火曜日, 6月 13, 2006

金ではなく鉄として

街の賑やかさが
時にカンフル剤のように感じることがあります。
カンフル剤は一時的に効くのですが、
次第に疎ましくなってしまいます。

テレビ番組というのは少し哀しいもので、
喋ってないといけなくて、賑わってないといけない、と
何かに要請されています。
どの番組も元気で溌剌で、
しかしどことなく無理があるのです。

中坊公平という弁護士の半生、
「金ではなく鉄として」を手に取ったのは、
とある漢方薬を出してくれる内科のロビーでした。
森永砒素ミルク事件を被害者の立場になって弁護した人です。

大きなことが為されると、何か人間まで特別なように
扱われてしまいがちなのですが、
取り柄や評価が欲しい年頃に行動では認めてもらえず、
自らを行動で明かすことができなかったのだと綴られています。
しかしそれでも認めてくれた家族や友人の特別な支え、
無償で与えられることを強く感じられた彼は
幾多の困難を自分なりの方法で一つずつ乗り越えていきます。

わたしのやり方は時に問題があります。
でもその人の人生に無償であげられるものがあればいいと
いつも思っています。
それらは時折「特別な何か」という枠で括られてしまい、
その関係が永続的になるよう少しずつ縛られていくことがあります。

無償で手渡すことが新たな欲を呼ぶ、というのであれば、
わたしは無償で与えることを控えなければならないのでしょうか。
それとも無償で与えていい大きさには限度があるのでしょうか。
そのときに残ったさまざまな関係は、
すべてgive & takeであったりするなら、
片手に自然、片手に人をつないでいた手の一方を、
人ではなく「かみさま」という何かに繋ぎ換えてもいいな、と
ふと思うのです。

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