火曜日, 2月 27, 2007

コモン・センスのずれ

年度末になると必要になる物品を
購入することがあります。
その時、6桁の値段のパソコンは比較的買いやすいのですが、
5桁前半まで値段が下がってきたディスプレイは
「雰囲気的に」あまり買えません。
画面が多いと「エラソウ」なのです。

計算機を使っていて、
作業が複雑になるほどウィンドウを切り替える時間が多くなって、
それが思考の妨げになっていると思います。
エディタ2つとコンソール二つ、C++開発環境とエクスプローラ2つ、
これらを順番に使って
ROOT、VC++、ImageMagickの3つの言語に
互いに通訳をさせながらデータを通していきます。

原研の先輩が
「データを視覚で見ることの大切さ」をしっかりした言葉で話し、
本当にそうだなと思っています。

このコモン・センス、
会社の頃にデスクの広さや椅子のグレードで
見た目に分かりやすい序列を作っていたこととおそらく無関係ではなく、
仕事の効率と序列の雰囲気の維持、
どちらを重視するかが問われる場面だと思います。
そして「雰囲気」や「序列」はある種の人たちにとって
大事なんだろうな、と感じるのです。

月曜日, 2月 26, 2007

それに名前をつけてはいけない

千葉へ向かう朝の道路は海へ向かう、
つまり行き止まりに向かって車が集まるような場所で、
よく混みます。
でも大きな朝日を浴びながら運転できるので、
今の時期は気持ちがいいものです。

Avenue Qというミュージカルに出てくる
There's a fine, fine lineという歌があって、
謎解きのように歌詞の意味を考えています。

「おとぎ話」と「嘘」の間にはほんのわずかな違いしかない、
「愛」と「時間の無駄」の間にはほんのわずかな違いしかない、と
歌詞は進んでいきます。

この歌詞、確かに真実性があると思い、
しかしどこか違う感じがしていて、それがうまく説明できず
何かがひっかかったままでいました。
わたしの心の中にあるものはそんなにあやふやでは

ないのが分かっているからです。
ただそれを「言葉」で説明しようとしてもどうしてもうまくいきません。

わたしがあなたを想う気持ちは、
あれこれと勝手な「名前」をつけられるものではないし、
封印して冷凍庫に入れて鍵をかけておけるものでもない、
だからそれに「愛」だと名前をつけても
「時間の無駄」だと名前をつけても、
言葉にした瞬間にそのものの「確からしさ」は失われるのではないか、
そんな感覚を持っています。

わたしは今までの全てで作られているのだから、
わたしにとって一切は大切なはずで無駄でなどないのです。

だからこの歌詞の意味は確かに正しくて、
あるものが「愛」だったり「時間の無駄」だったりできる、
それは「あるもの」に勝手に名前をつけて固定しようとするからです。

私に関して想像されることがどんなに具体的であっても、
それが笑い顔であっても悲しみの顔であっても、
怒っている顔であっても苦しんでいる顔であっても、
わたしを言い当てることはできていません。
そしてわたしに誰が何を言おうと勝手なのですが、
わたしが誰よりもあなたに笑って生きて欲しいと想う気持ちが
変わることはありません。

どうかわたしの言葉にも、わたしの姿にも、
わたし自身にも言葉で名前をつけないでください。
もし一切の言葉を忘れて見つめることができるなら、
そのときあなたはわたしを見るかもしれません。
でも、忘れた後でもし時がわたしを見ずに済むようにさせるなら、
それはそれで構わないと思っています。


火曜日, 2月 20, 2007

板ばさみ

カップスープは甘くて好きで、
インスタントの味噌汁は塩っぽくて好きです。

もう20年以上も前の両親の夫婦喧嘩の光景や感情を
わたしはいまだにはっきり思い出すことがあります。

わたしが小さい頃に思っていたことは
世界は絶対にみんなが幸せになれない定義がある、その証明は
「あるものがひとつあって、命がけで欲しいと言う二人の人」
の存在がなくならない限りにおいて、ということでした。

