火曜日, 6月 06, 2006

アイデンティティが自動的に失われる社会

39℃の熱が出ていて、
しかし意識は比較的はっきりしています。

どこにいても落ち着かないことがあります。
その原因が何であるか分からず、
熱っぽい頭でしばらく考えていました。

部屋中にあるものは、
主に「それと同形同機能のものがある」ものばかりです。
CDも、テレビも、本も、住んでる家も、
世界のどこかには完全なまでに見分けのつかない複製品があって、
自分だけの何かを象徴してくれているわけではありません。

この悩みは一度解決しようとしたことがあって、
その組み合わせの中に自分自身が見出される、
ということで纏めたかったのですが、
時折うまくいかなくなります。

労働力として役に立つならば、
自分でなくても構わない、という精神があったとすると、
個人のアイデンティティを保つのはさらに難しくなります。

デジタル化と工業化の問題についてふと思います。
なるほどそれらは人の生活に完全なまでに平等な恩恵を与えたのですが、
まったく意識されないところで自分を見失う機会が与えられています。

情報化はさまざまなケースの分類を可能にしました。
病気はほとんど名前が特定されるし、明日の天気は既知のもので、
人という要素は内臓と器官と骨格でできていて、
すべからく平等ということになっています。

地図は世界中の地形を表してくれていて、
自分しか知らないことなんてまるで無きに等しく、
何もかもが「分かったような」気になっています。

分からないことを恐れながら、
しかし分からないことに挑むから自分らしさが現れるとしたら
この世界の「分からないこと」の二面性を思います。

分からないことに挑むこと、
それは恐ろしいことであり、
同時に誰のものでもない自分をつかむことです。

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