日曜日, 2月 18, 2007

思想及び良心の自由は、これを侵してはならない

電気風呂というのがあります。
初めてその存在を知ったのは18切符で京都へ行った時で、
レンタル自転車で町を巡った夜に町をさまよって見つけた銭湯でした。
何の気なしに電極内にはいるとものすごい刺激で、
脚がつって動けなくなってさらに困りました。

「あしがつる」はこむら返りと言うのだそうで、
原因は判然としないそうです。
カルシウムとマグネシウムのタブレットを最近良く飲んでいます。

思想及び良心の自由は、これを侵してはならない、
日本では憲法第19条に相当します。
2006年12月15日に「日の丸・君が代の義務化」が
教育基本法に明記された、ということを
どのように位置づけたらいいのかとわたしなりに考えています。

日の丸はこれを国旗とし君が代はこれを国歌とする、と
明記されています。
日の丸掲揚、君が代斉唱の義務化は、
なぜ「義務=強制」されなければならないのでしょうか。

長く続く歴史は、
自由を表現した思想とそれを抑圧する思想の繰り返しだ、と
わたしには読み取れます。

いくつかの生き物と同じように、
人は群れて生きる生き物の仲間です。
群れる理由は簡単に言えば食べ物を得やすくするためで、
狩りをしたり畑仕事をしたりします。
食べ物への安心感を巡って争いを起こすか、
性的欲求の充足を求めて争いを起こす、
すべての略奪や戦争は簡単に言えばそれだけの話であって、
それ以上でもそれ以下でもありません。

人が集まって役割を分担して暮らす、ということを
共同体と呼んでいます。
この成立は、「共同体を作るとこんな良いことがある」と説く面と、
「共同体を作らないとこんな悪いことがある」と説く面でできています。

共同体を作る利点は食べ物が得やすくなる、と言うのが
良い事を説く面です。
産業革命などは典型的な「分業による生産性の向上」の例です。
しかし食べ物が得られなくなった場合共同体は人が多くて困ります。

共同体を作らないと食べ物が得られなくて死んでしまう、というのが
悪いことを説く面です。
共同体を作ると言うことは一人で全てをまかなわないということであり、
報酬は共同体への貢献に応じて得られることにしています。

ここで「共同体への貢献」をどうやって測るかが問題になります。
全ての人がどのような貢献でもできるとは限らないからです。
ある作業に向いている者もいれば、向いていない者もいて、
その組み合わせで目に見える貢献の多少は変わるからです。

共同体は「人間が生きやすくする」ために作るものです。
だから共同体はその性質として、共同体を構成する全ての人が
生きやすくなるような仕掛けを持っている必要があります。

落穂を拾ってはいけない、は聖書が作られた時代の慣習で、
畑を持たない者も生きられるようボランティアを定めたものです。
税は本来このボランティアを拡張した概念であれば適切ですが、
その成り立ちとして「利権=不労所得」という裏面が必ず発生します。

世の中をもし分けるとしたらまず分けられるのは「ふたつ」です。
だから黙っていても働く人もいれば言われないと働かない人が必ずいます。

共同体の成立でいつもあれこれ言われるのはまずは後者の方で、
働かずに食べている人を見て不満に思う人とそうでない人がいます。
そうかといえば働いて貯め込むばかりの人もいて、
それを見て不満に思う人とそうでない人がいます。

わたしがあるということを認識した時点でこの世界は「ふたつ」に分けられていて、
わたしの外側の物質世界とわたしの内側の心的世界です。
物質世界には形があり、心的世界には形がありません。

共同体が制限するものはあくまで「物質世界」の取り扱いについてであり、
心的世界についてのありかたについてはこれを規定しないというのが
「法」がいう「自由」です。
しかし「自由」を恐れる人たちがいて、
それは共同体を維持できなくなると考えるからです。

司馬遼太郎「空海の風景」では、
空海の時代、税を逃れるために勝手に出家を名乗る人が増えて、
許可なく僧侶になる事を禁じたことがあるのだそうです。

自由を恐れる思想は主に、
恐れを持つ側から恐れを持たない側へと影響が及びます。
中国での仏教弾圧、江戸時代の踏み絵、ドイツのユダヤ人迫害などは
全て「共同体の崩壊」を恐れての行動です。

全ての現象に対照的な側面が生じるのだとすれば、
「国歌・日の丸」斉唱によって、
たくさんの人が助け合っている共同体を大事にしようというメッセージだと
捉える人と、
国歌という権威に服さなければならないというメッセージだと
捉える人が出てくるはずです。
たとえば「教育基本法の改悪」と呼ぶ人はこの後者の側面を危惧し、
石原都知事などは建前でもこの前者の側面を重視した、だから
肯定と否定がでてくるのだと考えます。

結局のところ、教育の現場で「日の丸と君が代」をやるというのであれば、
このような両側面を持つことを余さず説明し、
教育を施す人自身が「日の丸と君が代」に対して
「共に生きることの大切さ」という意味を与えて見せることが大事であって、
「組織というものの強制に従いなさい」という意味を与えてはならない、だと
思っています。

一方で、儀式的なことへの慣れというものは
シンボル=偶像に対する忠誠になる危険を常に内包することになるので
危険なものでもあります。
鉄人28号は強力な機械であり、
操縦者の心によって正義の使者にも悪魔の使者にもなるところを
正確に描いた点がとても気に入っています。
そしてその上で、憲法第19条の本質は
絶対に守られなければならないと思うのです。

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