思想だろうが宗教だろうが恋愛だろうが、
どんなに真剣で命がけだから、といわれても、
それがどんなに正しいことだと言われても、
生きていくこと以上のイデオロギーや主義の主張が含まれる限り、
もしかしたら生きていくこと自体への主張であっても、
それはエゴであって愛ではないと思っています。

主義の板ばさみになったときに必ず思い出すのが
わたしの子だと主張する二人の女性を見極めるソロモン王の話で、
それでは公平にこの子を二つに切り裂いて与えようと告げます。

一人の女性がそれならわたしは親でなくてもいいので
どうか子を剣で裂かないでくださいと願い出て、
ソロモン王はその女性の愛をもって親を見極めました。

イデオロギーの嵐の中にいると、
わたしは勢力争いをしたくているわけではないのに、と
どちらにも与しない姿勢でいるのですが、
いっそのことわたしを二つに切ってしまえば
事はそれで済んでしまうのではないかと思うことがあります。

わたしが科学にもっとも願いをかけるものは、
「必要に応じて何でも完全な複製ができる」装置の開発です。
ただこの装置があれば必ず幸せになれるとは限らず、
ひとつのものを独り占めしたいとか複製は気に入らないとかいうことになれば
ある種の人々にとってはむしろ災いなのかもしれないなとも
ふと感じます。

そして文字は必要に応じて完全な複製ができ
神の表現だってそれならどう表現したって
文字のレベルでは完全な複製であるはずなのに、
それは二つあってはいけないなどという人たちがいて、
世界情勢でどんなに複雑な事件が起こっていたとしても
それは常に「幸せになれない定義」のうちにあるものだから、と
地球の裏側の「戦う出来事」に対しても思っています。

日曜日, 2月 18, 2007

思想及び良心の自由は、これを侵してはならない

電気風呂というのがあります。
初めてその存在を知ったのは18切符で京都へ行った時で、
レンタル自転車で町を巡った夜に町をさまよって見つけた銭湯でした。
何の気なしに電極内にはいるとものすごい刺激で、
脚がつって動けなくなってさらに困りました。

「あしがつる」はこむら返りと言うのだそうで、
原因は判然としないそうです。
カルシウムとマグネシウムのタブレットを最近良く飲んでいます。

思想及び良心の自由は、これを侵してはならない、
日本では憲法第19条に相当します。
2006年12月15日に「日の丸・君が代の義務化」が
教育基本法に明記された、ということを
どのように位置づけたらいいのかとわたしなりに考えています。

日の丸はこれを国旗とし君が代はこれを国歌とする、と
明記されています。
日の丸掲揚、君が代斉唱の義務化は、
なぜ「義務=強制」されなければならないのでしょうか。

長く続く歴史は、
自由を表現した思想とそれを抑圧する思想の繰り返しだ、と
わたしには読み取れます。

いくつかの生き物と同じように、
人は群れて生きる生き物の仲間です。
群れる理由は簡単に言えば食べ物を得やすくするためで、
狩りをしたり畑仕事をしたりします。
食べ物への安心感を巡って争いを起こすか、
性的欲求の充足を求めて争いを起こす、
すべての略奪や戦争は簡単に言えばそれだけの話であって、
それ以上でもそれ以下でもありません。

人が集まって役割を分担して暮らす、ということを
共同体と呼んでいます。
この成立は、「共同体を作るとこんな良いことがある」と説く面と、
「共同体を作らないとこんな悪いことがある」と説く面でできています。

共同体を作る利点は食べ物が得やすくなる、と言うのが
良い事を説く面です。
産業革命などは典型的な「分業による生産性の向上」の例です。
しかし食べ物が得られなくなった場合共同体は人が多くて困ります。

共同体を作らないと食べ物が得られなくて死んでしまう、というのが
悪いことを説く面です。
共同体を作ると言うことは一人で全てをまかなわないということであり、
報酬は共同体への貢献に応じて得られることにしています。

ここで「共同体への貢献」をどうやって測るかが問題になります。
全ての人がどのような貢献でもできるとは限らないからです。
ある作業に向いている者もいれば、向いていない者もいて、
その組み合わせで目に見える貢献の多少は変わるからです。

