じゃあ、お金で買える物は何なのか
シュガーパウダーを振り掛けるように
粉雪が降りました。
コメントくれた方がいるのに
サーバーエラーで読めません。
良かったらもう一度コメント下さい。
マスターカードの
pricelessをキーワードにした宣伝があります。
具体的に買ったものの値段を挙げていって、
その結果何かpricelessなものへ至るという流れです。
自分の中の理解が未分離なので演繹してみます。
買うという行為はお金を自分が出し、
物かサービスか権利を自分が受け取ることです。
物に値段が付いている内訳は
開発費回収のため、宣伝に使った分のため、会社を大きくする分のためなど
複数の理由によっています。
値段に納得すれば買う、
この言葉は何に納得するかで異なります。
服であれば、自分に似合うという納得と、
値段が高いものを身につけているという納得、
作りの丁寧さや流行に合っているという納得などが混在していて、
人によってその重み付けが違います。
納得して欲しくても買えないことがあります。
お金が十分にあるというのは、この買えない壁を
取り除く意味を持っています。
買ったものには何らかの使い道があります。
服なら着るし、デザートなら3時に食べます。
何もしない「置物」も置いて見ています。
人に見せなくても、自分が持っているという意識があります。
買って持つ、という行為が
人によって意味合いを変えます。
物と対話するように何かを買ったり所有する人は
持っているだけで喜びを感じます。
そこに他人は必要とされません。
しかし人に見せるために何かを買ったり所有する人は、
持っているだけでは喜びを感じません。
そこに他人が必要になるのです。
自立と孤立、
この言葉を最近2冊の本で相次いで見つけました。
自立のためには対話する「もう一人の自分」が必要である、というくだりで、
物を擬人化することでも間接的にそれは得られます。
しかし物に依存してしまうと
一種の偶像崇拝になります。
じゃあ物があれば人間には迷惑がないかというと
それは別の問題です。
人を必要とする人が人を失うと嘆き悲しむように、
物を必要とする人が物を失うと同じように嘆きます。
物に傷が付いたり失われたりしてひどく怒り出す人は、
それを自分の分身か愛する誰かのように捉えているからです。
仏教の解説に「無権利の確認」というくだりがでてきます。
自分が持つもの、意のままにできるものは何一つないことを
改めて知りなさい、という意味なのだと考えています。
ここまで考えてみて、
個人として生きるということは可能であっても
人の中で生きるということは可能になるとは限りません。
社会性は人が獲得した本能で、
自分が社会的に意味があることを確認していたいものなのです。
社会的な意味を作り出すために、
人はいろいろなアプローチを考え出します。
見た目が美しいほうが受け入れられやすいという判断をすれば
着飾ったりすることに集中し、
人のために尽くすことが受け入れられやすいという判断をすれば
ボランティア活動や仕事に力を注ぎます。
ここでお金と仕事の接点が現れます。
社会的に受け入れられる仕事の評価や対価としてお金をもらう、
ということだけが単一概念として受け入れられていると、
仕事の評価の代わりにお金の多少を参照します。
参考程度にしているうちはいいのですが、
そのうち仕事の評価のほうがなおざりにされて
お金の多少だけが一人歩きし始めることが多くあります。
仕事の評価がお金の多少へ反映することも、
お金の多少が仕事の評価の反映であることも、
その双方向の流れがもともと絶対的ではないのです。
水木しげる「水木さんの幸福論」では、
「努力は報われず裏切られることがある」という一言で、
この双方向の流れが絶対的であるという概念を
固定しないよう説かれています。
お金を多く持つ人の中には、
たくさんの人のためになったと認められた結果の人と、
そうではない理由による人とが混在しています。
それでもお金を欲しい、お金があることを示したいと思う人は、
お金の多少によって「ためになった重要な人」と思われたいのだと
ふと思います。
これが「お金で買えると思っているもの」のある人たちの結論です。
VIP待遇って何のことだろうと思っていると
Very Important Peopleなのだそうで、
お金持ちな人と重要な人はイコールではないのに
呼び名がそうなっているのでは
認識が混在するのも無理はありません。
問題は、真に人に認められる満足というものが
実際にはお金では買えないということにあります。
建設的な提案には、自らが他人となって自らを認めるという
方法があります。
この省略形が「自己満足」であるようなのですが、
なぜか自己満足という響きは肯定的に用いられることが
少ないようです。
これは「自己中心」とか「利己的」と
混同されがちだからなのでしょうか。
他人からの承認が絶対的な価値を決めるものではない、
この意識が自らに自信を持たせるために必要なはずですが、
これを広めようとすると抵抗が起こります。
