勝つのではなく、
競争原理という概念に勝たなければならないのです。

最近、社会に挑むという言葉は
人そのものに挑むのではなく、
既存概念やシステムに挑むという言葉であるように感じます。

研究を続けて思うのは、
分からないことが自然の何かである場合、
その仕掛けを理解するという戦いを挑みます。
たとえば鉄が溶ける温度が分かれば
温度域の設計によって強度を保つ目的が達成され、
建物の共振周波数が分かれば
地の神様にお祈りするよりは
地震によって建物が倒れるのを防ぐ確率が上げられます。

このアナロジーを先ほどの話と重ねると、
自分が始めることは
社会は善だとか悪だとか単純すぎる切り分けに逃げることを
ひとまず保留し、
社会という組織に何が含まれるかを
まず実験的に理解するところから始め、
理解が得られた範囲で対策を考えれば良いと考えます。

社会契約論では、
人は生まれながらに社会に属するというのですが、
属していることとそれが理解できていることは
全く違う話です。
これは野球のルールと面白さが分からなくても
球場に行けば野球観戦ができる様に似ています。
周りが騒げば良い結果が起こったのだろうと感じ、
同調すると分からなくても騒げます。

自らの判断をすること、
それはルールが分かっているものに対してのみ行えることで、
そのルールを理解することは直接お金では買えません。
しかしお金を持っている人は
お金の影響で自分が理解したようなルールに
社会を変えられないかと試みることがあるでしょう。
意識は形ではないのでどちらにも変わり得ます。
それを「買えるもの」にするか、それとも「買えないもの」にするかは、
一人一人がお金に左右されやすいかどうかという傾向の総和として
現れてくるでしょう。
そしてルールが「買えないもの」であるよう保てれば、
人に行動を左右されない個人の自由も
またその中に保たれることでしょう。

水曜日, 2月 01, 2006

心の声

明け方まで印刷機を回しました。
寝不足で目も回りました。

意識というものを重要視とか特別視する、
特に現代はその傾向にあります。

意識が特別なのはなぜでしょうか。

意識によって自分と他人の区別をしています。
一切の行動表現をしなくても意識を変えることはできます。

腕が動くように意識は自在に操れると思い込んでいますが、
まんがのトレースがとても難しいように
意識の操作は簡単には行えません。

同じ表現が違う意味を表すことがあります。
横断歩道を手を上げて渡ることと
歩きながら手を上げてタクシーを呼び止めるしぐさは
同じ表現で違う意味です。
意味の違いは意識が行います。

意識を作る要素がいくつかあります。
未解明の超自然性を除けば、
哲学は思考のアプローチ、特に思考の繋ぎ方を変えるもので、
薬剤や栄養学は脳を含む体としての性能を変えるものです。
思考の変化は体の性能に影響し、またその逆もあるため、
システムのように連動した働きになります。

万物の動きが、人間には理解し把握できなくとも
厳密な法則の元に成り立っていることは間違いなさそうで、
人間も物体であるならある法則に従って動いていることになります。

ここで意識というのが全て物理反応の経歴で示される、
この前提を受け入れるなら、
自分が思っている自由という概念も、
その概念が何らかのきっかけ、本や行動によって変わることも、
目に映る現在の像もある法則によって自動的に成り立っていることが
疑いのないものになります。

頑なに旅行を嫌う人がいて、
たとえばその人を説得するとか、
それでも良いと放っておくのか、
その選択は自分という自由存在がしているようでいて、
実はその決定は物理法則が決めている、としたら
既に定められた法則の上をさまようしかない意識は
何を思えばいいのかと少し考えます。

自分の中のこの問いは最近考えが進んで、
物理法則が決めていたとしても、選択を判断する時点で
人間にはその作用素を全て理解できる能力がないため、
支配されているように「感じる」かどうかは感性に委ねられます。

ではこれで十分かというとそうではなくて、
物理法則が選んだ一形態が人間であると、
人間そのものに関してはある規則性があります。
食事をし、眠り、社会的行動をする特徴から
その「社会的まとまり」と意識との関係は
十分考察されべきテーマだろうと思います。

物理の法則は確かに存在している、
しかしそれがなぜかを知ることは人間である以上不可能であり、
人生に目的があると考えるとするならば
それは人間が生き物と呼ばれるシステムを持っているために
生存を第一目的にするためだろうと考えられます。