共同体は「人間が生きやすくする」ために作るものです。
だから共同体はその性質として、共同体を構成する全ての人が
生きやすくなるような仕掛けを持っている必要があります。

落穂を拾ってはいけない、は聖書が作られた時代の慣習で、
畑を持たない者も生きられるようボランティアを定めたものです。
税は本来このボランティアを拡張した概念であれば適切ですが、
その成り立ちとして「利権=不労所得」という裏面が必ず発生します。

世の中をもし分けるとしたらまず分けられるのは「ふたつ」です。
だから黙っていても働く人もいれば言われないと働かない人が必ずいます。

共同体の成立でいつもあれこれ言われるのはまずは後者の方で、
働かずに食べている人を見て不満に思う人とそうでない人がいます。
そうかといえば働いて貯め込むばかりの人もいて、
それを見て不満に思う人とそうでない人がいます。

わたしがあるということを認識した時点でこの世界は「ふたつ」に分けられていて、
わたしの外側の物質世界とわたしの内側の心的世界です。
物質世界には形があり、心的世界には形がありません。

共同体が制限するものはあくまで「物質世界」の取り扱いについてであり、
心的世界についてのありかたについてはこれを規定しないというのが
「法」がいう「自由」です。
しかし「自由」を恐れる人たちがいて、
それは共同体を維持できなくなると考えるからです。

司馬遼太郎「空海の風景」では、
空海の時代、税を逃れるために勝手に出家を名乗る人が増えて、
許可なく僧侶になる事を禁じたことがあるのだそうです。

自由を恐れる思想は主に、
恐れを持つ側から恐れを持たない側へと影響が及びます。
中国での仏教弾圧、江戸時代の踏み絵、ドイツのユダヤ人迫害などは
全て「共同体の崩壊」を恐れての行動です。

全ての現象に対照的な側面が生じるのだとすれば、
「国歌・日の丸」斉唱によって、
たくさんの人が助け合っている共同体を大事にしようというメッセージだと
捉える人と、
国歌という権威に服さなければならないというメッセージだと
捉える人が出てくるはずです。
たとえば「教育基本法の改悪」と呼ぶ人はこの後者の側面を危惧し、
石原都知事などは建前でもこの前者の側面を重視した、だから
肯定と否定がでてくるのだと考えます。

結局のところ、教育の現場で「日の丸と君が代」をやるというのであれば、
このような両側面を持つことを余さず説明し、
教育を施す人自身が「日の丸と君が代」に対して
「共に生きることの大切さ」という意味を与えて見せることが大事であって、
「組織というものの強制に従いなさい」という意味を与えてはならない、だと
思っています。

一方で、儀式的なことへの慣れというものは
シンボル=偶像に対する忠誠になる危険を常に内包することになるので
危険なものでもあります。
鉄人28号は強力な機械であり、
操縦者の心によって正義の使者にも悪魔の使者にもなるところを
正確に描いた点がとても気に入っています。
そしてその上で、憲法第19条の本質は
絶対に守られなければならないと思うのです。

金曜日, 2月 16, 2007

2007年2月18日

新しく世界暦を作る試みで祝い事を世界中から集めてきたら
年中日曜日が延々と続くような真っ赤なカレンダーができて、
快晴のそらも土砂降りの空も同じ休みの日で、
楽あればなんとかで仕事をしたがるようになるのかもしれません。

木曜日, 2月 15, 2007

不確定性と言葉について

http://www.mof.go.jp/jouhou/syuzei/siryou/123.htmによると、
ビールの酒税は1kLあたり22万円で、
40度ウイスキーの酒税は1kLあたり40万円だそうです。
酒税はウイスキーがビールの2倍のように思いますが、
アルコール量としてはウイスキーがビールの8倍あるので、
同じ酔い方をするのであればウイスキーは1/4の税金でよいことになります。

もう少し考えて書いてみると、
たとえば750mL、度数40%のウィスキーが3000円だとすると、
定価3000円で買える度数5%ビールは4Lぐらいで、
アルコール量で言うとウイスキーが5割ぐらい多くなります。

