月曜日, 2月 05, 2007

Maxwellの方程式


真壁のひなまつりに行きました。
飾ってあるのは元禄時代に作られたおひなさまだそうで、
顔が大きく切れ長な目をしています。

宗教の歴史の中に科学の歴史が含まれ、
科学の道の中に宗教観が含まれていることが分かって、
わたしは科学へ戻ります。

方程式が書けて、それは常に正しいのですが
それそのものでは全く役に立たないものとして
Maxwellの方程式があります。
2つの発散と2つの回転の偏微分方程式で表される式は
静的だろうが動的だろうが
ミクロだろうがマクロだろうが
全く関係なく成り立っています。

ところがその方程式自体は
境界条件を入れてやらないと式にならず、
また条件によっては明示的に解くことさえできず
数値解として時々刻々の現象を得るだけです。

どうやら人間を構成しているものは
これに近い状態のものらしくて、
方程式自体が全体として入っているのですが、
それを見ることもできずまた知ることもできません。
外からの影響は方程式の変形として現れますが、
それぞれの変形になった途端もとの完全さは失われます。

制御理論でも同じような現象が出てきて、
微分方程式のゲインを決めてやると
安定した制御になるのですが、
その系は外界の状態に応じた答えを出します。

わたしはあるルールで構成されているのに、
それを自覚することはできないというのは
奇妙な話で、
それなら自分の思うように動いている気がする
わたしの体は一体何なのだろうと
不思議に思います。

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

おひなさま、すごく「うわー」と思いました。
結婚記念日がひな祭りなのです。わたしが結婚した年の3月3日は、キリスト教の暦では「大斎節」で、日本風に言えば「物忌み」のような、お祝いごとには向かない日に当たっていたのですが、わたしは、この日に結婚式と洗礼式をしたのでした。もう、5年前のことです。うわー。

今日、統計学の試験があり、頭の中がまだxやらyやらでいっぱいになっています。
わたしは、ガチガチの文系なので、方程式をみるとおびえるばかり、xやらyやらに具体的な数値を当てはめてそれらしい値が出てくると、もう、ひれ伏すしかないといった感じです。
文系の統計学(記述統計学、というのでしょうか?)は、文系的概念のあやしさと理系的概念の清廉潔白さとが、加減乗除されているからこそ、おもしろいのかもしれない・・・とテスト勉強しながら思いました。でてくる値は、それなりの手続きを経ていて、ははあ、と思うけれど、その根本になっているところはどうなの、その概念の適切さはどうなっているの、と疑いたくなるし、そういう疑いにいちいち「あ、そうかも」と言いそうなところが、おもしろいのかもしれません。物理とか、バリバリの方程式(?)が登場する分野よりも、文系の統計学はもっと弱そうな感じがします。(といっても、今日のテストが楽勝だった、とか言うわけではないのですが。)

理系のひとが理系の概念をつかって、こころとか魂とか、文系的な事象を説明するのを聞くのが、わたしはとても好きです。でもこの「好き」には、われながらイジワル心がいつも混じっているのです。「そもそもその事象をそんなふうに数値化できるの?」とか、「そういう数値化ができるなら、こういう数値化でもいいじゃん」とか。で、このイジワル心に数式無条件崇拝心が加わるので、わたしの「好き」はいっそうダイナミックになるわけです。

その話(非数値的事象)はそんなこと(数値的概念)では終わらないだろう、という期待と、その話はそんなことで終わらせたくない、という願望。わたしはいつもそんな気持ちを「文系的事象の理系的分析」に持っているんだろうなあ、と思います。

なんだか、とりさんの記事にかみ合っている話かどうか、自信がありませんが、なんだかわたしの個人的なタイミングにあっていたので、書いてみました。ちなみに“Maxwellの方程式”は、わたしの崇拝対象に加わりました・・・。

とりさん さんのコメント...
このコメントは投稿者によって削除されました。
とりさん さんのコメント...

コメント、とても面白く読ませていただきました。
ひな祭りが結婚記念日なんて洒落てます。
お雛様はドイツ出張中なわけですね。
お内裏様とひとつ箱にしまわれる日を楽しみに。

文系なのに数学的処理について鋭い直感をお持ちのようですね。物理の「方程式」の枠組みも、実は同じように「概念の適切さ」を追求しているのです。養老孟司の本の中に、「数学者は数字が実体として見える」という一節があります。数学の変換は「どこでもドア」のあちらとこちらのようで、それ自体には重みも厚みもないのに、通り抜けると違い世界がある、というのが面白いですよね。

文系の人がもつ「イジワルさ」、よく出会います(笑)物理の定式なんて副次的なものであって、そんなことではこの世界の深遠さ、人間の素晴らしさなんて理解できないよ、と哲学をやる人とか宗教をやる人の雰囲気は語りかけてくるようです。だからわたしは時々イジワルにこう言い返すのです:本当の深遠さを述べたかったら、「副次的」と呼ぶこの物理全体を知り尽くしてからでも遅くはないよ、と(^-^)

ちなみにタイミングはぴったりで、わたしは目下画像の「パターン」を抽出するKL変換=主成分分析をやっています。出したベクトルの無味乾燥な値と意味不明な行列のどこに「特徴」があるのか見ても分からないのに、演算結果の数値はぴたりとパターンを言い当てる。へんてこですよね。