100点満点で10点を出しても許される場所が欲しい
土曜と日曜は
ハンバーグと豚の角煮にしました。
ハンバーグがとてもよくできました。
付け合せのポテトもおいしくできました。
料理の美味しい香りを大切に出せるような
作り方が少しずつ身についたように思います。
褒められることは一般に嬉しいものです。
褒めようとしてくれる人も特に悪気がありません。
むしろ良かれと思ってくれています。
ところが褒められることを
どうしても断りたい気分になることがあります。
褒められることの中に「期待」が含まれていると、
なぜか叶えなければと緊張してしまうのです。
期待をされる、ということは
がっかりされる危険を伴うことでもあるからです。
人がどのくらい期待しているのか、
なんとなく感じる力が強くなっていると感じます。
本当は期待に応えるかどうかは自分の権利であるのに、
期待はその権利を時に使えなくしてしまいます。
私が望む「本当の安らぎ」は、
実は期待で振り回さずにただ向き合って欲しい、
特に何も望まずそっとしておいて欲しい、
という一点にあります。
自分が何か結果を出せば出すほど、
だめな自分がどこかへ置いていかれるのです。
そしてその「だめな部分」は消えることはなく、
置いて行かれた時間だけ増えていきます。
時に非常に強く自分を苛む感情は、
「期待に応えなければだめになってしまう」というものです。
本当は期待に応えられなかったら
次がある、と思えればよかったのですが、
たった一回しか訪れない出来事に対して
「また次がある」と思うことは難しいことです。
そして人の「期待」というものが
私というものの成り立ちを難しくしてしまいます。
私は神様ではないのだから100点は取れない、
では何点だったらみんな納得してくれるだろう、と思ったときに
私が考えた点数はなぜか95点で、
これでは生きていくのは非常に難しいな、と
いつも思っていました。
これは常識的に考えれば理不尽な話で、
意識を修正する必要があります。
失敗は許されないという思いは、
時に非常に強い前向きの力となって
一心に行動に向かわせる原動力となることがありますが、
他方で非常に強いストレスになり、
できなかったときの自分を責め続けることにもなり、
また失敗したらどうしようという強い不安も呼びます。
「失敗しても大丈夫だよ」という安心があれば
もっと前向きに挑めるのに、とも思いますが、
人間は未来が見通せないので
「失敗するかどうかは分からないね」と言うのが関の山です。
失敗をたくさん経験した人は
「失敗しても何とかなるもんだよ」と言ってくれます。
ふと「失敗恐怖症」の連鎖に入ったときに、
そういってくれる人が必要だなと感じます。
「成果主義」という表現があって、
私の最初の解釈では「90点以上をとり続けること」が
その意味だと漠然と思っていて、
実は日本人のかなりがそう感じたのではないかと考えたのですが、
その解釈はあまりにも間違っています。
この解釈、試験制度に強く由来する連想でしょうか?
そうであれば一刻も早く
理不尽な連想を修正する必要があります。
野球のバッターは3割打てれば賞がもらえる、
つまり30点でいいのです。
成果主義も試みの30%が成功すれば
もうそれで十分すぎるほどなのです。
とにかく、人生の評点に対する印象は
「赤点」ラインの60点でも高すぎます。
がんばっても24点ぐらいで、
「よくできたね」というところにしたいものです。
そして「期待の量も24点まで」ということで
自他共に納得しておきたいものです。
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