月曜日, 12月 25, 2006

死の恐れは超えられるか

固い床に寝ると
なぜか目覚めがよくありません。
ホットカーペットで寝ても
やはり目覚めがよくありません。
しかし固い床やホットカーペットで眠ると
次の日は眠さより辛さが勝るせいか
起きていられるような気がするから不思議です。

神戸に地震が起こった日、
消火活動を行おうとした消防隊員は
救命活動を求める人の渦に巻き込まれたといいます。
常時であれば叶えてあげられる行動ですが、
非常時には要求が処理能力を超えています。

消火活動をしていると、
瀕死の妻や子供や夫を病院まで連れて行ってくれと
人だかりができ、
振り払うと「人殺し」と罵られたといいます。

それらの声に応じて救命活動にあった者があったといいますが、
結果として消火活動が不十分であったために
火事による犠牲者が増えてしまったと記事は伝えています。

私の中の今までの問いは、
「ではどうすればよかったのか」と考えていたことで、
消防士の視点からこの話題を考えています。

では自分が傷を負った者の立場なら、と考えると
恐れはあるのですが、応じてくれなかった人を責めるところへは
向かわないだろうと思います。

しかし自分が傷を負った人を見守る立場なら、と考えると、
わたしは必死になって誰かに助けを求めたくなるだろう、
そして応じてくれないものを責めるかもしれないと
ふと思いました。

今までと今の私にとってとても辛いことは、
私自身の身の上が辛いことではなく、
私が見守る人の身の上が辛いことです。
なぜそうであるのかはよく分かりません。
そして私が大事に思う人、というのは
自分の身の上の都合よりも優先できるかどうか、という点で
明確な区切りがあります。

仏教の最初には、死に至る過程は誰も助け合えない、
という内容を含んで書かれています。
教は死さえも、また愛着としてさえも執着してはならない、とあり、
確かにそうできれば心の安らかさは得られるのかも知れないのですが、
それはある日分かったような気がして安堵し、
しかしまたある日問題を引っ張り出しては悩みます。

発祥の地インドでも、それを伝えた中国でも、
一方はヒンズー教の台頭により、
もう一方は文化大革命時の訴追により
仏教はそれらの地から遠く離れてしまったと聞きます。
インドと中国に仏教活動を再建する努力をしているのは
実は日本のお坊さんなのだ、と聞いて
不思議な感じがしました。

それが何を伝えるのかは分からず、
それが広まったからといって善い解釈へと
みんなが向かえるようになるわけでもないのでしょうが、
以前誰かが解いてくれた問いというものは
素粒子物理学の基礎と同じように
脈々と語り継ぐ価値はあるなと認めています。

そして私と同じ思想を持つ特別な者が
私の姿を見せてくれたからこそそこに至れたので、
その不思議にとても感謝していますが、
一方でぬぐえない死の恐れを共有していたことを知っているので、
私自身のことのように心配しています。

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