火曜日, 5月 30, 2006

仮想質問

歩く機会が増えました。
道にはよく花が咲いていて、春の季節は目に快いものです。

テレビを時折見ていて、わたしなりに解釈に困る言葉があります。
「あなたは私が望むことを何もしてくれないじゃない。
私のことを大事に思っているの?」

この「大事に思う」という言葉、落ち着いて考えないと何かつかめないので
しばらく考えます。

望むことをしてくれるという行為が大事に思うことであるか、と考えると
そうではないだろうと思います。
何らかのサービスなら職業で受けることと同じで、
多少の抵抗はあっても大事に思うかとは別に行動があるものです。
同様に、大事に思うことの表現は煩わしく面倒なことを
自分の代わりに解決してくれることと等価だろうか、と考えると
そうでもないだろうと思います。

では、大事に思うことは
私と自分が同じことを望み好んで同じ場所にいることと等価だろうか、と考えると
そうでもないだろうと思います。
好みは個性を表しているものであって、強要はできないものです。

私のことを思っているのならこれをして欲しい、という台詞があって、
多分そんなもので思いの量を測られるのなら、
思うこと自体をやめるとふと思います。

自分がやりたいことが
人まで巻き込まなければならないと分かった場合、
やりたいこと自体を考え直すことがあります。
他人を目的達成の不可欠条件にすることは基本的にないし、
自分と他人の区別をつけない人を時に不思議に思います。

わたしが心から望むことは、
あるべきものがあるべきように保たれ、
たくさんの人の中で純粋に大切にしたりされたりして生きることだけで、
家族であれ組織であれ、
特定の何かだけを選び続けることは
どうしてもできないと思っています。
自分が選び出した少数の人だけが幸せであれば、
後の人たちへはただ幸せになっていたらいいねと願うだけで
地球の裏側がどうなっても特に気にしない、というような人に
自分がなりたいとは思えないし、
そういう人に心が惹かれるとも思えないのです。

わたしがいつも大事に思う人は、
自分の意思でたくさんの人に幸せを与えようとしている人で、
その人は特別にこちらを向いていなくてもいいし、
何かを与えてくれなくてもいいと思っています。

自分には何もくれないのに変じゃないか、と
思われるかもしれませんが、
自分の意思でたくさんの人に幸せを与えようとすることを
現実に見せてくれていることが一番満たされるのです。
何かが欲しいわけではなく、
なぜかとても与えたくなるような気持ちで近づきたいと思うのです。

どうしてと言われてもなにもうまい説明はできず、
ただわたしはそう思うだけだとしか言えませんが、
そう思うことはとても確かなのです。

1 件のコメント:

Sir James Eric Watkins さんのコメント...

interesting.