ブランド屋さんはその「普遍的に認められる存在」という意識で
命脈が繋がっている面があるためです。
小さく、あまり認知されてないものは信用を得るのが大変です。
特に日本人は誰も知らないものに
自らの判断で興味を示しにくい傾向があります。
おのずと結果ばかりが重視されるようになります。
一生懸命結果を出すと認められるようになるのですが、
今度は認められることを足がかりに事業を展開しようとします。
asahi.comのネット広告で
「松下だから安心です」というくだりがあったのですが、
実績は長いとしても
工場をあちこちで閉鎖し、賃金カットをして
ファンヒーターの修理に奔走している、
こういう現実はどんな会社にも起こりうるのですが、
しかし「松下だから」とはちょっと言い切りすぎてないかと不安になります。
人にも良い影響を与えるような自己満足とは
どうやって作ったらいいのでしょうか。
まず「人に良い影響」が何であるか考える必要があります。
一義的には言えないが抽象的解ですが、
生き物は生き続ける事がその目的であるとすると
長い目で見てその人の生活や行き方に満足が得られる、というのが
一般的に良いかと思います。
しかし生きているだけでは人間的に満たされないと考えた場合、
短い目で見て、結果が出ない時点であっても
その方向へ向かうこと自体に満足が得られる必要があります。
競争原理が人の限界能力を伸ばすと言いますが、
それは分かりやすく過ちやすい目標だと思っています。
競争は他人を使って満足する方法であって
自己満足ではないからです。
先生という職業を難しいと思うのは、
生徒を教えた結果、有名大学にいけたという数が
評価の対象になってしまう点にあります。
入学の時点で概ね進学欲のある人を選別するのですが、
本人たちが進学を望まないと途中で気が付いても
自らの評価が必要なために生徒に
大学を受けさせようとしてしまう先生が出てきてしまうことになります。
もっとも、それは畑作りが上手な人と同じようなもので、
できる人はできるし、
できない人はできないものだとも思います。
ここまで考えると、競争原理を発動したがる側というのは
人の行動を管理する側だということにも気がつきます。
なるほど競争原理というのは簡単な麻薬のようなもので、
数字で判断ができるため見た目に分かりやすく、
早く結果が必要な場合に誰でも使える思考です。
競争ではなくて人を動かすことは
管理側の人間にとってかなり負担になります。
やる気とかモチベーションと呼ばれるものを引き出すには
試行錯誤が必要になるし、
人徳とか信用というものを人の心に発生させるには
かなり時間がかかるからです。
見た目に分かりやすい、
これを絶対善としてはいけないという結論になります。
まるで偶像崇拝のアナロジーのようです。
管理側の人間が挑まなければならないことは、
競争原理を使わずに組織をつくり、
かつ非常に強力な競争原理の組織よりも
実りある結果を出して存続することです。
相手の組織に勝つのではなく、
競争原理という概念に勝たなければならないのです。
最近、社会に挑むという言葉は
人そのものに挑むのではなく、
既存概念やシステムに挑むという言葉であるように感じます。
研究を続けて思うのは、
分からないことが自然の何かである場合、
その仕掛けを理解するという戦いを挑みます。
たとえば鉄が溶ける温度が分かれば
温度域の設計によって強度を保つ目的が達成され、
建物の共振周波数が分かれば
地の神様にお祈りするよりは
地震によって建物が倒れるのを防ぐ確率が上げられます。
このアナロジーを先ほどの話と重ねると、
自分が始めることは
社会は善だとか悪だとか単純すぎる切り分けに逃げることを
ひとまず保留し、
社会という組織に何が含まれるかを
まず実験的に理解するところから始め、
理解が得られた範囲で対策を考えれば良いと考えます。
社会契約論では、
人は生まれながらに社会に属するというのですが、
属していることとそれが理解できていることは
全く違う話です。
これは野球のルールと面白さが分からなくても
球場に行けば野球観戦ができる様に似ています。
周りが騒げば良い結果が起こったのだろうと感じ、
同調すると分からなくても騒げます。
自らの判断をすること、
それはルールが分かっているものに対してのみ行えることで、
そのルールを理解することは直接お金では買えません。
しかしお金を持っている人は
お金の影響で自分が理解したようなルールに
社会を変えられないかと試みることがあるでしょう。
意識は形ではないのでどちらにも変わり得ます。
それを「買えるもの」にするか、それとも「買えないもの」にするかは、
一人一人がお金に左右されやすいかどうかという傾向の総和として
現れてくるでしょう。
そしてルールが「買えないもの」であるよう保てれば、
人に行動を左右されない個人の自由も
またその中に保たれることでしょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