月曜日, 2月 18, 2008

モノズキ日本人

時折非通知の電話が携帯にかかってきます。
しかしそれで誰かすぐに気がつくほど
わたしは鋭くありません。
かけるのを遠慮するか名前入りでかけてくれるか
どちらかにしてもらえないだろうか、と
ふと思います。

高速の料金所がETCになるときに
特に従業員から反対の声が上がらなかったのだろうかと
時折不思議に思っています。

極端な例ですが、
フランスの役所では人減らしに反対するために
わざわざほとんどの書類を紙ベースにしているのだそうです。

日本人は多分日本が狭いと思っています。
しかし広く開けた田舎町に住みたいとはほとんど言いません。

都市化した社会の機能は
都市においてなされる、と言うのは都会人の錯覚で、
化学プラントも工場もみんな海のそばや郊外にあります。
都市は地域からの入力を消費するか加工するか転送するか
主にそれだけで成り立っていて、
書籍や映画などのメディア的機能が例外的に産物となりえますが
都市は物質的産物を基本的に持ちません。

高速道路や鉄道が高額であるというのも
遠くへ行く大きな障害になるとよく言われています。

自動販売機の設置密度がこんなに高い国が
他にあるのだろうか、と不思議に思います。
日本人は人にお金をつけません:
「自動化できる何か」には積極的にお金をつけます。
ロボットが流行り出している理由の一部はそのせいだし、
それはマッサージ機の延長でもあります。

30万円のマッサージ機と、
たとえば月1回3000円で人にマッサージをしてもらうのとでは
8年経ったら同じになります。
マッサージ器を買ったら
確かにいつでもマッサージしてもらえるのですが、
効果がずいぶん違います。

8年経ったときにマッサージ機が手元に残るという点で
マッサージ機は利点があるのかもしれませんが、
故障して5万円かかったらどうするのだろうとも
ふと思います。

壊れない白物家電のように
火加減まで気にしながら黙々とご飯を炊いたり
洗濯をする機械がいて、
「機械は人を便利にする」と思っています。
それは機械に仕事を奪われている過程でもある、と
ふと感じることがあります。

機械化は地方の生産者にとって福音かもしれず、
しかし「人的サービスによる労働」だけが仕事となる都会では
機械による自動化が人と争うことになります。

「たまに失敗するかもしれない」が
「時々すごくうまいものが食べられる」手作りよりも、
「ほとんど失敗しないが毎日全く同じ味」の既製品を好むのが
おそらく日本人のようです。

かさ地蔵の例ではないけれど
石でお地蔵さんを作ったら知らない間にいいことをしてくれた、というのが
日本人の思想には埋め込まれているのかもしれません。
人間にとって他人という人間は理解がややこしく、
日本人は炊飯ジャーの方が好きなのかもしれないのです。

日本には多分、仕事がないのではないのです:
ただその仕事を積極的に機械にやらせようとしています。
それはもしかしたら大航海時代に奴隷と言う制度を持とうと躍起になった
ヨーロッパ人からしてみると、
機械という奴隷を作り続けている日本人、と
見えるのかもしれません。

一神教のように扱われているキリスト教だと思う人たちにとって
信者以外はもしかしたら人間には見えないのかもしれず、
それはほとんどが宗教の名を借りたナショナリズムやエゴイズムであって、
科学者の中でも聖句を
適当な免罪符に使っている人をわたしはよく知っています。

人はそれを見分けることができないのでしょうが、
当の本人がその人自身と向き合う神に後ろ指を指されます。
自らの神に真剣であるよりも
人は楽するのが好きだ、という
ありふれた結論に向かって今日は結びます。

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