木曜日, 12月 28, 2006

過ちと誤り続けることと

友達の話では、武蔵野線は地理的特性からも線路状態からも
止まりやすいそうです。
ダイヤが遅れるたびに社内放送で
「お客様にはお急ぎのところ
大変ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
という台詞が流れます。

日本人は急いでいることが前提で、
それは何かに一生懸命であるポーズになっていて、
しかし本音では誰も忙しいことなど望んではおらず、
ところが世の中に対して文句を言うときは
「私達は一生懸命やっているのに」と言い、
そして件の車内放送が文句に対する返答になっている、
という不思議な構図です。

忙しいのは臨まないのに
忙しさの呪縛から逃れられない、という理由は、
精一杯を続けなければ生きていけないという
潜在意識があるからで、
その気持ちが自分の喜びも人の喜びも
受け入れられなくしてしまうようです。

何かがうまくなるためには
人が好んで失敗と呼ぶ、
試みたけれど思う結果に至らなかった、
という体験をしておかなければならない、という
ある種の絶対的な定理によく戸惑います。

うまく行く結果は
それ以前の失敗経験を種としてのみ導かれるものなのですが、
失敗と呼ばれるその体験の最中は、
こんなに辛いなら試みなければよかったと
心の底から思ってしまうからです。

だからといって真剣にならず
最初から成るようになるという気持ちで望んだのでは
何もつかめないままです。

人が失敗と呼ぶ「それ」は一体何なのだろう、と
今日も思いを巡らせます。

「過つは人、赦すは神」という英語の諺があって、
それはその通りだとふと思います。
ここで神と呼ぶものは人のようなものではなく、
この世全てと訳し直したほうが適当なものです。

「神」が「難しい」のは、
それがあまりにも強力で複雑な概念であるために、
正しいバランスの元で用いるためには
受け入れる人の側に相当の容量が必要になることです。

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