ほのかに嫌いあうことを認めること
理系には理系の本ばかりが与えられ、
文系には文系の本ばかりが与えれる、
という枠を少しはみだして
哲学の本に触れる機会ができました。
読む本が難しいと思うかどうか、という点では
いろんな要素が作用します。
慣れ親しんだ用語が少ない本はつまづくし、
興味がない話題は頭に入らない、
それはまるで話の合う人と話の合わない人がいるように
ある意味自然なことです。
もう一歩話題が進んで、
”共感できる本は好きで共感できない本は嫌い、
でも嫌いな本でも役立つから置いておく”、
こういう経験はあります。
しかしここで「本」を「人」と置き換えた場合、
その中身が成立しないことがどうも頻繁にあります。
「村社会」という独特の表現があって、
和を保つことが生きることより優先される、という雰囲気は
人の移動が少ない社会で起きる
ありふれた現象なのだろうと感じます。
人は嫌い合う生き物である、
この表現を自然に出して受け入れられるかどうかは
多様性を認めるかどうかの試金石として作用します。
中島義道の本
「人を嫌いになるということ」の中に、
「ほのかに好き」があるなら
「ほのかに嫌い」もあっていいのではないか、
という表現に目が留まりました。
好きなものがあるからこそ嫌いなものがあり、
嫌いに段階があることを認めることができなければ、
仲間か仲間はずれかの極端な2極しか現れません。
自然と生じてしまった感情を単純に押さえ込んでしまえば、
「和をもって」という言葉は調整役にならないのです。
「嫌い」が「生命の危険」と分かちがたく結びついた場合、
「嫌いの表現」を抑圧することによって
「肉体的に生きてはいるが精神的に歪んだ世界」ができます。
村社会が健全であるためには、
極端な「和への束縛」は好ましくなく、
感情的には緩やかに繋がっていれば十分です。
しかし「人は嫌い合う生き物」ということを
何の補足もなく単純に野放しにし、
多様性を原理主義的に肯定してしまうと、
主観で見ることや違いを放っておくことが増えていく心配があります。
極端な例がアメリカで、
コミュニティの中ではやはり村社会らしいのですが、
表向きには成果主義が認められていて、
ある意味で出来ないものはできないままだったりして、
相互扶助の精神が成り立たない場面が現れます。
田原総一郎の番組では、
よく政治家に「では理想の国家像とは何ですか」と問う場面があって、
しばしば一緒に答えに詰まっていました。
ある人はスウェーデンだと言い、
ある人はスイスだと言い、
そういう人は
時代がマルクスの頃ならソ連だと言ったのでしょう。
対比して考えれば考えるほど、
どんな国家スタイルにも弱点があるのです。
ということは、理想の国家へと変容する果てしない試みとは
現実的にほとんど意味を成しません。
それは虹のふもとに宝物があると信じて
虹のふもとを目指す試みに似ています。
現在の国家にあまりに弱点があり、
その弱点は未来永劫消滅できないことをせめて正直に認め、
それを単純に排除するか忘れてしまうよう動くのではなく、
その弱点による被害が可能な限り押さえられるには
どんな対策があるだろうか、と
現実的な行動へと移すほうが有用です。
「人生において重要なのは
役立つことと適切であること」と言ったのは
イギリスの哲学者アラン・ド・ボトンで、
「日常使う全ての言葉を
市場でのやり取りに限定できたら」といったのは
モンテーニュです。
西洋でなぜ哲学が生まれたのか、
それは一神教的宗教がもたらした「精神の極端さ」の弊害を
宗教を排除することなくいかにして和らげるか、
そんな切実な願いがあったからなのかもしれません。
人間とは、極端では生きられない生き物のようです。
0 件のコメント:
コメントを投稿