金曜日, 10月 20, 2006

わたしたちが「地球市民」になれないわけ

安倍晋三「美しい国へ」を読みました。
地球市民、という概念がひとつの理想であるように語られるが、
実際にはどの国にも属さないということはできない、という
くだりを読んで、しばらく考えました。

地球市民が作れない理由は
哲学や宗教が違うというだけではなく、
その本質的な理由は人が有限の大きさを持っているからで、
たとえば今日作った出来立てのパンケーキを
地球の裏側の人とは共有できない、という直感に基づくものです。
人が協力し合う、というものの中には
世界の資源をやり取りする過程とともに、
日々の生活を協力するという過程があります。

たとえば共同体の大切さを説いてもらうのは
一面で必要なことですが、
仕事でさまざまな土地を渡り歩く人にとって
「属するもの」の概念とは何だろう、と
ふと思います。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

無明です。

大阪はまだ暖かい日々が続きます。
そちらは如何ですか。
さて「属する」ということですが
ぼくの場合、属性を志向する時は
どうしても身体的にも精神的にも
無理が生じてしまってはみ出すものが
あります。そのはみだしてしまう何かが
実は大切なものではないかと最近想います。
まぁ、「属する」のも属しないのもどちらも
自分にとっては居心地が良い世界ですよね。

とりさん さんのコメント...

こんばんは。
夜は冷えますが、昼は気持ちのよい陽気でした。
どちらも居心地がいい、という台詞に
若輩者のわたしは驚いています。
そして解釈が難しいです。

わたしもまたはみ出してしまうタイプだと感じます。
その「はみ出すもの」をどこへはみ出させるかが重要なのかな、とか思いました。
はみ出す方向は、人のいないほうへ、ですかね(笑)