とても矛盾した要求の試み
人は何かを認識する生き物です。
認識すると同時にそれは「存在」へと変わります。
ということは、普通に生きて覚えているだけであれば
認識の時間が増え、つまりは
「その人にとって」存在する事や物の量が増えます。
何かのメッセージを自分の中に残したくて読んだ
ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」の
最後に書かれている言葉は、
「私の話は忘れて生きていきなさい」という意味で、
徹底的に記憶し証明した過程を
最後に捨ててしまえという点がとても意外で印象的でした。
世界に悲しいことはいつでもたくさんあるはずなのですが、
悲しくないとき、というのは
「悲しいこと」がなくなっているのではなく、
悲しいことを忘れているときです。
一つの仮説ですが、人が戦争をしないとき、というのは
「戦争」という概念がなくなっているのではなく、
戦争自体を忘れているときと解釈できないでしょうか。
世界は、どうも覚えるほうが好きらしく、
知識も歴史もあればあるだけ覚えよ、
忘れることなく問いかけよと要求し続けられます。
人はどこかで自分が決めた特定の事柄を「忘れる練習」
をする必要があるのではないかと考えています。
特定の事柄、を「意識的に選び出して」
しかもそれだけを忘れよというのだから論理自体は矛盾しています。
記憶は思い出す限りその人にとって存在します。
新しいこと、美しいこと、もともと目的や価値を持たないものに
意識を向けることは、
縛り付けられた記憶を積極的に忘れるために必要です。
役に立たないものに触れ喜んでいる時間が増えること、
音楽や芸術や自然の景色、が
人の心に「忘れる」という効用をもたらしてくれるような気がします。
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