全てが物理法則の元にあっても社会学に意味がある、
この関係はたとえば素粒子物理学があっても
流体力学が存在する関係に等しく、
それは素粒子物理は流体力学を内包しますが、
流体力学はそれに固有の法則や性質が厳密にあり、
一見素粒子の成り立ちとは無関係に取り扱えるからです。

哲学というのも
ある限られた条件において定められる
応用=バリエーションのひとつであります。
それがいかに複雑で機能に富んでいるとしても、
それは基礎法則の境界条件に基づいた展開の複雑さを
解いているようなものです。

哲学者、特に意識の絶対化が前提になった思想は
たとえば宗教です。
世界は球形だと科学が証明したとき、
仏教は世界を須弥山という山とお盆でできていると説いていて、
物理の受け入れ、仏教の実在性に相当な論議を呼んだそうです。

意識さえも基本則の展開であると認めるならば、
この時点で実は人格を持つ神の存在が間接的に否定されます。
ほとんど全ての宗教は「神の意思」に自分の自由意志を固定することを
要請するもので、神の存在が物理的に知覚されない以上、
その議論の展開はあくまで仮定が前提です。
素粒子物理でも実験によって証明されないうちは
さまざまな仮説が実験事実をうまく表現しており、
仮説はいくらたっても仮説のままです。
そして物理法則の展開が人間に「神」なるものの存在を思い付かせるわけで、
神が存在し人間がそれをあらゆる制約とは独立に、自由意志で発見した、
ということにはならないからです。

人間も物理諸法則にしたがって成り立つ「物体」である、
この意識がもっと正確に広まらないかな、とふと思います。
人間の目的性やロジックとしての悩みというものは
勝手に作った仮定と仮説の上で遊んでいるようなもので、
生き物として自動的に反応してしまうことはあっても
それが世界の全てではなく、
本来苦しむことではないからです。

長い助走区間

1枚、と英数字の1を出したいときに
なぜか"i"のキーをタイプしてしまいます。
"iti"と"1"の回路が干渉するのでしょうか。
それとも文字の形的に干渉するのでしょうか。

ライブドアの話、少し詳しく書いて見ようと思います。

ちょっとした論調として、
「彼は善か悪か」という雰囲気のものばかりですが、
個々の事象については冷静に見たものが良いものが多いです。
自分たちはさんざん通信簿という多面体的評価をされてきたのに、
人を二元論で片付けるのはバランスが悪すぎます。

彼が「古いしきたりを壊す」と言ったその姿勢には
建設的な意味も多く含みます。
カネボウの例にあるように
日本が封建的で閉鎖的な社会構造であることは確かで、
新規参入を拒み、既得権益を守るのに都合のいい
システムができています。

買収劇は少なからず既得権益の上にあぐらをかいていた人にとって
ポストを奪われるという戦慄を感じたものと考えます。
正しい競争原理は必ず必要で、
ソフトバンクやウィルコムが携帯に参入することで
市場原理に沿わないサービス料が改善した経緯と同じように、
最終的に消費者が良い選択をできるよう促されます。

そう考えると、
買収劇は競争原理というより
支配・被支配の関係に近い感じがしてきます。

お金で買えないものはない、このことは
多分バブル的な発想を持っているかなりの人は
当たり前のこととして思っているはずなのですが、
あまりに露骨なので表に出しません。
明言したことは社会的な追い風を得るには不利に働きます。

急成長しすぎたことにも問題があります。
球団買収などを手堅く行い、買収した企業で
実業方面によい成果を上げていけば
顔の見える会社になれた可能性があります。
実業方面に影響が残らないということは
経営が傾いた後で形になるものが残らないわけで、
形がないものは比較的早く忘れられます。

もし彼が社会システムを変えるつもりだったのなら、
支配関係ではなく競争関係として参入すればよかったのだと
考えます。
しかし彼は会社でお金を得る方面に集中しすぎたために
手段を選ぶのを忘れてしまったのかもしれません。

生意気だからつぶされるんだ、
だからみんなもおとなしく言うことを聞きなさい、が世論の結論だと
納得してはいけないのです。
正しいことをし、正しい競争をもって、
しかし会社が大きくなっても巨大企業同士のもたれあいや
談合状態で馴れ合いにならず、
既得権益に対してまっすぐ戦っていく、
そうあるならば社会の風が押してくれたかもしれません。

