土曜日, 8月 05, 2006

決して表からは聞こえない「必要な言葉」

せみが鳴いています。
アブラゼミの鳴き声は
なぜか暑さを増していく感じがします。

哲学書を読んでいてふと思ったことは、
「人間は何であるか」はとことん追及できても、
「人はなぜ生きる意味があるのか」は追求できない、
という一点でした。

「あなたはただ生きているだけで素晴らしく意味がある」
この言葉をとても必要としている人がいます。
もしかしたらその数はとても少ないのかもしれませんが、
それが満たされていれば自らは進んで譲り、
人にたくさんのものを喜んで与えることができるタイプの人です。

ところが、その声は現在の社会では厳重に隠蔽されています。
「あなたはただ生きているだけで素晴らしく意味がある」
とこれを自由に解釈されてしまうと、
奪い合いも殺し合いも何でも構わないのだ、と
非常に極端な発想を止めることができなくなるからです。

現に紀元前後の特に西洋世界というのは
戦いに明け暮れ、都市が成立しては崩壊する繰り返しを辿ったので、
ひとまず生命だけは確保できるようにと
道徳、風習、宗教が便宜的に
「社会的意義によって生きる意味」を持たせようとしました。
その台詞は
「社会的に尽くすことができなければ生きてはいけない」
という強い表現で表れます。

社会的意義がなければ人が存在できないとしたら、
それはなんと残酷な世界になることでしょうか。

何らかの期待にどうしても応えることができず、
それでも赦された者は、
社会的意義とは別に自分自身に意義を見出すチャンスがあり、
区別ができるのですが、
偶然が重なって様々な要請に応え続けることができてしまった者は
社会的意義がそのまま自分自身の意義になってしまう可能性が
非常に高く、
社会的意義がなければ自分が存在してはいけないという
極端で解きにくい錯覚に陥ってしまいます。
これは決して幸せなことではありません。

王監督ががんから2週間で復帰したといいます。
人間として王監督を見るならば、
2週間で社会復帰すれば体に無理が来るのは必至で、
どうしてもしばらく休ませなければならないと思います。
即座に現場復帰したからといって、
プレッシャーの中で自らを傷つけて欲しくはないのです。

正確に表現するならば、
社会性が不足していて、
宗教や道徳や社会性の規制による社会性の醸成と
尽くす活動をより推進することが必要な人もいれば、
社会性が過剰にあるために
自らを省みて自己犠牲への希求を和らげ、
自分自身を大切にしなければと許すことが必要な人もいます。

社会的システムの中では
後者が望まれているはずなのですが、
ところがその社会が「通常出している」メッセージは
主に多数存在する前者に向けたものであるため、
後者が社会の表向きのメッセージだけを正面から受け止めると
彼らにとっては社会に尽くし望まれていながら
皮肉にも非常に生きにくい世界になってしまいます。

日本社会が「社会性」側を極めて重視する構造であることは、
実はある意味で日本人が「強力な社会性」で縛らなければならないほど
ただ自由意思で生きている存在だろう、と
お互い思いあっているからかもしれません。
そしてその構造自体に苦しむ、「社会性がもともと強い人」が
かならず少数ですが存在するのです。

宗教も哲学も倫理性も法も社会的プロパガンダも、
ある人にとっては必要でありある人にとっては必要ありません。
実は普遍的に広める事自体に問題があり、
恐らく多くの人を救えますが少数の人は救えません。
しかしこのことを公に認めてしまうならば、
実はそれぞれの存在意義を強く揺らがせてしまうために、。
「ある人にとっては必要である人にとっては必要ない」という一言は
極めて強く隠蔽されます。
「良いことだから広めなれば」というのが
それらの存在意義の大前提になっているからです。

社会の表側からは聞こえない台詞であるとするならば、
優しいを善とするとかそういうことではなく、
社会性と自己犠牲を非常に強く持った人たち、
存在意義を見出そうとしている人に対して、
「あなたは生き、存在意義を探そうとしているだけで素晴らしく意味がある、
だからもっともっと一人の人間として自分自身を大切にして欲しい」
というメッセージを
わたしは社会の裏側から大きな声で発信します。

それは社会とは多数派の意思によって流れが決まるだけの存在であり、
多数派が良いわけでも悪いわけでもなく、
しかし生きやすい人と生きにくい人を必然的に作ってしまう、
そういう構造のものだからです。

自分がもし多数派になれないのであれば、
多数派に逆らうわけでもなく離れるわけでもなく、
少数派であることは認めてしまって、
社会的「中心」の教義は丸呑みにできないのだけれど、
折り合いをつけてうまく付き合っていけばいいのだろう、と
今は思います。

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