特殊なスイッチ
日本語の原稿を書いている最中には
日本語の曲が聞けません。
頭の回路で干渉が起こるみたいなのです。
ところが英語の曲はすんなりと聞けてしまいます。
同様に英語の原稿を書いている最中には
英語の曲は聞けません。
自分の頭は時々メカのようで、
自分の説明書を書いてるような気分になります。
時々、不意ににあるスイッチが入ることがあります。
そんな時は自分が自動装置のようになってしまいます。
自分のことでありながら
自分を大まかにしか制御できないのです。
あげるので欲しい、という連鎖や
自分のためという欲という感情から遠く離れ、
純粋に楽しみのみを伝えようという気分だけで
人と向かい合うスイッチが入ることがあります。
そういう時は不思議と自分の輪郭を失います。
自分らしいこと、というのは
イメージとして形があるように思ってしまいます。
意識と言葉による定義ができそうな気がするのです。
自分が何であるかを手放した瞬間は
逆にイメージがありません。
しかし自分の輪郭がなくなった自分でいる間が
なぜか一番自分らしいと感じる矛盾があります。
意識が位置や速度であるなら、
無意識は加速度に相当する量のようにも思います。
自立についてちょっとした考察を思います。
雇用と被雇用の関係と
自立と依存の概念は本来別なもののはずなのですが、
非常に近い概念なので混乱が起こります。
想像力や発想はとかくすばらしいもののように呼ばれますが、
違いを正確に弁別できないアナロジーというのは
形がないだけに外から書き換えることができず
極めてやっかいな道具でもありそうです。
「自立の概念」を求めて起業する人がいます。
会社に勤める方に多いのではないかとふと考えます。
会社の違いというのはさながら同じ言葉が通じる外国のようなもので、
そのシステムによってずいぶん印象が違います。
民主的な会社もあれば、社会主義的な会社もあります。
分権が成り立っている場所も、一党独裁な場所も、
象徴で動いている場所も、絶対王政の場所もあります。
日本にとって「外国」の定義には
「言葉が通じない国」を暗に含みますが、
世界を見るとアメリカとイギリスは
言葉が通じても外国です。
ということは、外国の本態的定義は「制度が違う場所」であって、
日本の中の会社は十分外国的に違っているのです。
人の大きさと行動範囲、影響範囲、寿命などを
軽く頭に入れてみると、
この地球全てを網羅できる存在にはなれないだろうと
想像がつきます。
例え「これが単一の国で王は私だ」と宣言したとしても、
野球チームのオーナーが選手と観客と球場のドラマを
一人ではどうにも制御できないのと同じで、
宣言すること自体にあまり現実感がないのです。
会社の社長になったといっても
それは社会という大きな入れ物の中で
役割を果たすために預けられた場所である、というのが
会社のもともとの定義であって、
それが自分の所有物であるという実感に結びつくとしたら
錯覚であるような気さえします。
5000万のロールスロイスを100台持っていても、
エンジンのシリンダから自分の手で作ったわけではないので
「自分のもの」という実感は
本当は湧いていないのではないかと思います。
所有するという感覚がもし実感として成り立つとしたら、
それは人間以外のものから
得たものであり、
自分の体を使う必要がありそうです。
野菜を作るといっても種は買ってくるし、
畑を耕すのだってガソリン動力の機械がやってくれます。
じゃあ人間性を回復するためには
分業をやめて個人の単位へ戻せばいいかというと、
これは論点として違います。
分業によって生産性が累乗に増加する恩恵によって
人は余暇を得ることができていて、
そこから人間性を生み出す素地が発生するからです。
文化はさらに加速され続けなければ
ならないのかもしれません。
もし進歩というものがなかったとしたら、
システムは改変の機会を得ることができず、
会社に必要とされるのは「人の言葉が分かり、
忠実に任務を遂行する機械」のような
存在であって、人間性ではなくなってしまいます。
生き物として生きてはいるけれども、
人間としては生きていないのです。
経済成長が長く続く世界は、
おしなべてこの危機に直面します。
「良い時代」といわれた経済成長期が、
人間性にとって危機であった理由、
富によって不幸せになると宗教が説明する事象は
このようにすれば具体的に説明できるかもしれません。
文化が加速すれば、システムは改変の機会を得ます。
つまり、人間は機械のような忠実なマシンではなく、
それぞれの発想とその総和によって現状を開いていかなければ
ならなくなるのです。
このときには「殿様と家来」のような、
社会制度的な上下関係を破ることができます。
全くの個人が個人の発想によって位置を変えられる、
そういう時代が訪れるのです。
安定というものが「不変」であることならば、
人が生まれて死んでしまう不変を破った存在である限り
原義に忠実な安定はありません。
これが富の差を呼ぶのだと危惧されています。
すべての人が生活できるようにすることは
社会の意義として必ず必要だと思います。
しかしどのようなことをしても生活できるようにするなら
それは社会主義であって、
人間は怠惰することが歴史的に証明されています。
やはり頑張るものが認められるように
制度が整うのが理想として良いとは思うのですが、
問題は「何を判断基準にして頑張ったとするか」が
多くの人にとって可観測な状態にないことが多いのです。
人間は他人の心が読めるわけではなく、
24時間追跡調査をしてるわけでもないので、
判断の誤りが生じます。
今の自分ではこの付近ぐらいまで思考すると
問題の問いが最初へ戻ってきてしまいます。
自然が作ってきた生命のシステムによれば
それは自然淘汰という大きな流れの中にいるもので、
それを改変することはできないと思いますが、
もう少しましな方法はないのだろうかと
いつも考え続けています。
この考察、小休止しながら当分続くテーマになります。
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