この国は正しい風を吹かせる力が少し弱くて、
追い風によって大きく育つのではなく
大きく育ったものにより強く追い風が吹く状態で、
そのことに歯がゆい思いをしている人たちがきっといます。

早上がり、早熟ばかりが目立ちもてはやされる空気ではなくて、
風雪に耐えきちんと花を咲かせる人たちをよりよしとするなら
もっとみんなが強くなれたという手ごたえがもてるでしょう。

月曜日, 1月 30, 2006

書き物考

大きなドラムです。

検出器の外側のようです。

書いていた論文、150pと予想していて、
できた量が最初130ページだったのですが、
レイアウトをやり直した結果149pになりました。
だいたい思った通りです。

書き物がほとんどなくなって
久しぶりに心は平和です。

しかしなぜ書き物が心を乱すのか、
時々考えます。

肉体的辛さというのは確かにあるのですが、
数日眠れれば元に戻ります。
精神的辛さというのはあまり元に戻りません。

いろいろな人に話を聞くと、
書類書きというものにはとても抵抗があります。
文字をたくさん見ると、多分意識が混乱してしまうのです。

火の玉を出す魔法はありませんが、
人の意識に訴える言葉は魔法のようでもあります。

月曜日, 1月 23, 2006

繋がっている、切り離されている

紙飛行機の代わりに、
封筒に切手をつけて飛ばしました。
研究者は一つの自営業だと思っている
今日この頃です。

会社が利益を得るための方法の見方として、
売り切りにするか継続にするかの区別があります。
お菓子のように売ってしまうと終わりなのか、
携帯電話のように一度もつと維持費がかかるものに
大きく分けられます。

売り切りでよいものは生産物で、
本や車や洋服、ipod音楽などのメーカーは常に売り切りです。
その生産物に対して維持するサービスは別にあって、
車の修理工場やファッションアドバイザーなどはそちらです。

物が売れない、というのは
景気が落ち込んでいるという比喩的な意味と、
売り切りタイプの生産物の購買が減少しているという
二つの意味で使われます。

必要不可欠な生活商品が揃うと購買が減るので、
方向としては単価の引き上げかメンテナンス型サービスへと
向かいます。

売り切りは商品さえしっかりしていて返品が少なければ
その後の面倒を見る必要はなく、
売れば売るほど利益が上がります。
その代わり売れなくなると商材の生命は終わりです。
維持型は一度顧客を囲うと継続して利益が得られます。
しかしメンテナンス料に足るサービスを提供し続ける必要があります。

飽和型社会を面倒に思う点は、
いろいろなものが連動し始めていて切り離せない点にあります。
それは集落型の人間関係と都市型の人間関係の違いと同じで、
結びつきが強くなればなるほど不自由感がでてくるものです。

エステだって売り切りのようにすると
サービスを買う側に自由さがあって楽なのですが、
エステの会社は継続して通ってくれることを求めてくるため、
とても不自由に感じてしまいます。

銀行やローンの会社も事情は同じで、
よく返してくれそうな会社には
その資金が必要であるかどうかに関わらず割増しで貸付を行って
継続的に金利を得ようと必死になります。

求める立場なのか、求められる立場なのか、
それは時間にも相手によっても異なり、
いろんな糸が立体的に交差しているようにも感じられます。

以前日本史の研究者から
「本当の自由とは何の制約もないものだ」という言葉を聞いて、
時折その意味を考えます。
以前も考えたとおり「自由」と「自由度」は違うもので、
「義務と権利」の「権利」に当たるものは自由度であって
自由ではありません。

自分の周囲には自由が少ないと雰囲気で思っている人は
きっとたくさんいて、
それは連動することのオーバーヘッドを
毎度解く必要があるからです。

自由をもてあまして不安になってしまう人は
何らかの外的条件に拘束されているほうが落ち着くもので、
ただそういう人が多すぎると
都市全体で村社会を作る結果になります。

