心の声
明け方まで印刷機を回しました。
寝不足で目も回りました。
意識というものを重要視とか特別視する、
特に現代はその傾向にあります。
意識が特別なのはなぜでしょうか。
意識によって自分と他人の区別をしています。
一切の行動表現をしなくても意識を変えることはできます。
腕が動くように意識は自在に操れると思い込んでいますが、
まんがのトレースがとても難しいように
意識の操作は簡単には行えません。
同じ表現が違う意味を表すことがあります。
横断歩道を手を上げて渡ることと
歩きながら手を上げてタクシーを呼び止めるしぐさは
同じ表現で違う意味です。
意味の違いは意識が行います。
意識を作る要素がいくつかあります。
未解明の超自然性を除けば、
哲学は思考のアプローチ、特に思考の繋ぎ方を変えるもので、
薬剤や栄養学は脳を含む体としての性能を変えるものです。
思考の変化は体の性能に影響し、またその逆もあるため、
システムのように連動した働きになります。
万物の動きが、人間には理解し把握できなくとも
厳密な法則の元に成り立っていることは間違いなさそうで、
人間も物体であるならある法則に従って動いていることになります。
ここで意識というのが全て物理反応の経歴で示される、
この前提を受け入れるなら、
自分が思っている自由という概念も、
その概念が何らかのきっかけ、本や行動によって変わることも、
目に映る現在の像もある法則によって自動的に成り立っていることが
疑いのないものになります。
頑なに旅行を嫌う人がいて、
たとえばその人を説得するとか、
それでも良いと放っておくのか、
その選択は自分という自由存在がしているようでいて、
実はその決定は物理法則が決めている、としたら
既に定められた法則の上をさまようしかない意識は
何を思えばいいのかと少し考えます。
自分の中のこの問いは最近考えが進んで、
物理法則が決めていたとしても、選択を判断する時点で
人間にはその作用素を全て理解できる能力がないため、
支配されているように「感じる」かどうかは感性に委ねられます。
ではこれで十分かというとそうではなくて、
物理法則が選んだ一形態が人間であると、
人間そのものに関してはある規則性があります。
食事をし、眠り、社会的行動をする特徴から
その「社会的まとまり」と意識との関係は
十分考察されべきテーマだろうと思います。
物理の法則は確かに存在している、
しかしそれがなぜかを知ることは人間である以上不可能であり、
人生に目的があると考えるとするならば
それは人間が生き物と呼ばれるシステムを持っているために
生存を第一目的にするためだろうと考えられます。
全てが物理法則の元にあっても社会学に意味がある、
この関係はたとえば素粒子物理学があっても
流体力学が存在する関係に等しく、
それは素粒子物理は流体力学を内包しますが、
流体力学はそれに固有の法則や性質が厳密にあり、
一見素粒子の成り立ちとは無関係に取り扱えるからです。
哲学というのも
ある限られた条件において定められる
応用=バリエーションのひとつであります。
それがいかに複雑で機能に富んでいるとしても、
それは基礎法則の境界条件に基づいた展開の複雑さを
解いているようなものです。
哲学者、特に意識の絶対化が前提になった思想は
たとえば宗教です。
世界は球形だと科学が証明したとき、
仏教は世界を須弥山という山とお盆でできていると説いていて、
物理の受け入れ、仏教の実在性に相当な論議を呼んだそうです。
意識さえも基本則の展開であると認めるならば、
この時点で実は人格を持つ神の存在が間接的に否定されます。
ほとんど全ての宗教は「神の意思」に自分の自由意志を固定することを
要請するもので、神の存在が物理的に知覚されない以上、
その議論の展開はあくまで仮定が前提です。
素粒子物理でも実験によって証明されないうちは
さまざまな仮説が実験事実をうまく表現しており、
仮説はいくらたっても仮説のままです。
そして物理法則の展開が人間に「神」なるものの存在を思い付かせるわけで、
神が存在し人間がそれをあらゆる制約とは独立に、自由意志で発見した、
ということにはならないからです。
人間も物理諸法則にしたがって成り立つ「物体」である、
この意識がもっと正確に広まらないかな、とふと思います。
人間の目的性やロジックとしての悩みというものは
勝手に作った仮定と仮説の上で遊んでいるようなもので、
生き物として自動的に反応してしまうことはあっても
それが世界の全てではなく、
本来苦しむことではないからです。
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