月曜日, 11月 27, 2006

そして神とは、時のことかも知れず

つくばは落葉樹が街にたくさんあって、
黄色やオレンジや赤の景色が続きます。
雨が降っています。
不思議と寒くはありません。

曲からの連想で
「ふぞろいの林檎たち」に行き当たりました。
ドラマといえばシンデレラ・ストーリーか
勧善懲悪ものか、ただの惨めなストーリーか、という流れの中で、
時の流れそのものに翻弄される「ふぞろい」のドラマは、
その「時の流れが発生した嵐」を正確に描いている点で
もっとも現実らしいのかもしれないと思います。

そういう意味では、ハッピーエンドにならなかった
「東京ラブストーリー」も
実は時の流れを描こうとしていたのかな、と
思うこともあります。

現代物理学では、
時の流れがなければ
すべての物事は止まってしまうだけでなく、
すべての物質が消滅することになっています。

でも、
本当は世界のモデルが何であるかなどはどうでもいいのです。
私に与えられた時の流れが私に望まれているかどうかが
ただ私が時という神に意味を見出せるかどうかの
分かれ目なのです。

金曜日, 11月 24, 2006

夢や希望の示す中身

夢や希望というのは、
「すべての人が幸せになる」という
共通点を持つもの、と定義できそうです。
言葉は正確でないのですが
「災害後の天国」という表現があって、
さまざまなものを失った人たちは、見ず知らずの人とも
助け合って生きていこうと協力することを指しています。

「すべての人に与えられる」という表現に変えると、
本当は地球のあらゆるものは
食べ物にしても石油にしても
太陽の熱か光かあるいはその変化したものを与えられていて、
夢や希望というのは太陽のようなものかなとも
ふと思いました。

雨上がりの空

ひたちなかで朝の5時まで
キムチ鍋を作りました。

ずいぶん遠回りして考えて、
怒ったり、悲しんだり、悩んだり、苦しんだりという感情は
すべてどこかで死に結びついているなとふと思いました。

生き物としてプログラムされた反応として
生き物は死から遠ざかるように行動します。
生き物の目的は「生きること」だからです。

わたしが恐れや心配なく生きるためには、
物があればいいわけではなく、人がいればいいわけではなく、
いつか自分も人も、あらゆる命が
いつか地に戻ることを恐れずに受け入れることが
必要なのだ、という所に至りました。
そしてそれは生き物としてのプログラムに反することであり、
難しいことだなという印象になりました。

月曜日, 11月 20, 2006

ある晴れた金曜日の朝

CHAGE&ASKAの歌で、
ビルの窓掃除をしていて転落して天に召された男が、
次の希望欄に「ビートルズ」と申し送りをし、
そして次の世でビートルズは5人になる、
というくだりの歌があります。
アップテンポでとても好きな歌です。

科学は生まれ変わりを証明できません。
科学の限界は人が一生分の記憶しか保持できない、と
されていることにあります。
証明されていないものは「存在しない」のではなく、
「存在の可能性が残される」です。
この空間では時間が戻らないことになっていて、
与えられるのは未来だけです。

今の世で救えなかったもの、
足りなかった時間のもの、
喜びを与えられなかったもの、
願いを叶えられなかったもの、
私はすべて預かっておこうと思います。
何万年、何十万年かかっても
私は何度でも「わたし」に生まれ変わり、
そのたびに新しい国の新しい言葉を覚え、
砂漠の真ん中、深海の底、切り立った崖の上、
眠らぬ都市の街角、向日葵の咲く丘の元、
何度も生を受けあらゆる場所に私は向かい、
出会い続ける人に喜びとなれるよう、
預かった願いを叶えられるよう
時間の旅を続けたいと次の世に申し送りします。
そして地上のすべての人と出会い、
そのすべての喜びになれることを待ち望みます。

もし今世でも来世でも私にできることがあれば、
遠慮なくご一報ください。

土曜日, 11月 18, 2006

私を成り立たせる3つのもの

寒いのでもつ鍋にしました。
もつは一度酒を足して煮ると臭みが取れます。

いつでも持ち歩いていたいものを
曲からひとつ、絵からひとつ、本からひとつ選びました。

曲はルイ・アームストロング「このすばらしき世界」です。
世の中には恋の歌、未来の歌、希望の歌などいろいろあるのですが、
どれも過去とか未来とかばかり歌っています。
スローなイントロから始まるこの曲は、
今見えるもの、聞こえるものを素敵だと歌います。
日本語でこういうテーマを歌うと
なぜしっくりこないのだろう、とも思います。

絵はパブロ・ピカソ「科学と慈愛」です。
臨終の床にある婦人に対して、八方手を尽くしたけれど
死を止めることができない医師は脈を取るだけの姿、
向かいにいる修道女は渇きを癒す一杯の水を差し出し
子供と共に祈りを捧げます。
科学の進歩や技術だけが決して人を幸せへ導くのではない、
人は決して無力ではなく、
精神の座においてその最後まで何かできることがある、という
訓戒と希望を与えてくれる絵です。