自由になるということは、
制約条件を打破するという面が一方で必要で、
しかしもう一方で自由の頼りなさと本気で向き合うことで
相手を拘束する願望をもっと減らすことが必要です。
それは一人の人間の存在と頼りなさの源を同じにするもので、
実行はなかなか難しいものです。

plan, do, and see

食べるのも好きですが
作るのは同じかそれ以上に好きです。

スコッチウイスキーで香りをつけます。

バルサミコ酢はお醤油のような旨み調味料で、
付け合わせが楽に作れます。

木曜日, 1月 19, 2006

あれとこれを繋ぐもの

アンチモンの鉱石です。

人工の造営物に魅力を感じることもありますが、
石が自然に作る規則性に魅入られることがあります。

朝日新聞の絵本について語る一節があって、
鬼に峠の橋をかけてもらう代わりに目玉をよこせと言われる
話があって、つなぐことの難しさをふと思います。

あれとこれ、簡単に繋がるようでいて
実は繋がる部分がとても難しいものです。
たとえばエンジンとシャフトを繋ぐギアは台形歯車を4つ対向した
ディファレンシャルギアと呼ばれるもので、
見るからに複雑な動きをします。

インターネットが難しかったのは、
仕様も速度も違うネットワークを統一することで、
TCP/IPはいくつもの階層に分かれて差を吸収しています。

メーリングリストはある、けれどもそれが機能するには
文字以外の繋がりが必要だったりします。

カタログで構成部品は規格品がいくらでも買えるのですが、
それを繋いで機能化する段に独創性が現れます。

あれとこれの境界部分に自分を置く、
自分は頻繁にその作業を続けています。
繋ぐ作業は決して単調な仕事にはならず
頻繁に難しさを感じますが、
それらが機能として一体に振舞う瞬間というのが
とても嬉しいのです。

水曜日, 1月 18, 2006

EXPACK500

パッションフルーツが好きで、
トロピカーナ夏季限定のオレンジ+パッションフルーツを
見つけて1箱買って来ました。
研究室に非常食用のカップ麺をたくさん買って
置いているのですが、
思ったよりほんの少し予定が早まったので
食べ切らないかもしれません。

速達には手続きが必要、というわけではないのですが、
重さが分からなくて結局郵便局へ向かってしまいます。
その点EXPACK500は便利で、
ポストに入れるだけで無条件に速達扱いにしてくれます。
ちなみに、厚紙の封筒に入れば少々膨らんでいても良いのも
なかなか気が効いています。

封筒は248mm*320mmの厚みがないサイズですが、
20mmぐらいは平気です。
こうすると容積は1.5Lぐらいになります。

郵便局のHPには"30kgを超えて入れられません"と書いてあって、
1.5Lで割ると比重20g/cm2まで大丈夫という計算になります。
これは金の板を封筒一杯に詰めて送っても大丈夫という規格で、
全く心配が要りません。
しかしこんな封筒が30kgもあったら大変だなあと
真面目に考える一方、
30kgにした背景は上記と同じ思想で考えたんじゃないかと
なんとなく想像してしまいます。

金曜日, 1月 13, 2006

叶わぬ願い

ボスが生きていてくれていたら、
ここ一番で絶対に推薦状を書いてもらおうと
心に決めていたのを今さらながら思い出しました。
今日はなんだか悲しくて泣いてしまいそうな1日です。

水曜日, 1月 11, 2006

加速度

運動という言葉にはややストイックな修行のイメージ、
活動的で競技的なニュアンスがあって
もう少しいい言葉がないかと考えています。

物体の位置は見ることで分かります。
物体の速度も見える範囲で分かります。
ところが加速度は目で見ることはできず、
力として感じるものになります。

ニュートン方程式の示す式は
とても少ない文字で書けてしまうもので、
アインシュタインの質量とエネルギーの等価性も
とても少ない文字で書けてしまいます。
じゃあ世界は簡単かというとそうではなくて、
簡単な式は適用する場面に応じて無限にその姿を変えます。
質量の項が複数になり、行列になり、
加速度が積分されたり、相互作用が生じたりして
もともとの簡単な式とは似ても似つかぬほどになります。

速度が速いものは見た目に派手ですごそうですが、
抵抗のない系ではエネルギーが失われないので
一度加速してしまうとエネルギーが与えられなくても
飛び続けることができます。

それではあまりつまらないのです。

常に力を感じたければ加速度を与えるしかなく、
そのためにはエネルギーが必要です。
こう書いてしまうと読みようによってはただの物理の話ですが、
こんな人生でいたいなと願う自分のヒントのようでもあります。