人は物を移動させる代わりに言葉を持ち歩きます。
景色や状態の表現にも言葉を当てはめます。
そして最初に言葉を物と対応させた人は、
ただそれがそのものを指すだけの意味しか持たなかったのですが、
それが長く使われていくと言葉自体が一人歩きして
言葉が持つ意味の広がりを生じます。

その作用自体は言葉に対応する脳の特定部位はなく、
ある広がりの網の中に捉えられているせいで、
それゆえ意味がはみ出したり適切な場面で用いられなかったりします。

ある新しい現象を表現するために外国語の表現を借りてくるのは
日本人はとても得意で、
どんな呼び名もカタカナに変えて使ってしまいます。
文科省の白書作成指針ではこれを改めようという目標が定められ、
誰でも読めるよう日本語の表現に改めるよう促されているのだそうです。

この世界を構成している「ルール」が複雑になればなるほど、
本来はその区別をするために別の単語が必要であって、
たとえそれが日本語で書かれたとしても
内容の難しさは変わらないようにも思います。

ふと、カタカナを用いることの便利さを思います。
新しくつけた言葉には特定の古さがついていないもので、
そしてもとの言葉の意味を知らない限り単純なものです。
流行り言葉があり、しかしそれは流行ることによって多用され、
多用されることで聞き慣れ、聞きなれることで古くなります。

そして人はその言葉を当分の間使わなくなり、
すっかり世の中が忘れてしまった頃にまた引っ張り出してきては
その時代にあった意味を持たせます。
ファッションにも同じようなことが言えて、
流行というものの質はそれほど変化していないのに
数十年かけて循環します。
その循環は製作者によって意図的に起こされているようでもあり、
消費者が意図的に望んでいるようでもあります。

わたしたちは紙というガラスコップの中に言葉を注いでいるような
イメージを持っているような気がしていて、
しかしわたしたちは言葉というガラスコップの中に意思を注いでいます。

物理には不確定性というものがあって、
それは運動量と位置、あるいは時間とエネルギーの対になる物理量を
同時に任意の精度で測定できないことを言います。
わたしは言葉と意思の間にもある種の不確定性があるような気がして、
たとえばあるひとつの「意思」を正確に表現しようとするほど
途方もなく多くの言葉が必要になり、
ひとつの言葉の広がりをある状態に当てはめようとすると
途方もなく多くの意思が必要になります。

この原理があるから、
少ない言葉で綴られた詩は逆に多くの感情を呼び、
山のように積まれた法律書や物理の教科書や宗教書によってしか
人の「ある感情」の輪郭は捕らえられないのだと思っています。

そして理趣の経のようにさまざまな意味の表現を
ひとつの言葉=呪文に置き換える、という作業を繰り返すと、
全ての表現をひとつの言葉に置き換えようというところまで
人の思考は進みます。
そのときにその「ひとつの言葉」に何を当てはめるかが
人によって異なります。
だから仕事に邁進した人は、その仕事自身に自分を投影していて、
「あなたにとって仕事とは何ですか?」という質問に
「全て」とか「人生」とかいう言葉でその全てを含めようとします。

わたしたちは固有のある視点から世界を眺めていて、
恐らく自分の中でのみ対応できる言葉のどれかで
その「なにか」を当てはめています。
そして人というものが固有に異なっているとしたら、
全ての人が一生のうちに竜巻に出会うわけではないのと同じように
その「なにか」に全ての人が出会うわけではないのだと思います。
世界がある程度対称にできているのなら、
その「なにか」に会うことで幸せを得る人もいるし、
その「なにか」に会うことで苦しみを得る人もいるし、
またその逆もあって、
その「なにか」に会わないことで安らかな人もいるし、
その「なにか」に会わないことで苦しむ人もいます。

不確定性の話によると、一方の広がりが0に近づくほど
もう一方の広がりは無限に近づくため、
わたしたちが意思を無限に広げたいと思う場合、
そのとき言葉は必要ではなくなることになります。