本はミヒャエル・エンデ「モモ」です。
「灰色の男」なる時間泥棒が、人の時間を奪っていく様子は
都市社会の忙しさ、心が奪われるプロセスを
とても正確に描写しています。
時間が奪われるのは灰色の男と
「無駄な時間を減らして時間貯蓄をする」契約を結ぶからで、
貯蓄した分だけ後で何倍にもなって戻ってくる、という
約束を交わすからなのですが、
効率を追い求めることで人は「仕事をする機械」になってしまい
人間ではなくなっていきます。
効率よく働き、事業が成功し、貯蓄をし、
美しい服装、豪華な食事、大きな家、あふれる名声、
手に余る文化的生活と情報、
しかしそれら全てをもってしても幸せとは程遠い気分から
抜け出せないのです。
資本主義がもつ「拡大再生産」の罠を指しています。

仕事の中に喜びと生きがいを見出すのなら構わないのですが、
成功と富を見出すのなら多分違うものになるのだと思います。

「この時間は、本当の持ち主から切り離されると、
文字通り死んでしまうのだ。人間というものは、
ひとりひとりがそれぞれのじぶんの時間を持っている。
そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、
生きた時間でいられるのだよ」というくだりがあります。

「もし人間が死とはなにかを知っていたら、
こわいとは思わなくなるだろうにね。
そして死をおそれないようになれば、
生きる時間を人間から盗むようなことは、
だれにもできなくなるはずだ」ともあります。
物語の中では輪廻が説かれていて、
もう一度新しい生を受けるのだ、あるいは
神の国へと加わるのだとも解釈できる説明もあります。

モモが心の中で見た世界は、
咲くたびにこれが一番美しいと思う花がひとつずつ現れ、
そのたびにモモは心から喜び、
しかしそれは必ず枯れてしまう、
そのたびにモモは心から悲しむ、
そして美しい花はまた必ず咲き始めるという光景で、
それがこの世界なのだという説明です。

時間を守るとか、約束は絶対だとか、
ある意味では人間的美徳とさえされるそういう縛りそのものが
この世界を狭くしてしまうのです。

いつもこの3つのものがあれば、
心の座標は同じ場所へ戻せるような気がするのです。

水曜日, 11月 15, 2006

宇宙人になりたいわけ

カーペンターズの
"CALLING OCCUPANTS OF INTERPLANETARY CRAFT"という曲があって、
最近よく聴いています。

リクエストで曲を流すラジオ番組の周波数帯を通じて
宇宙人が地球人とコンタクトを求める、というイントロで始まります。

宇宙人になれれば
地球人とは争わなくて済むのだろうか、という話は
なんとなく「最終兵器彼女」の最終話にも似ている気がしています。

土曜日, 11月 11, 2006

うまくは言えないが、ある雰囲気について

久しぶりに日記を書こうと思いました。
書きたい事がなかったというよりも、
読み返して良かったと思うような話題を思いつくのが
難しかったからかもしれません。

電車で仕事場に通うと時の雰囲気が良くわかります。
使われている文字をみると、
横文字はすっかり消えてしまって日本語だらけです。
もしくは日本人に読める程度の中国語が増えています。
恐らくイラク戦争や牛肉問題などの影響で、
日本がアメリカを敬遠しているからでしょう。

スタンダード=基準となるべき男性像について、
この国は迷います。
社会の仕組みには大きく2種類あって、
女性系の社会と男性系の社会があるのだそうです。
日本は女性的社会と呼ばれます。
アメリカというリファレンスをなくしてしまったことは、
ある意味で自分たちが主体的に社会を作る権利を得ることになりましたが、
どういう社会を作るかについて少しもまとまりません。

禅や道はストイックなものが良いとされていて、
地震雷火事の続きは怒った親父です。
そうでなければ卑屈な立ち回りか、
古狸のような悪代官みたいな老獪さばかりが目立ちます。
自己犠牲的に命を捧げ、
あとは涙ばかりが残る、そういう人生は
「意義深い人生であった」と思い返すことができるのでしょうか?

ルイ・アームストロングのCDを聴きながら、
日本にいないのはこういうタイプの男性なのだ、と思いました。
それは自信に満ちた明るさであり、
現実と生命を肯定して微笑む懐の深さです。

神の存在が関係しているのだろう、とふと思います。

日本や中国には強い神がいないために、
人がルールを定めることになっていて、
風が吹くたびに人間が揺らぎます。
居心地のいい環境ではないのです。

日本は西洋から技術ばかりを輸入したので
「和魂洋才」なんて言葉になってしまいましたが、
本当に輸入すべきだったのは肯定的な「魂」なのではないか、と
ふと思いました。

日本とアジアを見渡す限りルイのような人物には
ほとんど出会えないような気がするので、
わたしがなりたい人物像を見つけた、ということで
今日は納得しておこうと思います。