木曜日, 1月 05, 2006

3冊選びなさい、といわれたら

今日は妙に血が頭に集まっているようで、
めまいがします。

信教の自由、というものがあって、
「公共の利益に反しないように」と定められています。
受刑者が希望する持込図書は
経典として認められれば別枠扱いされるそうで、
オウム説法集は3冊までと定められた「一般図書」とされたことに
訴えが起こっているのだそうです。

いろいろと考えを巡らせます。
一般図書とされた理由は、一種の「危険思想」であって、
読み進めた場合犯罪やテロを招く恐れがある、という解釈が
言外のうちに進められているはずなのですが、
それを言うなら他教を排除するキリスト教やイスラム教だって
立派に犯罪やテロを招いています。

「公共の利益に反しないように」という言葉は曲者で、
さまざまな解釈ができるからこそ問題が起こります。
言論統制が行われようとしている国会インタビューの話を見ると、
人権を盾にとって悪事を隠そうとしています。

それぞれの名前のついた個人にプライバシーはあります。
しかし国会議員という公人に秘密は必要ありません。

信教の自由というのは
それ自体がリスクの大きい権利なのだろうと思います。
人が決めた全てのことには
完全な正解や間違いが定義できないからです。

ただ衝突のない画一化された世界を理想とせず、
自由な言論が確保された上で常にせめぎあいの中にある、ということこそ
本来は揺らぐ世界の健全な姿であるのかもしれません。

もし3冊選べといわれたら、
最初の1冊に岡本太郎の本を入れ、
残りは適当な物理の辞典と厚い英語大辞典を選びます。

火曜日, 1月 03, 2006

前衛と、モダニズムと

「今日の芸術」からの一節で、
芸術の側面には前衛とモダニズムがあるといいます。

モダニズムは心地よくて好まれる、
前衛は理解されにくい、この図式は
量産技術と先端技術の構図にも当てはまります。

ちなみに、前衛はモダニズムの領域を開きますが、
その逆は成り立ちません。
つまり、スマートさを身につけたいと願うのであれば
まず前衛に立つ必要があります。

そしてこの「前衛」と「モダニズム」とは
人によって分けられているわけではなく、
一人一人の時間配分によって分けられています。
前衛に立つ時間を生涯にどれだけ確保できるか、
これがモダンを自分に身につける鍵となります。

アンチテーゼ・その2

ひつまぶしとひまつぶし、
全て自分の時間に合わせれば暇は作れるのですが、
決まりごとという観念的要請が時にそれを阻みます。

季節感を放棄してみたらどうなるだろう、と
ふと思います。

ここで言う季節感とは、
世界の時間は春、夏、秋、冬が
順に巡ってくる、という意味においてです。
宇宙の時間で言えば一時も同じ状態はありません。
なので、去年「春」と呼ばれていたある時間と
今年「春」と呼ばれているある時間は違うものです。

最近のニュースキャスターは
暑くなったり寒くなったりすると、
「異常気象ですね」と口ぐせのように言います。
観測史上一番の暑さが来たといっても、
観測は100年もしていないのだから、
特に驚くことはありません。
冷夏の年も旱魃の年も、
昔のようにたくさんの人がそれで死んではいないのです。

春だと観念的に思っているものがあります。
桜が咲くのはだいたい春ですが、
今年や以前に、秋の終わりに咲いた桜を見かけたことがあります。

冬でも夏野菜のトマトが食べられるなら、
季節感がなくなっても不思議ではないし、
頭脳労働の世界にはもともと季節感がありません。
季節で式が変わるような憲法や物理法則では困るからです。

自然という言葉の定義も気になります。
地球環境とか、野山、という意味での自然なのか、
普遍的に存在する‹この世>という意味での自然なのか、
これがよく混在しています。

季節感を大事にしよう、という表現はやや謎めいていて、
季節感とは気になるかどうかだと考えます。
意味がわからないものを大事にするといっても、
どう大事にするかがつかめないものです。

春夏秋冬なんていりません、
常に時間は戻らないのですから、というと
‹自然を忘れた現代人›と呼ばれるのかもしれませんが、
春夏秋冬のサイクルだけに縛られていることこそ
[自然]を忘れていることになります。