板ばさみ
カップスープは甘くて好きで、
インスタントの味噌汁は塩っぽくて好きです。
もう20年以上も前の両親の夫婦喧嘩の光景や感情を
わたしはいまだにはっきり思い出すことがあります。
わたしが小さい頃に思っていたことは
世界は絶対にみんなが幸せになれない定義がある、その証明は
「あるものがひとつあって、命がけで欲しいと言う二人の人」
の存在がなくならない限りにおいて、ということでした。
思想だろうが宗教だろうが恋愛だろうが、
どんなに真剣で命がけだから、といわれても、
それがどんなに正しいことだと言われても、
生きていくこと以上のイデオロギーや主義の主張が含まれる限り、
もしかしたら生きていくこと自体への主張であっても、
それはエゴであって愛ではないと思っています。
主義の板ばさみになったときに必ず思い出すのが
わたしの子だと主張する二人の女性を見極めるソロモン王の話で、
それでは公平にこの子を二つに切り裂いて与えようと告げます。
一人の女性がそれならわたしは親でなくてもいいので
どうか子を剣で裂かないでくださいと願い出て、
ソロモン王はその女性の愛をもって親を見極めました。
イデオロギーの嵐の中にいると、
わたしは勢力争いをしたくているわけではないのに、と
どちらにも与しない姿勢でいるのですが、
いっそのことわたしを二つに切ってしまえば
事はそれで済んでしまうのではないかと思うことがあります。
わたしが科学にもっとも願いをかけるものは、
「必要に応じて何でも完全な複製ができる」装置の開発です。
ただこの装置があれば必ず幸せになれるとは限らず、
ひとつのものを独り占めしたいとか複製は気に入らないとかいうことになれば
ある種の人々にとってはむしろ災いなのかもしれないなとも
ふと感じます。
そして文字は必要に応じて完全な複製ができ
神の表現だってそれならどう表現したって
文字のレベルでは完全な複製であるはずなのに、
それは二つあってはいけないなどという人たちがいて、
世界情勢でどんなに複雑な事件が起こっていたとしても
それは常に「幸せになれない定義」のうちにあるものだから、と
地球の裏側の「戦う出来事」に対しても思っています。
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