木曜日, 2月 15, 2007

不確定性と言葉について

http://www.mof.go.jp/jouhou/syuzei/siryou/123.htmによると、
ビールの酒税は1kLあたり22万円で、
40度ウイスキーの酒税は1kLあたり40万円だそうです。
酒税はウイスキーがビールの2倍のように思いますが、
アルコール量としてはウイスキーがビールの8倍あるので、
同じ酔い方をするのであればウイスキーは1/4の税金でよいことになります。

もう少し考えて書いてみると、
たとえば750mL、度数40%のウィスキーが3000円だとすると、
定価3000円で買える度数5%ビールは4Lぐらいで、
アルコール量で言うとウイスキーが5割ぐらい多くなります。

人は物を移動させる代わりに言葉を持ち歩きます。
景色や状態の表現にも言葉を当てはめます。
そして最初に言葉を物と対応させた人は、
ただそれがそのものを指すだけの意味しか持たなかったのですが、
それが長く使われていくと言葉自体が一人歩きして
言葉が持つ意味の広がりを生じます。

その作用自体は言葉に対応する脳の特定部位はなく、
ある広がりの網の中に捉えられているせいで、
それゆえ意味がはみ出したり適切な場面で用いられなかったりします。

ある新しい現象を表現するために外国語の表現を借りてくるのは
日本人はとても得意で、
どんな呼び名もカタカナに変えて使ってしまいます。
文科省の白書作成指針ではこれを改めようという目標が定められ、
誰でも読めるよう日本語の表現に改めるよう促されているのだそうです。

この世界を構成している「ルール」が複雑になればなるほど、
本来はその区別をするために別の単語が必要であって、
たとえそれが日本語で書かれたとしても
内容の難しさは変わらないようにも思います。

ふと、カタカナを用いることの便利さを思います。
新しくつけた言葉には特定の古さがついていないもので、
そしてもとの言葉の意味を知らない限り単純なものです。
流行り言葉があり、しかしそれは流行ることによって多用され、
多用されることで聞き慣れ、聞きなれることで古くなります。

そして人はその言葉を当分の間使わなくなり、
すっかり世の中が忘れてしまった頃にまた引っ張り出してきては
その時代にあった意味を持たせます。
ファッションにも同じようなことが言えて、
流行というものの質はそれほど変化していないのに
数十年かけて循環します。
その循環は製作者によって意図的に起こされているようでもあり、
消費者が意図的に望んでいるようでもあります。

わたしたちは紙というガラスコップの中に言葉を注いでいるような
イメージを持っているような気がしていて、
しかしわたしたちは言葉というガラスコップの中に意思を注いでいます。

物理には不確定性というものがあって、
それは運動量と位置、あるいは時間とエネルギーの対になる物理量を
同時に任意の精度で測定できないことを言います。
わたしは言葉と意思の間にもある種の不確定性があるような気がして、
たとえばあるひとつの「意思」を正確に表現しようとするほど
途方もなく多くの言葉が必要になり、
ひとつの言葉の広がりをある状態に当てはめようとすると
途方もなく多くの意思が必要になります。

この原理があるから、
少ない言葉で綴られた詩は逆に多くの感情を呼び、
山のように積まれた法律書や物理の教科書や宗教書によってしか
人の「ある感情」の輪郭は捕らえられないのだと思っています。

そして理趣の経のようにさまざまな意味の表現を
ひとつの言葉=呪文に置き換える、という作業を繰り返すと、
全ての表現をひとつの言葉に置き換えようというところまで
人の思考は進みます。
そのときにその「ひとつの言葉」に何を当てはめるかが
人によって異なります。
だから仕事に邁進した人は、その仕事自身に自分を投影していて、
「あなたにとって仕事とは何ですか?」という質問に
「全て」とか「人生」とかいう言葉でその全てを含めようとします。

わたしたちは固有のある視点から世界を眺めていて、
恐らく自分の中でのみ対応できる言葉のどれかで
その「なにか」を当てはめています。
そして人というものが固有に異なっているとしたら、
全ての人が一生のうちに竜巻に出会うわけではないのと同じように
その「なにか」に全ての人が出会うわけではないのだと思います。
世界がある程度対称にできているのなら、
その「なにか」に会うことで幸せを得る人もいるし、
その「なにか」に会うことで苦しみを得る人もいるし、
またその逆もあって、
その「なにか」に会わないことで安らかな人もいるし、
その「なにか」に会わないことで苦しむ人もいます。

不確定性の話によると、一方の広がりが0に近づくほど
もう一方の広がりは無限に近づくため、
わたしたちが意思を無限に広げたいと思う場合、
そのとき言葉は必要ではなくなることになります。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

無明です。寒がりのぼくにとって暖冬は有難いのですが、少し物足りないような気もします。まぁ、只のわがままなんですけどね。

今年からブログのスタイルを写真1枚、短文、俳句にしたのは決して非言語世界を求めてのことではなくて、只、長文を書く気力、根気が退化してしまってことなのです。この状態に甘んじていると老後のボケが今から心配されます。

とりさん さんのコメント...

わたしは福岡出身で、育ったのが内陸の方なので冬の朝は車の窓ガラスにお湯をかけていました。寒いのは苦手です。張り詰めた寒さの中を身を固めて家に着き、部屋を暖めたときの圧倒的な気持ちの緩みは強烈な快感で、それがないところが物足りなく思います。

なんとなくですが、無明さんは到底ボケるような人ではないと感じています。文章にしても写真にしても、人の借り物ではない無明さんの「視点」があるからです。わたしは宗教をとても敬遠していました。無明さんの話す「仏教」はお坊さんに説法してもらうよりもその本質を捉えている気がして、それが読んでみようと思ったきっかけです。

写真で最近好きだったのが「冬の水槽」です。魚は立体的に動くので、うまく写真に納めるのは難しいですよね。あと、水槽のガラスにほんのりとカメラを持った無明さんが写っていて、カメラの中に自分の目がついたような気分になりました。