水曜日, 7月 05, 2006

幸せ感の原因

時差で少し眠れずにいます。

創造性を発揮して生きる、ということは、
そして「創造性」に込められた意味とは
どういうことかとふと考えました。

人と違っていなければ仕事にならない、
そしてその違いが人よりも優れていなければならない-
大量消費社会が終わった時に求められたのは
こんなことでした。
競争の苛烈感、のようなものは
すべての人が何らかのプロになることを要請する風潮から
来ている気がします。

自分がどれほど平凡であるかというのは
非常によく分かっていて、
平凡でも生きていく手段が欲しいと思っているのです。

現場の、会社の、人の輪のどこに行っても
「その場所でがんばる存在を」
「若い力でこれからを支えて」と矢のように聞きます。

経済規模が縮小する世界は、
激烈なまでの個性の表出と
単なる競争の世界になってしまうのでしょうか。

生きていくこと、それ自体が生き物の目的なら
人間は本来、「共生」ができればよいはずなのです。

本態的に恋愛は競争を含みます。
優れた人を選びとる、ということ自体が熾烈な競争であって、
選び選ばれるが相思相愛であっても
見かけ上競争に見えないだけです。
恋愛が与えるものは「究極の幸せ」ではないのです。
もちろん、個性によって選ぶ基準は違うのですが、
どういうわけかその基準は驚くほど画一化していて、
将来性があるとか包容力があるとかばかりです。

個性を好きになる、ということは
決して優れた面を好きになる、とか
何かを与えてくれる、ということとは関係ないものです。
個性とは本来的によいとか悪いとかでは表せないもので、
それがその人そのものなのです。
だから少し頼りなく、仕方がないところもあるけど
この人がいい、というような選び方は自発的で、
きっと幸せ感に通じるでしょう。

十分な幸せ感をもたらすもの、それは
「今の自分で十分である」という意識が満たされることでしょうか。
小さいころ、上手に本が読めるようになった、
それだけで褒められ幸せになった記憶は
きっと多くの人が持っていると思います。
背伸びせず、自分ができることで喜ばれる、
ということで得られる喜びが
これからの人の意識の根底を支えていく気がします。

使命感に突き動かされる心の良い若者が、
今非常に疲れています。

これからの社会に望まなければならないこと、
それは「24時間背伸びを強要されるような社会ではなく、
せめて人生の過程で平凡に休むことが十全に許された社会にしてほしい」
ということです。

お受験、投資、選別、私のため、我が家族のため、
これらはいかようでも結構ですが、
それが「個人」として生きようとする社会に
強烈な不安定性を持ち込んでいることを
もっともっと強く認識して欲しいと思います。

私ができること、それは
今いる、今あるものを「それでいいんだ」と認めてあげることであり、
それが今の自分に一番必要としているものです。

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