金曜日, 2月 17, 2006

たった一つだけ、アドバイスを残すなら

デジタル・デバイスが好きで、
デジタルカメラやPDAやタブレットを買ってみたのですが、
使いこなせるようになるまでに何年もかかっています。
呆れるほど物覚えが良くないです。

手引きというものがあって、
横断歩道の渡り方から税金の納め方、
パソコンソフトの使い方から大気圏突破に必要なエネルギーの求め方まで
実にたくさんあります。

人生の手引きをしようとするものもたくさんあって、
幸せになる方法から悩みの解決法、
果ては自分探しに至るまで
実に細かく示されています。

ところがいくら読んでも役に立つ気がしません。
パソコンソフトの使い方が分かったからといって
それを何に役立てればいいかはそれぞれが考えることです。

ほとんどのものは行動の前に動機を必要としますが、
動機よりも行動を求められることが次第に増えています。

動機という未知なものが人間の本性につながるものであれば、
たった一つ役に立つアドバイスは、
あなたがあなた自身の動機に忠実に従い、
自分の人生を生きなさい、
という一言で十分な気がします。
しかしこのアドバイスさえ必要ないのかもしれず、
アドバイスなんて何もないのかもしれません。

動機は欲望でも独りよがりでもありません。
人の意見に従いたければ従えばいいし、
違うと思えば違うと思っていいのです。
自らが自らの観察をして制御するなら、
自分に必要な人付き合いの量を選ぶでしょうし、
意識になくても助け合って生きることが行動に出るでしょう。

社会のシステムに従うかどうかより、
自らの動機が分からず、それに従えないということこそ
個人の生きる手ごたえにとって重大な問題なのです。

自らの動機には人を助けることで幸せを得るもの、
人と競争して切磋琢磨するもの、
自らの洞察によって思想を深めるもの、
人を幸せに率いることが自らの使命と定めるものなどが
動機という個人の特性として含まれています。

どんな強烈な外乱の中にあって、
どんなに人の意見を考慮して動いたとしても、
どうしても持ってしまっている特性だけは変わりようがない、
これがこの数年で一番強く意識されたことでした。

言葉にすればわずか数言で済んでしまうようなことですが、
それがわたしの本性だという実感があります。

この世はある一点から時間発展によって生じたとすれば、
その全てが必然の元にあるのであって、
わたしがどう生きたとしてもそれはわたしの「特別な自我」ではなく、
人間という容器と能力の範囲に収まるものであり、
大きく見れば世の必然にしかならないのです。

信じる宗教がなくても林檎は木から落ちるのであり、
どんなに頑張っても
この世の仕掛けというものを逸脱することはないのです。

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