モノローグな人間に出会う
曇り空の朝は明け方がいつもより遅くやってくる気がして、
季節が少し逆戻りしたような気持ちになります。
人が言葉を話す「もの」だとしたら、
本は「ずっと同じことを話しているもの」と考えてもよく、
時折いろんな文字が目に留まります。
医学界新聞の中に名越康文さんのコラムがあり、
小学校4年生のときに
「なんで人は死ぬのか。
死ぬのであれば、なぜ生まれてくるのか」と
悩んだ、というくだりがありました。
もちろん答えは書かれておらず、
また意見も述べられておらず、
ただ問いを発したままの文章ですが、
これが一番共感できる中身でした。
「なぜ人は死ぬのか」を確かに人は知りません:
しかし「なぜ人は生きるのか、なぜ死ぬのか」と人生をかけて問う人に出会った時、
わたしは一番ほっとするような気がします。
時折考えるくらいの人はたくさんいると思います。
ずっと考えている人もたくさんいるのかもしれません。
でもなんとなくこの問いを考え続けてくれる人は
とても少ないような心細さがあります。
たとえば、わたしのために祈ってくれなくてもいいのです。
救いの手を差し伸べてくれる必要もほとんどありません。
わたしが誰かに望むことがあるとすれば、
「なぜ生きているのか」への真剣な問いを
その人自身の問いとして持ち続けてくれること、
そして時々考えたところを聞かせてくれること、
その一点にあるような気がします。
そのときだけ、なぜかはわからなくても
「生きていてよかった」とは思えるのです。
考え続けることは保存して取ってはおけません:
わたしはいつまでも考え続けています。
それがわたしに似た誰かの願いに似ていればいいなと
時折思います。
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