火曜日, 2月 19, 2008

FMラジオ

おひさまがのぼって
あたたかいかようびのあさです。

iPodにラジオをつけてチューニングすると
建物の奥ではNHK FMが一番感度よく聴けます。

NHK FMは昔から外国のクラシックとかギター音楽を
よく流していて、
どうして日本発の曲ではこんな風に安らぐ曲がないのだろうと
複雑な気持ちになったりして、
しかしその感情が、
普段わたしが取り除きたいと思っているナショナリズムを
根底にもつものであることにふと気がつきました。

生物学者と話をしながら、
国の誇りというものが郷土愛に根ざすものであると
いうところでやや押し問答をしています。

優越、つまり他の国より勝っているとか
独自性、つまり他の国にはないものであるとか、
つまり誇りというのは一種のこだわりです。

世界の物質には境界がないといい、
しかし「わたし」はいつも現れるのです:
「わたし」の認識は食べ物や外界の刺激で
ある規則を持って変わってしまいます。

ケン・ウィルバー「無境界」を読んだ後なのに、
「わたし」は「わたしの体」の境界を出てはいけないのではないか、と
ふと思いました。
わたしにわかるのは五感と過去の記憶だけで、
木星の裏側は「わたし」ではないのです。

わたしが「わたしのからだ」の中に閉じている限り、
実はナショナリズムは「存在しない」ことになるのでしょうか。
しかしひとはその発生にへその緒を使うように、
生活を始めてもその糧を必ず海と大地に求めます。

海とは不安定な場所です。
人は海の中に住み続けたためしがありません。
しかし一人で立つようになった人間にとって
本当の母は人間ではなく海にその役割が移ります。

父である空の藍と母である海の蒼の間に、
きっと人はあるのです。

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