土曜日, 2月 10, 2007

大杉君枝さん、そして鈴木君枝さんへ

雷が引き金となり、
思い出したように大雨が降っています。

「かがく=科学」のきっかけとして思い出すのは
所さんの目がテンという番組で、
日曜日の朝7時から放送されています。
スポンサーは電気事業連合会です。

見始めたのは中学生になるかならないかぐらいの頃で、
日常の科学を分かりやすく紹介してくれます。
取材もしっかりしていて面白いです。

その頃馬場憲治さんと共にナレーターをしていたのが
鈴木君枝さんでした。
明るくお茶目なナレーションが気に入っていて、
番組は毎週ビデオにとって観ていました。

一番よく覚えているのが水を入れたコップを真空容器にいれると
常温で沸騰した後凍ってしまう場面で、
フリーズドライは主にこの技術の応用です。

その後も鈴木君枝さんの名前は時々見かけて、
ジャーナリストとして世界に脚を運び、
写真を撮っていたのを覚えています。

自分にストイックであること、自分に厳しいことが
成果を出せたり褒められたりするのですが、
人間は「役に立たないと存在する場所を与えられない」のであれば
それはとても悲しいことだと思っています。

人は皆、
ただいるだけで十全にその価値が与えられている、と
いつもいつでも思っています。

自分に自信を持つと言うことは
何かができるようになって、共同体の中で生きて行けること、と
考えてしまいそうになることがあまりにたくさんあって、
その中で苦しんでいる人をわたしはたくさん知っています。
そして心の奥底で、自分は役に立たない人間ではないかと
潜在的に問いかけてしまうことがよくあります。

亡くなられて、さらにああして欲しかった、こうして欲しかったと
願うのはきっと重荷になることだと思います。
どうか苦しみのない世界で本当の自由でいてください。

水曜日, 2月 07, 2007

写像空間

真空容器の窓とフランジです。
ミッキーマウスのようでもあります。
美しいと思うものにはいくつかの分け方があって、
たとえばシンプルだという美しさと、
対極にある「なまなましさ=リアルさ」という美しさに
およそ分けられるだろうか、と考えたりします。

実数に対して虚数という概念があり、
もともとは大工さんが考えた量だそうで、
そのころの直角は90度でなく100度でした。
数学の先生はこの複素数写像が4次元的であるので
「あの世の世界のこと」とよく話していたのを思い出します。

虚数の世界へ写像すると、
とても複雑な空間が一本の直線で表現されたりします。
複素数の世界は2軸の平面ですが、
「無限大」の定義が実数の場合と違っていて、
どの方向の無限大もある1点に集まることが分かっています。
「両極相通ず」という言葉はここにあるのだと
なんだか納得したのを覚えています。

月曜日, 2月 05, 2007

Maxwellの方程式


真壁のひなまつりに行きました。
飾ってあるのは元禄時代に作られたおひなさまだそうで、
顔が大きく切れ長な目をしています。

宗教の歴史の中に科学の歴史が含まれ、
科学の道の中に宗教観が含まれていることが分かって、
わたしは科学へ戻ります。

方程式が書けて、それは常に正しいのですが
それそのものでは全く役に立たないものとして
Maxwellの方程式があります。
2つの発散と2つの回転の偏微分方程式で表される式は
静的だろうが動的だろうが
ミクロだろうがマクロだろうが
全く関係なく成り立っています。

ところがその方程式自体は
境界条件を入れてやらないと式にならず、
また条件によっては明示的に解くことさえできず
数値解として時々刻々の現象を得るだけです。

どうやら人間を構成しているものは
これに近い状態のものらしくて、
方程式自体が全体として入っているのですが、
それを見ることもできずまた知ることもできません。
外からの影響は方程式の変形として現れますが、
それぞれの変形になった途端もとの完全さは失われます。

制御理論でも同じような現象が出てきて、
微分方程式のゲインを決めてやると
安定した制御になるのですが、
その系は外界の状態に応じた答えを出します。

わたしはあるルールで構成されているのに、
それを自覚することはできないというのは
奇妙な話で、
それなら自分の思うように動いている気がする
わたしの体は一体何なのだろうと
不思議に思います。